長野へ引っ越してくる前に、それまでよく訪ねた山をいくつか歩いた。大山(※)、高尾山、箱根の山々、丹沢の麓に伸びる峰々・・・標高は低いけれど、仕事の合間にちょっと訪ねて元気をもらっていた山々だ。
5月初旬の引っ越しに備えて家の中は段ボールが山になってきていた。荷造りは力仕事、体を動かしているとはいえ、閉じこもっている感じがする。広々とした空間をゆっくり歩きたくなり、念仏山へ行くことにした。 (※山歩き・花の旅229 大山詣りに出かけましょう)
大山から南に伸びた尾根が、街にぶつかって最後の丘陵地になった辺りがハイキングコースになっている。この丹沢山に連なる吾妻(あずま)山、弘法(こうぼう)山、権現(ごんげん)山、浅間(あさま)山の縦走は、人気の低山歩きらしい。秦野駅近くの弘法山は広い山頂部が桜の名所として有名だ。縦走路はその弘法山から吾妻山まで続き、鶴巻温泉駅に降りる。家から行くには鶴巻温泉駅が便利だったので、いつもそこから歩き始めた。
何回か登るうちに、よく知られた縦走コースを外れて善波峠に折れ、念仏山まで往復することが多くなった。念仏山からの稜線はまっすぐ大山に伸びている。しかしここから大山へ登っていく人はあまりいないようだ。私たちも、念仏山まで登り、ここでのんびり休んで引き返す。ここまででも人に会ったことはほとんどない。できるだけ人と会うことが少なそうな静かなコースを選んでいるので、当然と言えば当然なのだが。
引っ越し前の4月後半、しばらくのお別れ登山をした。小田急線で鶴巻温泉駅まで行き、そこから歩く。吾妻山から弘法山に向かって歩いて行くと、立派な標識の善波峠への分岐がある。そこを右に折れてさらに進み、国道246の新善波トンネルの上を道は続いている。その手前は切り通しになっていて近くに御夜燈が残っている。ここは矢倉沢往還の跡、東海道の脇街道で多くの人が歩いたそうだ。今も残る御夜燈は、ここを夜歩く人のために明かりを灯していた石燈籠だという。
それまでこの道を歩くのは晩秋から冬が多かったので、お別れの山旅で春の花に出会えたことがとても嬉しかった。キンランも見事に花を開いているのでびっくりした。5月頃にならないと見られないと思っていたから、嬉しい出会いだ。神奈川の低山ではよく見られるホウチャクソウも群落になっていた。
足元には真っ白なイチゴの花が咲いている。丈が低いけれど、これは木苺の仲間のクサイチゴ。目の高さには黄色に輝くヤマブキの花も咲き出している。もっと目を挙げればハチジョウキブシが大きな房を枝いっぱいにぶら下げている。
森の中にはツヤツヤ光る葉の広がりが続き、シャガの花が満開になっている。4月ともなれば、神奈川の低山は春爛漫の花盛りとなるのだ。
私たちが初めて登ったのは20年も前になるだろうか、冬といえばスキーに出かけていた頃。しかし仕事が忙しくてスキーに出かける余裕がない時に、「近くの山を歩いてこよう」と出かけた。2月の真ん中だった。
鶴巻温泉駅から山に向かって歩き始めたのは11時20分、のんびり登山だ。東名高速道路の下をくぐると山道にぶつかる。急に狭い道になり、そこを一気に上り詰めると広い稜線に飛び出す。すぐ吾妻山166mに到着。山頂には吾妻神社の石碑があり、小さなテーブルもあって、小休憩するには気持ち良いところだ。
ここには日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説が残っている。日本武尊が、東国征伐に三浦半島の走水(はしりみず)から舟で房総に行こうとしたとき、海が荒れて困った。その時、妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)が、「私が海神の御心を慰めましょう」と海に身を投げたそうだ。すると海は静まり日本武尊は房総に渡ることができた。征伐成って帰るとき、日本武尊は三浦半島を望める所に立ち、今はなき弟橘比売を偲んで「あずま・はや」と詠んだといわれ、その地が吾妻山なのだそうだ。このことから日本武尊を祭る神社の多くは、吾妻神社と呼ばれているという。
山頂に立つ説明板を読み、感動に涙するほど純情ではないが、日本の至る所にさまざまな歴史や伝説や故事が隠れていることをあらためて思った。「狭い日本」とよく言うが、確かに海に囲まれた島国、密度の濃い文化の流れの太さみたいなものを感じることがある。
話が横道にそれた。吾妻山から気持ち良い山道を歩いて善波峠への道を分けて進むと弘法山235mに出る。稜線から大山が見えた。稜線のすぐ下には「めんようの里」があるそうだ。羊の牧場で、予約すれば羊の毛から糸を紡ぐことも体験できるのだそうだ。私たちは遠くから眺めて過ぎた。
弘法山一体は桜の名所だけれど、2月の半ばはまだ茶枯れた風景だ。春になれば人がたくさん桜を見に登るのだろうと話しながら鐘楼を眺めて先へ進む。
権現山243mには展望台があったが、ここから見られるという富士は雲の向こうだった。見えなくて残念と言っていたら、小さな小さな石の富士があった。私は「ここで富士山に登っておこう」と、その石の富士の上に立ったが、両足を乗せるのがやっとの大きさ、夫と笑ったけれど、この富士山はどういう意味だったのだろう。
さらに歩いて浅間山196mを越え、秦野に降りた。秦野駅から電車に乗ったのは午後2時、海老名まで小田急線、海老名から相鉄線で横浜に出て、中華街で夕食を食べて帰った。まだ若かった。山を降りてから横浜まで繰り出そうなどという元気があったのだ。
その後何回か登ったが、鶴巻温泉から登る道を変えてみようと斜面を登り始めたら道がなくなって藪漕ぎをしたこともある。登り詰めれば気持ち良い広い稜線に出るので、危なくはないのだが、藪漕ぎや木登りなどは冒険心をくすぐって楽しい。
大山と太平洋の間に東西にのびるコースからは北に大山の美しい三角形、南には相模平野の向こうに太平洋が見える。そして、東名高速、東海道線などの幹線が足元を縦横に走っているとは思えない豊かな森の中の気持ち良い道が続いている。枝振りが広がった大木もあり、緑濃い笹藪もある。木の根が縦横に走っている山道もあって、変化に富んでいる。
いつも吾妻山から登り始め、逆コースを歩いたことはなかった。秦野から登るコースの方が一般的なようだが、弘法山の広い山頂は公園になっているので、人とあまり会わない自然を求めて行く私たちにとってはちょっぴり敬遠したい気分があったのかもしれない。
そういえば、「弘法山」という名前から想像できるように、ここは信仰の山だったそうだ。弘法大師が千座の護摩を修めたところなのだそうだ。
弘法山からは富士も見えるのだが、私たちが歩いた時はなぜか西の空に雲が多く、丹沢、箱根の山までしか見えなかったのも今思えば残念だった。神奈川に暮らしていた頃は、生活圏のどこからでも天気さえよければ富士を見ることができたから、長野に来て思うほど「富士が見える」ことが特別ではなかったので、その時はそれほど残念にも思わなかったのだけれど。
私たちは冬の間しか歩いたことがなかったから、最後に4月後半に訪れることができたのは幸せだった。そして、さまざまな花が開く春から秋にかけての季節にこの山道を歩かなかったことを、今ではちょっぴり残念に思う。