朝、空は青く、気持ち良い。夫が「志賀高原に行こう」と、登山地図を持っている。紅葉シーズンのリフトやゴンドラが動いたら、志賀の山へ行こうと話していたから。
年を重ねる毎にコースタイムが伸びるようになってきたので、標高差はできるだけ少ない方がいい。リフトなどで一気に標高を稼いでから登ることができる山に気持ちが向いてしまう。安直だとは思うが、事故があってはいけない。山高きが故に貴(たっと)からずと言うではないか。まぁ、ちょっと意味は違うけれど。山の良さはただ標高ではないということを、頻繁に山を訪れるようになってますます実感しているのは確かだ。とは言うものの、より高い峰々の美しさに憧れているのもまた事実なのだけれど・・・。
さて、志賀高原のどこへ行こうか。ずっと気になっていた、まだ行ったことのない山へと、目的地はすぐ決まった。赤石山。東館山のゴンドラリフトで登るコースは魅力的だったけれど、平日は運行していないそうだ。前山リフトは午前中のみの運行という。登りだけ前山リフトを利用して、四十八池湿原から登ろう。以前鉢山に登ったときのコースだ(※1)。あの時は積もった雪と、急斜面の階段下に溜まった水に苦労したけれど、まだ雪は降っていないから、今日は大丈夫だろうと考えた。
リフトの始発8時45分に到着するように家を出たが、千曲川を渡る橋で渋滞にあい、遅れた。それでも9時にはリフトに乗り、前山山頂に立つ。ここに来るまではカンバの幹の白と黄色に枯れた葉のコントラストが美しかったが、標高が上がったせいか、この辺りはもうほとんど落葉している。朝日が眩しい渋池の浮島を眺め、奥へ進む。途中、志賀山への道を左に分け、しばらく歩くと四十八池湿原に着く。ほとんど人に会わなかったが、ここまで来ると、ちらほら散策している人がいる。ここで湿原を眺めながら小休憩、足元を整える。
稜線までの登りは短いが急だ。前日に雨が降ったせいか、水溜りがある。全体にぬかるんで滑りやすい。粘土質の土なのか、水捌けが悪いようだ。鉢山分岐まではあっという間、左に折れ、長い稜線を歩く。ほとんどアップダウンのない道は楽ちんだったが、ネマガリダケが両脇に茂っていて視界が効かないのがつまらない。笹の上に伸びる針葉樹やダケカンバ、ナナカマドなどの枝振りを見て楽しむしかない。花はもう見られないと思っていたが、アカモノが一輪咲いていたのでビックリ。急激に変化する気温に惑わされたのだろう。
道は平らだけれど、かなりぬかるんでいる。落ち葉の堆積にうっかり足を踏み込むとズボッと沈んでしまうこともある。
忠右衛門新道と呼ばれる長い稜線はどこまでも平らかと思ったが、そうはいかない。アップダウンが出てきた。これが思ったより辛い。乾いていればなんということはない道なのだが、滑り台のように滑るうえに真ん中に水が溜まっている。笹につかまってようやく水溜りを越えておろした足がぬかるみにはまってしまったり、グチョグチョを避けて笹を潜りながら歩いたり、思ったより時間がかかってしまった。
なかなか大変な道だったが、目の前に目指す赤石山が見えてくるとちょっと元気が出る。右手には榛名山など、群馬の山々が青い肌を見せている。左手には志賀の山、赤石山から東館山へ続く稜線はもちろん、遠くに岩菅山も見える。足元にある大沼池はなかなか見えなかったが、時折木の枝越しにチラリと綺麗なエメラルドグリーンが見えた。
少しずつ視界が広くなってくると同時に、赤石山も近づいてくる。左に大沼池への分岐を過ぎるといよいよ急な登りが始まる。周囲は針葉樹の森だが、標高が高くなったからか樹高は低くまばらな感じだ。
