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9「広大な大地の国の、一点で」中国 星のイメージ画像

2018年9月4日〜6日

インフォメーションのイメージ画像 写真について・・パソコンでは写真画像の上にカーソルを当てるとその写真番号とタイトルが表示されます。

目次

星のイメージ画像 突然
星のイメージ画像 スカラシップ
星のイメージ画像 簡単じゃない
星のイメージ画像 夢に向かって、旅立ち
星のイメージ画像 初レッスン
星のイメージ画像 帰国


突然

お隣の国、中国に行くことになった。降って湧いたようなできごと。ある日突然そういうことになった。


スカラシップ

「スカラシップもらった。行ってもいい?行く時は、ばぁも行ってくれる?」


受話器から届く孫の声がいつもより少し高めだ。嬉しさと驚きと・・・興奮している様子が見えるようだ。


孫はバレエに打ち込んで、将来ダンサーになりたいと夢を膨らませている。厳しいバレエの世界では、身体的に恵まれた天性の才能と、休みないレッスン、つまり鍛錬と言うのだろうか、それを積み重ねる努力が欠かせない。

孫はもちろん頑張っているようだが、親ばかならぬ祖母(ばば)ばかの欲目で見ても練習不足は否めない。自由に使えるレッスン室がある訳ではないし、中学校の学習もおろそかにはできないし・・・、バレエスクールに週4回通ってレッスンしているのだから、頑張っていると言えるのだろうが、このままでは中途半端で終わってしまうのではないか。

中学一年で人生の岐路に立つのは早すぎるかもしれないが、レッスンの質を変えるか、進学をどうするか・・・悩み始めていた。


1

3月の終わりに、地域の小さなバレエコンクールに出場(写真1)、ステップを一つ失敗したけれど、決戦まで進み、なんとか踊り終えたという報告をもらったが、おまけがついていた。

スカラシップは中国国立遼寧バレエ団附属バレエ学校への入学許可だった。

中学1年を終えたばかりの孫にとって、中国はほとんど未知の国。いや、孫でなくても、私にとっても中国は近くにあって遠い国だった。歴史では嫌というほど勉強したし、日本の根っことは深いつながりがある国なのだが、近世の政治上のしがらみがもつれた糸のように絡み合っている印象。

まして中国語はチンプンカンプン。ただ、同じチンプンカンプンでもどこかのんきな気分があるのは、漢字の国だから。見れば分かることもあるだろうか・・・と思ってしまう、それはやはり歴史的に近い国だからだろうか。


5人いる孫のうち、たった一人の女の子がバレエを始めたのは私が強く勧めたからではない。彼女の誕生日などにはきれいなダンサーの写真を飾ったりしてバレエの美しさをレクチャーしたことは否定しないけれど。

と言っても、娘が小さい頃だって同じようなことをしたけれど、娘はバレエに惹かれなかったようだから、やはり本人の思いがそこにあったのだろう。


2

私自身は小学生の頃からバレエに憧れていた。私が育った農業中心の田舎では、少女雑誌だってめったに見られなかったけれど、時に友人が見せてくれた雑誌のグラビアに載るバレエの写真を、あこがれの目で見つめていた。トウシューズ(写真2)というものに触れてみたいと思って、サテンの生地で作ってみたこともある。当時の私は体が柔らかくて、スピリッツも苦もなく出来たし、マット運動などは得意だった。

今でも母が言う。バレエを習いたいと言われて困ったと。通えるようなところにバレエの指導者もいなかったし、子どもの趣味にお金をかけてかなえてあげようなどという風潮でもなかったから・・・。

私の夢はきらめきでコーティングされて、心の奥深くにしまわれていた。


子育て、仕事の多忙などで、《バレエ》は心の奥底に沈んだままだった。その、心の底に眠っていた《バレエ》が、少しずつ輝きを復活してきたのは、自立した子どもたちの生活も落ちついてきて、自分の贅沢にもお金を使っていいと思えるようになってから。

旅をすること、バレエを鑑賞することなどに、時間とお金を使うことがどこか申し訳ないような気分だったが、だんだんのめり込んでいた。

世界からやってくる有名なバレエ団の公演に足を運ぶようになったのは、仕事も定年退職まで残り少なくなってから。

それでも、自分が働いたお金で素晴らしいダンサーの生の舞台を観ることが出来るなんて、子どもの頃には思いもしなかった贅沢、なんだか変な言い方かもしれないが、一公演ごとに身が引き締まるような思いがした。


歳を重ねる毎にバレエに惹き込まれ、鑑賞の回数が増えていったけれど、それでもバレエは私にとって高く遠い天上に咲く、高嶺の花だった。


そんなときだった、孫がバレエを習いたいと言ったのは。

一緒にバレエスクールを見学して、バーにつかまるかわいい子どもたちと、バレエシューズを履いて一生懸命アンドゥオールに立とうとする小さな足に、思わず頬が緩んだ。

あれから7年、レッスンを見学したり、スクールの公演を観たり、私もバレエとの距離がとても近くなったように思う。


しかし厳しい世界、それは技術の習得と言うにとどまらず、日本ではどれほど技術を磨いても、バレエで生活を維持して行くことがとても難しいという現実もある。

孫がバレエを習う先にどんなものが待っているのかは、孫の人生。本人がやる気なら応援しようと決めていた。

もともとクラシック音楽が好きな夫も、いつか一緒にバレエを楽しむようになり、孫を応援することでは気持ちが一つだ。


そして今、孫は『お習い事』の範疇を越えて、バレエの道に進みたいと考えているという。けれど、基礎ができていないという苦しさの中にあった。努力が足りないのかもしれない。けれど、環境が整っていないのも事実だ。


そんな悩みの中でのスカラシップ受賞だった。中国のバレエ学校では徹底して基礎をレッスンするという。

たった一人で文化の違う国へ行くということは本人だけでなく家族にとっても大きな試練だ。けれど決心するのはやはり本人。そして孫はきっぱりと、
「行くよ」。


日本にはない国立のバレエ学校、バレエだけではなく一般教科の勉強ももちろんあるのだが、短期留学の孫はバレエのレッスンだけ参加する。勉強は、日本の教科書を持って行って自習することになる。

