7 海外編「東西文化の交わるところ」コーカサス 2014.6.3〜6.15

※ 「グルジア」という日本での国名は2014年末、日本の法律改正により「ジョージア」に変更されました。旅行をしたのは変更される前で、この文章はその時の国名で書いています。

もくじ

◼︎ いつか… ついに…コーカサスへ
◼︎ 成田に前泊
◼︎ モスクワ乗継ぎ、真夜中のフライト・1日目
◼︎ アゼルバイジャン、バクー・2日目 アゼルバイジャンの国旗のイメージ画像
◼︎ いにしえの岩絵と燃える火・3日目 アゼルバイジャンの国旗のイメージ画像
◼︎ シルクロードをたどり、シェキへ・4日目 アゼルバイジャンの国旗のイメージ画像
◼︎ いよいよグルジアへ、国境越え・5日目 アゼルバイジャンの国旗のイメージ画像 グルジアの国旗のイメージ画像
◼︎ ワインを味わい、トビリシへ・6日目 グルジアの国旗のイメージ画像
◼︎ コーカサスの山ふところへ・7日目 グルジアの国旗のイメージ画像
◼︎ 山上の教会、古都の教会・8日目 グルジアの国旗のイメージ画像
◼︎ グルジアからアルメニアへ・9日目 グルジアの国旗のイメージ画像 アルメニアの国旗のイメージ画像
◼︎ 気まぐれ天気のセヴァン湖・10日目 アルメニアの国旗のイメージ画像
◼︎ アララト山がすぐそこに・11日目 アルメニアの国旗のイメージ画像
◼︎ エレバンからモスクワへ・12日目 アルメニアの国旗のイメージ画像
◼︎ モスクワ乗り継ぎ、日本へ・13日目
◼︎ 成田から我が家へ


いつか… ついに…コーカサスへ


どうしてもグルジアに行ってみたかった。

写真・鉄道ジャーナル
1 鉄道ジャーナル

昨年ドイツに旅したあと、次はイギリスに行ってみようかと話していたから、二人の旅行としては、イギリスが最優先の候補地になるところだった。グルジアに行きたいと、強く思っているのは私だけだと思っていたから。

ところが、夫が、『鉄道ジャーナル(月刊誌:鉄道ジャーナル社発行)』の記事から(写真1)、グルジアの料理やワインに興味を持ち、コーカサスに行こうかと言い始めた。もともと、コーカサスの山や、シルクロード、民族の動きなどに興味があったので、様々な文化の交流する中間点としてのコーカサス地方に、夫も魅力は感じていたのだ。

そうと決まれば、話は早い。早速いくつかの旅行社のパンフレットを見比べる。ヨーロッパのコースは様々取りそろえてあっても、コーカサス地方のツアーは少ない。それでも、何種類かのツアー商品を用意している旅行社があり、その中の13日間でコーカサス3国をめぐるツアーに申し込んだ。電話で申し込んだ時に、私たち夫婦の参加で催行人数が確保されるようだということを聞いた。どうやらそのまま催行が決定したとのこと。私たちは憧れのコーカサス3国へ気持ちを向けて行った(地図1)。

地図・コーカサス3国広域図
地図1 コーカサス


グルジアは旧ソ連のヨーロッパ部分の最南端に位置する国。1991年に独立したが、その後も2008年にロシアと紛争が起こったり、一部の地域、特に西部のロシアとの国境あたりの南オセチア自治区や北のチェチェン共和国では、いまだに自治権争いが続いたりしている。しかし、一部の地域を除いて落ちついており、隣のアゼルバイジャンやアルメニアなどとともに、コーカサスの新しい観光地として魅力を発揮している。新しいというのは、実は失礼で、この辺りは有史以前から人類が生存していたり、ワインの最古の製造場所であったり、シルクロードの中間点だったり・・・ずっと、ずっと、古くからの文明の要だった。って・・・、自分の興味あることだけ並べているのだけれど(地図2)。

地図・コーカサス3
地図2 コーカサス3国

しかし今回、私たちの目的の一つはアララト山をみること、そう、『ノアの方舟』が着いたところ。アルメニアはキリスト教を国教にした世界最初の国。私はキリスト教徒ではないけれど、歴史的に興味は尽きない。旧約聖書『創世記』に描いてある、人類の祖先となる人、地球上の生き物たちの始まりとなる命たち、その始まったところという話の場所なのだから。


6月の旅立ちに向けて、細かな準備をする。ガイドブックも探すが、コーカサス地方に関するガイドブックはあまり出版されていない。ロシアの案内の一部に申し訳程度に添えられていたりする。

それでも無いよりは安心と、購入して、通貨や、電気プラグなどについての情報を得る。細やかな準備をすることで、気持ちが膨らんでいくのも旅の楽しみだろう。



成田に前泊


成田の集合は午前なので、前日に成田に向かう。前の年に利用した、成田東武ホテルエアポートに予約した。ここでなくてはいけないというこだわりは無いのだが、一度利用しているところは勝手が分かって安心だ。

部屋に荷物を置いて、夕食はホテルのレストランで済ます。しばらく日本とお別れだから、丼でも食べようか・・・などと言いながらレストランンに向かう。しかし、私たちが選んだメニューは、夫がカレー、私がパスタ。ほうら、やっぱり懐かしき洋食なのだった。ホテルには団体客があったようで、レストランもとても賑やかだ。インドからの旅行者だそうで、オリエンタルな風貌と、衣装で、レストランが華やかになった。

食事を終えれば特にすることはない。部屋に入って、旅行社からもらった栞や、ガイドブックから切り抜いた情報をぱらぱらと眺めて過ごす。


モスクワ乗継ぎ、真夜中のフライト・1日目


少し早めにホテルを出て、空港に向かう。ホテルからは、空港までの送迎バスが出ている。出発ロビーにある旅行社のカウンターで、手続き。今回の旅では事前にビザが必要な国もあるので、旅行社が手配してくれたビザを受け取り、航空券を発券してもらいに行く。大きなスーツケースを預けると、身軽になる。 

出国審査を通る前にもう一回、旅行社のカウンターに集まることになっている。その前に両替をする。今回の旅ではアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの3国、そして、飛行機の乗り継ぎをするロシアと、4カ国を通るが、どこもそれぞれの通貨を持っている。ロシアでは、モスクワの空港内だけなので、特にロシアルーブルに替えなくてもよいと聞いている。また、他の3国も日本では両替が難しく、アメリカドルを持って行って、現地で両替をするとのことだから、私たちはアメリカドルに両替をして行けばよい。

空港内には何カ所も両替所があるが、一番先に目についたところに入った。アメリカドルをさらに現地で替えるから、細かい札にしてもらった方がよいとのアドヴァイスだった。規定の用紙に書き込み、なるべく1ドル札でお願いしますと言ったら、銀行の窓口の女性は、これ全部ですか?と困ったような顔をして聞く。その時、何か魔物が通ったとしか思えない。私も夫も深く考えず、あ、そうか単位が違ったんだと、ゼロ一つ減らした額の両替をしてしまった。

これが大失敗。後々の貧乏旅行を約束することになってしまった。その時は気がついていないので、ルンルン。両替も終わったし、あとはゆっくり搭乗手続きを待つのみと、空港内のソファに腰掛けてのんびりした。

時間が来て、再び旅行社のカウンターに集まり、添乗員さんと挨拶、少し書類のやり取りがあって、いよいよ出国だ。

今回の旅はツアー参加者が9人。私たちと、もう一組夫婦がいるが、残りの5人はみんな一人での参加者だ。男性が5人、女性が4人、添乗員さんが女性なので、合わせるとちょうど男女同数の10人のグループになる。みんなの顔が見渡せて、ちょうど良い人数だ。


私たちが乗るのはアエロフロート機、最近2回事故があったので、友人はちょっと心配していた。しかし物は考えようで、事故の後は念入りにチェックするだろうから大丈夫さ、とは、のんきな私の見解。

ヨーロッパに向かういつものルートで、新潟上空から日本海を北上、ロシアに入り、シベリアの上空を今度は西へ西へと飛ぶ。座席は窓側の2席、さっそく機内食が出る。フィッシュと何か肉の、チキンだったかな、メニューからの選択だったので、二人ともフィッシュを頂いた。添乗員さんからはロシアの飛行機の機内サービスでは、最近お酒が出ませんと聞いていた。事前に読んだ記事でも、お酒は有料だと書いてあったが、ついに出さないことになったんだと、思っていた。

ところが、これは嬉しい誤情報で、やってきたワゴンにはワインの瓶が積んである。それとなく前の人のオーダーを聞いていたが、お金をとられている様子はない。私たちは紙カップになみなみと赤ワインを注いでもらった。

食事が済んでサービスが一段落すると、窓も閉め、機内は眠りに入る。これからが長い。1、2回気流が悪いためベルト着用サインが出たが、さほど揺れもしないで通過して行く。

モスクワ到着の2、3時間前になると、機内がざわざわし始め、2回目の機内食が出る。パンとグラタンの軽食風。さすがに今回ワインは飲まない。食事が終わればモスクワ到着だから。


10時間弱の飛行で、無事モスクワのシェレメチェヴォ空港に到着。正午に出発したので、日本では夜の10時だが、−5時間の時差があるので、モスクワは午後5時になる。ここで8時間の待ち合わせをし、真夜中の1時にバクーに向けて出発する予定だ。日本にいれば既に熟睡態勢の私たち、眠い。

シェレメチェヴォは大きな空港だが、さすがに夜中は人もあまりいない。待合室で横になって時間をつぶそうと考えたが、大きな待合室はどこを見てもソファタイプの椅子ではない。4脚ほどが横にくっついているものの、一つ一つに肘掛けが付いている。バクーに向けて出発する搭乗口の近くには少しだけソファタイプの椅子があったが、そこは人でいっぱいだった。

体を横にすることができないのはつらかった。幸い椅子はかなり大きめだったので、私と夫は椅子に寄りかかるようにして仮眠をとった。

長い時間の休憩だったので、水を買うことにしたが、ツアー仲間の女性がペットボトル1本5ドルもしたと言って憤慨していた。このとき、私の脳裏にはおかしいぞ・・・という最初の不安が浮かんだのだが、ロシアは物価が高いのかなと思うことにして、振り払った。夫は炭酸入りの水を買いに行ったが、4ドルだったとちょっぴり喜んで買ってきた。


寝たような、寝ないような、体のあちこちが痛くなるような時間を過ごし、ようやく搭乗時間が近づいたので、移動する。真夜中になっていたので、バクー便の近くのソファタイプの椅子も空いてきた。そこでわずかの時間でもと、体を横にして搭乗手続きが始まるのを待つ。ところが、なかなかアナウンスが無い。そのうちに、予定の時間になる。アナウンスで遅れると言っているようだ。添乗員さんも回ってきて、しばらくそのまま近くで待っていてくださいと言う。

写真2・モスクワの夜景
2

結局、1時間遅れでの離陸となった。まぁ、体を横にすることができる場所での待ち時間だったのが、不幸中の幸いと言えるな。 同じアエロフロート機だが、成田から飛んできた機より少し小型だ。真夜中の2時出発、日本では考えられない。空港の周りの住民もそうだが、働く人たちも、パワーが違う気がしてしまう(写真2)。


3時間弱の飛行で、バクー上空に着いた。まだ真っ暗で、窓の外にはバクーの夜景が広がっている。なかなか美しく、ようやく旅が始まると、気持ちが昂るのを感じた。この短い飛行中にも機内食が出て、これにも感激した。朝食なのだろうか。サーモンのサラダに肉とポテト、フルーツ入りのチョコレートも付いて、なかなかリッチだった。

モスクワを朝2時に出発したので、バクーの空港には5時に着く。今回の旅行中アゼルバイジャンだけがマイナス4時間の時差なので、時計の針を1時間進めて、現地時間朝6時。私たちは眠い頭を揺すりながら、まずホテルに向かう。ホテルで少し仮眠をとれるので、長い、長い1日の終わりと言えるかな。


アゼルバイジャン、バクー・2日目


ホテルに着いた。朝食も用意してあるとのことで、ツアーの仲間の数人は朝食レストランに向かったが、私と夫は部屋に急いだ。みんなすごいなぁと思ったが、「空港でも、機内でも爆睡していたよ」と、夫。旅慣れている人たちなんだねと言いながら、私たちはベッドに潜り込んだ。

横にはなったものの、もう外は明るいので眠りはなかなかこない。うとうとした程度。でも、横になって十分手足を延ばせたので、気分は上々。

写真3・ホテルの丸天井
3


しばらく休んで昼前にバスに乗り、今日の観光が始まる。私たちが泊まったホテルはバクーの町の高台にあり、高級ホテルなのだそう。ロビーの高い丸天井は、華やかな色彩のアラビア風の幾何学模様がみごとで、思わず首が痛くなるほど仰向いて見とれてしまった(写真3)。また、ホテルのある地域も広々とした空間のあるところで、辺り一帯は高級住宅街なのだそう(写真4)。

しかし、バスに乗って出かけると、まだ建てかけの建物があったり、開いているのかどうか分からない店舗があったり、墓地が続いていたり、人があまり歩いていない。新興地なのだろうか。ホテルの周りを一人で歩いてみたいとは思えない空間だった。

写真4・高級住宅街
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ホテルの庭には『MOËT』のマーク入りの椅子が並ぶ野外ステージがあった。どうしてアゼルバイジャンのバクーに『モエ シャンドン』のロゴがいっぱいあるのだろう。このホテルはフランス系なのかね・・・と、首をひねりながらステージに立ってみた。周りには芝生の広場や木々の植えられている庭があり、ホテルの庭なら散歩も楽しそうだ。


さて、バスは高台をめぐり、バクーの旧市街地が見下ろせる、殉死者の小路に向かう。階段を上って行くと、一本道に沿って黒い墓石が並び、その上には一本ずつ赤いカーネーションが添えられている。ソ連末期の頃アルメニアと戦った犠牲者が眠っているという。墓石の上には犠牲者の顔や名前を彫った石が並んでいる。現地ガイドさんが思い入れいっぱいに、何人かの犠牲者について話してくれた。

墓石が終わると、そこはテラスのような広い空間になる。中央にモニュメントが立ち、その中で火が燃えている。この火は消えないのだそうだ。アゼルバイジャンは石油やガスが出るため、どんどん開発されて、バクーは今では石油景気で近代化への道を駆け足で登っているそうだ。 広場は展望台のようになっていて、カスピ海添いに広がるバクーの市街地が一望のもと。右手下にカスピ海に着き出した小さな岬が見え、そこに建つ大きな建物にアゼルバイジャンの国旗が翻っている。ずいぶん遠い筈なのによく見える。ガイドさんによると世界で一番だか、二番に大きい国旗なのだそうだ。たしかにかなり大きい。しかもその大きな国旗が休む間もなく翻っている。カスピ海は風が強いのだな・・・と思いながら、旗の翻る風景を見ていた。

旧市街地を見下ろしながら、展望台からの階段を下りる。歩けばいいような街をぐるっと回ってバスで行き、まずレストランでお腹を満たす。テーブルには、トマトやキュウリの野菜大盛り、名前も知らないハーブ類がたっぷり山盛り、チーズ、パンもどんと置いてある。席について、自由に食べ始めていると、スープやメインの料理が出てくる。この日のメインはサジチ鍋という、牛肉と野菜を煮込んだもの。大きな平べったい鍋にどど〜んとあって、フロアマンが一人ひとりの皿によそってくれる。旅の最初の食事なので、ドキドキしながら食べたが、野菜も香草も、ちぎって食べるパンも、みな美味しかった。

しかしここで、大ショック。赤ワインが一杯10ドル!これでは私たちは数日で破産してしまう。泣く泣くワインを諦め、日本円をドルに替えられるところはないかと添乗員さんに聞いた。町中には無いが、ホテルの銀行ならできそうだとの話で、ひとまずホッとする。

ワインはなくても食事が美味しければ満足、満足。このときはまだ、持ってきた日本円を両替できると思っていたから・・・。


食後は国立歴史博物館で少しお勉強。博物館だが、内部の部屋の装飾がみごとだった。この建物は石油成金の館を利用したものだそうで、なるほどと頷く。

展示品もとてもたくさんあって、25万点とか、先史時代からの出土品や、考古学的なこの土地の人々の暮らしが見えるような農具や衣装、装飾品が面白い。そして、シルクロードの中間点に位置する土地らしい、東洋からやってきた陶器などももちろんある。文字なのか文様なのか分からない形が美しく彫られた石などは興味深い。また、35万年前という、人類のあごの骨というのも、文明発祥の地に近いということを感じさせられた。


子どもの頃、まだ見ぬ荒涼とした大地の広がり、人間が自分の力だけで生きていた世界にあこがれていたものだが、そのあこがれの世界に近づいたような気がした。

コーカサスがシルクロードの通り道だったことは日本ではあまり知られていない。南のトルコを通って、船で地中海を渡り、ローマにたどるというコースがよく知られている。しかし、キャラバンはカスピ海の北を回って、大コーカサスの山脈をも越え、西へ西へと進んだ。今回旅するコーカサスの国々には、隊商宿、つまりキャラバンサライが今も残っている。


博物館のあとは旧市街の散策。カスピ海に突き出した半島の根元に、バクーは開けている。その海岸線の端の方に城壁で囲まれた旧市街がある。狭い市街地は石の階段や坂道が入り組んでいる。

私たちはまず、シルヴァン・シャフ・ハーン宮殿に行く。カスピ海に添って広い道路が走っているが、道路脇の公園を通ると、子どもたちがたくさん遊んでいる。中学生くらいだろうか、珍しいのか、私たちの方をちらちら見ながら群れている。日本のこの年頃の子どもたちと同じだ。

私たちのツアーの仲間に大きなカメラを持っている人がいて、子どもたちに「写させて」と言っている。ポーズをとる子や逃げ腰の子がいて、それぞれだ。


子どもたちと別れて、丘の傾斜を利用して作られた階段や坂道を上り、城壁の前にたどり着く。

シルヴァン・シャフ・ハーン宮殿は、その名が示すシルヴァン・シャフ・ハーンの一族によって14〜15世紀に建てられたお城。お城とは言うものの、色彩は土の色一色。壁画やモザイクなどは何もない。しかし、発掘された浴場跡や、調理場跡、丸屋根の大きな建物など、広い宮殿全体に調和が取れている。また外壁に添ってずらりと並べて飾られている、掘り出された石の彫刻、窓に施された細かい彫刻など、色彩がないだけにシンプルで美しい。

城の内部はさすがに土色ではなかった。家具、壁や絨毯など、赤が基調だが、イスラム風の雰囲気で調えてあった。そう言えば、アゼルバイジャンはイスラム教信者が圧倒的に多い国だった。私たちはイスラム圏の国に初めて足を踏み入れたのだ。


写真5・乙女の塔
5 乙女の塔

宮殿を出ると、登ってきた坂道を今度は下る。入ってきたところとは反対側の城壁にあるシェマハ門をくぐる。12〜14世紀に建てられたという、りっぱな石の門。かつて遠い旅をしてきた隊商たちも、この門をくぐったのだと思うと感慨深い。この門をくぐってコショウや茶やシルクを運び、真っ白い磁器に驚き、金(ゴールド)を求め、どれだけの人がどれだけの夢や希望とともに旅をしたのだろうか。比べれば薄っぺらいのだろう、私の驚きだが、同じように感激しながら石の門を見上げ、くぐり抜け、再び旧市街へとくぐり返してみた。


シェマハ門から引き返して、何度も見上げた乙女の塔に入ってみることにする(写真5)。飾り気の無い石を積み上げた塔、内部は螺旋状に石段が続いている。この石段、段差も幅も自由気まま、きっと、ただひたすら積み上げてできたものなのだろう。しかも、内部には明かりが無いので、所々開いている窓からの光を便りに薄暗い中を登る。いったい何段あったのか、足が疲れてきた頃、屋上に飛び出す。

写真6・乙女の塔屋上 炎のビル
6 炎のビル

出たところは意外に広かった。カスピ海とバクー市内を見渡せる。反対側は高台に、燃える火の塔と、最近建てられた炎のビルが3つ見えている。曲線を生かした先の細いビルは、炎の形という。他に高いビルがないので、3つのビルが重なっている姿は遠くからもよく見える。新しいバクーの象徴になっているらしい(写真6)。

登るときは一人ずつ順番だったが、屋上には人もたくさんいて、それぞれ好みの方向を眺めながら風に吹かれている。屋上の中央には台の上に方向版があり、何が見えるか書いてあるようだ。小さな子どもたちが方向版によじ上ろうとしている。どうして子どもは人間も動物も可愛いのだろう。どこの国に行っても子どもたちは可愛い。ただし、大人のような語彙を持つまでの子どもたち。

こっちを向いて照れている子どもにカメラを向けて、うなずきを確かめてからシャッターを押す。

この乙女の塔は、父に恋された美しい姫が悲しみにくれて閉じこもり、最後には身を投げたところだという。この塔の足元までカスピ海の波が寄せていて、海中に身を投げたのだそうだ。現在、水際はかなり遠くに引いているのでイメージしにくいのだが。


さて、おっかなびっくり自由気ままな石段を下りて、塔の前の広場を通って海岸通りに向かう。広場にはアート展が開催されているらしく、一定の間隔を置いて立っている石の壁にカラフルな絵が描かれていた。


寝不足のまま出発したバクー観光、そろそろ疲れてきたが、今日はまだ最後のイベントカスピ海クルーズがある。塔の上からはすぐ近くに見えたカスピ海だが、桟橋は離れているので、バスで向かう。

