若い頃、休日といえば全国の山を登っていた知人が「鳥海山はいいぞ、日本海の波打ち際から登る独立峰だ。正真正銘標高の高さまで自分の足で登るんだ」と話していた。ごっつい山男が、うっとりした表情をしていたのがミスマッチながら真に迫っていて、どこか訴えるものを感じた。ブナの森をどこまでも歩き、夏でも残る雪の上を歩き、岩ばかりの尾根を登ってようやく辿り着けるという山の姿は私の心に残った。
憧れの鳥海山に一人で初めて登った時は鉾立までバスで行き、外輪山コースを歩いて山頂の小屋で一泊した。あいにくの天気で、外輪山を回って七高山に到着した時は夕暮れになっていた。8月中旬だけれど、小屋に泊まったのは私と、関西からの3人パーティだけだった。
翌早朝、激しい雨の中、一人で新山の頂を踏んできた。時々岩の上の水の幕が眩しく光り、「ああ、これは雷だ」と思ったけれど、何故か全く怖くなかった。帰りは千蛇谷の雪渓を歩いて鉾立に戻ろうかと思っていたが、小屋で一緒になった関西からの登山者が七高山から裏へ降りるコースを教えてくれたので、そこを歩いてみることにした。そのコースは北側になるので、斜面は残雪が多かった。灌木の藪があり、それを越えると雪渓という繰り返しで、幾つもの雪渓を越えて降った。途中からは関西の3人組と登山口まで同行したことがきっかけで、そのリーダーの方とは今も連絡を取り続けている。日本百名山(深田久弥選)全山登頂を目指していると話していたリーダーの男性は、その後見事に希望を叶えられた。
夫と再び鳥海山を目指したのはやはり夏だった。夏休みの1日目は長野に泊まり、翌日北陸道を北上した。新潟からは高速道路がなかったので、山間の道を走ったり、海岸線を走ったりして山形県を抜け、酒田でようやく宿を取った。
翌日は鉾立まで車で上がり、象潟コースを歩こうと計画していた。白神山に登った帰りに一度鉾立まで登っていたが、その時は時間がなく、濃い霧の中を散策しただけだった(※)。いよいよ山へ入れると思うとワクワクしてくる。 (※ 山歩き・花の旅 114 ブナの森を傘にして白神岳)
朝5時50分、ホテルを出発。鳥海ブルーラインを走り鉾立へ登る。海からそのまま立ち上がった山らしく、中腹の鉾立からは日本海の海岸線がくっきり見える。足元を整えて歩き始めたときは7時を少し回っていた。観光目的の人もゆっくり散策できるように整えられた山道がしばらく続き、深い沢の向こうに滝を見ることができる展望台もある。
しかし一旦登山道に入ると大きな岩もゴロゴロしている荒れた道だ。頑張って登るうちに岸壁に大きな雪渓が張り付いているところに出る。もう森林限界を越えている。境目には丈低いナナカマドが真っ白な花をたくさん開いている。
岩のゴロゴロしている広いところは賽の河原と呼ばれ、火山の中腹などにはよく見られる風景だ。広々としているので、ここで少し休憩、おにぎりを食べる。朝が早かったのでこれが朝ごはんになる。
緯度が高いので森林限界はかなり下になり、広々とした風景の中を登る。青空が広がっているが、山特有の空気の流れによって雲が湧いては消えるという天気、まぁまぁの登山日和というところか。
しばらく頑張ると稜線の御浜神社に着く。9時半。頑張って登ってきた稜線の向こう側に鳥海湖が見下ろせる。ここにもまだ雪が残っている。
ここでしばらく鳥海湖に映る雲の流れを眺めて立ち止まった。このように広々とした風景は関東近辺の里山などではなかなか見られない。雄大だ。
しかし、ここからさらに雄大な美しい風景が広がるから、鳥海山は素晴らしい。鳥海湖を後に緩やかな山道を辿る。御田ガ原と、名前からして広々としたイメージのお花畑の中に道は続いている。
御田ガ原分岐を過ぎると外輪山が目の前に立ち上がってくる。大きな岩が重なり合っている道に、高山植物が様々な色に、形に、短い夏を思いっきり楽しんでいるようだ。
鳥海の名をつけた花、チョウカイアザミ、チョウカイフスマにも出会えた。遠くの山に出かけて、そこに固有の花に会えると何故か喜びが倍増するように思う。花によっては近隣の山にも咲いていることがあるが、東北や北海道に咲く固有の花は、例えばアルプスに登っても見ることができない。
もちろん、ニッコウキスゲやコバイケイソウのように、高山に登るときっと出迎えてくれる花にはまた懐かしいような再会の喜びがあるのだが。
花の中を夢見心地で歩いていくうちに七五三掛(しめかけ)の分岐に到着。右には外輪山を巡っていく道が岩の中に続いている。左には一気に降って千蛇谷コースへ行く道が見える。今日は千蛇谷コースを行こうと話していた。岩山を登ったり降りたりするよりも雪渓を行く方がいいかなとの考え。
ところが、左に行く道は急峻な岩を滑るように降りているではないか。怖いようだねと言いながら、若かった(今よりは)私たちはどんどん降りていった。谷の底へ着くと雪渓が広がっている。雪が好きな私たちは大喜びで登っていく。
雪渓をいくつか越えると最後の急な登りで大物忌神社の立つ肩に到着。ここの山小屋に泊まるつもりで登ってきた私たちは早速宿泊の申し込みをしようと小屋に声をかけた。ところが、小屋は全て予約制で、今日の空室はないとの答え。
きちんと調べなかった私たちがいけないのだが、以前に登った時とのあまりの違いにただもうびっくりだ。ちょうど百名山ブームとかいう波が最高潮の時だったらしい。
泊まれないとなれば降りるしかない。とにかく山頂を踏んでこようと歩き出す。登り始めてしばらくして、周りは大きな岩だらけになった頃、夫がへばってきた。岩に腰掛けて休む。「僕はここで待っているから行っておいでよ」と苦しそう。「じゃあ、あそこの上で見晴らしを楽しんでから帰ろうよ」などと話しながら歩くうちに、いつの間にか山頂が見えるようになった。大きな岩の割れ目を、目印の矢印に誘われてくぐったり、すり抜けたりして歩いていたら、ちょっと面白くなったのかもしれない。
山頂に到着1時半。山頂に立ったときには夫の元気が戻っていた。
さぁ登頂は果たしたが、今日のうちに降らなければならない。2時、肩の小屋に戻り遅いお昼を食べて元気をつける。周囲には一面にミヤマキンバイが咲いていて黄色い世界だ。チョウカイフスマの白と、イワブクロの淡い紫がアクセントを添えている。日が暮れるまでゆっくり眺めていたかったのだが、靴の紐を結び直し、気を引き締めて降ることにする。
暮れる前に鉾立まで帰りたかったので、来た道を引き返すことにした。知っている道が気強いと考えたから。小屋を出発して約2時間。周囲に広がるお花畑に元気をもらいながら鳥海湖の上、御浜神社についた。
そしてさらに2時間、無事鉾立に到着。車を走らせながらホテルを探して予約、暮れゆく鳥海山を眺めながら走り、鶴岡のホテルに着いたときは午後8時になろうとしていた。