今年は正月休みが長い暦で、それに合わせてなんとなくのんびり過ごしてしまった。暮れから息子たち家族が来て一緒に正月をわいわい過ごし、彼らが帰ると入れ替わりに娘たちが来てまたのんびり過ごした。加えて夫が風邪ぎみとかで、山歩きとはご無沙汰になってしまった。
孫と城山や地附山の麓を歩いたり、娘と小丸山あたりから善光寺平を見下ろしたりと、ちょっと傾斜のある道を散歩して楽しんだ。
時々一緒に山を歩いていた孫が、今回はあまり長くいられなくて先に帰った翌日、珍しく娘と一緒に小丸山まで歩いてきた。長野は大雪とのニュースを聞いてやってきた娘はほとんど雪が残っていないことに驚いていたが、小丸山まで登ると白い広がりも見えて、喜んでいる。
ちょっとした足元の悪い坂道も全く平気と笑っている。そういえば娘が小さい頃は一緒にいくつか山登りもしていることを思い出した。
珍しく青空が広がっているから、ちょっとでも高いところに上がると気持ちがいい。途中の道から我が家を見下ろし、周辺の道の様子を「ふむふむ」と眺めている。「いつも通るのはあの道か・・・。善光寺さんはあんな位置にあるのか」などと、地図を見るような感じらしい。
今回は娘が街歩き用の靴しかなかったので、急な山道を避けて登ったが、以前孫と登ったのは竹藪の中の狭い道。ここだよとちょっとだけ分け入ってみる。日が当たらないので雪が残っているが、竹は切ってあり、道に覆い被さっていないので通りやすくなった。何年か前に来た時、孫は雪の中を漕ぎ、竹を払いながら潜り抜けたのだったが。そういえば、ここには三人の孫と来ているが、それぞれ一人ずつ登っていることを思い出した。ありがたいことにどの子も爺や婆と一緒に山道を散歩することを厭わない。
さて、歌が丘についた。斜面に石碑がずらりと並ぶ姿は歌が丘という優雅な名前に似合わないと思うのは私だけか。中には真四角で墓にしか見えないものもある。
和歌、俳句、詩などは大好きだが、脈絡なく並んでいても心が揺さぶられない気がする。読書が好きな娘もこの石碑の群れには興味が湧かないようで、ちょっとのぞいて降りてきた。
今日、娘と一緒に歩いてきた道は「展望道路」と呼ばれている道。歌が丘は「展望道路」開通の記念に建てられたそうだ。昭和8年(1933年)に道路が開通し、歌が丘が完成したのは昭和11年(1936年)というから、90年ほど前のことだ。郷土の教育・文化に貢献のあった人の碑を立てたという。この時の事業を進めた長野市市長は現在の善光寺表参道、中央通りの拡幅などにも貢献したそうで、都市計画的な長いスパンの目を持った人だったのだろう。
そういえばここには長野県民の歌『信濃国』の歌詞を刻した大きな歌碑もあるのだが、木々が茂って碑の前に立つ場所がないくらいだ。「展望道路」が完成した翌年にはこの歌碑の除幕式に作詞者(浅井洌(1849−1938)も訪れたというから、この荒れた様子に年月の経過を思う。
この季節は木々が葉を落としているので、枝の間から大きな岩に囲まれた碑を望むことができるが、葉が茂ってくると見えなくなりそうだ。
歌が丘を大峰山の登山口として歩く人はいるが、歌が丘や小丸山公園に人の足が向くようになるには整備が必要だろう。せっかくの「展望道路」だが、木々が茂っているこの辺りからの展望はない。
歌が丘から小丸山公園はすぐ。ここまで来ると足元は白い。落ち葉の上に雪が残る斜面を登って「山頂だ〜」。竹藪が広がって荒れていたところを切り払ったり、市の管轄に依頼して整備したりしてくれたのは妙法寺の管理もしているという男性。時々ここで会うことがあるが、彼のおかげで四阿からの展望が広がった。
まだ残る竹の茂みの中に細いトンネルのような道が続いているのだが、入り口までは荒れていて太い竹が何本も倒れているので、今日は見るだけにしよう。
妙法寺の正面にまわってお参りする。浄財は気持ちだけ、コトンと入れる。ここでお茶をご馳走になってくつろいだこともあるが今日は誰もいないようだ。娘と二人、妙法寺の正面からもう一度街を見下ろしてから展望道路に戻ることにした。
数日経って(16日)『信濃国』の歌碑を撮影しに再び小丸山を訪れてみた。娘と歩いた展望道路ではなく雪の被さる竹のトンネルをくぐって行った。大峰沢にはオナガがたくさん休んでいて、時々青い光を放ちながら飛んでいる。雪の間からはオオイヌノフグリが寒そうに縮こまりながら青い花を伸ばしている。ホトケノザは濃い赤紫の蕾をそっと抱いている。春を待っているのは私だけではないみたいだ。「もう少し、もう少し」と呟きながら歩いていた。