桟橋は広い公園の中にある。途中のショッピングビルでトイレ休憩をした。そして、桟橋へ着くと、私たちの目の前でロープが張られてしまった。船は悠々と出航して行き、私たちは次の便まで1時間ほど待つことになった。現地ガイドさんがお茶をごちそうするからよかったら着いていらっしゃいと、公園内の簡易喫茶店みたいなところに向かって歩いて行く。ツアーの仲間の5、6人は着いて行った。私と夫は、座っているのもつまらないので、再びショッピングビルへ向かった。

カードで買物ができるので、何かお土産になるものを探そうと思ったのだが、おしゃれな洋品店などが多く、お土産の小物は見つけられなかった。


写真7・ベビーカーの女の子
7

それでもふらふら目を楽しませて、桟橋へ戻ることにした。公園に入ると、お父さんらしい男性がベビーカーを押して目の前を横切って行く。ベビーカーの中の、まん丸い目をした女の子と目が合った。思わず、目で追いかけながら挨拶をすると、気がついたお父さんが足を止めてにっこりする。私はベビーカーの傍らにしゃがみ込み、今度はちゃんと挨拶した。ふっくらした手を出すので、指でちょんとつくと、彼女は私の人差し指をぐっと握った。夫がカメラを出して、撮っていいかとジェスチャーでお父さんに聞く。お父さんはニコニコして頷いた。彼女は私の指を握って振りながら、にっこりする(写真7)。

お父さんは私たちにどこから来たのか、これからどうするのかと聞く。私たちは、日本から来た観光客で、カスピ海クルーズの船に乗る予定だと伝えた。すると彼は、船の乗船券はいくらだと言いながら、ズボンのポケットからその額に当たるマナトの紙幣を出して見せてくれた(マナトはアゼルバイジャンの通貨の単位、1マナト約130円)。

私たちはありがとうとお礼を言って、親子と分かれ、船着き場に向かった。ツアーなので、自分でチケットを買う訳ではないが、お父さんの好意は嬉しかった。


ようやく時間が来て、私たちは船の客になった。もう夕方の風が吹くので、甲板は寒い。船室から外を眺めていると、寒いと言って甲板から降りてくるツアーの客もいた。カスピ海は私たちの期待を裏切って、淀んだ水に油が浮いているような水面だった。港に近いからかと思い、船が進む先に期待を込めて見ていたが、短い遊覧船の航行では沖まで行かず、油田のモニュメントのような、海上に突き出した建造物を見てもどってきた。

これまでの海外旅行で、『◯◯クルーズ』というものにはあまり期待していなかったが、実際経験してみると、どれもなかなか楽しめるものだった。それで、今回は海のように大きなカスピ海という期待が大きく、楽しみにしていた。

ところが皮肉なもので、楽しみにしていた分がっかりだった。まず、水が汚い。カスピ海の名誉の為に付け加えるなら、バクーからちょっと沖へ出たあたりまでの水は汚い。油が浮いている感じの濁った灰茶色。湾をとり巻くバクー市の遠望はそれなりにきれいではあったが・・・。


短い船の旅を終えて、いよいよ夕食。今日一日は真夜中のフライトから続いているので、かなり疲れている。早く夕食を食べてベッドに入りたい。

ところが、この日の夕食はバクー旧市街の中の豪華レストラン。民族音楽を聴きながらの食事。四角く囲まれた中庭にしつらえられたテーブルには、たくさんの野草サラダやパン、オードブルの料理が並べられている(写真8)。見上げると、空はみごとなブルー。

写真8・スープ皿
8

運ばれてくる料理を食べながらショーを楽しむ。民族楽器の演奏に続き、火を飲む奇術、そしてサンバの衣装のような怪しい美女が踊る。この美女のショーでは、客のテーブルから男性を借り出して一緒に踊るという趣向。私たちツアーのテーブルからも、男性の一人客が呼び出され、美女と一緒に踊った。なかなかのリズム感で、私たちはワァーワァーと声援を送った。

賑やかな宴はまだまだ続いていたが、眠くなってきたツアーの仲間はホテルに向かった。四角い空は少しずつ明度を落としながら頭上に美しく広がっていた。


レストランを出てバスに向かう。みんな何となく酔い心地で、ゆらゆらと歩く。昼に何回か通った乙女の塔の広場に出ると、丘の上に炎のビルが見えた。夕空に浮かぶ3つのビルは、赤いライトがうねるように揺らめくイルミネーションで、まさしく炎となっていた。




いにしえの岩絵と燃える火・3日目


昨夜はホテルに戻ると、慌ただしく入浴してベッドに潜り込んだ。最新式の豪華なホテルのベッドはスプリングが利きすぎていて、私には寝心地が良くなかった。そのせいか、生まれて初めてベッドから落ちてしまった。

日本を発って、モスクワの空港で夜を過ごし、真夜中に空を飛んでバクーへ、その後昨夜の遅い時間までずっと活動し続けだったので、熟睡してしまったようだ。朝方トイレに行こうとして寝ぼけ眼のままスリッパに足を取られ、顔面をサイドテーブルに打ち付けてしまった。ドンという音で夫も目を覚ましたらしい。同じように寝ぼけ眼の夫は、自分がベッドから落ちたかと思ったと、慌てている。おかしいが、痛くて笑えない。

洗面所で鏡を見てみる。痛むほどには表面に変化は見られない。左目と鼻の中間辺りをいやというほどぶつけた。相当痛いので、朝になってお岩さんのような青痣ができるかも知れない。タオルで冷やしながら横になったが、結局再び寝つくことはできなかった。


朝起きて恐る恐る鏡を覗く。思ったほどには痣にならず、少し赤みを帯びて腫れっぽい程度で済みそうだ。痛みはあるが、活動に差し支えが出るほどではない。ホッとした。

後日談になるが、左鼻の内側からカサブタのような血の塊が出るのは、その後数ヶ月続いた。


さて、やはり見た目の変化がないのは嬉しく、3日目の観光へ思いを向けることにする。


だが、その前にホテルの両替所に急いだ。先立つものがないのは不安だ。昨日の情報ではホテルなら日本円が両替できそうとのこと。エントランスの近くの両替できる銀行の窓口に行く。まだそこは閉まっていたが、背の高い男性がいたので、
「何時に開く?」 と、英語で聞いた。すると彼は両手を開いて目の前で振りながら、
「ない、ない」
と言う。えっ?今日は無いの?お休み〜?私は一瞬、本当にそう思った。でも、彼の手のひら、片方の親指だけ折っている、そう「ナイン(オクロック)」って教えてくれたのだ。私たちはお礼を言って、勇んで9時にもう一回行ったのだが、今度はホントにがっかり、日本円は扱っていないと簡単に断られてしまった。


とてもがっかりしたが、もう諦めて貧乏旅行をいかに楽しむかに、頭を切り替えることにした。まずは今日の行き先へ思いを向けることにする。


ゴブスタンの岩絵は、世界中に何ヶ所か見られる古代人の生活を描いた素朴な絵の一つ。写真で見たことはあるが、どのような場所にあるのだろうか、とても興味深く、楽しみだった。

私たちが乗ったバスは、バクー市外から南下して行く。道は次第に荒涼とした荒れ地帯に入って行く。そして、巨大な岩がゴロゴロしている砂漠のような感じになってきた。遠くに時々カスピ海が見える。海面が日の光を受けて揺らいでいる様子を見ると、何となく落ちついてくるのは自分が水辺に育ったせいなのか、ヒトの起源が水の中にあるからなのか・・・、いずれにしても水面の揺らめきは心を引っ張る力を持っているようだ。


最初にバスが着いたところは、ゴブスタン岩絵博物館、荒野の真ん中にぽつんと建っている。私たちツアーの客は、まずトイレ休憩、そして博物館でお勉強をする。ここにはゴブスタンだけでなく、地球上に残された岩絵の紹介もある。教科書で見たことがあるいくつかの絵が、部屋の中央に作られた地球を模した球体の、その絵が発見された位置に取り付けてある。それを見ていると、大陸のあるところ、至る所に残されている。現在のヒトにつながる系譜だけなのかどうかは分からないが、ヒトに似た生物は想像の届かないくらい昔から工夫して生き、絵を描くという行為を行ってきたのだ。

もし残されている絵がピカソのようなものだったら、私たちは過去の生活をそこから読み取れただろうか。人も動物も舟も、私たちの目が見る、平面的な一方向からの視点で描かれているから、数千年の時を経て、彼らの描いた活動世界をイメージとして再現することができる。


写真9・岩絵
9

ゴブスタン岩絵博物館を出ると再びバスに乗り、さらに奥に入って行く。見渡す限り岩山というところでバスを降りる。大きな石にゴブスタン岩絵群の表示があるが、それだけ。歩道は自然の中にさりげなく整備されているが、所々の石に蛇の絵が描いてあり、注意を促している。私たちは蛇には出会わなかったが、人の手より大きいトカゲには何頭も出会った。

写真10・岩絵
10

現地ガイドのラミーザさんは以前ゴブスタンで働いていたそうで、とても詳しい解説をしてくれた。英語、それもアゼルバイジャンなまりの英語なので、私には難しかったが、添乗員さんが日本語に訳してくれるので、どうにかついていく。

岩と岩が切り立ったような隙間には、見上げるほどの高さまで描かれていて、ちょうど良いカンバスだったのだろうか。あまり風雨にさらされないところだ(写真9、10、11)。


この絵に描かれる人物は、いわゆる線画、頭は丸いが体や手足は直線で表しているものが多い。

話はそれるが、私が仕事で付き合ってきたたくさんの子どもたちが線画の人を描いていた。彼らを社会としては『知恵おくれ』とか、『知的障害者』とか、ひとくくりにして呼ぶが、その人の生き方はその人の持つ特殊性と豊かさで、個別だ。

写真11・岩絵
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この話になると長くなるので、ひとまず置いておいて、しかし彼らが描く絵と、岩絵の絵が似ているのは事実、では岩絵を描いた当時の人々はみな知恵おくれだったのだろうか。それとも、たくさんの人々が狩りをしている間、所在ない一部の知恵おくれの人が絵を描いていたのだろうか。

などと、あまり誰も考えないようなことを考えながら岩絵群をめぐって、出口に来た。前方には広くカスピ海が見渡せる。水際まではかなり距離があり、辺り一帯は荒涼としているが、岩絵が描かれた当時は足元までカスピ海が迫っていて、緑豊かな土地だったとのことだ。確かに舟の絵もいくつかあった。


写真12・石油搾油機
12

ゴブスタンを出るときはもう昼になっていた。バスは再びバクー市方面に向かう。途中いくつもの湖の脇を通り過ぎる。湖はきれいなピンク色に染まっていた。これらの湖では昔から塩をとることが盛んだったそうだ。塩分の多い湖なのだ。塩分が多いとピンク色になるのだろうか。有名な死海がピンクだとは聞いたことが無い。

湖の湖面は端に行くほど濃い色に染まって美しいが、周りの大地は、しみ出してくる原油が垂れ流しになっていて、まさに油ぎって(?)いる。あちこちに原油が小さな流れを作っていて、表面がてかてか光っているのだ。ラッパの形のような搾油機がたくさん稼働しているようだが、勝手にあふれてくる油をすべて手入れするには至っていない様子だ(写真12)。


写真13・ドルマ
13

昼食は郊外のレストランで。昼食はまずサラダ。テーブルに案内されると、そこにはたくさんの種類の香草、キュウリやトマトなど野菜、チーズが大きなお皿にたっぷり盛ってある。このサラダ方式はこの後の3国どこでもだいたい同じだった。そしてパンも、どおんと積んである。この日のメインはドルマ(写真13)とクバブ(写真14)、ドルマは葡萄の葉で肉などをくるんで柔らかく煮たもの、クバブは肉を焼いた料理。最後に、またまたたくさんのフルーツが出て、お茶と一緒に頂く。チャイ、コーヒー、トルココーヒーから選ぶ。

写真14・クバブ
14

庭の広いレストランで、木の実がなっていた。ガイドのラミーザさんがいくつか穫ってきてテーブルに載せる。枇杷の実。枇杷はこちらでヤポンアズキと呼ぶ日本の果物なのだそうだ。細長くはなく、球体の小さな実だが、味はまさしく枇杷だった。


お腹がいっぱいになって、次の目的地拝火教寺院に向かう。一般の道を走っていると、楽しい風景が展開する。道端に、コッコと歩いている鶏やアヒルは、日本では久しく見かけなくなった姿。動物だけではない。道路端に止めた車のバックドアを開けて、そこに野菜などを並べて、商いをしている人もたくさんいた。すれちがった車の屋根に、大きな瓶が何個も並べて積んであったのにもびっくり(写真15)。

写真15・瓶自動車
15

見た目重視、おしゃれ重視の日本の都会では、いや、今では田舎でも見られない風景が、普通に広がっている。なんだか、自由でかっこいい。


到着した拝火教寺院は広い、広い。紀元前6世紀に建てられたという、見渡す限り石の色。広場の端に石で作られた塀がある。塀かと思ったら門で、その門をくぐって中に入ると、ここもまた広い。中央に火を囲む祭壇があり、この火は消えることが無いのだそうだ(写真16)。右の角には小さい台があり、そこにも火が燃えている。昔は四方に小さな燃える火があったそうだが、今はこの一カ所だけになったとのこと。私は内心、何だ、消えるんじゃないか・・・と、不信心な言葉を呟いた。長い歴史の中でどんなドラマがあって、消える筈の無い火が消えたのだろう。

写真16・拝火教寺院
16


拝火教は、紀元前7世紀頃ゾロアスターを開祖として生まれた、火を崇拝する宗教なので、ゾロアスター教とも呼ばれる。イスラムが広まる前は、中国やインドまで伝わった西アジアの主要な宗教の一つだったという。

アゼルバイジャンの荒野の中に、自然に燃え続ける火を見ると、昔の人がそこに神秘を感じたことが分かる気がする。

拝火教は歴史の中で一時かなり虐げられていたそうだが、最近は再び世界中、かなり遠くからも、信者がやってくるようになったそうだ。


中央の火を大きく囲む、塀のような建物には、それぞれにたくさんの部屋があって、集まってきた信者が暮らしたり、病に倒れた信者がここで祈りながら静養したりしたのだそうだ。部屋の中には人形や生活用具が置いてあって、当時の様子が分かるようにしてある。


写真17・拝火教寺院の猫
17

写真18・拝火教寺院の猫
18

私たちは四角い建物を一回りして、塀の外へ出た。門の脇にある詰め所の建物の影に、まだ生後数ヶ月の猫が何匹か泣いていた。そのうちに母猫がやってきて、ごろりと横になって授乳を始めた。小さな猫たちはモゴモゴと動きながら我先にとおっぱいに吸い付いていく。係員は何事も無いかのようにちらりと優しい目で見るだけ。

猫も自由だ(写真17、18)。


19 ザクロの木

ツアーは盛りだくさん、午前はゴブスタンの丘陵をゆっくり歩いたが、午後は急ぎ足で回る。拝火教寺院を出たバスは、狭い道を進む。そして、田舎の端っこみたいなところで止まった。めざすマルダキャン要塞跡まではさらに歩く。宗教上の歴史も古いというザクロの木々が茂っている、長い塀の間を歩いて行くと、この狭い道にも、車を止めて野菜や果物を商っている人たちがいた。私たちは客ではないと見たか、あまり興味なさそうにしている。

20 桑の実

ようやく門をくぐると、半分崩れた城のような建物がそびえている。庭は広く、様々な木々が緑濃い葉を広げている(写真19)。中でも大きな白い実をつけた桑の木が圧巻だった。とても太った実をたわわにつけていて、食べごろ(写真20)。桑の実は赤いものと思い込んでいたが、この実の形、味わいは、まさに桑。子どもの頃、口の周りを真っ赤に染めて家に帰って叱られた、あの味だ。手を伸ばせばいくらでも届くので、みんな摘んでは口に運ぶ。懐かしい味だけど、白い実にはみんな驚いている。

写真21・マルダキャン要塞跡
21

私たちが桑の実を食べている間に、要塞の門の鍵を持ったおじいさんがやって来た。彼の周りには5、6人の少年がいる(写真21)。現地ガイドのラミーザさんと老人が話し、老人は少年たちに二言三言話して、鍵を渡すと帰って行った(写真22)。

22 少年たち

この要塞跡はまだ整備がされていない為、門をくぐると、足元に大きな穴があいている。いくつもの大きな穴の中を覗くと底に瓶や文字らしきものを掘った石の板などが摘んである。しかし、かなり深いから落ちたら大変だ。そんな穴が草の間にごろごろ開いているから、びっくり。少年たちは何か言いながら私たちの周りを歩く。きっと
「気をつけて」
「危ないよ」
などと言っているのだろう、まるで分からないけれど、何故か足元に気をつけようという気になる。この穴は天然冷蔵庫になっている、食料貯蔵庫なんだそう。それで瓶も置いてあるのか・・・。


さて、要塞の周囲を歩いて、いよいよ建物の中に入る。まっくら。眼が慣れてくると、壁の内側にも石の固まりがゴロゴロしているのが見える。隅には井戸のようなところがある。ここは1km離れた隣の塔までトンネルでつながっている脱出口なのだという。井戸のようにカモフラージュしている。

そしてもう一方の隅に簡単な木の階段があり、中2階あたりの壁の穴まで取り付けられている。この穴が石段の入り口になっている。はしごのような階段を上る私たちの足元に、少年たちが懐中電灯の光を当ててくれている。事前に案内されていたので、自分でも懐中電灯を用意していたが、両手を使いたいほどの急な、不安定な階段なので、少年たちの案内はありがたい。石の階段に取り付くと、あとは螺旋状になっている。しかしこれがまたすごい。もちろん段差も幅も勝手気まま。段面も平ではなく、でこぼこしている。一回りして床のある階に到着、喜んで中に踏み込もうとすると、床にはぽっかり穴があいている。思わず、「わぁっ」と叫ぶ。何階あったか、数え損なってしまったが、一階登るたびに暗い中のサプライズがあって、気が抜けない。誰も落ちずに無事に屋上にたどり着いたのが不思議。


こうして屋上に飛び出した私は、青空の下に広がるアゼルバイジャンの風景をカメラに収めようと、要塞の反対側に進んだ。その瞬間、大きな少年の声。振り返ると、
「ダメ、ダメ(と言っていたと思う)」
と言いながら、手を振っている。屋上の周囲の塀の内側には、1メートル程度の幅の石の道がついている。歩いていいのはここだけ。その内側は柔らかい土のようなもので覆われ、いつ底が抜けるか分からないから、入ってはいけないのだそうだ。途中の、ぽっかり穴が開いていた床を思い出し、ゾーッとした。その後はみんなで慎重に塔の端を回りながら、28mの高さからの目の前に広がる風景を楽しんだ。帰りは、また暗い階段を半分手探りでゆっくり下りた。


マルタギャンを案内してくれた子どもたちは学校が夏休みなので、この広い要塞跡で遊んでいるそうだ。もちろん普段は鍵がかけてあるので、建物の内側には勝手に入れないが、門番のお手伝いをしたり、一緒に懐中電灯をかざす役をしたりすることはあるようだ。

学校の休みは6月から9月の3ヶ月間で、休みの間に宿題を出すことは禁じられているという。日本の子どもたちが聞いたら飛び上がりそうだ。彼らは家の仕事を手伝ったり、こうして外で遊びながら、地域の手伝いをしたりして過ごす。私たちの案内をしてくれた子どもたちには、現地ガイドさんがアイスクリームをごちそうしてあげると言っていた。言葉が通じないから、実際の彼らの気持ちを聞くことはできなかったが、表情は生き生きしていた。


私たちは再びバスの客となり、この日最後の観光地ヤナル・ダグに向かう。コーカサスの案内書はほとんどないのだが、少ないページにヤナル・ダグ(燃える山)は載っていて、どんなところだろうと楽しみだった。山から漏れ出す天然ガスに火がついていて、消えないのだという。私はかなり山の奥に入ったところだと想像していた。ところが、バスは家々の間の丘の道を登ると、停まった。着きましたと言う。

駐車場の隅の、民家のような建物の裏へ出ると、目の前の山の斜面に大きく『YANARDAG』と書いてあり、斜面の下に炎が広がっている。斜面の下は狭い広場のようになっていて、その向こう側の傾斜が始まるところが横に炎の道となっている。それをこちら側の丘の上から眺める。

広い階段で広場に降りられるようになっているので、私は降りてみた。炎の近くに行くとさすがに熱気を感じるが、それほど熱くはない。夫も降りて来て、二人でポーズをして写真を撮った。ツアーの仲間は何人か降りて来て、同じように炎の近くで写真を撮っていた。しかし、思っていたほど炎の勢いは無く、何となく肩すかしという感じではあった。昔は、かなり広い地域のあちこちで燃えていたらしいが、今ではここに残るだけだそうだ。地震などの影響でガスの出口が塞がれたという。

後で聞くところによると、ここは民家の庭で、夏にはこの火でバーベキューをするという。それは気持ちいいだろうと思った。


ホテルに戻って、この日はホテルのレストランで食事。ホテルではカードが使えるので、私たち貧乏旅行者もワインが飲める。ホテルのテーブルでバイキング料理を楽しみながら、自己紹介タイムとなった。何回かの海外旅行ツアーで初めて、名前の名簿をもらった事前にその話があり、私たちも了解をしている。個人情報保護法のせいで名簿を配るなどということが難しくなった。