寮に住むので食事は出るが、洗濯をはじめ、身の回りのことは全て自分でやらなければならない。これまで両親や兄弟に囲まれ、ママの実家も近く、おじいちゃんやおばあちゃんの笑顔がそばにあるのが当たり前の毎日だった。

『一人でやって行けるのか?』周りのみんながそう思った。


「本人、わかっていないんじゃないかと思うんですけど・・・」電話の向こうでママの心配そうな声。

そりゃそうだ、私だって心配だもの。
「本当に心配はつきないよね。でも、彼女の人生、代わりに生きてあげられないから、応援するしかないね」

何度も電話して同じことを繰り返して言ったような気がする。母親も祖母も、心配することは同じだから、つい同じことを繰り返していたが、決心して動き出すのはいつだって本人なのだ。



簡単じゃない


一口に短期留学と言っても、ことは簡単ではなかった。


中国の学校が始まるのは9月からだから、行くとすれば9月からの半年間という。やって行けるのか考えるためにも一週間ほどのツアーで学校のレッスンを経験してみたらどうかとの話があった。

それもいいかなと思ったのもつかの間、政治的な交代劇があったとかで、書類の仕事が煩雑なため、短期ツアーを受けられる状態ではないとの断りがきた。

その後も、夏の講習会に行くのはどうかという話があったり、立ち消えになったりした。国立のバレエ団とバレエ学校が分離することになったので、いつまで留学を受け入れられるか分からない・・・などなど、日本の感覚では理解しにくい連絡が次々舞い込み、私たちはその度に翻弄された。


3

半年のビザがおりた(写真3)と思ったら、「待った」がかかったり、飛行機のチケットを予約してから「少し待って」との連絡がきたり・・・。航空券は一回解約したものが、結局回り回ってまた同じ便の予約をしたので、解約金だけ無駄になってしまった。


しかしなんとか動き出したのは夏休みに入ってから。今回スカラシップを決めてくれた中国のバレエ学校の代表にあたるC先生が、整理してくれて、ようやく本当に行けるのかなという雰囲気になった。


そんなこんなの騒動の中で、一番気をもみ準備の備品のあれこれを準備していたのは母親だった。孫本人は『本当に分かっているのかな?』と言うママの言葉を証明するかのようにあっけらかんとしていた。

「どうせ延びるんなら、9月2週目の体育祭出てからがいいなぁ」などと呟いていたのだ。

盆休みには家族と一緒に長野の我が家に来て、冬物の衣服なども買い求めた。

中国遼寧省は、昔日本が満州と呼んでいた地区にあたり、寒さが厳しいとの情報。夏真っ盛りの関東では見つけられなかったという、厚手のジャージ長ズボン、長袖も、長野では見つけることができた。


いくつか足りなかった買物もして、ようやく本当に行くんだなという気分が盛り上がってきた。

以前に同じ学校に留学していたことがあるという人に連絡し、話を聞きながら準備をしていたが、トイレットペーパーや、ティッシュペーパーなどの消耗品が備え付けではないとのこと、嵩張るけれど、日用品のあれこれも買い求めた。

足りない物は後で送ればいいと、送り先の住所も教えてもらったので、ようやく少し安心した。

付き添っていく私も、旅行保険に加入したり、中国元に両替したり、気持ちの高ぶりをしずめるように少しずつ準備を進めた。



夢に向かって、旅立ち


出発の日、中国まで孫を送って行くのは私一人。仕事を持つ両親の代わりだ。小学校低学年の弟のこともあるが、バレエの事は私に任せられるかなという両親の思いもあっただろうか。

ただ、事前の話では付き添って行っても学校には入れないとのことだったので、学校の近くのホテルを予約してもらい、そこに滞在して荷物の整理を手伝ってくることにした。

初めはスーツケースが四つになるだろうと話していた。向こうで荷物を出したら、私が帰りに空のスーツケースを二つ持ってくるという予定。しかし、詰め込んで、なんとか三つのスーツケースに収まったという。


成田⇋瀋陽

成田発13:25、中国南方航空。その日、私は朝早く長野を出た。北陸新幹線、成田エクスプレスを乗り継いで、成田空港第1ターミナルを目指す。

だが、その日は大型台風が関東に上陸という予報で、朝から黒い雲が空を覆っていた。

『無事飛ぶのだろうか』家族誰もが心の中に不安をかかえて、成田に向かっていたと思う。

私が住む長野の空はまだ少し明るかった。新幹線が関東エリアに入るころから、空はどんどん暗くなってきた。けれど、風はそれほど強くないようだ。

飛行機は雨が降っても飛ぶだろうけれど、風があまり強くなっては欠航の可能性もある。すでに関西や九州方面への便は、欠航が続出している。

成田エクスプレスの車内には電光掲示版があり、各ターミナルからの出発便についての情報を逐次流している。やはり欠航が多い。南に飛ぶ便は半日以上の遅れも多い。


抱える不安は消えないけれど、今は行くしかない。空を見るのも飽きて、本を読んでいるうちに成田空港に到着した。今回、大きなスーツケースは孫が持ってくるので、長野からの私はいつものリュック一つという軽装だ。たった2泊の旅なので、国内旅行と変らない。


4

出発ロビーに向かう。孫は両親と一緒に車で来る。

中国で生活する間の唯一の連絡用にワイハイを借りる手続きをした孫たちと出発ロビーで合流した。

今日は仕事を休んだ両親と、夏休みが終わって始まったばかりの学校を休んだ弟が見送りに来た(写真4)。


もうすでに中国南方航空の窓口には長い行列ができている。さっそく孫と航空券の手続きをし、荷物を預ける。


列の前後には、中国人らしい人が大きな荷物をカートに積んで並んでいる。同じアジアの、人種的にもとても近いと思われる中国の人たちだけれど、どこかが違う。

もちろん話している言葉が全く理解できないという事は一番だ。でも、髪も黒いし、顔も私と同じように平べったい。金髪で鼻が高い欧米人とは違う、同種の感じが強いのに・・・何かが違う。

