友人たちと沼の原湿原へ向かう。前日は雨だったが、今日は青空が見える。3月末から暖かい日が続き、桜はもちろんカタクリ、福寿草など春の花々が一気に咲いた。例年より一週間から10日も早い花が多かったという。
ところが4月半ばになって気温が下がった。先週末は一気に気温が下がって、農家では遅霜の被害もあったそうだ。生き物を相手の商売は難しい。霜、雹、台風などで被害を受けたというニュースは時々見る。
友人たちは一面に水芭蕉が咲いているのを見たことがないと言う。長野には水芭蕉が咲くところがたくさんあるから見にきませんかという、私たちの誘いにのってやってきた。
1時間ほど車で走り、沼の原湿原の駐車場に車をとめた。下見に来た時(※)には水芭蕉が咲き出していたから、また白い世界が広がっているだろうと期待しながら湿原へ降りていく。
前日の雨にもかかわらず、木道はそれほど泥んこになっていなかった。山肌の雪は少なくなって、緑が広がったようだ。一週間ほどの間にまた一気に春めいてきた。しかし、湿原に踏み出しても白い広がりが見えない。
私と夫は先日見た山裾の水芭蕉群落あたりに目を凝らすが、黄色と緑の色の重なりに白い点描がポツリポツリ。「あれ、おかしいね」「あの辺は真っ白だったよね」などと話しながら先へ進む。
木道が大きくカーブして水芭蕉群生域に近づくと、茶色になって倒れている水芭蕉がいくつも見えてきた。
霜にやられたんだ。先に顔を出した花(白い苞とその中の花序)は茶色になって、へなへなと倒れている。その傍におそらく霜の後で顔を出したらしい葉が緑濃く立っている。なんということだ。ここにもそこにもあそこにも、茶色い水芭蕉がたくさん倒れている。
私たちは水芭蕉がこれほどたくさん霜枯れしているのを見たことがなかった。もちろん友人たちはなおのこと。その後はできるだけ白い姿を見せている水芭蕉を探しながら木道を歩く。山裾の影になったようなところにはまだ白い水芭蕉が見られたのでホッとする。
リュウキンカは黄色い花をたくさん咲かせている。近づいてよく見れば葉の先などが茶色く縮こまっているのも見えるが、花は元気だ。
花の種類によって霜に強いのや弱いのがあるのだろうか。キクザキイチリンソウやエンレイソウなどは元気に咲いている。小さなネコノメソウも花粉をつけた雄しべを伸ばしてすっくと立っている。数種類のスミレもたくさん花を咲かせている。霜の被害を最も顕著に受けたのは水芭蕉らしい。
水芭蕉はちょっと残念な姿が多かったけれど、広々した湿原をゆっくり歩くのは気持ち良い。のんびり話をしながら一回りしよう。
都会育ちの友人は道いっぱいに顔を出しているフキノトウにもびっくりしている。前日夕食のテーブルに乗せた蕗味噌が、今目の前に生えているフキノトウを採って調理したものだと言うと「これですか?」と言う。
そう言う私も田んぼの真ん中で育ったのに、自然の魅力には遠い生き方をしてきたと思う。子供の頃は蛍の光もヨモギの香りも魅力とは思えず、部屋にこもって本を読んでいたっけ。
今思えばなんともったいない時間だったことだ。
子供の頃にどんな経験をできるかということはほとんど偶然に任されている気がすることがある。余談だが、先日我が家にやって来た友人の子供達が県立美術館の前で大きな石磨きをした。偶然歩いて行ったところに巨大な石があり、その石を磨くというイベントがあった。彼らは翌日も行って2日間石に向かった。年に一回というこの石磨きに全身でチャレンジしていた子供達には一切の言葉や決まり事は不要、全身で石と対話しているようだった。30分という限られた時間ではあったけれど、たっぷり働いた彼らの顔が輝いているように見えたのは私だけだろうか。
話を元に戻そう。霜枯れに倒れた茶色い水芭蕉を見ることがただ残念なことと思えない。また一つ、新しい自然の顔を見せてもらった気がする。いや、むしろそんなことすら知らなかったことを恥じるべきか。
湿原の向こうには大きな斑尾山が顔を出し、青空が広がってきた。中央の豊かな水路に沈んだ水芭蕉は白さを保っているのを見て、「水の中は暖かいんだ」「流れる水に霜はつかないね」などと、どこかとぼけた会話をしながら私たちは湿原歩きを楽しんでいた。