もちろん悪用されない為に必要ということもあるかもしれないが、それは悪の側から見た話で、人が人として実体のある関係作りが難しくなったように思う。

まぁ、横道にそれないで、ツアーの自己紹介タイムに戻ろう。参加者9人、添乗員さんを入れて10人の小さな団体なので、親しみもわきやすい。自分たちを棚に上げて言うのもなんだが、年配者が多い。そして、驚いたことに海外旅行の達人たちだ。90カ国以上旅をしているという男性は、足が悪くなってきたと、杖をついての参加。そこまではいかないと言いながら、一ヶ月に一回程度の海外旅行をしていると言うご夫婦。イスラム圏ばかりたくさん行ったと言う婦人。大きなカメラでたくさん写真を撮っている男性は、今回の旅行社の常連で、荷物用のシールなどたくさん余っているよと笑わせている。

私たち夫婦は、初心者というのでしょうか・・・、グルジアに思いを寄せて参加したと話した。話が弾んで、いい気持ちになって部屋に戻った。



シルクロードをたどり、シェキへ・4日目


結構忙しく回ったバクー近辺の旅も終わり、今日はアゼルバイジャンを西に向かう。かつてたくさんの商人たちがお茶や香辛料やシルクを持ってたどった道、シルクロードを行く。

写真23・荒野
23 シルクロードを西へ。
樹木のない荒野が続く。

バスがバクー市街を離れると、次第に家々の間隔が遠くなり、右には小高い丘、左にはどこまでも続く荒野という景色になってきた。かなり走っても風景は変わらない(写真23)。バスのスピードで数時間、昔の隊商は馬車だったろうか、この荒野をゆっくり進んで行ったのだろう。夜になれば休む場が必要だから、急いでいたかもしれない。

私たちの今夜の宿は、昔の商人たちキャラバンが泊まったところを改装したホテルだ。シルクロード沿いにはそういうキャラバンサライの宿がいくつもあるらしい。


写真24・シェマハのモスク
24

バスは途中のシェマハという町で停まった。広い道路の周りには町らしき建物は無い。ただただ大きなモスクが広い敷地の奥にそびえているだけだ。回教(イスラム教)のモスクには女性はスカーフをかぶらないと入れない。私は用意してきたスカーフをかぶって門を入る。石を敷きつめた何もない広場が、とにかく広い(写真24)。みんな小さな点になって、モスクの入り口に向かう。近づくと、入り口の近くには庭が作ってあった。真四角に掘り下げた庭園には木々が植えられ、池も作ってある。いかにも造った庭という感じだが、私はまとまりが無いなぁと感じた。この一角だけに思いつく木々をみんな押し込んだという感じ?と言って、それほど緑豊かではないのだが。しかしこれまで通って来た荒野を思えば、緑を守るのは大変なことなのかもしれない。


庭を眺めおろしてから、みんなモスクに入った。このアゼルバイジャン最大という大きなモスクは、また最古のものだそうだ。8世紀頃に建てられたが、空爆などによって一部崩壊していて、しばらく入れなかった。入り口の左柱に大きく2013と書いてあったが、ちょうど昨年改修がすみ、こうして私たちも入ることができるようになった。右の柱には最初に建造された年が、743と書いてあった。


モスクの中に入ると、広々とした四角の空間、中央には祭壇があり、濃い青の幾何学模様が美しい。祭壇の前にはたった一人老人が座り、お祈りをしていた。私たち見学者はお祈りの邪魔をしないように静かに天井の高い空間を忍び歩く。


祈りの空間には一人分の広さが模様のようになって描かれている。ここにずらりと並んでひざまずき、同じ方向を向いてお祈りをするのだそうだ。そして、中央の広い建物を出ると、壁の外側にも一人ずつの空間が描いてある。中に入れない人たちがここでお祈りをするそうだ。さらに外の廊下を渡って左の小さな空間に入ると、そこは女性の為の祈りの場だという。

写真25・モフル
25

男性には中央で待っていてもらい、女性だけで、入ってみた。ガイドのラミーザさんは、コーランや額に当ててお祈りをする石モフルについて説明をしてくれた後、実際にお祈りをしてくれた。私たちの旅が無事に終わりますようにと祈ったと、笑っていた。素焼きの平べったい石モフル(写真25)は、イスラム教の中でもシーラ派が使うのだそうだ。地面においてひれ伏すときにその石に額をつけて祈る。アゼルバイジャンはシーラ派が多いという。

写真26・霊廟ドーム
26


男性と合流し、丘の上に登った。古い墓地が、野花の乱れ咲く中に建っている。7つの霊廟ドームが点在していたそうだが、今は2つのドームが残っている(写真26)。シルヴァン・ハーン王朝の王と金持ちたちの墓だそう。石を積み重ねた小さなお堂のような建物だ。この丘からはシェマハの町が美しく見おろせた。


素敵な眺めを楽しんだ後は、昼食。バスでの移動中に、森の中に銀色に太陽を反射する家がいくつも見える。あちこちにキラキラ光っている。これらの家は屋根がアルミで作られているという。この屋根の下の空間が食料貯蔵庫になっているのだそうだ。

また、走っていると、道路の脇に細いパイプが走っていることに気づく。バスの窓からなので、太さは感覚でしか分からないが、直径10センチくらいかなぁ。もっと細かったような気もするが・・・。クリーム色と白のパイプが、だいたい平行している。家のあるところでは地面に近くなり、遠くへつなぐときは直角に立ち上がって、地上2mくらいのところを走っている。

このパイプはガスと水道なのだと聞き、思わず、大丈夫なの?と思った。地震も多い地域らしいので、不安な気がするが、地上を走らせる方が管理しやすいのだろうか。


昼食のレストランではヨーグルトスープにケバブという地元の伝統料理に、たくさんのサラダとフルーツはいつも通り。野菜やフルーツは新鮮でおいしい。パンはビニール袋に入ったものが、そのままテーブルに置いてある。

道路沿いのこのレストランは、ホテルも営業しているようだ。広い庭を奥に進むと木々の間に屋根が張り出している広いテラスがあり、いくつもテーブルがセットされていた。壁の装飾は茶色の石で、亀の甲羅のような奇妙な模様だった。

黒く光る毛の猫が静かに客の足元を歩いている。ツアーの仲間の一人に、猫を見たら写真を撮って来ると、家族に約束した人がいて、今回はあちこちで歩いている猫に出会って嬉しそうだった。しかし、このレストランでは、猫にカメラを向ける私に向かって「僕が一番に見つけたんだよ」と、悔しそうに言う。カメラをバスに置いてきてしまったと、苦笑いしながら言っている。グレーっぽい黒毛がきれいな猫だ。

イスラム教では猫が大事にされるとか、聞いたような気がする。アゼルバイジャンではよく猫を見かけたので、彼はまぁいいか・・・と、のんきに構えている。旅行先によっては、全く猫に出会わないところもたくさんあって、そういうときはお土産がなくて悲しいと言っていた。


食事が済んで、トイレに行った男性たちが、あまりに汚いから女性は行かない方がいいと言う。しかしこの後も長旅、トイレには行っておきたい。すると、どういう交渉をしたのか、テラスの脇を入ったところの部屋を開けてくれて、この部屋のトイレを使って良いことになった。ホテルの一室らしい。窓側のテラスから入って、トイレを借りる。このトイレも鍵はちゃんとかからないし、あまり快適とは言えなかったが、部屋の中のアラブっぽい装飾や、質素なのに大きなソファがあるアンバランスな空間を覗けたことが面白かった。

再びバスに乗って、山の奥に向かって走る。荒野は次第に緑の色を濃くし、道の脇には枝を広げた木々も増えて来た。多くの木は実を食べることができるそうだ。ヘーゼルナッツの木も多かった。と言っても、どれがそうなのか、走るバスの中からではなかなか見定めることができないのだが、ガイドさんが説明してくれるのを信じれば・・・ということ。

写真27・道路の脇にずらりと店が並ぶバザー
27

山道を登って行くと道路の脇にずらりと店が並ぶバザーがあった(写真27)。色とりどりにフルーツや、ジャムや、蜂蜜や、ゾハルというお菓子などが並べられている。バスを停めて、バザーを冷やかした。サクランボは山盛りで安い。ゾハルというお菓子はフルーツを煮て柔らかくし、練ったものをつぶして平たく延ばし、乾燥させたもの。直径20センチほどの平べったい円形で、甘酸っぱいフルーツの味がする。グミを柔らかくしたような感じかな。

貧乏旅行で現金がないので、私たちは眺めるだけだったが、ガイドさんや仲間が買ったゾハルやサクランボを頂いて、再びバスに乗った。バザーの並ぶ道は木々の茂る山道で、近くには民家が見えないようだが、どこからこれほどに賑やかな商品を持ってくるのだろうかと不思議だった。


さて、自然が豊かになってくると、道路の回りにも人の痕跡が見えてくる。日本の別荘地のような趣の林の中を通っているとき、運転手さんと、添乗員さんが「ワー」と、声を上げた。窓の外を見ると、バケツのようなものを持った人が視界を過ぎて行く。

バスに水をかけられたそうで、一瞬びっくりしたが、この地方では「旅の無事を祈る」という意味で水をかけることがあるそうだ。所変われば・・・色々な風習があるものだと思った。

写真28・キャラバンサライを改修した宿
28


ずいぶん走って、ようやく今晩の宿があるシェキの町に入って来た。道路には大きな牛がのんびり歩いていたり、馬車がゆったり走っていたりして、今の日本では見られない風景が続く。建物や塀には白い石が使われていて、シェキの川原の石だそうだ、美しい。

写真29・室内
29

今晩の宿はキャラバンサライを改修したところ(写真28)。シルクロードが栄えた昔、キャラバンが長い旅の途中で泊まった宿だ。動物をつなぐ間口、狭い、狭いベッド(写真29)、美しいアーチ型の建物、緑豊かな中庭・・・すべて珍しく、楽しい。当時バスはなかったし、水洗トイレもなかったが、もちろん今は、シャワーと水洗トイレが部屋の中についている。

しかし、水回りはもう一工夫欲しい。シャワーの水が溢れて、木の床がベコベコしている。全体がとても美しいので、この不満感がもったいなく思う。


写真30・ハーン宮殿
30

ホテルに荷を置いて、ハーン宮殿に向かう。シェキ・ハーン国の初代ハーンなんとかと言う長い名前の王が18世紀に建てた建物。小さな別荘という風情の2階建ての宮殿だが、細かい木組みのステンドグラスがすばらしい(写真30)。前庭にはシナの木の大木が2本そびえていて、その間に細かな細工の宮殿が建っている様子は、山の奥とは思えないアカデミックな美しさだ。

宮殿の外には現在も、シェバカと呼ばれる木組み細工を作っている工房があり、そこのお兄さんが実演してくれた。接着剤などは全く使わない。組み合わせだけ。その工房の庭は一面緑で、サクランボがたわわに実っていて、私たちは枝ごと頂いて来た。菩提樹の大木も今を盛りと花咲き、気持ちよい空気に包まれている。

写真31・雪山
31 コーカサスの山々が見えた!

その空気に包まれながら、木々の下にテーブルを置き、笑いさざめきおしゃべりしている人たちがいる。なんだか、時間の流れ方が違うような、体中の細胞が解放されるような気がした。


バスに戻ると、さすがに1日の疲れを感じる。長旅だった。今日の締めくくり、夕食のレストランへ向かう。 の雪をいただく山が遠くに浮かび(写真31)、邸内はバラが咲き乱れるおしゃれなレストラン。夫が赤ワインを一杯たのむと、テーブルで瓶を空けてくれた。 私も味見をしたが、おいしいワインだ(写真32)。レストランのウェイターがお変わりはどう?と聞いてくれるが、悲しい貧乏旅行・・・せっかく空けてくれたおいしいワインだが、2杯目は諦めるしかない。

写真32・赤ワイン
32

ワインは諦めたが、大きな太いガラス瓶にサクランボがたっぷり浮いているジュースが何本も置いてあり、自由に飲めた。赤いジュースは甘酸っぱく濃厚で、炭酸水で割って飲んでも美味しい。お酒がダメな人は、あっという間に一本を飲んでしまっていた。

プロフという、ピラフのような料理と、菱形の小さなケーキをいただいた。ケーキは黒っぽい色の赤いラインが入っていてかわいいが、濃厚な香料の味がした(写真33)。

写真33・プロフ
33



いよいよグルジアへ、国境越え・5日目


キャラバンサライのホテルはベッドの幅が50〜60センチほどしかなく、とても狭いのだが、寝心地はとても良かった。変にスプリングが利いていないのが良かったのかもしれない。

私たちの部屋は2階だったが、2階への階段は暗く、石のステップが狭い螺旋階段で、酔ったら落っこちてしまいそうだねと、みんなで話した。

しかも寝室の枕側のすぐ外が、急な坂道になっていて、夜中に走る車のエンジンを吹かす音が響き、小さな窓のカーテンを引いていてもヘッドライトの明かりが漏れてきて、居心地が今ひとつよくなかった。

そして極めつけは、朝4時半頃浪々と響くお祈りの声。深夜にも響いていたが、1日5回のサラート(イスラムの祈り)の時を知らせるのだそうだ。町中に響き渡るスピーカーの声。この祈りの時間を知らせるアザーンは、イスラム圏では当たり前のことらしい。

びっくりしたが、アザーンには不思議な響きがあって、時間さえ早朝でなければ面白いものだった。


■ Audio:イスラムの祈り「アザーン」の響き ■

目が覚めてしまったので、庭を散歩し、清々しい空気を吸ってきた。いよいよグルジアに向かうので、ゆっくり出発の準備をする。しかし、ツアーの仲間には早朝のアザーンに気づかず、眠っていたと言う人もいた。強者だ。さすがに月一度程度の海外旅行で、地球上の様々な国を旅している人は違うと思った。

朝食はキャラバンサライの庭にしつらえられたテーブルでいただく。草の緑が美しく、アーチ型の建物に囲まれている広い空間は、とても気持ちが伸びやかになる。そして、私たちの足元には黒いウサギがピョコピョコ歩き回っていて、みんなの鞄のにおいを嗅いだり、ちょっと齧ろうとしてみたり・・・その姿は愛嬌があってかわいい。

昨夜のうちに卵料理の好みを聞かれていて、ゆで卵かスクランブルエッグだったのだが、巨大な皿に盛り上がった黄色いケーキのようなスクランブルエッグにみんなびっくり。ゆで卵も人数よりたくさん盛り上げてあって、朝から豪勢だ。

写真34・シェキのバザール
34 シェキのバザール

今日はいよいよグルジアへの国境越えをするのだが、その前にシェキのバザールに寄る。バスに乗って出かける。走り出してすぐ、ホテルの近くの郵便局で日本へのハガキを投函する。旅行会社のサービスで、ハガキと切手が3セット配られたので、みんな準備していた。ガイドのラミーザさんがバスを降りて投函して来てくれるのを待って出発。

シェキのバザールは大規模。活気があって人々の顔が光っている(写真34)。

写真35・シェキのバザール
35

果物や野菜、乾燥させたハーブ類、ナッツ類、レストランでデザートに出たお菓子もあった。 菱形に小さくカットしてあったお菓子が、とても大きな丸い鉄板の上でピザのように焼かれていたので、驚いた。少し自由時間があったので、バザールの中を奥まで歩いてみた(写真35)。

肉売り場には動物の形のままの大きな固まりがいくつもぶら下がり、下には頭が並べてある。若い店番のお兄さんが笑顔で「どう?」と声をかけてくれるが、さすがに観光客と分かっていて、これはジェスチャー。写真を撮らせてもらって、買物はなし(写真36)。 さらに奥に行くと、小学生くらいの男の子たちが鶏をひねって働いていた。夏休みになった子どもたちは働いている。カメラを向けて撮っていいかと聞いたら、得意そうに鶏を掲げた。

写真36・シェキのバザール
36


鶏をひねるなどと言うと、日本では「キャー、残酷」と言われそうだ。しかし、その言葉の下から「フライドチキン食べに行こう」などと言う。自分が食べているものがたくさんの命だということに、不感症になっている。肉も魚も、もちろん野菜も、生きている命を絶って食べなければ、人間は生きて行けない。妙に感傷的になる必要はないが、気がついていてほしい。

我が家の子どもたちと、何人かの仲間たちで、魚を開いて干物にし、鶏をひねってカレーを作ったことがある。小刀を使って自分で竹を削った箸で食べた。三浦半島の海辺の小屋を借りた1泊2日のキャンプ。あのときの子どもたちは、シェキの子どもたちと同じ顔をしていた。大騒ぎせず、食べて生きて行く生活人の顔。

最後にみんなの思いを聞いたら、鶏が可哀想だったと言う声が多かったが、魚が可哀想と言う声は少なかった。そうだろうなぁとも思う。鶏の方が自分に近いから・・・。 「鶏は可哀想だったけど、カレーはおいしかった」と言った日本の子どもたちが、今は親となる世代だ。


さて、昔話は終わって、シェキのバザーに話を戻そう。色々なお店で子どもたちが働いていて、それも一つの活気だと感じた。

チェリーを山盛りにバケツに入れて並べているお兄さんが、私に一緒に写真を撮ってと言う。彼がお店の奥にも声をかけて、集まった何人かのバザールの人たちと一緒に、写真に収まった。

バザールは食品だけではなく、洋服なども売っていた。私たちは現金を持たないので、冷やかしだけで申し訳なかったが、見て回るだけでも元気が出るようなバザールだった。


写真37・道路の牛
37 道路を牛が

その後はひたすら山の奥に向かい、グルジアとの国境をめざす。アゼルバイジャンのバクーからシェキへの道に比べると緑濃く、日本のような植層の豊かさを感じる。ヘーゼルナッツの並木道や、トウモロコシの畑が広がっている道を走った。

時おり、道路を牛や羊がゆっくり歩いている(写真37)。車はスピードを落として彼らが道を横切るのを待つ。

しばらく走ると、国境の町というような看板が出ていて、賑やかな商店街になる。出入国の人たちがここで最後に、あるいは最初に必要なものを整えるのだろうか。ガソリンスタンドやスーパー、レストランなども並ぶ。私たちのバスはそこを素通りして、ついに国境に着いた(写真38)。

写真38・国境
38


パスポートを持ってバスを降り、一人一人出国審査官の前に立つ。アゼルバイジャンではビザも必要だったので、入国したときに返してもらったビザをパスポートと一緒に提出する。

ところが、ツアーの客の一人にビザを紛失した人がいた。その人はパスポートに挟んで出したと思うと話すのだが、審査官のところに彼女のビザはなかった。しばらく話し合いが続き、ラミーザさんが持っていたビザのコピーでOKということになったらしい。ベテランガイドのラミーザさんの強い押し、堂々とした態度がものを言ったのかもしれない。審査官は電話でなんだか話していたが、最後には笑ってオーケーと言うように呟き、私たち全員を通してくれた。

ほっとして、今度は荷物を持ってグルジアの入国審査となる。ラミーザさんと、運転手さんにお別れを言って、国境の川にかかる橋を渡る。ここからはラミーザさんたちは入れない。歩いて行くと、審査所の向こうにちょっと太めの美女がニコニコしている。それがグルジアのガイドのタムタさんだった。

入国審査は簡単に済み、一人ずつタムタさんに挨拶をしてグルジアに第一歩をしるす。私はずっと来たかった国への第一歩なのでワクワクした。


運転手のザザさんと挨拶し、私たち全員が乗り込むと、バスはテラヴィ地方の真ん中目指して走る。道の脇には葡萄畑や野菜畑も広がり、自然の恵みは豊かなようだ。しかし、道路脇に続く建物は小さく簡単な作りで、日本で言えば粗末な感じの外観だ。観光用ではない馬車が走り、道端には小さなテーブルのような販売所がぽつぽつ並んでいる。国境の道だからなのか、農家の作物だけではなく、手作り品のような色彩のものも視界を過ぎて行く。


しばらく走って、バスはいよいよ緑濃い農村風景の中へ入って行く。そして、ついに葡萄畑の真ん中に停まった。バスを降りると葡萄のトンネルの下を案内される。トンネルの入り口のところには5、6歳くらいの男の子と、お姉さんらしい女の子が砂場でおままごとをしていた。こんにちはと挨拶したが、言葉は通じないし、照れくさそうにはにかんでいた。

葡萄のトンネルを抜けると、畑に囲まれた中庭に二組のテーブルがしつらえられていた。私たちのツアーは、建物の近くのテーブルに案内された。

写真39・農家の料理
39 農家の料理

この農家の庭の一隅には鶏が数羽飼われていて、自由に歩いていた。その隣には大きな鉄板がしつらえられていて、ここでポークのバーベキューが焼かれていた。肉の焼けるいい匂いが漂っている。

テーブルにはたっぷり野菜のサラダと、チーズやパン、そしてワインの瓶が並んでいる(写真39)。昼から贅沢に自家製だというワインをいただいた。赤も白も、しっかりした味で存在感がある。

私たちはもてなしのお料理に舌鼓を打ち、国境を越えて来た疲れを吹き飛ばした。気がつくと、庭の奥の方のテーブルにも小さな団体が案内されて賑やかになっている。

庭の奥にある手洗い場所に立った時、奥のテーブルから来た女性に、
「どこから来たの?中国?」
と聞かれたので、
「日本よ」
と答えた。これは英語で。私に話しかけた女性はテーブルに戻り、「日本ですって」と言う風に、仲間に伝えていた。そしてワハハと大きな笑い声、賭けでもしていたのかな?テーブルでの彼らは、ドイツ語を話していた。コーカサスへの観光客は、ドイツからのツアーがとても多いと、ガイドさんが言っていたが、なるほどと思った。たった一組のツアーに出会ってなるほどと思うのも変かな?