『異邦人』という言葉を思い出してしまった。


さて、スーツケースを預けてしまえば身軽だ。出発ゲートに入る前に、しばらく食べられない日本の食事をしようと、レストラン街に向かった。

みんなで食べたのはパスタ、パスタはいつの間にか日本料理になっていた?本場イタリアの味は分からないけれど、孫の好きな明太子パスタは、和風の味と言えるかもしれない。


ゆっくり昼食を食べて、私と孫は出発ゲートに入った。

セキュリティーチェック、出国審査を済ませて搭乗口の方へ進む。

5

ゲートを入るとき、見送る家族に手を振る。少し涙ぐんで、目にハンカチを当てる母親を見つけて「ママは泣きべそなんだよ」と、孫が言う。母親の気持ちが痛いほどわかる私はもらい泣きしそうなのだが、まだ中学生の孫には未来の展望の方が大きく開けていて、送り出す者の情緒はわからないようだ。いや、もしかしたら、わからないふりをして自分を元気づけていたのかもしれない。

チェックを済ませると、エスカレーターで搭乗口のある階へ降りる。ガラス越しに見送る人が見える。

元気に手を振って、私たちはエスカレーターで下へ運ばれて行った(写真5)。


タックスフリーの店を回り、これからお世話になる学校関係者へのお土産をいくつか買い求める。

孫はまだ乳児の頃に、南半球に跳ぶ飛行機に乗ったことがあるのだが、もちろん覚えている訳もなく、色々なことが珍しく新鮮な様子。

時間もあったので、ロビーの端まで歩いてさまざまな店を見てから搭乗口に向かった(写真6)。


6

心配していた台風の影響は、20分遅れ。私たちの便は、南西方面というより北西方面へ向かうので、なんとか飛べるようだ。中国への便は他にもたくさんあるが、ほとんどの便が欠航になってしまった。

後で聞いたところによると、私たちの便の後の便は全て欠航か、大幅遅れのアナウンスがされたらしい。

まさに危機一髪というところ。


3時間ほどのフライトなので、小さな飛行機。私たちは通路側の2席に並んで座った。窓側には若い女性。狭い空間を快適に過ごせるよう整えて、落ち着いた。

飛行機の中に日本語を話せるアテンダントはいなかったので、言葉は全て中国語と英語。飛行機が滑走路に向かって動き出すと、非常時の備えについて説明が行なわれるが、もちろんそれも。ただ映像も併せて行われるので、何を言っているかは理解できる。

孫は座席まわりの一つ一つを楽しみながら確認していた。

滑走路を走り出すと一気にスピードがあがる。そしてあっという間にふわりと浮かんで、私たちは空の中にいた。


■ 成田から瀋陽へ、夢に向かって離陸■


「ママたちはどこかで見ているかなぁ」と、孫がつぶやく。

「もちろん見ているよ。きっとあそこのビルの上じゃない?」
などと言っていたのは地面を走っている時、滑走路に出てからは一瞬で飛び立ってしまったので、下になったはずの空港は点になる間も無く見えなくなってしまった。

7

後で聞くと、やはり家族は見送っていて、私と孫が乗った飛行機が飛び立つ様子をビデオに撮っていた(写真7)。


無事に飛び立ったけれど、やはり台風の影響はあるようで、飛行機は揺れた。時々エレベーターで一気に下降するときのような感覚になる。
「あ、今落ちたよね」と、孫が言う。

ジェットコースターが好きな孫にとっては、どうやら飛行機も一つの遊具のようなものなのかもしれない。

しばらくして、することもなくなった孫は、出発までの緊張と疲れが出たのか、ぐっすり寝入ってしまった。

8


たった3時間ほどのフライトだから、機内食は出ないと思っていた。飲みもののサービスはあるだろうけれど、軽食かデザートが出るかなと思っていたら、これが予想外で、しっかりと食事が出た(写真8)。

寝ていた孫を起こし、飲み物と食事をもらう。けれど、成田で昼食を食べてきたので、お腹は空いていない。2種類から選べるメニューだったようだが、私たちのところではもうポークしか残っていなかったようだ。

お腹はいっぱいだけれど、孫にとっては初めての機内食、少しずつ味見をしていた。ニコニコ。


機内食が片付くとそろそろ到着の案内が始まる。窓の下には街が見えてきた。ビルがたくさん建っている。ビルはひとかたまりになっていて、その周りには緑の平らな土地が広がっている。

そしてあっという間に滑走路に滑り込んだ。
「予定より早いね」と孫。
追い風に押されたのかしら・・・と思うくらい早かった。それでも出発が遅れていたのだから、到着も本来の予定時間よりは遅れていた。

広い空港内を歩いて出国審査を通り、荷物が出てくるのを待つ。ターンテーブルが面白いと、孫はじっと見ているが、なかなか自分の荷物が出てこない。

9

次から次へと回ってくるスーツケースを眺めながら、二人でおしゃべりを楽しんでいた。さまざまな色や形の荷物を見ていると、それぞれにドラマが隠れているような気がしてくるから、なかなか面白い。

おしゃべりしながら待って、ようやく三つのスーツケースが手元に戻った(写真9)。


税関を通ってゲートをくぐると、出口だ。今回のスカラシップで、学校との連絡をしてくださったC先生が迎えに来ているはず。飛行機が遅れたけれど、大丈夫かなぁと言いながら出口を出たが、見当たらない。

