石鎚山に登ったのはほぼ半世紀も昔のこと。四国に2年ほど住むことになり、このチャンスに西日本一の高峰、石鎚山に登ろうと真夏に電車に乗った。
私の記憶では『西条駅からロープウェイに乗って』、そこから何度もアップダウンを繰り返して鎖場に取り付いたのだが、今調べると正確には伊予西条駅というらしい。そして、ロープウェイの先にリフトもあって、さらに高度を稼げるようだ。ロープウェイ山頂駅から少し歩くと石鎚神社中宮成就社(1450m)に着く。
ここには役の行者の話が残っている。役の行者さんは日本中を修行して歩いたらしく、いろいろなところに語り継がれている。石鎚山の霊験を得て開山した後、ここまで降りてきて振り返り、祈願成就したことを喜んだのだそうだ。ここを成就社と呼び、見返遥拝をする所以らしい。
半世紀経てば登山道も大きく変わっているだろう(2024年1月現在)、これから登る人の参考にはならない。そういう風景もあったのだと思うことができるだけだ。しかも写真も時間と共に色褪せてしまっている。もう一度見に行きたいと思うが・・・。
鎖場まで長い道中だったが、大きな黄色い花が咲いていて疲れを慰めてくれた。あれはオタカラコウだったようだ。
私が石鎚山の表ルートを選んだのは当時住んでいた高松から近いというのもあったが、試の鎖(74m)、一の鎖(33m)、二の鎖(65m)、三の鎖(68m)という鎖場を登りたかったから。後で知ったのだが、ここは登山用の鎖場ではなく、修行のために取り付けられた鎖場なのだそうだ。確かに垂直に近いような岩に太い鎖が取り付けられていた。
そして登山者用には迂回路があったらしい。何も考えず鎖場を見上げ、どんどん登っていったので、迂回路のことなど知らなかった。
ただ、弥山(石鎚神社頂上社)1974mから土小屋というところまでは比較的穏やかな稜線歩きで行けることを帰りに知った。私は瓶ヶ森方面へ縦走して下る予定でいたが、台風の進路が近くなり、進み方も早くなったために縦走を諦めて下ることにしたからだ。
弥山から、山頂の天狗岳への登りは急峻な岩場だった。台風が近づいているためか、高知側から絶えず濃霧が噴き上げていた。崖の下が見えないから、怖くなくて良かったかも?
山頂の天狗岩から降りて、弥山で休憩していたら、小学生くらいの男の子を連れた男性から「写真を撮らせてください」と言われた。土小屋から鎖場を通らずに登ってきた人たちが多い中で、登山靴を履いて縦走用のリュックを背負った私の格好は珍しかったそうで、男の子と並んでカメラに収まった。鎖場を登っているところも・・・ということで、三の鎖の最後のところを少し降りてハイチーズ! でも荷物を置いて行ったから、いかにも形だけなのが、今見るとなんだかおかしい。そして、縦走を諦めた私は鎖場を下らなければ・・・と気が重かったが、男性は土小屋から車で松山まで送ってくれると言う。
写真は後ほど送っていただいたが、この男性は松山の近くでみかん農業をされているそうで、車に積んでいた自家製のみかんジュースがとてもおいしかった。いまだにその味は忘れない。私の人生で一番美味しいみかんジュースの記憶だ。
弥山から土小屋までの稜線で、私は初めてニッキの枝というのを舐めてみた。男性が道の脇の枝を見つけて教えてくれたのだ。香辛料のニッキはニッケイの木の根っこから取り、枝から取るのはシナモンらしいが、噛んでみた枝は確かにほの甘い独特のニッキの味がした。
山の中の木の枝を齧るなどということはそれまでなかったことなので、すごい経験をした気分だった。
男性の車で松山駅前まで、男の子と山の話をしながらのドライブは楽しかった。しかも男性は、面河渓谷を見せたいと遠回りしてくれた。
半世紀近く経って、2020年の1月に友人と四国旅行をした(※)。かつては船で渡るしかなかった四国と本州の間には3つも大きな橋が架けられ、私たちは車で徳島県に入り、香川県を通り抜けて愛媛県の松山まで走った。
途中、予讃線の脇を走りながら、山を見上げたが、山は深くて石鎚山は見えなかった。若い頃見た阿波の土柱や、松山城など訪ねる余裕がなかったが、道後温泉に泊まってゆっくりできたのは嬉しかった。懐かしい瀬戸内海がずっとそばにあった。