農家の手作りのワインや蜂蜜などが買えるとのことだったが、もちろん現金のない私たちには無理。まだグルジアの通貨に両替していなかったが、ドルでもよいとのこと。しかし、仲間たちも高いと言って買わなかった。かのドイツ人たちも手に取って見ていたが、買ったかどうかは分からない。


写真40・キンズマラウリ
40 キンズマラウリ

食事を堪能した後は再びバスに乗り、ワイナリーに向かった。グルジアのワイン製法は最近世界遺産に登録されたそうだ。世界最古のワイン製法という。私たちが立ち寄ったワイナリー『キンズマラウリ』は大きな工場。お城のような城壁が残っていると思ったら、ここはワレリ城の王様が造ったワイナリー(写真40)。

販売用のワインが並んでいる城壁門のような建物を通り抜けると、広い中庭に出る。向かいのお城のような建物の屋上には様々な国の国旗が立てられていて、風になびいている。右を見ると巨大なタンクが4本並び、ワインの瓶の絵が描かれている。3本目のタンクには、足場が組まれていて、絵筆を持ったおじさんが今まさに絵を描いている。4本目はまだ真っ白(写真41の背景)。

さらに中庭を進むと、左右にいくつもの蔵のような建物がある。中には昔ながらの床下に瓶を埋めて醸造するところも残されていて、見学できる。昔の人々の絵も展示されていて、興味深い。しかし一方には西ヨーロッパと同じ製法の近代的なタンクや、温度管理で作られている広い工場もあった。大きなタンクに発泡スチロールが厚く巻いてあって、黄色くすすけてきている。ワインの醸成という時間が、見えるような気がした。奥深く、どこまでも大きな樽が並んでいる蔵にはびっくりだ。


写真41・キンズマラウリ2
41

4種類のワインを試飲して、私たちは日本へ持って帰るお土産をカードで買った。買物をしていたら、ちょっと太ったおじさんがいきなり私の腕を引く。びっくりしたが、カメラを見せて一緒に写真に入ってという。工場の前にはおじさんの家族らしい数人が既に並んでいる。底抜けに明るいおじさんと、その奥さんらしい人と子どもたち。彼のカメラに収まった後、私のカメラでも同じように撮って分かれた(写真41)。彼らはアゼルバイジャンからワインを買いに来たそうだ。嬉しそうに手を振って「サンキュー」と言っている。イスラム教徒はお酒を飲まない筈だが、アゼルバイジャンにはイスラム以外の人たちも多いのだろうか。レストランでもワインは当たり前に供されているようだった。


写真42・グレミ町の教会
42 グレミ教会

さてワイナリーで休んだ後、バスは川沿いの道を走った。大きな橋を渡るときに川原を見ると、たくさんの牛たちがのんびり歩いている。草を食べた後、川の水を飲みにくるのだろうか。川原の草も花盛りでのどかな風景だ。

次にバスが止まったのは、シルクロードの真ん中に位置する町という、グレミ町の教会(写真42)。川のほとりの小高い丘にそびえている、赤いレンガのきれいな教会だ。登ってみたい人はどうぞと、少し自由時間をもらって登ってみた。結婚式があるらしく、ウェディングドレスの花嫁さんが、みんなと一緒に崩れかけた階段を上って行く。ウェディングドレスと言っても、最近の日本の結婚式で見慣れたフワ〜ッと、レースがたっぷりのものではない。シンプルで清楚な白いロングドレス、そして白いショールで頭を覆っている。

教会前の広場から町や畑を見おろしてバスに戻った。


今日の宿はテラヴィの町の民宿。最初の案内では、トイレは共同だし、ツアーの仲間が別れて泊まることになるかもしれないということだった。が、最近建て直したそうで、トイレシャワー付きのお部屋、そしてツアーの仲間はみんな一緒とのこと。

宿に着く前にスーパーに寄って、ドルからグルジアの通貨ラリに両替する(1ラリ約58円)。スーパーはその土地の暮らしに直結しているから楽しい。グルジア産のチョコレートをいくつか買った。コーカサスではチョコにドライフルーツなどが入っているものが一般的らしい。様々なフルーツ入りのチョコが並んでいて彩り豊かだった。


どんどん町のはずれの坂道を上って、いったいどこへ行くのだろうと思う頃、今日の宿に着いた。広い庭付きの家々が並ぶ道の、その一軒がテラヴィの民宿だった。入り口が民家のリビングを通って行く造りで、そこだけがいかにも民宿だった。が、廊下の脇に部屋が並ぶ客室の方は、プチホテルと言ってもいいくらい。家の脇に客室部分の玄関ロビーにつながる階段があったが、その下の広い駐車場を改修中で、まだ使えないようだった。そこが使えるようになれば、母屋を通らずに直接客室棟に入れるから、ますますホテルに近くなるだろう。


でもホテルと違う、やっぱり。民宿のいいところは、お料理の手作り感。長い客室棟は横にテラスがついている。私たちの部屋のベッドの頭のところに窓があるが、窓から外を覗くと、そこにテラスがあって、食事のテーブルがセットされている。

窓からとんとん「ご飯ですよ」という感じだ。民宿は坂の上に建っていて、テラスからは広いテラヴィ地方が見渡せる。ずっと向こうにはコーカサスの山並み。手を伸ばせば届きそうなところには、リンゴやサクランボや名前の分からない実がついている木があり、サクランボは重そうに見えるほどたくさん実がついている。

写真43・夕食
43 民宿の料理

テーブルには庭の木の実が盛り上げられている(写真43)。ナスの肉巻き、ロールキャベツ、ポークのバーベキュー、そしてハチャプリ。たっぷりのチーズのハチャプリはふわふわしていておいしい。もちろん自家製のワインをいただきながら・・・。しかも、ベッドはそこに見えているという幸せ。さわやかな空気に包まれ、緑に囲まれた素敵な食事だった。(写真44)

写真44・夕食自家製のワイン
44 民宿にて


余談だが、民宿の最初の入り口、民家の玄関ドアにキーが付いたままになっていて、そこにグルジアの国旗をデザインしたおしゃれなキーホルダーがぶら下がっていた。気に入ったので、その後お土産屋さんを見るたび探したけれど、ついに見つからなかった。残念。




ワインを味わい、トビリシへ・6日目


写真45・テラヴィの朝
45 テラヴィの朝

気持ちよく眠って、朝を迎えた。テラスには朝日が美しく差し込んでいる(写真45)。早く起きたので、近所を散歩してみることにした。ごそごそしている夫を置いて一人で出かける。民宿の前の道は町の一番上なのか、反対側は山で、民家はない。民宿の並びには民家が続いている。緑濃い庭には鶏が歩いている。手作りらしいベンチに座って、鶏を眺めている老婦人もいる。手入れされたバラや百合が満開の庭もある。早起きのツアーの仲間の一人に会い、空気の良さ、花のきれいさを話した。

清々しい空気を夫にもと思い、一度部屋に戻り、二人で出かけた。一人の時より少し遠くまで、町に向かう坂道を降りてみた。石畳の道、仕事に行くのか、少しずつ人々の動きがある。

しばらく歩いて、民宿に戻ることにした。バラや百合のきれいな庭にさしかかったら、おじいさんが手入れしていた。「ガマルチョバト(こんにちは)」と、たった一つ覚えているグルジア語で挨拶し、
「きれいですね、あなたが作ったのですか」と、これは下手な英語で聞くと、
「そうだよ。どれが好き?」
と言う。

写真46・バラとおじさんと
46 バラを切ってくれる

私は好きなピンクのバラを指差し、「みんなきれいだけど、これが好きです」と応えた。
おじいさんはニコニコしながら、家の入り口の方に行ったかと思うと、剪定バサミを持って来て、ぱちんと切ってくれた。そしてもう一輪。びっくりしたけど、とても幸せな気分になって、お礼を言って宿に帰った。日本に持って帰るわけにはいかないけれど、数日の旅のお供になるだろう(写真46)。


宿に帰ると、そろそろ朝食の準備ができている。パンやハム、卵、チーズに、もちろん様々なジャムと蜂蜜。そしてこの日の楽しみは伝統的なグルジアのヨーグルト「マツォーニ」。それは、小さな壷に入って出て来た。まろやかで舌触りがとても良い。満足。

写真47・民宿の朝食、チャチャ
47 民宿の朝食、チャチャ(左中央)

さらに驚いたのが、おしゃれな細長い瓶に入った淡いクリーム色の透明な飲み物、ジュースだよと騙されて(でも、笑っているからバレバレだよね)、味わってみたら、強いお酒!これがチャチャという葡萄の蒸留酒(写真47)。朝からお酒、とびっくりしたが、これはとてもおいしい。もちろんたくさんは無理だが、さわやかで元気が出る飲み物だ。


夫が『鉄道ジャーナル』で仕入れた情報によると、チャチャは民家でそれぞれ作っているので、普通のレストランなどではなかなか飲めないのだそうだ。出かける前から飲んでみたいなぁと言っていたので、チャチャの出現に大喜びだった。


食事の後は名残惜しいが出発。

今回は貧乏旅行だったので、チップはほとんど置けなかったのだが、この民宿には何かお礼がしたくて残っていたドルのコインをありったけ、と言っても2ドルに満たない程度だが、置いた。そして日本から持って行ったおせんべいの小袋を。グルジア文字で『ありがとう』と書いたメモ紙とともに。


今日は、最初にグルジア正教のアラベルディ修道院を訪れる。広々とした緑の平原に立つ修道院は、グルジアで一番高い教会だったそうだが、2005年にトビリシにもっと高い金ぴかのサメバ教会ができたので、2番目になったそう(写真48)。

写真48・アラベルディ修道院
48 アラベルディ修道院

グルジアにキリスト教が伝わったのは古く、聖ニノがやって来た344年にキリスト教を国教とした。アルメニアに次いで世界2番目。キリスト教の詳しい宗派についてはよくわからないが、正教会では世界最初なのだそうだ。十字を切るときはカトリックと逆で、右から左に切るのだという。


アラベルディ修道院は歴史の感じられる趣のある建物で、門となっている建物は修道士たちの生活の場でもある。ミツバチの巣箱がいくつも並び、畑には作物が作られ、自給自足の生活ということが頷ける。教会の中ではミサが続けられ、お祈りの声が美しいポリフォニーとなって外まで流れている。私たちはミサが終わるまでと、しばらく待たされた。しかし、ちょうど日曜日だったため、信者さんたちの行列が後を絶たず、ガイドさんがお願いしても入れてもらえず、諦めることにした。

教会の庭には6、7歳くらいの少年が一人で所在なさそうにしていた。ミサに来た子どもたちは集まって写真を撮ったり、家族と手をつないだりしていたが、その少年は小さめな洗いざらしのセーターにズボンという軽装で、木の柵の内側から、修道士の生活の場を往復したり、自由に動き回っている。

49

私は勝手に修道士と暮らしていると想像したが、彼は話しかけてもにやりとはにかみ笑いをするだけで、応えてくれない。写真だけは撮らせてくれて、最後にバイバイと手を振ると、その時は手を振って応えてくれた(写真49)。

グルジアでは最も有名なアラベルディ修道院に入れなかったことを、仲間たちは残念がっていたが、私は美しいポリフォニーの祈りの声と、はにかみ笑いの少年の笑顔が心に残る場所となった。


写真50・農家のワイン1
50

あまり信心深くない私にとって、教会よりワインが楽しみ。次の目的地はワインを作っている農家だ。ウィリシー村の細い道をぐんぐん入って行くと、木々に囲まれた農園に着く。レンガで作られた古い納屋のような建物に入ると、床にいくつも丸い石の置物のようなものが見える。これが床下に置かれた瓶の蓋で、中には芳醇なワインが眠っている。農家の主人が5年ものの白、15年ものの赤を汲んで、試飲させてくれる。50センチもある細長く焼いたナンのようなパンも供されて、そのパンをちぎって食べながらおいしいワインをいただいた(写真50、51)。

写真51・床下からくみ上げる農家のワイン
51

ここでは自家製ワインを売っているが、床下からくみ上げて売るので、空のペットボトルを用意して行く。事前に添乗員さんからアナウンスされていたので、私たちも日本から持って行ったお茶のペットボトル500mlを空にして洗っておいた。貧乏旅行ではあるが、この日の為に節約してきたので、一本は買える。とてもおいしいけれど、残念ながら一本だけ。お楽しみだから、いいか・・・。

余談だが、ペットボトルはもちろん現地の水用の物でいいのだが、アゼルバイジャンのペットボトルも、グルジアのペットボトルも、ぺこぺこしていてとても薄い。そして、蓋が頼りない。つい日本のものを信用してしまった。これは愛国心とは違うと思うけれど。


農家の庭の隅には七面鳥がいた。珍しくてつい歩く姿を眺めてしまった。

コーカサスに来てから、鶏や猫だけでなく、ガチョウ、羊、牛、馬などが自由に自然の中を歩いている姿をたくさん見た。私が子どもの頃の日本では、まだ田舎で見られた風景だ。あの頃は、犬もヒモをつけずに村の中を歩いていた。

この後、グルジアを回るが、犬がたくさん歩いている姿に出会うことになる。


楽しかったグルジアのワイン産地カヘチ地方にお別れして、いよいよ首都トビリシに向かう。どこかでニーナに会えないかなぁ・・・とは、私の夢。

ニーナ・アナニアシヴィリは、ロシアのボリショイ劇場で活躍していた世界的なバレエ・ダンサー、今は祖国グルジアの国立バレエ団の芸術監督をしている。50代に入ったが、まだまだ素晴らしい踊りを魅せてくれ、昨年も来日して『白鳥の湖』を踊った。

ニーナに会うことはできなくても、トビリシの町の雰囲気を肌で感じ、空気を吸い、あわよくばうわさ話でも聞いて来たいものだと思っていた。現地ガイドのタムタさんはニーナのことを知っていた。しかし、彼女は宗教や歴史のことにはとても詳しかったが、グルジアの芸術分野は少し苦手なのか、あまり詳しい話は聞けなかった。


トビリシについてまず昼食。レストランは広い庭のあるところが多い。木々が茂り、その間に平屋のダイニングがいくつも散らばっている構造。

写真52・チャチャ蒸留機
52 チャチャ蒸留機

マッシュルーム丸ごとのソテーや、赤ピーマンの肉詰めのようなもの、香草が効いていてとてもおいしい。食事をしながら庭の向こうを見ると、錆びた何かの機械がさりげなく置いてある(写真52)。それを見た夫は「チャチャを作る道具だ」と、大喜び。朝いただいたグルジアの蒸留酒チャチャを、昔から農家の人が作ってきた道具なのだそう。

料理はもちろんおいしいが、広い庭にさりげなく面白いものが飾られていて楽しい。私は、カラフルな布をはぎ合わせて作ったような巨大なランプシェードが気に入った。


トビリシの町の散策はまず、ジャナシア国立博物館から始まった。博物館のあるルスタヴェリ大通り沿いにニーナの活躍するオペラ・バレエ劇場があるので、バスで移動するときにジーッと見ていたが、改修工事中とのことで外観も分からなかった。ちょうど博物館の向かいの建物で、現在はバレエ教室などもやっていると、タムタさんは教えてくれた。


さてさて、ニーナには会えなかったが、国立博物館をじっくり見て回った。1階から4階まで、きらびやかな宝物や、歴史的な資料など、そしてソ連時代の占領に係わる展示もあって、とても奥深い場所だった。展示物には東洋を感じるものも多く、まさにシルクロードの中間点なのだと感じた。黄金の装飾品など、美しい宝物は中近東のイメージでもあった。

一通り見て回った後、1階のミュージアムショップでグルジアの地図を買うことにした。カードが使えるところで、絵はがきと地図を買おうと思っていたので、国立のショップなら大丈夫だろうと覗いたのだ。ところが、
「グルジアのマップをください」
と言うと、グルジア語のマップは無いとの答え。現在グルジア全体の地図はロシア語のものしか無いのだそうだ。びっくりだ。申し訳なさそうな店員さんに、ロシア語のものでいいからくださいと言って、買って来たが、とても簡単な地図で、しかも英語だった。ロシア時代に作られたものと言っていたのかも知れない。私の英語力はいい加減・・・?

それにしても、まだまだ戦後なのだという実感。ロシアとグルジアの南オセチア紛争が激しいとのニュースを聞いて心配していたのは、ほんの数年前、2008年の話。ようやく落ちついたのだが、あちこちで争いは続いているのが現実だ。自国の全体地図が国語で印刷できていないというのは、平和日本ぼけしている私には強烈な出来事だった。


それでも今は平和の何歩かを築いているグルジアに気持ちを寄せながら、トビリシの町を歩いた。トビリシは紛争当時も戦闘域から離れていたので、影響はあまり無かったと聞く。しかし、外壁だけが分厚い廃墟の大きなビルや、崩れたままの家などもあちこちに残っているのを、車窓から見た。戦後という言葉の意味を強く感じる景色だった。


私たちが次に向かったのは丘の上に建つメテヒ教会。坂道を上って行くと、ムトゥクヴァリ川に切り立った崖の上に広場があり、騎馬像がそびえている。5世紀後半のイベリア王、ワフタング・ゴルガサリで、トビリシの創設者だそうだ。

この広場からは旧市街が見おろせる。薄いブルーのガラスで覆われた平和の橋も見おろせる。新しい建物はガラスが多く使われていてすぐ分かる。ガラスでできた警察署などもあった。

写真53・グルジアの母の像
53 母の像とゴンドラ

丘のさらに上にはナリカラ要塞と、グルジアの母の像がそびえている。母の像の辺りまでロープウェイが上って行くのが見える。小型の可愛いゴンドラが行き来している(写真53)。


教会の中に入ると、床に枯れ草が撒かれている。香草らしく、いい香りに満ちている。キリストのお祭りとかで、花がいっぱい飾られていて、参拝者も多かった。グルジア正教の教会は、上から見ると正十時の形をしているそうだ。メテヒ教会は創建の5世紀当時のまま変わっていないそうだが、薄いクリーム色の石でできている外観は落ち着いていて、古色蒼然という感じではなかった。香りのいい草の上を歩く感じは初めての経験で、暗い教会の中が神秘的に感じるものだ。


教会を出て坂を下り、ムトゥクヴァリ川の橋を渡り、トビリシの旧市街を少し歩いた。小さな公園や、繁華街の中の道を行くと、奇妙な像がある。手に酒杯を持つその像は宴会部長タマダの像だという。ガイドさんによると、グルジアの宴会はひたすら乾杯を続けるのだそうで、宴会を仕切る人はとても賢い人なのだそうだ。『鉄道ジャーナル』の記事によると、この場合の乾杯は、ただグラスをあわせてお酒を口に含む乾杯ではなくて、一気飲みをするそうで、乾杯の度に杯を空けるのでは大変だ。

ガイドさんの日本語は、時々ベランメェになったりしてちょっとばかり怪しいのだが、この宴会部長というのもどのくらいまでが真実なのか分かりにくかった。タマダの像は決してただ宴会を楽しむ表情ではなかった。どちらかと言うと哲学的な、難しい顔をしている。


写真54・水タバコ
54

宴会部長タマダさんにお別れをしてさらに両側に喫茶店のような店が並ぶ狭い通りを行く。シャルテシ通りというおしゃれな通り。ヨーロッパ風に店の外の通りにもテーブルがあるが、ここには水タバコというのか、あの長いホースの先から吸う不思議なタバコらしきセットが備えてあった(写真54)。私はバレエ『ラ・バヤデール』の主人公が恋人の死を悲しんでアヘンを吸うという設定で見たものだから、どうしてもこのセットは毒物のような気がしてしまう。でも、どの店にも、テーブルにも、カラフルな作りの長いホースがセットしてあるところを見ると、毒性はタバコ程度のものなのだろうな。昼でも、吸っている人もいた。

昔この地を征服したペルシャのなごりなのだろうか、手すりなどの透かし彫りや絨毯、椅子の模様など、エキゾチックな世界だ。


ちょうどシナゴーグに着いたところで、にわか雨に降られた。雨はすぐやみそうだったので、シナゴーグの中で少し休んだ。この後は、グルジアの母の像までバスで行って、歩いて降りてくる予定だったが、空模様がはっきりしなかったので、長い歩行は止めて、シオニ教会を見たあと、バスでトビリシの名の由来の温泉に行くことになった。

雨宿りをさせてもらったシナゴーグはなんだかぼんやり過ごしてしまって記憶がはっきりしない。


まもなく雨がやんだので、シオニ教会をめざした。トビリシの町の中にある6世紀に建てられた教会(写真55)。金ぴかのツミンダ・サメバ教会ができてからはそちらが総本山になったそうだが、長くグルジア正教の総本山だったそうだ。

見ただけで歴史を感じる、石を積み上げた建物で、屋根の薄い緑色がきれいだ。しかし、グルジアの教会は、どの建物も同じような形に見える。四角い質素な石の建物に、丸い搭の上の三角屋根。上から見ると十字の形になっているというから、決まった建て方なのだろう。

ここにも床一面に枯れ草が撒かれていて、いい香りに満ちていた。左奥に入ると、十字架が飾られているが、これはグルジアにキリスト教を伝えたとされる聖ニノの髪で、葡萄の枝を縛って作ったものなのだそう。でも実は、本物は教会の奥にあって、見えるところにはレプリカが飾ってあるのだそうだ。