少し心配になりながら進むと、人垣の奥に笑顔。背の高い男性が二人にこやかに立っていた。

「いらっしゃい、おばあちゃん」と言われて、ちょっと照れくさい。孫たちはみな私と夫のことを『じぃ、ばぁ』と呼ぶ。しっかりおばあちゃんと呼ばれることはあまりない。

隣の男性は、バレエ学校の校長先生だそうで、荷物があるだろうからと大きな車で迎えに来てくださったそうだ。

挨拶が済むと、校長先生はスーツケースを二つ転がしながら、車まで先導していく。空港を一歩出ると、広い空間がどこまでも続いている。

10

一緒に歩いていたC先生が、「僕が写真撮ってあげますよ」と、スマホを出して、「これで撮れば WeChat でママのところに送れるからね」。

空港の建物からかなり離れてしまったので、気に入った背景がないけれどまぁいいか・・という感じで、C先生は私と孫を撮ってくれた(写真10)。そこで、私は孫とC先生の写真も撮らせてもらった。


車に乗ると、まず学校へ向かう。道路はまっすぐで、広い。どこまでも続く平原の中に道を通し、新しい街を作っているという感じだ。大きな建物が見えるが、みな広い緑豊かな敷地の奥に立っている。走っても、走っても山は見えず、大平原なのだと実感する。

11

15分ほど走ると、道路の脇に大きな劇場や、音楽学校などという看板が見えてきた。孫が留学する学校を附属として持っているバレエ団も、この大きな劇場で公演をするという(写真11)。

一帯は新しく開発されている芸術エリアと言えるようだ。

劇場から少し走るといよいよ学校だ。門を入ると、バレエ団のバスが2台止まっていた。さらに奥に入って、車は止まった。


なんだか裏口のようなところから荷物を持って入る。

後でわかったことだが、ここは食堂の裏口だったらしい。確かに入っていくと良い匂いが漂い、いきなり広い食堂になった。

しかも二人分の夕食がすでに用意されていた。初めて会う学校の人たちに挨拶しながら、食事もどうぞ召し上がれと言う。これから孫が毎日食べることになる食堂の様子を一緒に体験させてあげようという親切心なのだが、なかなか難しいことだった。

何人かの初めて会う人たちとの挨拶はそれなりに気を使うこと、食べながらできることではない。向こうの人たちも食べている会食形式ならなんとかなったとは思うが・・・。彼らは皆立っているのだ。

しかも私と孫は、成田で昼食を食べ、すぐ飛行機の機内食を食べ、それからあまり時間も経っていない夕方にまた食事!!

お腹はいっぱいだったのだ。

正直に機内食が出たばかりなので、お腹はいっぱいですと断り、でも遠慮しないで食べなさいと言うので、少しずつ味見をさせてもらった。

孫は辛かったと後でこっそり話していた。


早々に食事を済ませると、孫が半年暮らすことになる寮に案内してもらう。寮といっても同じ建物の5階にある。エレベーターで行くと、降りてすぐのところが留学生の部屋となっている。

この時驚いたことに、いつの間に現れたのか、男子生徒が数人さっと孫のスーツケースを持って先導してくれた。そしてエレベーターを降りた所で、校長先生がお礼を言うとまたさっと消えた。5階は女子生徒のフロアだったようだ。

そのかっこいい現れ方と消え方は、スマートだった。


孫が暮らす部屋は、二人用、ベッドが二つ置いてある。同室になる生徒は最上級生で、背が高いお姉さんだった。彼女は、日本語は全く話せないけれど、スマホの翻訳アプリを使って挨拶してくれた。

英語はどうかなと思って、少し話しかけてみたけれど、こちらの発音が悪いのか、分からないのか・・・どうやら会話は無理の様子だった。


同室のお姉さんが授業に出かけたので、孫と二人、荷物を整理し始める。三つのスーツケースを順番に開けて。まずは生活必需品。バレエ用グッズ。そして中学の教科書と参考書など・・・なかなか大変だ。

私は8時半にC先生が迎えに来てくれて、それからホテルに送ってもらえることになっている。それまでに色々やっておくことがあった。

洗濯機やシャワー室の様子。トイレや洗面所の設備。お茶用のお湯が出るということなので、その器具も見る。

いや、まずはワイハイのセット、これが孫と日本をつなぐ大切なライン。成田空港で借りてきたワイハイをなんとかつなぐことができた。これでママと連絡し合える。


お姉さんの荷物が置いてあるところを避け、机も本棚も、物置も半分ずつシェアだ。

私は片付けを手伝いながら、日本で待っている家族のためにと写真を撮った。

そうこうしているうちに時間が過ぎていく。シャワーのお湯が出るのは8時半までと聞いた。お姉さんは8時頃まで勉強と言って出て行ったから、その前にシャワーを使っておかないと入れなくなる。


12

私が細かいものを片付けている間に孫はシャワーを浴びてきた。

二人でベッドに腰掛け、大きく息を継ぐ。今日1日の慌ただしい時間がまるで他人事のように感じられる(写真12)。


まだ衣服は残して、他のものはどうやらかたづいた頃、私が出かける時間になった。お姉さんが送るように言われたと、下の職員室まで送ってくれる。ところが、迎えに来るはずのC先生と連絡がつかないらしい。寮母さんらしい女性は、あちらことらへ電話しているが、なかなか明確な指示をもらえないようだ。


しばらく待たされてようやく連絡が取れたらしく、私は案内してくれた人たちと孫と一緒に、空のスーツケースを一つ持って下へ降り、ゲートに行った。しかし、そこには車はなく、私たちは暗い中、待っていることになった。

9月初旬というのに、瀋陽の夜は肌寒かった。シャワーを浴びた若者が風邪をひくといけないので、部屋に戻るように促し、暗い道路を眺めた。

寮母さんと門番の、警備員だろうか、男性が何か話しているうちに、見覚えのある大型の車が近づいてきた。

食堂の主任夫婦とC先生が乗っていて、にこやかに私に乗れと言う。

どうやら、みんなで食事をしていたらしく、少し顔が赤かった。運転は美人の奥様で、助手席に座る食堂の主任さんは、何度か「大丈夫、困ったときは私に何でも言ってくれればいいからね。安心していていいよ」と言ってくれた。中国語だったので、私には分からないのだが、C先生が日本語に訳してくれたので。私は覚えたばかりの「シェシェ(ありがとう)」を繰り返した。