しばらく頑張るといきなり目の前が開ける。岸壁が立ち上がっている。緑色に染まった岸壁だ。その裾は赤い石のガレ場、雪崩れ落ちている。左、はるか下にはコバルト色に輝く大沼池が小さく見えている。日の当たり具合でエメラルドグリーンに見えたりコバルト色に見えたりする美しい湖だ。
雪崩落ちるガレ場は、ちょっと怖い。思わず足がすくみそうになる。けれど、右端に丸太を使った階段が整備されているからホッとする。ガレ場を越えると岩をよじ登る。そして上の真っ赤な石の崩れ落ちているような巻道を進む。どこも距離はわずかなのだけれど、注意深く進まないと危ない。最後の岩をよじ登ると狭い山頂に到着。やったー。
周囲はみんな目の下。緑の岸壁に登ってみたが、足の下が一気に切れ落ちていて怖い。昔はこんな感じのところも全然怖くなかったのにと笑い合う。歳をとるとバランス感覚に自信がなくなるから怖さを感じるみたいだ。それでもあっちこっちを眺め、写真を撮ったりして楽しむ。
歩いてきた稜線も見渡せる。忠右衛門新道は『日本中央分水嶺コース』の一部らしい。稜線から右側に降った雨は群馬を通って太平洋へ、左側に降った雨は長野、新潟を通って日本海へ注ぐんだ。
山頂でゆっくりおにぎりを食べるつもりだったが、狭いうえに急な岩場の上では落ち着かない。安定したところまで降りてから食べることにした。
「大沼池への分岐のところにあったベンチで食べよう」と夫。「ベンチなんか、あった?」とは目が節穴の私。分岐はだいぶ下だけど・・・と思ったけれど、まぁいいかと歩き出す。
目的を達成した後は気分が違う。ゆっくり、滑らないように、小股でと、掛け声をかけながら降りていく。しばらくいくと「こんなに遠かったっけ?」と夫。「そうそう、もうちょっとだよ」と私。
分岐に到着したのは午後1時を回っていた。「あ、ベンチあったね」と言いながらおにぎりを取り出す。秋の日は傾きかけているがポカポカと暖かい。誰もいない山の中、志賀の奥に位置するこの山では人工的な音は聞こえてこない、まさに自然の音だけ。
食べながら地図を見る。帰り道はどっちのコースで行こうか。来た道の方が近い。けれど、あの水溜りのぬかるみ道は大変だから、一気に降る大沼池へのコースに決めた。
階段上になっている道は急だったが、稜線より水溜りは少なく歩きやすかった。どんどん降りて、大沼池に到着した頃には、かなり日は傾いていた。以前来たときには歩いて近寄れた大沼池の看板が水中に立っていてびっくりした(※2)。雨が多いので水量が増えたのだろうか。
ここからは知っている道、観光客も歩くコースだからと気楽に思っていたが、これが誤算だった。
登り始めると二人の作業員が前を歩いていた。鉄の杭のようなものを数本担いでいる。登山道の整備をしているようだ。人力に頼るしかない山道での仕事、ありがたい。重い荷を担ぐ彼らは時々休む。身一つの私たちは足をひきづりながらも彼らを追い越して先へ進んだ。
四十八池までの登りは1時間コース、ずっと登りが続くうえ、階段が多い。疲れた足にはなかなか堪える道だった。
それでも四十八池湿原に飛び出して、夕日に輝く湿原の池塘群を見た時にはその静かな美しさに息を呑んだ。誰もいない大沼池、誰もいない四十八池湿原、二人じめだ。
ここからは朝歩いた道。薄暗くなってきた道を前山まで歩く。草紅葉に夕日が斜めから光を投げかけ、眩しい光の世界にいるようだ。東の空には半月が登り、なんだかほんのちょっぴりだけどこのまま帰るのが惜しいような気分だった。
(※2 山歩き・花の旅 33 志賀山・裏志賀山)