写真32_5・シオニ教会
55 シオニ教会


ここでの初体験は赤ん坊の洗礼を見たこと。両親に抱かれた半裸の赤ちゃんが洗礼を受けていた。神父様がお祈りをし、大きな釜のようなものにたたえられた水をかける。もちろん赤ちゃんはびっくりして大泣き。なんだか、あまり嬉しくない宗教行事。信じるからできるのだな。夫は「厳しい現実を赤ん坊のうちから知らせるということなのかもしれないね」などと、キリスト教徒が聞いたら怒りそうな感想を言っていた。

教会は坂の下の広場にあって、上を見ると、お土産屋さんが並んでいる。博物館で絵はがきを買い損ねたので、ちょっとした自由時間に、階段を急いで上ってお土産屋さんを覗いた。カードが使える。絵はがきや、マグネットを買う。

お土産屋さんを出て振り返ると、シオニ教会の全体がとても美しく見えた。慌てるなんとかはもらいが少ないと言うが、今回はあわてて階段を上って、大きな貰い物だった。


シオニ教会の前は先ほどの雨に洗われて光っている。幸い雨は小降りになって落ち着きそうだ。夕食前にトビリシの名前の由来になったという、温泉ハマムに行く。トビリシは温かい地という意味なのだそうだ。温泉は硫黄泉と聞いたが、あまり硫黄臭は強くなかった。広場の中央に丸屋根の建物がボコボコと続き、その奥にはホテルのような大きな建物が建っている(写真56)。温泉広場の周りには小さな土産店が並んでいるが、温泉客らしき姿はあまり見えない。

写真56・ハマム
56 ハマム

昔は庶民も入れたが、現在は高価で一般の人はあまり利用しないと、ガイドさんが言っていた。円天井の浴場は個室浴室なのだそうだ。土産店をいくつか覗いて、グルジアの国旗をデザインしたマグネットや、キャップを買った。カードが使えるところは嬉しい。


温泉場を後にして一旦ホテルに入る。そして再びバスに乗ってレストランに行く。バスはぐんぐん山道を登って行く。途中緑の中にとんがり屋根の教会が見えた。あれはムタツミンダ山727mの中腹にあるという聖ダビデ教会だろうか。それから少し走ってレストランに着いた。山頂のレストランの前からはトビリシの町が見おろせる。

メニューはグルジアのハチャプリと、チキンサラダや、チキンガーリックソテーなど。キノコのソテーはとてもおいしかった。デザートはフルーツがたくさんに、トルココーヒーをいただいた。ワインが安かったので、白ワインをプラスしてちょっと豪華に。

帰りは明かりのともる街を見下ろしながらのドライブになった。市街地の明かりの向こうの高台に、金ぴかのツミンダ・サメバ教会が見える。

この日は雨の為にグルジアの母の像の足元には行かなかったが、どこからでもよく見えた。大きな母の立像は片手に剣を、片手に杯を持っている。勇気ある闘いはするが、同胞はワインでもてなすことを表しているそうだ。


明日はいよいよコーカサス山地の奥へ入って行く。少しの興奮をお供にベッドに入った。



コーカサスの山ふところへ・7日目


今日はグルジア軍用道路を通ってコーカサス山地を北上し、ロシア国境近くの町まで行く。途中2395mにある十字架峠に寄って行く。寒いかもしれないので、上着を用意する。


しかし、まずめざすのはトビリシから西へ走って、ゴリの町。

ゴリの町まで走る道路の脇には畑や牧草地が広がり、みごとな花々の饗宴だった。草花の赤や白、黄色、紫、道にかぶさるような黄金の花の枝、時間の経つのを忘れる。

途中トビリシから少し走った近郊に、広い集合住宅地域があった。そこは古くから続く農村の風景とは違う、急遽作られた巨大な集合住宅というたたずまい。同じ企画の白い壁に赤い屋根の家が、規則正しくずらりと並んでいる。日本の災害時の避難住宅に似ているかもしれない。

57

ただ緑の自然の中に、どこまでも広い。バスで通り過ぎるだけだからあっというまにうしろにすぎていくのだが・・・。

夫は『鉄道ジャーナル』で仕入れていた情報で、この建物の存在を知っていた。やはりそこは難民住宅で、ロシアに占領されている南オセチア自治区やアブハジア自治共和国から逃れて来た人々が住んでいるのだという(写真57)。トビリシは戦火を逃れたと聞いていたが、2008年の紛争時には、わずか55kmの地点までロシア軍が迫ったらしい。

難民住宅の異様な景観を見ていると、やはり戦争は嫌だということが胸に迫ってくる。ここに住む人たちにも、自然な伝統的な暮らしのスタイルがあるだろう。そういう自分たちの暮らしの自然な姿を、他からの圧力で変えざるを得ないということは、悲しく大変なことだ。


ゴリの町に入ったので、バスを降りるかと思ったら、狭い道をくねくねと通り抜け、再び荒野の中を少し走った。川沿いにあるゴリの町を抜けて対岸に渡るようだ。対岸には民家はなく、岩山がそびえている。

ここがめざすウプリスツィヘ穴居住居跡。全く予備知識がなかったが、ここは感動的だった。目に映る風景としても、人がかつて暮らしていた歴史的なものとしても・・・。

この岩山には、紀元前1世紀頃から人が住んでいたそうだ。13世紀にモンゴルの攻撃でダメージを受けた後は、17世紀まで修道士たちが住んでいたという。

写真58・ウプリスツィヘ穴居住居跡1
58

かなり岩山を登って行くと、岩を削って作った住まいの跡、ホールの跡、ワイン貯蔵庫の跡まである。今では野良犬が5、6匹出迎えてくれるのみ。丘の高いところに教会があるが、これは16世紀に建てられたもの。左奥に登ると、切り立った崖の上に出て、遠くにゴリの町が見渡せる(写真58、59)。美しく蛇行したムクトヴァリ川の向こうの優しい町、ゴリ。川のこちら側には険しい河岸段丘の岩場とその上に緑の草原がひろがっている。

写真59・ウプリスツィヘ穴居住居跡2
59


足元に気をつけて岩山を降り、駐車場に戻る。駐車場には野生の馬が3頭歩いていた。子馬を連れた大きな雌馬と、まだ若いらしい小型の雄馬。雄馬が交尾しようと果敢に雌に迫っている。しかし簡単に足蹴にされて、すごすご遠巻きに歩いている。その姿が、妙に哀愁漂っていた。


バスに乗り込んで、美しい緑の中をゴリの町に向かう。岩山から見たムクトヴァリ川沿いに広がる優しい町。

こんな優しい町からスターリンがうまれたとは!

そう、次に行くのはスターリン博物館。さっき通り過ぎて来たゴリの町に引き返す。道路に面したところに重々しい緑の客車が展示してあったが、そこがスターリン博物館だった。『スターリン』というのは鉄の人という呼び名で、彼の本名はグルジア語の長い名前ヨシフ・ヴィサリノヴィッチ・ジュヴシヴィリだそう。

彼は最後にたくさんの悲劇を作ったので、世界的な悪人のように言われているが、グルジアの人たち、特にゴリの人たちにとっては英雄なのだそうだ。庭に展示してあった移動用の客車は彼が設計したものだそうで、中にはキッチンはもちろん、お風呂まで作ってあった。

彼の生家も残っていて、覗いてみたが、小さな民家だ。観光客がとてもたくさんいて、狭い部屋に入るのは大変だった。


スターリン博物館を出て少し走り、湖に面したレストランで昼食。湖の名は聞かなかったが、森の中に広がる湖の湖面まで張り出したテラスでの食事だ。水の色が日本の山の中のように澄んでいない。天候のせいなのか、水の性質のせいなのか分からないが、濃い深緑に濁っている。

テラスのテーブルの下には、大きな犬がのっそり座っている。私たちの足元を歩いたり、ごろんと寝そべったりして、時々こちらを見上げる。おこぼれを待っているのだろう。昼食はベニス(店の名前)特製サラダと、ゾラヴィと呼ばれるポークのバーベキュー。そして川魚の丸ごとグリルが出て来た。ワインも安かったのでいただいた。グルジアではワインが付いて来たり、安かったりして、嬉しい。


さて、腹ごしらえをして、いよいよグルジア軍用道路を登って行く。ほとんどないコーカサスの観光案内だが、軍用道路については記事がたくさんあった。そのほとんどが悪路だから酔い止めを用意した方が良いとのアドヴァイス。


まずは、途中のアナヌリ教会に寄る。ここはトビリシの水源となっているジンヴァリ貯水湖の湖岸にあり、城壁で囲まれた17世紀の建物。

途中の道路脇でも見かけたが、駐車場の脇に露天の小さなお店があった。羊の毛を使った、ふわふわの雪玉のような帽子がたくさんかけられていて、とても可愛い。が、とても高価でもある。かぶってみたかったけれど、撮影料2€だったかの表示が出ていて諦めた。観光者たちはみんな、買うわけにはいかないけれど、かぶってみたいと思うのだろうと、おかしかった。

€(ユーロ)は、もちろんヨーロッパEUの通貨で、グルジアの通貨ラリとは違う。コーカサスではそれぞれの国の通貨があるが、アメリカドルが使えるところが多く、一部ユーロも使われているようだ。家に少し眠っているユーロを思い出し、持ってくれば良かったなぁ、などと、貧乏旅行者の悲哀を感じた。

山道のような道をたどり、教会の敷地に入ると、壁に大きな葡萄と十字架をモチーフにした模様が描かれている。これまで見てきた教会では外の壁に模様が描かれているところは無かったように思う。内部はきらびやかなイコンなどがたくさん飾ってあったが・・・。

アナヌリ協会の内部はあまりきらびやかではなく、シンプルだった。城壁の中をぐるりと回った後、道路に戻り、ジンヴァリ湖に架かる橋の上まで行ってみた。そこからはコーカサスの山を遠景に、湖の上に淡いクリーム色の姿ですっきりと立つ、アナヌリ教会の全景が見えた。

ちょうど夫が道路に出て来たので、その素晴らしい景色の中に、点のように手を振る夫を写し込んで、再びバスに戻った(写真60)。

写真34_2・アナヌリ教会
60 アナヌリ教会


悪路についての覚悟はできていたが、道路はほとんど舗装されていて、しかも周りの雄大な景色に圧倒されて、酔うどころではなかった。いや、車には。風景に酔いしれているうちに、グダウリに着いた。スキーリゾート地だそうで、ここにはホテルもある。

グダウリの、別荘やホテルのような建物がぽつぽつ見えて来た頃には、山の向こうに雪をいただくコーカサスの高山も見えて来て、私はワクワクしていた。

けれど、ここまで登ってくる道の美しさはこれまでに見たことが無い。険しい渓谷を下に見ながらぐいぐい登る。右を見れば山側の山麓に広がる明るい緑の大草原と、時々白い大きな花が咲くかのように点在する牛や羊の群れ。左を見おろせば、渓谷を挟んだ向こうにどこまでも続く黄緑と緑のパノラマ(写真61)。人間の痕跡を示すものは渓谷の端に忘れたように置かれた小さな村の集落。それすらも大きな自然の中にとけ込んで、ほっとする。

写真61・緑のパノラマ
61

バスの車窓から黄緑に見えるのは一面のお花畑だった。白と黄色の可憐な花が今を盛りと咲き競っていて、その群落によって白っぽい緑になったり、クリーム色の強い緑になったりして見えているのだった。向こうの山から流れ落ちる渓谷が大地を削り、大きな川にそそいで行く様子がジオラマのように見て取れる。自然の大きさや、大地の歴史などを頭の一方では受け止め感動し、実際はただただ感嘆の声を上げながら眺め続けていた。


グダウリにはスーパーマーケットがあって、開店していたので、ここでトイレ休憩。事前のアナウンスでは青空トイレかもしれないとのことだったが、スーパーで買物もし、トイレも借りることができたので、青空トイレは経験しなかった。

日本でも色々な山を登っているので、青空トイレは怖くないが、この雄大な自然の中では自分がちっぽけに見えるだろうな。


さて、グダウリからは5000m級のコーカサスの山々を見ながら2000mの高地を走る。道路にはガードレールはなく、スリル満点。まもなく、ロシア・グルジア友好記念碑の壁に着いた。帝政ロシアが東グルジアのカルトリ・カヘディア王国を保護した200年記念に1983年に建設されたもの。これは資料の受け売り。

写真62・カズベキ山と犬
62

このカラフルな壁画が描かれた建造物を見ると、いつもの私なら自然を壊すと思うだろう。しかし、見える自然があまりに大きいので、大地の端っこに突き出した展望台となっている壁に違和感がなかった。壁もドッカンと大きくて、ちまちましていないからか。

大きな円形の壁まで坂を上り、中に立つ。そこからは大コーカサスの山が見渡せる。白い大きな犬がのんびり歩いたり、座ったりしていて、この景色を一人占め(ン?一犬占め?)しているぞと言うような感じだった(写真62、63)。


写真63・カズベキ手前の山
63 コーカサスの山

少し雲が出て来たので、心配しながら進み、軍用道路の最高地点、標高2395mにある十字架峠に着いた。幸い雨は落ちてこず、十字架峠、現地ではジュヴァリ峠と呼ぶ峠を歩いた。11世紀のグルジア王ダヴィッド4世が、イスラムの北オセチアとの境を示す為に、十字架を建てたのだそうだ。ここからはキリスト教の地だよと、境界を示したということなのだろう。残念ながら、今その十字架の現物は残っていない。写真で見ると大きい細い十字架だったが、今は頑丈な柱のような十字架が建てられている。標高2395mの碑も建てられているが、グルジア文字ではなかった。ロシア語のような気がしたが、確かではない。


再び雄大な景色を見ながら、今度はカズベキの町に向かって下って行く。町に近づくと、渓谷は広い川になってくる。道は川沿いに走り、脇には電信柱が立っている。ヨーロッパの町を旅していると、電線のない空がうらやましいのだが、コーカサスでは時々見かけた。日本の頑丈な電信柱に比べると、細くて低くて頼りない。今にも倒れそうなものもある。カズベキは冬になると、交通が遮断され、孤立してしまうとガイドさんが話していたが、大丈夫なのだろうか。

64

カズベキの町を越えて、少し高台に登ったところにあるホテルは、大きなリゾートホテル。玄関を入って建物を抜けるとホテルの長さいっぱいの広いテラスがあり、コーカサスの山の裾に広がるカズベキの町が見渡せる。

遠くの山は雲に隠れていたが、目の前の山の頂上に小さく教会の建物が見えている。明日登ることになっているツミンダ・サメバ教会だ。見ていると、時々雲が流れ、向こうに白い頂が現れる。カズベキ山5047mの美しい三角の頂(写真64)。

写真65・ホテルからのサメバ教会
65


部屋に入ると、部屋のテラスも立派だ。しかし外は結構寒い。窓側は全面ガラスと言ってもよく、ベッドに横になりながら、大パノラマを同じように見ることができる。なんという贅沢だろう。

ホテルのレストランでバイキングの夕食を食べた後、部屋に戻り、カヘチ地方の農家でペットボトルにつめてもらって来た赤ワインを楽しんだ。だんだん暮れて行く大コーカサスの最高のロケーションの中で(写真65)。



山上の教会、古都の教会・8日目


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朝眼がさめると、雷と激しい雨。今日は山に登るのに・・・と、がっかりしたが、雨雲はぐんぐん流れて行って、朝食の頃には晴れてきた(写真66、67)。白い雲はあるが、数時間前の激しい雨に比べればなんのその、だ。カズベキ山の三角の頂も見える。

写真67・朝のカズベキ山2
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朝食もホテルでのバイキングだが、ここの蜂蜜は、巣をそのまま蜂蜜漬けにしたようなものがドンと置いてあった。アゼルバイジャンのバザールで売っているという情報だったが、見つけられず、珍しいものなので食べてみたいと思っていたものだ。

好みはいろいろあるが、ツアーの仲間も同じように感じていたようで、味見をして感想を言い合っていた。巣の部分は少し口に残るが味は絶妙。


食後、私たちツアーの客9人と添乗員さん、現地ガイドさんは、3台の4WD車に分乗して山道に向かった。この3台の車はすべて日本車だった。現地ガイドのタムタさんは日本車なら安心と言っていた。

山道に入ろうとする、カズベキの外れには警察官が数人立っている。パトカーも停めてある。車は一回止められて、運転手は警察官と何か話をしていたが、すぐ走り始めた。

昨日軍用道路を降りて来た途中でやはり一回バスが止められた。どこまで行くのかという質問だったらしい。この道はロシアとの国境の道だから警備の為かと思っていた。ところが、カズベキの先の橋を架け替え工事中で、通行止めになっているそうだ。それで、道路は比較的空いていたのかもしれない。現在、私たちの泊まったカズベキまでしか行けないのだそうだ。遠くから来てロシアに行こうとしている人たちの中には、通行止めが解除になるのを待っている人もいるとか。昔のキャラバンと同じだと思った。


私たちは無事に山道に入って行く。初めは、後ろに見おろすカズベキの村の美しさ、一面のお花畑の中にいる牛や馬などに眼を奪われ、ゴトゴト進む山道も楽しんでいた。

ところが、だんだんすごい道になってきた。土が大きくえぐれたところに、朝まで降っていた雨が溜まって、池になっている。崖に向かって大きくえぐれている。私と夫が乗った車は最後尾を走っているが、前の車が倒れるかと思うほど傾いたり、水の中に沈み込んだりするのを見ながら、ワァーと叫んでいた。運転手さんはとっても大きな人で、多分胴の太さは私の3倍以上あると思われるが、全く表情の変化なく、淡々と運転している。斜め後ろから時々盗み見ていたが、ちょっと怖いくらいの、じーっと前を見つめる表情が頼もしく感じた。

後で聞いたところによると、この日の道路状況はまだ良い方で、一週間前はもっとすごかったそうだ。これよりすごい状況でも、車は走れるのだということに驚いた。


写真68・ツミンダ・サメバ教会1
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かなりのスリル感満載の山道も、ついに空が近くなって、突然広い草原に飛び出した。牧草地なのだろうか、こんなに高いところまで。小さな花々の咲き乱れる草原の向こうに教会が見える。教会の向こうには大コーカサスの山が青い。頂は雪だ(写真68、69)。

写真69・ツミンダ・サメバ教会2
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サメバ教会まではもうひと登りなのだが、大草原を歩いて登りたいと声が上がり、ここからは車でも歩きでも良いことになった。もちろん、私と夫は歩いた。聞けば、信仰の為に登る人はもちろん、神父様もふもとから歩いて登ってくるとか・・・。

私も時間さえあれば、あの美しいカズベキの家々を見おろしながら、歩いて登りたかったのだ。だからせめて最後のひと登りでも、自分の足で登れることが嬉しかった。だが、ツアーの中には足が弱く杖をついた人もいるので、その人たちは車で安全に行けるのが良いだろう。


■ Video:カズベキ山とツミンダ・サメバ教会 ■

写真70・高山植物
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サメバ教会の入り口までの坂道には色とりどりの高山植物が満開だった(写真70)。14世紀の建物だという2200mの山頂に建つ教会は、重々しい赤い石でできている。教会の裏に回ると、カズベキの町が足元に見おろせる。町の向こうの高台に横に長い建物が見える。昨日泊まったホテルだ。5000m級の高山に囲まれた緑の盆地、なんて美しいのだろう。


しばらく見とれていると、近くに聞いたことがある言葉を話している男女がいた。ツアーの仲間ではない。日本からですか?向こうから聞いて来た。珍しいなぁと、嬉しそう。イランから旅を初めてアルメニア、グルジアと回って来たのだそうだ。二人だけで、すごいなぁ。こういう若者を見ると、心から応援したくなる。少し話をして分かれた。


教会に寄る度に感じていたが、ここでも扉の厚さに驚いた。こんなに厚い扉で何を守ろうとしているのだろう。信仰の心には、扉も門も、本当は必要ないのだろうと思うのだが。


コーカサスの山の空気を満喫して、再び恐ろしき山道を下った。花の中にたたずむ馬や、小さな村落の外れに集う村の人たち、みんな空気にとけ込んでいるなぁ。何を話しているのかな?今日も観光客が来ているねぇ、などと話しているのだろうか。


カズベキの中心地に戻ると、そこからは昨日のバスに乗り換えだ。詩人アレクサンドル・カズベキの像が立つ広場に、バスが待っていた。見知った軍用道路をもう一度、今度はトビリシに向かって走る。グダウリのスーパーでトイレ休憩をして、後は、古都ムツヘタまで一気に走る。


昼食のレストランは、ムクトヴァリ川沿いにあるホテルのレストラン。ムクトヴァリ川はトルコ語で言うとクラ川になり、日本の地図ではクラ川となっている。川に張り出したテラスに案内される。川面はとても濁っている。流れが速い。

水はきれいではなかったが、料理はおいしい。サラダ、ハチャプリ、牛肉の煮込み、マッシュルームなど。レストランの端のテーブルで女性二人が食事をしていた。ちょうど私の位置から正面だったので、見るともなく見ていた。大皿に盛り上げられた、肉がたっぷりのピラフのような食べ物を、おしゃべりしながらきれいに平らげていた。すごい。パワフルな訳だと思ってしまった。


食後はまず、小高い丘の上にあるジュワリ教会に行く。現地ガイドのタムタさん曰く
「ムツヘタの神父様はみんな優しいです」。
中で写真も撮っていいそうだ。グルジア正教の教会は結構厳しいところが多かったが、ムツヘタは優しいのだそうだ。

ムツヘタは紀元前5世紀から4世紀までイベリア王国の首都として栄えた町。教会を含むその町並みが、世界遺産に指定されている。

写真71・ムツヘタ旧市街
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坂道を上ってジュワリ教会の前に立つと、大きく湾曲するムトゥクヴァリ川沿いに広がる、ムツヘタの旧市街を見おろすことができる。ここはムトクヴァリ川とアラグヴィ川とが交わるところ、足元に二つの川が合流しているのが見える(写真71)。

写真72・結婚式
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ムツヘタの町を見下ろして写真を撮っていると、ウェディングドレスの女性が、付き添いらしい赤いロングドレスの女性と何か話しながら、教会に入って行った。私も急いで中に入る。教会の内部は質素な作りで、十字架の前にいくつものロウソクが立てられ、炎が灯っていた。まさに結婚式を挙げようとするところで、私たちもしばし参列者になって、儀式を見守った。緑のガウンをまとった神父様が、細長いロウソクを持った花婿、花嫁、付き添いらしき男女二人に向かって話している(写真72)。

言葉は分からないけれど、きっと「あなたは病めるときも健やかなるときも、この人を愛しますか?」って言っているのだろう。これは映画やテレビの受け売りかな?