学校と空港の近くには、そこしかないというシェラトンホテルに15分ほどで着いた。確かにそれぞれがトライアングルの頂点のような位置にあるようだ。C先生は北京近くに家があり、瀋陽に来る時はいつもシェラトンに泊まるそうだ。今回も同じホテルに泊まっているので、私のチェックインもサッとやってくれた。翌日の予定を確認し、部屋の前まで送ってくれて、自分の部屋へ戻っていった。

自分も疲れていることだろうに、その振る舞い方はとてもスマートだった。


初レッスン


一人で泊まるにはもったいないと、つい貧乏根性が頭をもたげるほどの広いツインルームで目が覚めた。

13

昨夜は長い移動の疲れが出てすぐ眠れるかと思ったが、興奮しすぎていたのか、目が冴えてしまった。窓からは、街の灯りが見えていた。夜になっても活動している街を見下ろし、さらに持って行った本をしばらく読んでから眠りに入った。(写真13)


まずホテルで朝食をいただき、玄関ホールでC先生と待ち合わせだ。朝食はビュッフェ形式で、よくあるスタイルだが、メニューが違う。カウンターをつい端から端まで歩いてしまった。眺めるだけでも楽しい食材が並んでいる。

14

ヨーロッパなどによくある、ハムやチーズの種類はとても少なかった。けれど、麺やちまきのようなもの、スープの鍋がたくさん並んで湯気を上げている。客が選んだものをすぐ料理して差し出そうと言うかのように手ぐすね引いて待っている料理人が湯気の向こうに何人も見える。

すごい、さすが中国と、なぜか思ってしまった。


残念ながら少食、特に朝は苦手なので、少しずつ味見用に彩り良いものを皿に並べてみた(写真14)。細長いちまきのようなものを開けてみたら、笹の中に竹があり、その中にもち米が入っていた。竹の中に入れて笹で包んで蒸す・・・朝からこんなに手の込んだものを食べる文化に感動する。

ゆっくり少しずついただいて、部屋に戻る。今日は1日、孫の学校で過ごし、夜同じホテルに帰ってくる。明日は早朝に出発して日本に帰る予定だから、今日のうちにやれることをやってしまわないといけない。


気を引き締めて、待ち合わせのロビーに向かう。ところが、なかなかC先生は現れない。

実は後で分かったのだが、朝ホテルの時計を見て、自分の時計が遅れていると思い、15分ほど進めてきたのだったが、これが間違い。私の時計が正しかった。ホテルの部屋の時計が進んでいたのだ。

でも、その時はまさかホテルの時計が狂っているとは思えなかったので、先生遅いなぁと思って、ロビーを行ったりきたりして待っていたのだ。


昨日会った人が、玄関から入ってきた。食堂の主任さんだ。正式にはどういう立場の方かわからないが、これから孫が一番お世話になる方だと聞いている。C先生のお友達なのだそうだ。

おはようの挨拶をしていると、奥の食堂の方からC先生と校長先生がにこやかに話しながら現れた。

この時は、私はまだ時計が進んでいると思っていないので、15分も遅いのになんと優雅に歩いてくるのだろうと思っていた。実際はぴったり時間通りだったのだけれど・・・。

二人の男性が歩いてくる姿はなんだか堂々としていてとても美しく感じた。C先生も、校長先生も、かつてはトップダンサーだった人たち、さすがという感じだ。


さてさて、私たちは車に乗せてもらって、学校へ向かった。孫が住む寮は学校のビルの中なので、両親が心配する安全面では全く心配はない。けれど、孫にとってはせっかくの外国暮らし、自由がないというのが少し寂しいかもしれない。


また食堂の裏口から校内に入る。ちょうど生徒たちが食事をしているところなので、賑やかだった。

15

私たちはそこで一晩過ごした孫と再会、昨夜は食堂の裏から入ったので、学校の建物の正面玄関に案内してくれた。広いロビーには大きな等身大のくるみ割り人形が何体も立っていた(写真15)。

ロビーを出ると、その広さのままの階段があり、下へいくと植木が茂る庭になっている。垣根が作られ、赤いランタンが吊るされている様子は、本で見た中国のイメージに近かった。植木に囲まれた芝生にはブランコのような椅子もあって、気晴らしをするには良さそうだったが、人の姿はない。

私たちは、ここで学校をバックに写真を撮った。校長先生や、C先生とも一緒に撮って、家で心配している家族に送った。C先生は、私と孫の写真を何枚も撮ってくれたが、それはやはり母親に見せてあげるためにと考えられたからだろう(写真16)。

16

大きく立派な学校の建物を見上げて、写真を撮った後、ロビーに戻った。


ロビーで、今日の予定を確認する。午前はレッスンの見学。孫が入るのは2年生の予定だが、午前のクラスは見学のみで、午後、レッスンに参加するクラスが、実際に入る予定のクラスなのだそうだ。

事前にC先生にお願いしておいたので、私も見学させてもらえることになった。しかも、写真も撮っていいとのこと。

孫は、髪をシニヨンに結って、レオタードを着て、すっかり準備ができていた。

食事を終えた孫と一回部屋に行く。足りない物はないかと見回すが、生活を始めていないのでなかなか思いつかない。


時間が来たので、レッスン室に向かう。長い廊下にはたくさんのドアが並び、そこがみなレッスン室になっているようだ。

レッスン室の前で待っているとC先生と校長先生がやってきて、中に案内してくれた。室内にはアップライトピアノがあり、レッスンは生伴奏で行われるらしい。もうすでに生徒たちがそれぞれにストレッチを行い、いつの間にかピアノの音が流れている。

大きな、元気な声の女性教師がいつの間にか何かカウントを取っている。生徒たちはレッスン室の壁に作られたバーにつかまって並び、教師の声に合わせてステップを踏み始めた。

隣の孫を見ると、一生懸命集中しようとしているけれど、時々眠気に襲われている様子。きっと昨夜は初めての異国のベッドで、興奮して眠れなかったのだろう。仕方ないかなと思いながらも、このレッスンをしっかり見られないのは勿体無いと思ってしまった。

まぁ、私はもう帰るけれど、孫はこれから半年間この中で過ごすのだから、チャンスはあるか・・・。


たっぷり2時間近くレッスンは続き、昼食を急いで食べないと午後のレッスンに間に合わないのではないかと思うくらい。

17

食堂で孫が食事をしているとC先生がやってきて、私も食べるならどうぞと言ってくれたが、私はまだお腹が空かないからと断った(写真17)。

食べながら、C先生は孫に向かっていくつかのアドヴァイスをしてくれた。ダンサーは目力が大切と。お姫様と、庶民の娘の目は違うと言いながら、「お姫様はこうでしょ。でもジゼルは違うよ」などと話しながら、目の表情を変えてみせる。その目の表情に私は感動した。力強い男性のC先生が、目の表情一つで儚げな少女のように見えてしまう。やはり一流のダンサーの表現力はすごいのだと思う。


食後はわずかの時間に売店をのぞいてみた。スナック菓子や飲み物、文房具などがたくさん並んでいる。心配していた水も確認、トイレットペーパーやティッシュペーパーもあった。まずは安心して、とりあえずわずかの買い物を部屋において、午後のレッスンに向かう。

そうそう、この時トイレに寄ってから行こうと思ったが、トイレが見当たらない。近くにいた職員らしい人に「トイレはどこですか」と聞いて教えてもらった。それがかなり奥まったところにあった。しかも和式便器で、紙もない!携帯ティッシュを持っていたのでよかったが。

トイレを出て元の廊下に戻ろうとして、教えてくれた人にお礼を言ったのだが、なんと私は「ニーハオ(你好)」と言ってしまった。慌てて言い直そうとしたら、職員さんの方が笑いながら「シェシェ(謝謝)」と言っている。

私は何度も「シェシェ」を繰り返した。

孫は面白がって、その後なんどもこの私の失敗を話して笑っていた。


いよいよ孫の中国初レッスンだ。孫と話しながらレッスン室に行く。何もかも初めてなのは当たり前だが、言葉が通じないから見よう見まねで動くしかない。

廊下のロッカーに、羽織っていた服や履いてきた靴を入れ、シューズを持って中に入る。付きそい見学の私はそのまま入り、C先生、校長先生と一緒に端にあるベンチに腰かける。

もうすでに子どもたちはストレッチを始めていた。教師はまだいない。孫が入っていくと、子どもたちが集まってきて何やら話しかける。どこの国の言葉でも、子どもたちが楽しそうに一気に話す様子は鳥のさえずりのようだ。一人の子が孫に「このクラス?」と聞いた。孫が頷くと、わぁ〜っという歓声があがり、みんなニコニコになる。

そうこうしているうちにピアノが鳴り出し、生徒たちはバーについて動き始めた

ピアノに合わせてストレッチの動きを進めていると教師が現れて、言葉をかけ始める。


日本ではいくつかの教室のレッスン風景を見ているが、ここはとにかく部屋が広い。教師は真ん中にいれば全員が見渡せる。そして生演奏。恵まれた環境だと思う。


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途中しばらく二人の先生は席を外し、私は一人でレッスンを見ていた(写真18)。

教師の言うことはもちろん中国語だから言葉として理解できないのだが、バレエという一つの文化の中で、動きを伴っているので、わかることが多い。孫が言葉を理解しないことを配慮してか、何度も実際に体に触れて指導していた。また、自分の顔を指差し、「生き生きと、笑顔で」と言うように、表情の指導もしていた。


実際にレッスンをしている子どもたちはもちろんだけれど、見ている私も集中していると思わず力が入る。2時間ほどのレッスンが心地よい疲れになった。

レッスンの最後は孫が日本で踊っていた、グラン・パ・クラシックの女性ヴァリエーションをみんなの前で踊って見せてと言われたらしい。生徒たちが鏡の前に寄って、私には椅子を用意して、こちらでどうぞとジェスチャーで示してくれた。

孫はみんなの口三味線で踊り出す。これは正規のレッスンではないということか、ピアニストはさっさと支度をして帰っていった。

グランパの口三味線はちょっと難しいのか、音が消えそうになっても孫はしっかり踊っていた。体の中に音楽があるのだろう。そして、回転を繰り返すと、一斉に「おーっ」という歓声があがった。

孫の後にもう一人小柄な女の子が一つヴァリエーションを踊ったが、その子も留学生らしい。ただ、彼女は中国のどこかから来たらしく、中国語が話せるようだ。


賑やかに、和やかに、初レッスンが終了した。C先生と校長先生が来ると言っていたけれど、レッスンが終了しても姿が見えない。私と孫が廊下で立っていると、レッスンの指導者がついて来いと言う。

階段を上がり、職員室へついていく。しばらく待たされたが、C先生と校長先生がやってきた。二人は私と孫を、応接セットが置いてあるロビーの一角に案内して、そこに座れと言う。

孫は明日から2年生のクラスに入ってレッスンを受けることになっていた。しかし、今日孫の動きと2年生のクラスのレッスンを見ていて、ここでは物足りないのではないかと聞かれた。

「おばあちゃんは見ていてどう思いますか」と。はてさて、バレエのことは好きだけれど、指導に関して知っているわけではない私が・・・なんと言おうか。

私は、基本の動きは大切だから、このレッスンで学ぶことが多いとは思うけれど、少し単調すぎるかもしれないと、感じたことをそのまま話した。

それは先生たちの考えと同じだったようで、翌日から孫は3年生のクラスに配属されることになった。

C先生は、3年生のクラスの先生について、「素晴らしい先生、僕の友達、綺麗な先生」と話し、「おばあちゃん、安心してね」と何度も繰り返していた。


レッスンが終わり、話も済んだので、あとは時間まで部屋の片付けをする。もし足りないものがあれば、街の方まで車を出してくれるというが、かなり時間がかかりそうだ。しかも今日は夕方迎えに来て、友人との食事会に私を連れて行ってくれる予定というのだから、それほどゆっくりしていられない。