この結婚式には小さな参列者がたくさんいて、グルジアの民族衣装を着た男の子たちや、白いひらひらのドレスを着た女の子たちが、遠巻きに見ている私たちと一緒に、式を見ていた(写真73)。

写真73・結婚式の子供達
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あまり時間がない私たちは式の途中で教会を出たので、あの小さな子どもたちに何かお役目があったのかは知らない。


山を下りて、今度はムツヘタの町の中に入って行く。広い駐車場にバスを停めて、そこからは歩いてスヴェティ・ツホヴェリ教会に行く。バスを降りて歩き出すと、旅行者のような服装の若者が大きなカメラをこちらに向けてバシバシ撮っている。私たち日本人は珍しいようで、行く先々で「写真に入って」などと言われてきたが、これほど大胆に勝手に撮りまくっているのは初めてだ。それで、私は自分のカメラを出して、わざとらしく彼に向けた。驚いたことに、彼は顔の前のカメラをおろして笑顔でこっちを向き「サンキュー」と言う。面白いなぁ。


びっしりとお土産屋さんが並ぶ、狭い通りを進んで行く。ムツヘタの古い町並みだ。

向こうから馬車が来るのでよけたら、まだ子どもの馭者が得意そうに馬を操っている。馬車の中には二組の新郎新婦。にこやかに周囲に笑顔を振りまいて行く。幸せのお裾分けというわけ。


細い道の角をいくつか曲がると、右の塀の向こうに大きな教会が見えて来た。グルジアで最古の教会と言われるスヴェティ・ツホヴェリ教会だ。5世紀頃から木造の教会があったそう。グルジアにキリスト教を伝えた聖ニノが建てたと言われている。そしてこの教会の名の意味は『命を与える柱』だそうだが、そこには言い伝えがある。

キリストが刑に処された時、エルサレムに居合わせた男性がキリストの上衣の一部を持ち帰り、妹に渡すと、妹は喜びのあまりそれを握りしめたまま死んでしまう。上衣は妹と一緒に埋められたが、そこから杉の木が育った。聖ニノがこの教会を建てるために木は切られたが、病を癒す樹液が流れ出たことからこの名前になったそうだ。そして、キリストの上衣の一部が埋められているということも伝えられている。


グルッと回ってきて、角を曲がると門があった。門の中を通り抜けようとすると、黒っぽい服を着た老女たちが座っていて、手を出す。教会や寺の前にはこのような人の姿を見ることがある。信心深い人は慈悲の心を持っているということなのだろうか。見るともなく見ていると、お参りに来た、いやミサに来たと言うべきか、人たちの中には老女の手にコインを置いて行く人もいる。

芝居のような大仰な動きも声もなく、淡々と歩きながら行われる。時折、子どもにコインを渡して、その役目をさせていることがあるが、私はあまり好きではない。ヨーロッパは身分の差が当たり前だというから、教育の一環なのだろうか。

日本でも、募金などに子どもから入れさせていることがある。自分が誰かの役に立つのは嬉しいことだが、お金を与えるのは稼いでいる人がすることだろう。子どもに感じてほしければ、親の行動の背中を見せれば良いのではないだろうか。子どもができるとしたら、身体を使っての、ちょっとしたお手伝いかと思う。

神社仏閣でお賽銭を上げる時は親の金を使ってもあまり気にならない。なぜかと考えたが、それは他者に対して自分の役割を示す行為とは本質的に異なるからだろうと、自分なりに解釈することにした。


さて、寄り道はこのくらいにして、私たちは門の中に入った。これまで見てきたいくつかの教会とは違い、周囲には自然があまりない。町の中の平らな土地に建っている。遠く塀に囲まれた広々とした土地に、大きいが質素な教会がそびえている。

グルジアで最古の教会とは言うものの、現在の建物は11世紀に再建されたものだそうだ。この地に最初に建てられていたのは、木造の教会だった。

途中馬車の中でも花嫁さんを見たが、門の内側にもウェディングドレスの女性がいた。今日は日が良いのだろうか。

私たちはスカーフをかぶり、入り口で貸してくれるロングスカートを巻き付け、教会に入った。イスラム教のモスクに入る時にスカーフが必要だということは、これまでの知識で何となく分かっていた。ところが、グルジア正教の教会でも、スカーフが必要だった。厳しいところではスカートも必要で、だいたい門のところにたくさんスカーフや巻きスカートが置いてあった。ムツヘタの神父様は優しく、写真撮影は大丈夫だが、スカーフ、スカートは必要だった。


写真74・三三九度
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内部は広い。グルジア正教の教会はどこも同じような構造になっているが、窓が少ないので、内部はほの暗い。十字架やフレスコ画が見える。祭壇の近くにはロウソクが灯されているので明るい。

ここでも、結婚式が挙げられていた。赤いガウンの神父様が新郎新婦とその両脇の付添人に向かい合い、儀式が進められている。新郎新婦はそれぞれ頭に円形の金の冠をかぶっている。手には細長いロウソクを持っていて、ジュワリ教会と同じだった。そして、驚いたのは金の小さなカップに注いだワインを新郎新婦に少しずつ飲ませる儀式、まるで日本の三三九度。びっくりして、カメラを向けたので、3回だったか、正確には分からない(写真74)。

それから、神父様の後を二人が並び、彼らの冠を後ろから持ち上げ支えながら付添の人が従い、祭壇の周りを三回歩いて回った。祭壇というのか、説教台のようなテーブルのようなものだったが。

その後は再び一列に祭壇の前に並び、神父様のお話を聞く。言葉が分からないので、私と夫はそこまで見たあとは、教会の外を歩いてみることにした。


教会をぐるりと一回りして、何もない敷地を後にした。門を出て、駐車場までの途中の土産物店で、カードが使えるお店を探した。見つけた小さなお店で、孫のお土産にTシャツを買った。きれいな石を組み合わせて花のように作ったネックレスも、娘たちにと買い込んだ。

グルジアのお菓子という、果物をペースト状にして作る、細長いロウソクのような形の物が魅力的だったが、こういう手作りの小物を売る店はカードが使えない。一本が結構大きくて、お値段もまぁまぁするので、残念だが、諦めた。

でも作り方や見かけからは、アゼルバイジャンのバザーで味わった、ゾハルと同じようなものらしい。


写真75・ヒンカリを食べたレストラン
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駐車場に戻ってバスに乗り、ホテルに向かう。一昨日と同じホテル。荷物を置いてすぐもう一度バスに乗り、レストランに向かう。竹のような柵で囲まれた広い敷地のレストラン(写真75)。幾棟も屋根が続いている。しかし、レストランの脇は舗装されていないところに水が溜まったり、砂利と泥が流れていたりして歩きにくい。バスが止まったところから、レストランの入り口まで行く道路にはびっしり車が止まっているので、よけながら歩いて行く。

入ったところは高い天井まで木組みのコテージのような建物。今日のお楽しみはヒンカリ。グルジアの食べ物で美味しいのはヒンカリとハチャプリとマツォーニ、事前に仕入れた情報で、他の二品はもう食べた。残るはヒンカリ。


どこでも出た野菜を多用したサラダ、スープ、パン、そしてハチャプリ。ここで出たケバブは薄い皮に巻いてある。面白い。そしてお楽しみのヒンカリ、とてもジューシーで美味しかった。私たちツアー仲間はこのヒンカリを『大ロンポウ』と名付けた。小籠包ならぬ、大籠包というわけ。厚い皮に包まれた大きなヒンカリは食べごたえがあったが、中の汁が口の中に広がると、満足感一杯になる(写真76)。大きいので私は一個がやっとだったが、気に入ったという人は3個も食べたと嬉しそうに話していた。

写真76・ヒンカリ
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食後はいつもと同じ山盛りのフルーツと、トルココーヒー。飲み物はいくつかの中からチョイスできるので、日本茶が選べるという日もあった。でも、飲んだ人に聞くと日本茶という名前の別のものだそうだ。美味しくなかったようで、その人も次からは頼まなかった。

普通はコーヒー、トルココーヒーの砂糖付きと砂糖なし、チャイ(ティー)、そしてジュースのような物などから選べるようになっている。

何はともあれ、期待通りの美味しさに満足して、私たちはホテルに向かった。


もう明日はグルジアにお別れする日となってしまった。

ホテルの入り口で、現地ガイドのタムタさんにハガキの投函をお願いする。事前にお願いしておいたので、切手の金額を調べてくれていた。グルジアは郵便事情があまり良くないそうだ。切手の購入も、自由時間のない観光ツアー客には難しい。それで、どこかで切手が買えないか聞いたところ、タムタさんが後で貼って投函してくれることになった。私たちはお金がないので、チップをあげられず、それでも残った小銭を少し足して、日本から持って行ったおせんべいの袋を添えてお願いした。

後日談だが、もちろんハガキは大変な郵便事情の中を運ばれ、ちゃんと日本まで届いた。



グルジアからアルメニアへ・9日目


トビリシのホテルで目覚め、荷物の整理をする。今日は国境を越えて、アルメニアに向かう。

何度も通ったトビリシの町の中を抜けて、バスは国境に向かう。道路脇が美術館のようになっているムトゥクヴァリ川沿いの青空美術品市、ガラス張りの新しい平和の橋や、警察署。

窓外の景色をゆっくり目に焼き付けながら、トビリシに別れを告げる。


町を外れると、しばらく葡萄畑や集落が続く。時々線路を越えるが、線路上を、荷物を背負った人がゆっくり歩いているのを見かけた。なんだか、懐かしい風景だ。そういえば自転車をあまり見ない。一回だけ乗っている人を見た。馬車はたくさん走っていた。

私が子どもの頃は、信濃川を渡る橋があまりなく、鉄道の鉄橋を歩いて渡っていた。列車が通過する時は端の方に掴まって轟音をやり過ごす。とても小さい頃の記憶なので、あまり細かいことは正確に覚えていないが、そういう時代だった。

私の叔父が、ずいぶん前に話してくれたことがあった。叔父が東京に働きに出るとき、お土産に持たせる米俵1俵を、私の父が隣村にある駅まで背中に担いで運んでくれたという。その時、父は線路の上を歩いて行ったとか・・・。父も叔父も、今は兄弟そろって空の上で、世の中の移り変わりに眼を見開いているだろう。


今、グルジアで、線路の上を歩く人を見て、田舎ののどかな風景と感じてしまうのは、自分の生い立ちのせいかな。

線路はまっすぐ目的地に向かって作られているうえ、余分なでこぼこや邪魔な草もないので、近道になるのではないだろうか。もちろん、歩く場合に限っての話だけれど。そして、電車が来るのは数時間に1本というような場合だけれど・・・。


しばらく走ってアルメニアに近づくにつれて、豊かな緑色の大地は薄茶色の荒野に変化していく。森や林も見えなくなって、地平線は茶色を濃くしていく。緩やかに波打って続く大地、葡萄畑もなくなって、麦畑が広がる。

岩山が近くなってきた頃、アルメニアとの国境に着いた。手続きはアゼルバイジャンからグルジアへ移動した時とほぼ同じ。今回は書類が無くなることもなく、私たちはタムタさんと、数日共にした運転手のザザさんにお別れをし、グルジアの出国審査所を出た。スーツケースを転がしながら、アルメニアの入国審査の建物をめざして歩き始めると、右手の岩山の上に大きく『GEORGIA』の文字が浮かび、見送っていた。


アルメニアの入国審査に並ぶと、脇から若い女性が審査官に何か言っている。そして、私たちの脇を抜けるようにして先に入国していった。聞くところによると、「向こうで子どもが待っているから早く通して」と言ったらしい。このセリフはいつでもどこでも、有効手形なんだねと、感心してしまった。私たちが言ってもダメだよねぇ・・・と、笑いあう。さほど待たされずにアルメニアの地を踏む。そこには若い元気な女性が待っていて「サチコです、よろしく」と挨拶された。

えっ?どう見ても異国人、多分アルメニア人。サチコさんは、大の親日家で、日本語を勉強しているとのこと。まだガイドとしては半人前なので、男性の英語ガイド、アンドレイさんがお供に来ている。見習いガイドさんなのだが、元気でとても明るいので、人気者になるらしい。日本から来た人にサチコという名をもらったとか。アルメニア語の本名は長く、日本人には難しい発音なので、日本人ツアーのガイドのときはサチコと呼んでもらっているとのこと。


バスに乗って運転手さんの紹介もあった。その瞬間、バスの中は笑いの渦に包まれた。運転手さんの名前はハコブさん!ぴったり。

余談だが、このハコブさんも、とても明るくて楽しい人だということが次第に分かってきて、一緒に食事のテーブルにつくのを楽しみにされるようになる。


それは先の話で、バスはグルジアとの国境から南下して、さっそく世界遺産の一部ハフプトの修道院群へ向かう。途中深い渓谷沿いを走り、対岸の丘の上に城が見えたり、大きな鉱山の煙突から煙が上るのを見たりしてバスは進んだ。

鉱山の名前は聞きそびれたが、日本の援助があって活動していると、サチコさんは嬉しそうに紹介してくれた。


写真77・ハフプトの修道院群
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渓谷沿いの道から、急な山道を登り始めた。日光のいろは坂も顔負けのすごいジグザクの急登、というのもハフプトという名前は『落とし穴の教会』という恐ろしいもので、切り立った崖をぐんぐん登る。上り詰めたところは草ぼうぼうの丘の上。その草ぼうぼうの中に、崩れかけた修道院が点在している。976年に建てられたそうだ(写真77)。


ここで、トイレ休憩ということだった。修道院の脇を奥に進むと、小さな小屋があって、そこに年配の婦人がいる。彼女にチップを払って使用するということだが、アルメニアの小銭をみんな持っていなかったので、ガイドのサチコさんが用立ててくれた。チップはアルメニア通貨で一人100ドラム、日本円にすると、約20円に当たる。


アルメニアの教会は決まった建て方になっているそうだ。グルジアでは上から見ると十字の形だったが、アルメニアは、内部は十字になっているが、上から見ると四角形なのだそうだ。祭壇は東にあり、内部中央はドームになっている。四角の建物の内部を十字に区切ると四方に空間ができるが、祭壇の両脇は普通神父様たちの部屋で、入り口側の両脇の部屋は、庶民が祈るための部屋なのだそう。

四角い石が積まれ、中央に円柱のような塔があって三角屋根になっている様子は、グルジア正教の教会ととても似ている。


教会の内部には神学校もあったのだそうで、たくさんの書物が発見されたらしい。しかし、奥の部屋に行くと、床に丸い穴がたくさん空いている部屋があり、「神学校の大切な本をこの下に隠して保存した」という説明だったが、ちょっと首をかしげた。だって、この穴はまさに床下で発酵させてワインを造ったところ、グルジアの農家やワイナリーで見てきたのと同じだよ。

敵の目を欺くためとしても、ここにやってきた人がこの穴を見て、ワインがあると思ったら、絶対覗いて見るでしょう。


それはともかく、重々しい扉、大きなハチュカルと呼ばれる十字架を描いた石、そして、軒下にたくさんのツバメの巣、なんだか、時間をさかのぼったような空間だ。草ぼうぼうの中に鐘楼や、祭壇や、神学校や、多分生活の場などの跡が点在しているが、どこもかしこも野草が花盛り、建物の屋根にも。赤、白、ピンク、黄、紫の、名前を知らない野草が一面に咲いているのは素晴らしかった。

ここハフプトは世界遺産に登録されているが、もう1ヶ所サナヒンを合わせて『ハフプトとサナヒンの修道院群』として登録されているのだそうだ。


写真78・レストラン厨房
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私たちは昼食をとってから、サナヒンに向かう。再び、崖の道をドキドキしながら降りて、渓谷沿いの道路に戻る。しばらく走って、道路沿いにあるレストランに入った。

どうぞと言われて10人がぞろぞろ入っていくと、なんと厨房に入ってしまう。大きな鍋がグツグツいっていたり、山のような肉の塊を串に刺していたり(写真78)、薪が積み上げられていたり、大きなカマドでは肉が焼ける、いい匂いもしていた。

厨房を通り過ぎて崖沿いの細い廊下を進むと、狭いがテラスのようになっているテーブル席があった。奥まったところにある特別席という感じ。アルメニアでの最初の食事だ。

クスクスのサラダ、チーズ、ヨーグルト、パン、バーベキュー、フルーツ、アイス、そして飲み物。

パンは何種類かあったが、紙のように薄く焼いたものが重ねて皿にのっていた。この後アルメニアではいつもテーブルにのっていたので、一般的なのだろう。見かけはクレープのようだけれど、甘くなくておいしいパンだ。

アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア共にサラダは野菜が豊富で、様々な形でテーブルに並べられている。

アゼルバイジャンでは生のまま盛り上げてあることが多かった。グルジアでは生のものとちょっと手を加えたものが半々くらい。アルメニアに入って最初の食事、ここでは生のままカットしてあるのはトマトとキュウリだけで、他の野菜はソテーにしたり、細かく刻んで肉と合わせたりしてあった。いずれにしても香草がたっぷり使ってある。


食事の後、テーブルの奥の山道のようなところを覗いて見たら、ヤツデのような形の縦横それぞれ1メートル以上ある葉を見つけた。仲間と、何の葉でしょうかと裏返して見たりしたが、誰も知らない。

食事が終わって、次はサナヒンの修道院に向かう。


バスが出発して少し走った時、突然添乗員さんがアッと叫んだ。レストランに忘れ物をしたという。道は険しい山道、片側は渓谷。すれ違いがやっとだ。どうするかと思ったら、ハコブさんがバックを始めた。曲がっている山道をぐんぐんバックで進む。そしてついにレストランにたどり着いた。思わず拍手。


無事に引き返し、サナヒンに到着。バスを降りたところから修道院の入り口まで手作りの民芸品などを並べた露店がいくつか続いていた。ガイドのサチコさんが持っているバッグと同じ文様の美しい布もヒモにかけられていて、魅力的だった。幾何学的であるけれど、日本の矢がすりのような・・・。矢がすりは色が単一だが、アルメニアの模様はたくさんの色を使っているのに、落ち着いているのがおしゃれだ。現金があれば買って帰りたいけれど、貧乏旅行の悲しさ、眺めて通るだけ。


サナヒンの修道院群は、ハフプト以上に荒れている印象だった。サナヒンとは『これはあれより古い』という意味で、ハフプトより10年早い966年に建てられたというから、仕方ないか・・・。一面の草に足を取られながら、奥に分け入って行くと、いくつものハチュカルが建っていて、11〜13世紀の遺産だそうだが、私たちツアーの仲間の感想は、もう少し手入れをした方が良いのでは・・・というもの。

ただ、日本の古い観光地の、昔は栄えたけれど、今は人もあまり来ない寂れた感じとは違い、自然のたたずまいが豊かではある。


サナヒン修道院群を一回りして、あとは今日の宿に向かうだけと思っていたら、ちょっと見せたいものがあるから歩きましょうと、坂を下る。少し下ると三叉路にぶつかり、ここもまた坂になっている。

右手の坂の上から小年が馬を引いて来た。私たちが歩いて行くのを見つけると、少年はさっと馬の背にまたがって消えていった。鞍を付けていない裸馬だが、危なげなくパカパカと去っていく。かっこいい。


少年を見送って少し下ると、小さい公園に着く。階段状になっている広場の向こうには草原が開けている。ミコサン博物館と聞こえた。ここに、ミグ戦闘機が展示してあった。ソビエト時代の有名な、あるいは悪名高い?戦闘機だ。アルメニアに3機だけあって、ここにその1機が展示してあるのだ。

飛行機に罪はないよね。どのように使うかによって、イメージは変わる。戦闘機はあくまでも戦うために造られたのだけれど・・・。

戦闘機を一回りし、下から見上げた。結構大きいんだ。日本の有名な神風特攻隊も、このような飛行機で敵の艦隊に突っ込んでいったのだろうか、悲しい歴史だ。


再びバスに乗り、セヴァン湖近くのジリジャンに向かう。

雄大な草原の道を走る。山肌を巻くように走る道だが、眼下には時々集落が現れる。もちろんアルメニアの田舎の村なのだが、ここにはロシアからやってきた人々の村などもたくさんあるらしい。サチコさんの熱意はともかく、日本語はかなりブロークンで、よく分からない説明が多い。それでも、疲れ始めているバスの中は、みんな静かに元気な彼女の声を聞いている。