学校の売店はこれから孫がここで生活するにあたり、大切なところ、何があるかしっかり見ておかなければ・・・。

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トイレットペーパーがあるので、それを買った。電気コードもあった。机の上の細々したものを整理して置く小さなカゴも買った。食べ物や水分も見て回った。水は絶対必要だから、しっかり確認。ポカリスエットもあったので安心。グリーンティというペットボトルが数種類あった。中国のお茶は甘いと、知人に教えられていたが、試しに2本買ってみた(写真19)。

このお茶、どちらも甘かった。孫と一口ずつ味見をして、さらに私は日本に持ち帰って夫にも味見をさせてあげた。結果は?やはり、甘いグリーンティはお好みではなかった。


売店に売っているお菓子もお土産に少し買い、部屋に戻った。日本から持ってきた孫の好物のせんべいも、棚の奥にしっかりしまい、明日から困らずに生活できるかと、見回した。小さな机があったので、孫はそこで勉強することにする。

孫は細々とした絵を描いたり、折り紙を折ったりするのが好きだ。それで、私は出発前に「白紙のノートを何冊か持って行って、時間があるときにはそこに絵や思ったことを何でも書いておくといいよ」とアドヴァイスをした。

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私も数冊用意してきたが、孫も自分で見つけたノートを持ってきていた。言葉が通じないという壁を乗り越えるためには、どこかで日本語を使っていないと平衡が保てないのではないかと思う。

今はまだ、興奮の中にいる孫は「大丈夫」と、教科書を開き、ノートに学習の一歩を記し始めた。(写真20)


ごそごそと部屋の片付けをしたり、座って話したりしている私と孫に、同室のお姉さんが可愛い果物をくれた。ミニリンゴだろうか、甘酸っぱくて美味しい。


そんなことをしているうちに、私が帰る時間が近づいてきた。C先生が迎えにくると言っていた16:30に、私と孫は約束の食堂に行った。

送ってくれた皆さんに挨拶し、やはり裏口から出て、待っていた車に乗った。

しばらく会えない孫に手を振り、車は出発。不安はいっぱいあるけれど、同時に、きっと大丈夫という安心感も大きい。親や周りの年長者が思っているより子どもはしっかりしているのだという実感があった。


車は一旦ホテルに着き、夕方もう一度迎えに来るとのこと。今日はC先生が夕食に連れて行ってくれるという。

ホテルの部屋で一息つき、18:00、待ち合わせのロビーに行く。

すでに迎えの車が来ていて、私とC先生を乗せて出発。車には食堂の主任さん夫妻と、初めて会う男性が乗っていた。明るい笑顔で挨拶してくれたその人は、バレエ団の団長さんのご主人だとか。団長さんは女性なんだ。今はヨーロッパに遠征しているから、今日は会えないけれど・・・と、残念そうに話していた。

大通りは広く、歩道も広く、その奥に大きなビルが建っていて、周囲の空間もとても広い。車はビュンビュン走っているが、人通りはない。

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でもすぐ曲がって入った道は、たくさんの車が並んで駐車している賑やかな通りだった。左右にはネオンをつけたお店が並び(写真21)、人々が大きな声で話しながら歩いている。


目的のお店の前で私たちは車を降り、運転手さんは駐車場所を探しに行った。

私たちが車を降りるときに、運転してきた食堂の主任さん夫妻が、いくつかの紙袋を降ろして、C先生に渡していた。ビンが入っているような気がしたので、こんなところでプレゼントを渡すのかなぁと、少し不思議な気がしたのだが、店に入ってみてわかった。

22

賑やかな声で溢れている、外見より狭い感じの店は活気に満ちていた。私たちは奥の角席に案内された。座ると早速厚いメニューブックが渡された。このメニューは、まさしくブックだと思う(写真22)。写真入りで、とても分厚いのだ。C先生は端から丁寧にめくっていく。時々お店の人に「これは何か」というふうなことを聞く。私は話していることがわからないので、隣からのぞいて、写真を楽しんでいた。

とりあえずの注文がすむ頃、運転手さんもやってきた。そこで、さっきの疑問が解けた。持ってきた紙袋からお酒の瓶を何本も出す。そして、互いに杯に酌み交わすのだ。C先生は、私に白ワインを勧めてくれた。「これはドイツの白ワイン、口当たりがいいから、おばあちゃんも大丈夫ね」と言いながら注いでくれる。

そしてみんなの杯が満たされると、乾杯をした。運転担当の奥さんは、ノンアルコールの飲み物をもらっていた。

さらに驚いたことに、紙袋の中からはぶどう、茹でたトウモロコシなどが出てきた。そして、「これは主任の奥さんが作ったもの、美味しいから食べて」と、勧めてくれる。つまり持ち込みOKなんだね。お店の人も笑いながら次々と料理を運んでくる(写真23)。

23


食事の間にC先生は自分の友だちを自慢そうに紹介してくれた。北京近くに住むC先生は、瀋陽にきて仲間と会食するのが楽しみだという。

みんな大きな声で楽しそうに話しながら、出てきた料理をパクパク食べる。周りのテーブルを見ると、同じようにどんどん運ばれてくる料理を平らげている。多くの人たちはお酒も飲まずに、食事だけして出て行くようだ。

そういえば、日本とは違う習慣に気がついた。小さめな杯に注いだお酒を飲み干すと、お代わりを注ぎあい、再び乾杯をする。私は2杯で終わりにしたけれど、C先生たちは何回も乾杯を繰り返していた。

賑やかな夜はまだまだ続きそうだが、私はお腹がいっぱいになったので、失礼することにした。お酒を飲まない奥さんが送ってくれるという。

別れる前に、みんなで写真を撮った。とても似ているのに、まるで違う言葉を話す隣の国の人たち、笑顔が素敵だった。


お店を出ると、奥さんはさっと歩き出す。彼女もダンサーだったのか、その姿はとてもかっこいい。私は車に行くのかと思ったが、ホテルは近いのだった。少し歩いたら、ホテルのネオンが見えてきた。そこで、「あそこがホテルですね。私はここで大丈夫」と、英語で言ったが、彼女は「ノープレブレム」と、笑顔で言い、さっさっと歩き続けた。

とても気持ち良い対応なので、私も後をついて歩いた。

ホテルに渡る横断歩道のところでもう一回、「大丈夫」と言ったが、彼女はホテルのエントランスを指さして「あそこまで」と言う。


ホテルの玄関に着いた。私は「シェシェ」と言いながら、ほんの少し涙ぐみそうになった。彼女も、ほんの少し感傷的な表情になって、私を大きくハグした。私は「ベリーベリー、シェシェ」などと中国語か英語かわからないお礼を言って、玄関に入った。

彼女は私がドアを入るのを見届けてから、歩いて行った。


帰国


翌日は、もう日本に帰る。

朝起きて、部屋の時計を見る。やはり進んでいる。私はテレビをつけた。テレビは普段ほとんど見ないが、日本では朝は画面の端に時刻表示がしてあることくらいは知っている。中国のテレビも同じかと思ったのだ。

しかし、幾つチャンネルを回しても、時刻表示は見つからなかった。

私たちがニュースなどで見る、モンゴルの大草原のような広い草原と馬を特集しているチャンネルがあったので、しばらく出発の支度をしながら映像を眺めていた(写真24)。もっと北部に行くと、このような大草原が広がっているのだろうか。

24


昨日、C先生は、「朝早いから、支度をしてから朝ごはんを食べて、そのままロビーに来ればいいですよ」と言ってくれたが、気ぜわしく食べるのは嫌なので、食堂には行かないことにした。

ホテルの朝食ビュッフェは素晴らしいので、ちょっと残念な気もするが、今回は観光に来たのではないから、良しとしよう。


ホテルの部屋の窓からは明るくなってきた瀋陽の街が見下ろせる。この辺りは新開拓地で旧市街からは離れているそうだ。だから全体に広々した感じがするのだろうか。

街の大きな道路には豊かな植え込みの中央分離帯があり、丸い大きなモニュメントが交差点ごとにおいてあった。また公園のような緑地の角には赤い大きな壁のようなモニュメントがあり、観光客だろうか、その前で記念撮影をしている人もいた。車からチラッと見えただけなので、それが何かはわからなかったが・・・。

25

このホテルのロビーには、円形のジオラマがあったが、どうやら瀋陽の街の立体地図らしい(写真25)。


約束の6:40より早めにロビーに行くと、C先生と、男性が一人やってきた。初めて会う男性。この人もC先生の友人だそうで、ホテルの近くに住んでいるという。

昨日までたくさんお世話になった食堂の主任さん夫妻と、彼らの大きな車とは昨日でお別れだった。今日は早いので、ホテルの近くの友人にお願いしたらしい。

C先生の人脈はすごいと思った。


空港に着くと、車のところで待っているという友人にお礼を言って、私たちは中に入った。カウンターで搭乗券の手続きをする。そして、フリーワイハイのチェックをする。「これで連絡できるね」と、安心してC先生とお別れをする。

暮れには日本に行くから会えたらいいねと言いながら。

3日間のお礼を言って、出国審査へのゲートをくぐった。


搭乗まであまり時間がなかったけれど、タックスフリーのお店をのぞいてみた。夫の好きなプーアールティーを探したが、わからない。漢字ばかりと思っていても、実は日本国内で使われる漢字とは異なっているものが多い。しかも表意文字であるのに、意味も同じとは言えない。

店員さんに聞いたら、教えてくれた。小さなかわいらしい箱に入っているので、お土産にいい感じだ。近くにあった、花茶を一緒に買って、急いで搭乗口に向かった。お花がそのままの形で乾燥させてある花茶は、見た目が可愛らしく、1パックずつ友だちに配っても喜ばれそうだ。


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搭乗口に行くと、もう列はほとんどおしまいになっていて、私は最後に乗り込んだ。(写真26)

C先生が WeChat で「乗れましたか」と聞いてくれていたが、バタバタしていたので、成田に着くまで気付かず、返事は「成田に着きました」ということになってしまった。


中国南方航空の瀋陽〜成田線は1週間に何回かしか飛ばないため、慌ただしい旅程になってしまったが、帰りの飛行は安定した天候で快適だった。

孫が帰るときは一人の予定なので、出国の手続き、空港の様子、機内ですること、帰国時の手続きなどなど、役に立ちそうなことはみんな写真に撮り、メモをし、必要なカードなどは余分をもらってきた。


成田に着いて、C先生からの WeChat に返事をしたのだが、ふと見ると動画が添えられている。テレビのニュースらしいが、車がひっくり返っている。テロ?いったいどこだろう?びっくりしてよく見たら、どうやら日本らしい。しかも風であたり一体の物が吹き飛んでいる様子、これは私と孫が出発した日の台風の様子だった。

C先生が、びっくりして送ってくれたらしい。私もびっくりした。こんなすごい台風の中を私たちは飛んだのだった。


中国といえば、日本の何倍の国土だろう。25倍以上の広さを持つ大きな国だ。

憧れのヒマラヤ山脈があり、広大な砂漠を擁し、文明発祥の大河を持っている。様々な民族、文化の存在する国、シルクロードの遥かな幻をも隠し持つ国。私の足でも登れそうな山にブルーポピーが自生するという、現実的な憧れの国でもある。

そんな中国のたった1点に降り立った、数日の旅だけれど、そして大地の奥の山は全く見えなかったけれど、この国の大きさを感じた。


私は孫を残して無事日本に帰ってきた。これから、孫は来年までの数ヶ月、たった一人で異国の地で過ごすことになるが、夢に向かって頑張るだろう。

それが彼女の人生だから。


中国遼寧省瀋陽3日間
2018年(平成30年)9月4日〜9月6日

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