草原は一面の花盛り、グルジアのコーカサス山麓と似ている。ただ、岩山がかなり多い。

そして、路傍にあのレストランの庭で見つけた巨大な葉っぱの草を見つけた。日本のシシウドに似た花をつけていた。


窓の外の花々に目を奪われているうちにジリジャンの町に着いた。道路の脇は渓谷になってきて、その向こうの高台に今日の宿の看板を発見する。


バスの中は「あれだ」と言う声で、活気づく。ところが、渓谷を越える道がないままに通り過ぎ、どんどん進んでいく。あれ?違ったのかな。もう一つホテルがあるのかな、などと思っていると、バスが停まった。木造の細かい細工でできた建物が何棟か並んでいる。ここはオールドジリジャンというところで、旧市街になるのかな。きれいな木造の建物は手入れがされていて、一つ一つの建物はお土産屋さんやレストランなどになっている。トイレも大きく、何人かの制服を着た人が掃除をしている。100ドラム(約20円)のチップを払って入るのは同じだが、新しくてきれいだった。

ここでの自由時間は短く、みんながバスに乗り込むのを待つように雷雨がきた。間に合って良かったね、と声をかけ合いながら今度こそホテルに向かう。

かなり道を下ってきたので、再び登り返す。やっぱりさっき見たところがホテルだったのだ。


ジリジャンのホテルはリゾートホテルらしい。屋内には温水プールもあるとのこと。ツアーの仲間にはちゃんと事前調査をして、水着を持って来た人もいる。

自然の中のリゾートホテルというと、なぜか細長い建物が多い。その方が景色の良い方向に窓を並べられるからだろう。ジリジャンのホテルも長い廊下の片側に部屋が並んでいた。

私たちの部屋は最も奥だったので、渓谷をはさんだ向こう側の美しい山が夕焼けに染まる様子を楽しみながら、ゆっくり廊下を歩いて部屋に入った。

この部屋は、入ってびっくり。とてもとても広い。リビングにソファがあり、テーブルとイス、中央の空間ではダンスを踊れるだろう。そして、その奥に大きなベッドが二つ、さらにベッドの横にはもう一つ空間があって、タンスのような家具が備え付けられている。

まさしく、リゾートホテル、何日も滞在して生活を楽しむ空間なのだろう。たった一日ではもったいないと思った。夕食のとき、ツアーの仲間の一人旅の女性が、「あまり広すぎて一人では恐い」と話していたが、分かる気がした。

廊下と反対側になる、部屋の奥の窓からは、ホテルの庭越しに山が迫って見えている。景色はとても良い。オールドジリジャンで降られた雷雨はバスに乗っている間に止み、木の実がぬれて落ちているのも、小鳥の声も、なんだか風情があって嬉しい。


食事はホテルのレストランだったので、私たちはカードで赤ワインをいただいた。優雅なリゾートの気分はそれほど憧れているわけではないので、ただ美味しいワインをいただいて幸せという気分満喫。


このホテルはヨーロッパの休日スタイルなので、湯船はない。空間はそれなりに広くとってあるが、シャワーのみ。交替でシャワーを浴びて、広い部屋の端の方で少しおしゃべりをしてからベッドに入った。



気まぐれ天気のセヴァン湖・10日目


ジリジャンのホテルは高原にあるので、朝の空気はさわやかだった。私と夫はホテルの周辺を散歩してみることにした。

連日チーズや肉、パンで、美味しいとは思うものの、少し胃にもたれてきたので、朝は朝食バイキングに行かないことにしたのだ。日本から持ってきたミニカップ蕎麦とハーフサイズのお粥を作って、二人で分けて食べた。少しお腹に入ればいいという感じ。

日本ではあまり食べないインスタント食品に期待していた訳ではないが、あまり美味しくなかった。特に蕎麦は。

ホテルの水はうすく茶色に濁っていた。持って行ったポットで沸かして使ったのだが、やはり違うのだろう。

今までの旅行では、カップラーメンを持参して食べたことがあるが、美味いとは言えなくても何となく懐かしいような気がして食べられたものだ。水が違うと美味しくないのは蕎麦の味の繊細さだろうか。

どうしても現地の食事が食べられないときの非常用として持って行くのだが、今度は蕎麦はやめようと、夫と意見が一致した。


ホテルの前は、賑やかなシーズンには喫茶コーナーになるらしく、テーブルセットが並んでいる。小さな小屋もあって、飲み物や軽食を出すようだが、今は閉まっている。私たちは深い森の中のホテル周辺の空気を吸いながら、ぶらぶらと歩いた。とても気持ちが良い。

鳥がたくさん鳴いていて、姿も見えるのだが、何の鳥かは分からない。カメラを向けるが、素早く動くのでなかなか撮影できない。

昨日移動中のバスの窓からはカササギが飛んでいるのがよく見えた。日本のカササギと全く同じかは断言できないが、「あ、カササギ」と、見た瞬間に思った。関西から来ている女性も「カササギがたくさんいるんですね」と、話していた。

鳥を追いかけながら坂道を下り、草花を見ていると、ホテルの方からユニフォームらしい赤いズボンに白いTシャツの女性が歩いてきた。ビニール袋をぶら下げている。私たちと挨拶をしてすれ違い、少し下の、多分ゴミ集積所らしいところにビニール袋を捨てて戻ってきた。

写真79・ジリジャンのホテルにて
79

私と夫が草の写真を撮っていたからか、彼女は一つの草の葉を指して何か話した。私がその草に触って
「これ?何かに使うの?」
と日本語で聞くと、彼女は嬉しそうに腕に塗り込むような身振りをして、
「これは痛い時や疲れた時に汁を塗るといいんだよ。こうやって葉をもんでね。」と話してくれた。多分そう言ったと思う。こういう時には言葉が通じなくても、ほぼボディランゲージで通じあえる。それから、もう一つ別の草も、自分たちは煎じて飲むと教えてくれた。それから、おおらかな素晴らしい笑顔を残して、彼女はホテルの方に去っていった(写真79)。私たちは少し奥まで歩いてから部屋に戻ることにした。


出発のとき、仲間から
「今日は朝ご飯に来なかったの?」
と聞かれた。いつも朝食のときは一番早く行くから、今朝レストランにいないのが分かったのだろう。
「ちょっと食べ過ぎなので・・・」と、苦笑い。


バスに乗り込んで、今日はセヴァン湖のほとりに行く。数少ないアルメニアの観光資料に必ず載っているコーカサス地方最大の湖と、その突き出した半島に立つ修道院にも行く予定だが、まず、セヴァン湖のほとりをしばらく走り、たくさんのハチュカルが立つノラドゥズ村に行く。ハチュカルとは十字架石と聞いていたが、石が十字の形になっているのではなく、四角い石に十字が刻まれているものが多い。十字だけでなく、物語を表す絵や文字も刻まれている。

写真80・ハチュカル
80

ノラドゥズ村を見下ろす小高い丘の上には、遠くまで古い物新しい物、たくさんの石が建ててあった。一つ一つの石には歴史や故人の名前が刻まれている。そして、ハチュカルは全て、村の方を向いて建てられていた(写真80)。草むした墓地・・・と思われる区画に入ると、老人と孫のような子どもが、手編みの靴下や小物を布の上に広げて売っていた。観光客はどのくらい来るのだろうか。その時は私たちだけだったが、自分でも編めそうな小物に興味を示す人はいなかった。


ノラドゥズ村を出て、再びセヴァン湖沿いに半島の方まで戻る。急に黒い雲が出てきたので、降り出さないうちにと、運転手さんが写真タイムをとってくれた。荒れた風の吹く湖畔を少し歩き、アルメニアの保護鳥というカモメのような鳥が飛ぶ姿を見上げながら、しばらく湖畔の風に吹かれた。

黒い雲の下の湖面は黒く波が立っていて、面積1256㎢、水深82mという湖の向こう岸は見えず、海のようだ。ただ、ここは標高1897mという高地だから、湖の周りはやはり高原の雰囲気だ。

写真81・羊の群れ
81

私たちがバスに戻ろうとするとき、水際を羊の群れが歩いてきた。一人の羊飼いが付いている。湖水すれすれのところをゆっくり歩いて行った(写真81)。

バスに乗り込んで走り出すと、一気に雨が降ってきた。羊さんたちはどうしたかな。自然の中で暮らす彼らにとっては、湖畔の雨も日常なのだろうか。


写真82・セヴァン湖の花
82 湖岸に咲いていた高山植物の花

次にバスが停まったのは、セヴァン湖に突き出す半島の根っこ。そこから階段状の山道を少し登った丘の上に、二つの修道院が並んでいる。湖をバックにした修道院は観光写真で見たことがある。

9世紀に建てられたという二つの修道院は、どちらも四角の石の建物に三角形の赤い屋根がちょこんと飛び出していて可愛い。一つの修道院は黒い石を積み重ねてあるが、石の間には真っ白なしっくいのようなものが詰めてあって、おしゃれだ。もう一方は重々しい黒っぽい石で建てられていて、これまでにもたくさん見てきたものと同じような建物。

修道院の中に入ると、祭壇には真っ赤な布が飾られ、その両脇は土が置かれて、野草が花盛りになっていた(写真82)。


丘の上は、遠くまでセヴァン湖が見渡せる気持ちのいいところ。足下には野草が花盛り。アルメニアの保護鳥という、カモメに似た鳥が羽を休めている。アルメニアではこの鳥を保護するために、さっき通ってきたセヴァン湖の一つの岬を立ち入り禁止にしているそうだ。湖に付き出した緑濃い岬で彼らは安心して繁殖できるのだろう。かなりたくさん空を舞っていた。


バスに乗っている時降った激しい雨は、半島に着いた頃にはほぼ止み、山道を登っていくうちに空が明るくなってきた。セヴァン湖の水面は天気によって色を変える。明るい空の下ではエメラルドグリーンに輝くが、厚い雲の下では濃いダークブルーに、そして、先ほどのような激しい雨の下では深いグレーになって湖面が荒れる。いくつもの表情を見せてくれた。


しばらく丘の上を散策してから、山道を降りる。降りたところに立つレストランで昼食。 サラダとスープ、ぶつ切りになったカワマスのフライに、ポテトフライが山盛りで出てきた。デザートにはパイケーキ。

今回のコーカサスの旅では3国どこに行っても同じだったが、テーブルには何種類かの野菜やチーズ、パンが並べられていて、席に着くとそれぞれが好きなだけよそっていただく。

初めに並んでいる野菜はトマト、キュウリ、ナス、ピーマンなどが多く、トマトやキュウリは生のままカットしてあることが多いが、その他の野菜は肉を詰めたり、香草とあえたり、様々なバリエーションで出てきた。アゼルバイジャンで多かった香草をそのまま皿に盛るスタイルはアルメニアに入ったらなくなった。香草は、スープやサラダにたっぷり使われてはいたが。

また、どこの国でも、テーブルにミネラルウォーターが並べてあって、これはツアー旅行社の契約なのだろうが、ガス入りがあったのが嬉しかった。


レストランの入り口には冷蔵ボックスがあって、アイスが売られていた。とても興味があったけれど、この後のバスの旅を思って、食べるのは諦めた。

セヴァン湖には観光客も多いのか、たくさんの露店が並んでいた。面白い形の陶器や、笛などの楽器もあり、買えないけれど、眺めて楽しんだ。


お腹がいっぱいになったところで再びバスに乗り、首都エレバンに向かう。バスの中では、アルメニア名物という乾燥フルーツとナッツが入ったチョコレートを、ガイドさんからいただいた。香ばしくて美味しかった。

道は緑美しい山道を少しずつ下っていく。途中には険しい山が迫っているところもあるが、遠くまで見渡せる緩やかな曲線の地形が多い。緩やかな山なみの間の平らなところに、時々集落が見える。どこもかしこも草々の花盛りなのだろう、バスの窓からは遠く薄い黄緑や白っぽい緑の大地に見えるが、そこが一面の花畑だということを、私たちはもう知っていた。


写真83・ガルニ神殿
83

いよいよエレバンに近づく。ホテルに行くには早い。紀元前3世紀に建設されたという、ガルニ神殿に行く。アルメニア王の夏の離宮として建てられたのだそうだが、17世紀の地震で壊滅してしまい、今残っている太陽の神殿は1976年に再建されたものという。崖に囲まれた大地の上に24本の柱で支えられた神殿は遠くから見ると、ギリシャのパルテノン神殿みたいだ(写真83)。黒と薄いブルーの石だが、これは玄武岩だそう。

建物も雄大だが、この台地の端から見る渓谷がすごい。神殿の周りをグルッと回ると、どこも見下ろすのが恐いほどの崖。このあたりはアザート川上流域で、次に行くゲハルト洞窟修道院と合わせて世界遺産に指定されているところ。


神殿は再建されたものだが、台地の遺跡を回っていくと、ガラス張りの建物があり、その中には3世紀のオリジナルの浴場跡が残っていた。いくつかの部屋に分かれている。床下に石の柱を立て、その間に湯を通し、流れるように工夫してある。床下の小さな石の柱が残っている。浴場の床に施された彫刻も保存されている。一部はがれて傷んではいるが、幾何学的なレリーフ模様がよく分かる。紀元前3世紀に浴場を飾っていた高い文化を感じる。


バスに乗る前に、入り口のお土産屋さんに入ってみた。もちろんカードが使える。ツアーの仲間に、アルメニアの民族音楽のCDを探している人がいて、この店にはCDがあったので、みんなで覗いていた。私たちもここで絵はがきと、きれいな模様が彫られている縦笛を買った。

これが実は大変な楽器で、その後挑戦してみるが音が出ない!でもまぁ、その話はまだ先のこと。


写真84・ゲハルト洞窟修道院前のお土産屋
84

神殿からさらに渓谷を奥に行くと、ゲハルト洞窟修道院だ。4世紀頃に巨岩を掘り抜いて造ったものだそうだ。修道院に行くには駐車場から急な坂を登っていく。入り口には露店がずらりと並んでいる。アルメニアのお菓子を売っている店がたくさんあったが、ロウソクのような形をしたお菓子は、グルジアのお菓子とそっくりだった(写真84)。

お兄さんが、テーブルの上に野花の花冠をいくつかのせて売っていた。自分も花冠をかぶってぽつんと座っている姿が、現実離れしていた。

そして、頭の上ではヒバリが電線にとまって、私たちを歓迎しているかのようだった。

山道を登っていくと、ずっと奥の、対岸の大きな崖の中腹に十字架が飾ってあるのが見える。上も下も左も右も、垂直の絶壁の真ん中に、どのようにして立てたのだろうか。大きな白い十字架だ。

写真85・ゲハルト洞窟修道院
85

遠くの十字架を眺め、近くにはハチュカルを見ながら、道を上っていくと、岩をくりぬいて造った洞窟があった。内部はずいぶん広い。現在残っている建物は13世紀の建造だそうだ。広い聖堂内には太い柱が立ち、たくさんのロウソクが灯されている。さらに奥に行くと、奇跡の泉が湧いている。1番奥の泉が湧いているところから、岩をくりぬいた水路が掘ってあり、流れている。その水を付けると病が治るという。私たちは水をすくって頭につけてきた(写真85)。ちょっとは頭が良くなるかしら?


洞窟を出て、裏側に回ると、崖になっている。洞窟の外側になるところか。崖の中腹にいくつかの穴があいていて、人々が小さな石ころを拾って投げている。投げた石が中腹の穴に入ると願いが叶うのだそうだ。ツアーの仲間の元気なおじさんも数回やって見たが、なかなか難しく、諦めていた。


このあたりも地震が多いところだそうで、この古い建物には耐震構造があると、案内してくれた。重い大きな扉の横の壁に、三角に切れ込みが造ってあるのがそうだという。確かに一直線の厚い壁より、振動を逃がせそうな気がした。が、実際の効力についてははっきりしないみたいだ。


ゲハルトを出ると、後は一路エレバンのホテルをめざす。今日の夕食はホテルの予定だから気楽だ。

ホテルに着いた時はまだ明るかった。夕食まで少し時間があるので、近くにあるスーパーまで案内してもらうことにした。数人残ったが、多くの人がコーカサスの都会のスーパーに興味があったようで、おしゃべりしながら出かけた。


私たちのホテルはメインストリートのマシュトツ大通りの外れにあったが、大通りを自由広場の方に10分ほど歩いたところに大きなスーパーがあった。入り口はまるでカジノのように豪華で、内部も天井が高く広く、様々な装飾で飾られている。時間があまりないのがもったいないと思った。

急ぎ足で、アルメニア名物の乾燥フルーツとナッツ入りのチョコレートや、コニャックの『アララト』を探して買うことにする。文字が分からないので、ひたすらパッケージの絵と値段を見ていく。

私たちは『アララト』を探していたが、広くて、そしてお酒売り場がたくさんあって、なかなか見つからないので、店員のお姉さんに聞いた。彼女はアララトの担当ではなかったようだが、その場所まで連れて行ってくれた。私たちは値段を見ながら瓶を籠に入れて、チョコの売り場に回った。

棚の間を歩いていたら、夫が何か言ったようだったので振り返ると、「あれ〜」と首をかしげている。夫が持っていた籠の中の瓶が一瞬の間に化粧箱入りのアララトに替わっていた。
「何か言われたような気がしたんだけど、気がついたらこうなっていた」
とは、のんきな夫の話。パッケージは、私たちが買うことにした3年もののアララトだったので、気がついたお店の人が入れ替えてくれたのだろう。


ここでハプニングが一つ。私が手に取って、袋の裏を見た後、棚に返そうとしたチョコの袋の口が開いていて、ばらばらとこぼれた。持っていた籠の中にこぼれたのを全部袋に入れて、袋の口が開いていると分かるように棚に置いて、買い物を続けたのだが、帰り道歩きながらふと見たら、洋服とかばんの間にも挟まっていた。もうホテルはそこだし、これはアルメニアからのプレゼントと、味見をさせてもらいましたよ〜。


夕食の時間が迫っていて、帰りの集合時間までに買い物が間に合うか心配していたが、何とか、間に合った。レジがとても混んでいて、長い列になっている。カードで買うので、サインも必要だ。しかし、それは現金で買うのとさほど変わりが無い。何より、アルメニアの皆さんが大量に買い物をしているので、列がなかなか進まないのだ。

私たちと、もう一人買物慣れた男性が、少し早めにスーパーの入り口にいたが、残りの人はまだ列に並んでいる。添乗員さんは、残してきた人に夕食の手配をしなければならないので焦っている。

私は、
「道を覚えたので、私たちはみんなで帰れますから、添乗員さんは先にホテルに帰って、待っている人に対応してください」
と、添乗員さんに先に出発してもらった。心配する添乗員さんに
「大丈夫、ちゃんと連れて帰りますよ」
と、笑いながら請け負った。しかし、この後が結構長かった。最後にようやく買い物を済ませた人の顔を見ると、
「急ぎましょう」
と先頭に立ち、急ぎ足でホテルに戻った。
もっとのんびりしていてもいいのになぁと、思わないわけではない。が、約束して待っている人がいると思うと、のんびりできないのだ。私の性格かも知れないし、日本人の民族性が強いのかも知れない。


というわけで、ホテルに着いた時にはロビーで添乗員さんと留守番組の仲間が私たちを待っていて、すぐ夕食のテーブルについた。夕食には珍しくビールをいただいて、サラダ、スープ、魚のフリットを楽しんだ。


町を歩いて、その土地の人の生活の場に触れ合うのはとても楽しい。コーカサスは紛争後間もないことや、観光資源の整理がされていないことなどからか、13日間のツアーの間に、いわゆる自由時間の設定がなかった。訪問地で少しずつ自由に歩く時間はとれるが、半日一日の自由時間が無いのが寂しかった。エレバンのスーパーまでの往復は、時間にすればたいしたことはないかも知れないが、首都の中心部分の人々に混ざって、町の空気を吸えたことが旅の彩りとなった。



アララト山がすぐそこに・11日目


目を覚ますと、いつもの習慣のように窓から外を見る。時間にゆとりがあれば、ホテルの周りを歩いてみるが、今日は、窓から目の前にある大きなコニャック醸造所『ARARAT』の看板を見る。建物はお城のようだ。ホテルからは川をはさんで対岸にあるが、目の下に大きな橋が架かっている。コニャックは1887年から製造しているとのことだが、イギリスのチャーチル元首相がとても好んで飲んだそうだ。

ガイドのサチコさんが説明してくれるたび「コンニャク」と聞こえ、蒟蒻?と、脳内で変換作業をしていたので、お酒の種類などを覚えるのが苦手な私も、コニャックはすぐ覚えられた。


  今日はよく晴れていて、工場の向こうにはアルメニアで1番高いという山が、頂をのぞかせている。これから、私たちはアララト山がよく見えるという、トルコの国境近くまで行くことになっているので、是非とも晴れてほしかった。希望が叶って、青空が広がっている。写真好きなツアーの仲間の男性が朝早くホテルの前の橋の向こうまで行って撮ってきたというアララト山の姿を見せてくれたので、いやでも期待が高まる。


バスに乗り込み、エレバンの町を南下する。エレバンの町並みから外れてくると、家々の間からアララト山が見え隠れする。肩のあたりに少し雲がかかっているが、青空の下に雪をかぶった堂々とした姿。

町を外れてしまうと、葡萄畑が続く。そして緑の地平の上に、アララト山がそびえている。他に何もない。広がる青空と、大地の間にはアララト山だけ。

写真86・アララト山と葡萄畑
86

運転手さんは葡萄畑の真ん中でバスを停めてくれた。いつ雲がかかるか分からないので、きれいなアララト山との撮影タイム(写真86、87)。大アララトは5165m、小アララトは3925mという。小アララトは富士山によく似ているが、山頂辺りに雲がかぶさってきた、残念。

目を移すと、緑の地平線の向こうに一カ所小高い丘が見える。これから行くホルヴィラップ修道院だ。バスに乗り込んで、修道院に向かう。

87 アララト山とホルヴィラップ修道院

修道院までは少し丘を登る。丘の上からは、トルコとの国境が見える。そしてその向こうにアララト山。アルメニアの人たちにとってアララト山は心の山だそうだが、今、アララト山はトルコの領地にある。

写真88・ホルヴィラップ修道院の投獄跡
88 ホルヴィラップ修道院


世界で一番早くキリスト教を国教とした国、アルメニア、そのアルメニアにキリスト教を広めたという聖グリゴールが、13年間も閉じこめられていたという深い穴の牢があった。垂直のはしごで、一人通るのがやっとの穴から降りて見た(写真88)。内部は思っていたより広かったが、光もなかった昔は真っ暗だっただろう。見上げると、はるか天井に小さな穴があいていて、光が漏れている。毎日一人の女性がこの穴からパンを入れ続けてくれたという。13年、一言で言ってしまえるけれど、それはすさまじい歴史だ。


修道院を出て、裏のさらに高い丘に登って見た。丘は岩山でごつごつしている。丘の頂上からは城壁で囲まれた修道院が見下ろせる。トルコとの国境まで8kmという。葡萄畑と、野菜畑と、森が、そして荒野がアララトの麓まで続いている。人間が決めた国境なんて、自然の中では意味もないことに思えてしまう。


写真89・野草1
89

今度はアララト山を背中にして、再びエレバン方面に向かう。エレバン発祥の地と言われる、要塞都市エレブニの跡を見る。観光地での撮影料もままならなくなってきた私たちは、ここでは撮影しないことにした。だが、どこからが入場なのか、分かりにくい丘の上の遺跡。ガイドさんに聞くと、次に行くエレブニの博物館の中で撮影料が必要で、この広々とした要塞跡は自由に撮っていいとのこと。

写真90・野草3
90

この丘はアリンベルと呼ばれるところだそうだが、丘の上一帯に城壁や住居の跡が残っている。進んで行くと、驚いたことに楔形文字の盤が飾ってあった。楔形文字は近年発見されたらしい。そこには、紀元前783年ウラルトゥ国王が、この地に要塞都市エレブニを築いたと記されていたそうだ。


足元には高地らしい小さな花が一面に咲いている(写真89、90、91)。遺跡を奥へ進むと、目の前がパァーッと開ける。それはもう本当にいきなり目の前が全て青い空になったようで、圧倒される。思わず手を広げてしまうような、全身が伸びてしまうような・・・。

写真91・野草4
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写真92・野草2、エレバンの町並み
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エレバンの町並みが手に取るように見える。そして左に眼を転じると、アララト山。素晴らしい眺めだ。気持ちよい風を受けながら、しばらく要塞の端に立って異国情緒を味わっていた(写真92、93)。


写真93・エレブニ要塞の跡
93


丘を降りると、近くにある要塞都市エレブニ博物館に寄った。発掘の状況や、出土した物などが展示されている。入り口の門には大きな彫刻が飾ってあり、庭園内に所々置かれたベンチには細かい彫刻が施してあって、おしゃれだ。博物館は建物も立派だが、広々とした庭が気持ちいい。


午前中に遠くまで行き、盛りだくさんの旅をしたので、昼食は遅くなった。市内に戻り、グルジア風料理店に案内された。レストランの入り口には大盛りのお皿を持ったウェイターさんの等身大像があり、私たち客を迎えてくれる。店内にも、楽しそうな人形が何人も、壁の一部をくりぬいた棚に装飾として飾られている。壁も、ランチョンマットも幾何学模様で賑やかなのだが、赤で統一されていて意外とシック。

どうしてアルメニアでグルジア風料理なのか・・・よくわからないが、いつものサラダ、パン、チキンのスープ、肉の煮込み、たっぷりのフルーツ、そして名物のドルマと、とてもおいしい。葡萄の葉で肉を包む料理ドルマはアルメニア名物とうたっていたが、アゼルバイジャンでも、グルジアでも名物として食卓にのっていた。コーカサスの名物と考えればいいのだろう。

このレストランはグルジア風ということで、ワインがついたのがとても嬉しい。私と夫は昼からたっぷりの赤ワインをいただいてご機嫌。もちろん美味しいワインだ。

仲間にはお酒があまり得意ではない人もいて、どうぞと言われたが、私たちも昼には一杯あれば十分。お酒大好きな男性のところに集中していた。

でも、さすがの酒豪の男性も飲み過ぎたようで、珍しく、その後のしばらくの時間とても眠そうにしていたのが、ちょっぴりおかしかった。


写真94・歴史博物館
94

食後はお勉強タイム。まず、アルメニア歴史博物館へ。エレバンの中心にある共和国広場に面した、ピンクと薄緑色の美しい建物だ。エントランスには大きな噴水があり、池の端を回って行っても水しぶきが飛んでくる。入り口から振り返ると、広場の角にはオレンジ色がかったピンク色の時計塔がそびえている(写真94)。アルメニア産の凝灰石で作られているそうで、バラ色と言うらしい。なるほどと思った。周りには同じような美しい石の建物が多い。

とてもたくさんの発掘品や民族衣装などを見て回ったが、歴史博物館というだけあり、アルメニアの先史時代からの歴史を感じた。文明発祥の地に近く、西と東の狭間にあり、波瀾万丈の歴史と言ったところだろうか。アルメニアの国土の変化を見るだけでも、その大変さが分かる。その翻弄されてきた歴史の中で、世界最古のキリスト教の国を守ってきたのはすごいと思った。オスマン・トルコ以来の隣国トルコとの関係も複雑。150万人以上のアルメニア人虐殺があったとも言われている。真実は分からないが、いずれにしてもコーカサスの位置や豊かさが、様々な歴史模様を描いてきたのは事実だろう。


博物館を出て、マテナダランという古文書保管所へ。エレバンの町中にあるので、移動にはさほどかからないが、ホテルとは反対の丘の中腹にある。狭い坂道をバックで進んだりして、私たちを最適の場で降ろしてくれるハコブさんの運転技術はすごい。

色々なところを回って来た一日だったので、マテナダランに着いた時は、もう午後4時半になっていた。広い階段を上がったところが広場になっていて、建物の前面には大きな像が座っている。この人はアルメニア・アルファベットを生んだメスロプ・マシュトツさん、膝に書物を広げて若い人に教えを広めている。入り口の左右にも大きな聖人の像が並んでいる。


内部は閉館準備なのか、掃除をしているところもあった。それほど広くないが、宮殿のような豪華な内部に、様々な書が展示されていた。5世紀頃からの書物があるそうだ。巨大な本、ミニミニサイズの本などもあったが、何よりすごいのは聖書。とてもきれいな色彩で装飾され、挿絵が描かれ、これが人の手に成るものだということに驚いた。写本というのは、オリジナルがあって、それを写すのだから、1ページ、1ページ丹念に写して行くエネルギーのすごさを感じた。圧倒されたと言ってもいい。

それからもう一つ、驚いたことがある。この文書館にはたくさんの人が見学に来ていたが、子どもたちが多い。マテナダランの展示物は、どちらかと言えば大人の、それも古い(?)大人の趣味ではないかと思ってしまうのは、日本の機械科文明に犯されているからなのだろうか。


掃除をしていた隣の部屋に入ってみたいと言っていたら、ちょうど終わったので、少しならいいと言われた。実はもう閉館時間。それでも、再びは無いかも知れない旅人としては嬉しく、厚意に甘えることにした。そこは最初の部屋より広く、古い時代に写本に使われた顔料なども展示してあった。


一回りして外に出る。階段のところには美しい女性が数人の男性と話していた。それを見たサチコさんは、小さな声だが興奮して早口で話した。どうやらアルメニアの有名な女優さんらしい。サチコさんはとても嬉しそう。確かにハッとする美人だ。

ちょっと嬉しいサプライズを最後に、バスに乗る。


出発前にアナウンスがあった今日の予定はマテナダランで最後だったのだが、明日に予定されていたスヴァルトノツの古代遺跡が、明日は政府の行事になって入場できない為、繰り上げて今日最後に行くことになった。

写真95・スヴァルトノツ古代遺跡
95

スヴァルトノツの古代遺跡は、7世紀には高さ49mもの教会があったところで、世界遺産になっている。バスを降りて、広大な敷地に足を踏み入れると、大きなテントが立ち、たくさんの照明器具や、音響設備が据えられていて、人々が準備に動き回っていた。明日の行事の最終準備だと思われる。

10世紀の大地震で崩壊してしまったという教会跡にはギリシャ神殿の柱のような円柱がキョンキョンとそびえている(写真95)。真っ青な空に突き出すようにそびえる円柱は、過去の文化の大きさを感じて敬虔な気持ちになる。ただ、現代的な機械類、テントなどがたくさん置いてあって、ちょっと興ざめではあった。


円柱の奥に進むと、宮殿や、浴場、厨房、ワイン貯蔵庫の跡などの崩壊した壁が続いている。そして敷地の一角にアルメニア語で書かれた日時計が置いてある。当時から、アルメニア語のアルファベットはほとんど変わっていないのだそうだ。アルメニアの民族の誇りのようなものを感じた。

柱の裏に回ると、夕方の日が荒野に薄くいくつもの影を伸ばしている。自分たちの細長い影に手を振りながら、来た道を帰る。


スヴァルトノツを出る頃には、さすがに夕暮れ迫る空色になって来た。長い一日だったので、ツアーで一番年配の足の悪い老人はバスの中で待っていた。 「ちょっと足が痛くなった」
と話しながら、押し付けがましくなく、 「バスにいるよ」
と、淡々とした口調だった。

バスに戻って、夕食のレストランに向かう。彼は、ほんとは痛いのだろうけれどあまり回りに感じさせない、なんだかすごいなぁと思う。

エレバンに向かうのだが、道路は渋滞していて、それでなくとも遅くなった予定がさらに遅れて行く。それでも、ようやくレストランに着いた。


レストランでは、アルメニアの民族音楽を聴きながら・・・というのがうたい文句だった。しかし私たちが案内されたのはステージの隣のホール。音楽は聴こえてきていたが、姿は見えない。サチコさんがレストランの人と何やら話していたが、結局案内されたテーブルで食事が始まる。今日はマスの料理。苺とサクランがたっぷり使われたジュースもあって、炭酸水で割って飲むとそれぞれの香りが利いていてなかなか美味しい。

テーブルの向こうにはバーの窓口があって、中でバーテンさんが色々なお酒を用意している。ウエィターさんが窓口に近づき、何か言うとグラスが出てくる。かっこいいバーテンさんが細かに動きながら働いているのを見ていると、なんだか楽しくなってきて、私はこの席が結構気に入っていた。

デザートの、アルメニア語でガタという名のケーキを食べるころに、隣のホールで民族音楽を演奏しているので見に行っていいですと言われ、私たちはゾロゾロと移動した。途中の廊下は、右手がガラス張りになっていて、昔ながらのパンを焼く窯が見える。そこでもデモンストレーションをやっていて、眺めながら移動した。

写真96・アルメニアの民族音楽
96


隣のホールには小さなステージがあり、男性が演奏し、女性が踊っている。私たちは柱に寄りかかりながら、見ていた。ガルニ神殿で買ってきた笛と同じ笛を吹いている男性は、驚くほど頬を膨らませて吹いていた(写真96)。

どおりで音が出ない筈。あんなにほっぺたを膨らませて吹かないと音が出ないんだと、感心しながら、つい膨らんだ頬に目がいく。挑戦したら、いつか音を出せるようになるのかなぁ。日本の縦笛と似ているが、オーボエなどと同じリードがついている。

踊りは簡単な動きの繰り返し、3人の民族衣装を着た女性が緩やかに動いていた。ヨーロッパのクラシックとは全く違う、けれど、コーカサスのポリフォニーとはまた違う音の重なりだった。


数曲聞いて元の席に戻り、コーヒーを飲んでいると、サチコさんが、隣のホールに席を作ったので今から移動しようと言う。私はもう食事は終わったし、音楽も聴いたし、長い一日で疲れてもいるので、このまま帰りたいと言った。他の仲間も頷いている。添乗員さんはいいですか?とみんなの顔を見回し、サチコさんにそう告げた。サチコさんは残念そうだったが、納得し、私たちはホテルに向かった。


さすがに疲れた。長い一日だった。最初のアゼルバイジャンの一日、そして今日の一日、盛りだくさんに考えてくれているのは分かるが、もっと緩やかでも楽しめるよと言いたい気もした。



エレバンからモスクワへ・12日目


13日間という長い旅も、いよいよ今日で最後の観光。明日は長い飛行機の旅が待っている。

まず、ホテルのフロントに日本へのハガキ投函をお願いする。昨日サチコさんに聞いたら、多分空港にポストがあると思うとのことだった。しかし、団体で移動しているので、自由にポストを探せるかどうかはわからない。そこで、ヨーロッパではいつもお願いしていたホテルのフロントに頼もうと考えた。ところが、ここでは1枚につき400ドラム(約80円)かかると言われた。もうお金を使うこともないと思われるので、3枚1200ドラム払ってお願いした。自宅と息子と娘のところに。

後日談だが、ホテルにお金を払って頼んだのだから一番確実と思っていたら、とても時間がかかって日本へ着いた。6月13日に出したものが日本に着いたのは7月4日だった。


ホテルで朝食をとって、いよいよ出発。ホテルのエントランスホールに集合すると、サチコさんと年配の女性が待っていた。サチコさんは自分の上司だと紹介した。その女性は、昨夜の夕食で民族音楽のステージ前にテーブルが取れなかったことを詫び、私たち全員に大きなプレゼントを用意して来ていた。アルメニア名物のナッツとドライフルーツが入っているチョコレート。大きな箱にみんなびっくり、ありがとうと言いながら、かえって恐縮してしまった。


さて、サチコさんの上司に見送られながら出発。バスでエレバンの町を走る。大統領官邸やオペラハウスを車窓から眺め、丘を登って行く。昨日行ったマテナダランのちょうど裏山に当たるソビエト広場に立つ。眼の下にエレバンの町が広がり、真正面に大アララト、小アララトが見える。雲一つない青空の大パノラマ。アララト山は歓迎するときに姿を現すのだとサチコさんが言い、みんなの笑い声が響く。


今日観光することになっていた、スヴァルトノツの古代遺跡を昨日のうちに見て来たので、今日はアルメニア使途教会の総本山というエチミアジン大聖堂と、リプシマ教会へ行く。


まずはリプシマ教会に行く。とても美しいリプシマという女性が、アルメニアに来て殉教した。そのリプシマの亡くなった地に618年に建てられたという、小さいがとてもきれいな教会。たくさんの人が訪れていた。私たちは地下のリプシマの墓室に降りてみた。狭い部屋の中央に墓石があり、リプシマの絵が描かれている。訪れた女性たちはひざまずき、墓石に口づけをして行く。長い歴史の中で愛され続けて来た人なのだと思う。

リプシマは非常に美しい人だったらしい。キリスト教徒ではなかったローマ皇帝に求婚されたが、拒否してアルメニアに逃れて来た。そしてアルメニアでキリスト教の布教をしていたが、当時まだキリスト教ではなかったアルメニアのトゥルダト3世からも求婚され、拒否した為に殺されてしまったのだ。

小さなシンプルな教会だが、ムードがあるところ。少し盛り土をした上に立っていて、バラの咲く庭園を歩いて行き、20段ほどの階段を上ると目の前にバラ色の石の教会が静かにある。周りは広々とした空間。人々に愛された人らしく、教会の中にはたくさんの人が座っていた。神父様が祭壇の辺りでミサの準備をしている。そういえば、この教会には椅子が並べてある。今まで見て来たグルジアやアルメニアの教会には椅子はなかった。ここではいつもたくさんの人が座ってお祈りをしているのだろうか。


次に行ったところはエチミアジン大聖堂。117年にこの地域に町が創設され、アルメニアの首都だったとか。その後首都は移ったが、303年に創建されたという古い歴史を持つ聖堂には、今も巡礼者が絶えないという。ここはエチミアジンの聖堂と教会群として世界遺産になっているという。


アルメニアは301年に世界で初めてキリスト教を国の宗教とした。

昨日行ったスヴァルトノツの教会で見て来た地下牢、そこに閉じ込められていた聖グレゴリウスと、当時のアルメニアの王トゥルダト3世の話がある。

聖グレゴリウスはあの牢に閉じ込められ、食事を与えられなかったが、一人の女性が小さな穴から毎日パンを入れ、聖グレゴリウスは命をつなぐことができた。

話はここからで、トゥルダト3世が重い病気に罹ったとき、彼の姉が夢を見た。夢の通りに聖グレゴリウスを穴から出したところ、トゥルダト3世の重い病気は治ったという。それが300年のことだそうだ。そしてキリスト教を信仰することになった。

エチミアジン大聖堂にも夢の話がある。聖グレゴリウスは、キリストが地上に降りて来て、火の小槌で地上を打つという夢を見た。その地に教会を建てたのが世界最初の公式の教会であるというこのエチミアジンのお話。エチミアジンとは『神の唯一の子が降りた』という意味なのだそう。


広い敷地に大きな門が立っている。これは新しい。門を入ると、内側はステージのようになっていて、その奥は広場だ。催しをやることもあるのだろう。

実はここは祭壇で、2001年に、アルメニアがキリスト教を国教にした1700周年記念のミサを行ったそうだ。その時はローマ法王も参加されたという。ガイドのアンドレイさんはその時、集まった人の為の露店でハンバーガー係をしていたが、ローマ法王の為にもハンバーガーを作ってあげたのだと、一生の自慢のように話してくれた。


ハチュカルが並ぶ前の道をまっすぐ奥に進むと、いくつもの建物の奥に大聖堂がある。左の奥には大きな図書館や教会、お土産を売っている建物もある。

木々の茂る気持ちよい道を歩いていると、突然後ろから声をかけられ、触られた。びっくりして振り向くと、きれいな女性。カメラを差し出して何か言う。隣に小学低学年くらいの男の子がいたので、その子とママのシャッターを押してほしいと言われたのかと思ったが、首を振る。そして男の子を私の隣に並べるので、ああそうか、一緒に写真に入ってほしいということだったんだ。私は「オーケー」と、彼と肩を組んで写真に収まった。そして、夫が自分のカメラでも写させてと言い(ジェスチャーで)、今度はお母さんも一緒に3人でカメラの前に並んだ。彼女は嬉しそうにお礼を言って去って行った(写真97)。

写真97・きれいな女性。カメラを差し出して
97

日本人は珍しいのかな、アゼルバイジャンからずっとこんなことがある。でもね、他にもツアーの仲間が歩いているのに、どうして私かな。何回も続くと首を傾げる。よっぽど日本人という顔?それとも緊張感がなく、ぼんやり歩いている?まぁ、スリにあったりするよりはいいか・・・。


気持ちいい親子と分かれて大聖堂に到着。鐘楼を修復していたが、中に入れる。大きいが、他のアルメニアの教会と同じく形はシンプル。金ぴかの装飾は多いと感じた。

祭壇の右側から奥に入って行くことができる。ここには宝物館があり、中を見学できる。キリスト教の信者であれば、興味深いものも多いのだろうが、私は聖書の写本の色の美しさにびっくりした。エレバンのマテナダランでも見て来たが、昔の人はどうやってこれほど細かく美しい文様を、しかも気が遠くなるようなページ数を写していったのだろう。怖いくらいだ。

行事のときに大司教の着る衣装がいくつも展示されていた。しかし面白かったのは金ぴかの腕がいくつもあって、それが大司教の腕らしい。十字を切るときに一般の人と、大司教は違うのだそうだ。一般の人は薬指と小指を折り、残りの指と親指と合わせて3本の指を立てて十字を切るが、大司教は薬指だけを折るそうで、その形の腕がいくつも展示されていた。

宝物館の内部の装飾はとても美しい幾何学模様で、中近東のイメージが色濃いと思った。やはり近いんだ。そして文化も複雑に混合しているのだろう。


ヨーロッパを旅して宮殿をいくつも見てきたが、人間は富に眼がくらみやすい生き物なのだと思う。宗教の宝物は、さすがにただ宝石や金銀ではなく、聖書の写本、司教の衣装、冠、そして歴史上の遺物などというものだが、それでも、偶像崇拝を嫌う筈の一神教でも、たくさんの宝物を抱え込んでいる。物欲とは離れがたいものなのだろうな。

かくいう自分も、さほど濃い物欲はないつもりだが、きれいなものを見るのは好きだし、記念になりそうなものをちょこっと集めるのも好きだ。

しかし、ヨーロッパの城や博物館、教会などを回って、あまりにたくさんの金ぴかを見ると、どうでもいい感じになってしまう。


宝物館を出て、気持ちいい庭園のベンチに座って一休み。参拝者が行ったり来たりする様子を眺めて時間をつぶした。

あちこち覗いて回るより、清々しい気分だ。そうこうしているうちに仲間たちもやってくる。
「あら、気持ちよさそうね」
と、声をかけてバスの方に向かう。私たちも腰を上げて、バスに向かった。途中、お土産売り場を覗いてみる。買うものはないのだが、アルメニアでの最後のお土産売り場と思うと、どんなものが並んでいるのか見てみたい。結局ツアーの仲間も集まって、少し品物を見てからバスに乗った。


写真53・葡萄畑の中の食卓
98

空港に向かう前に昼食をとる。レストランは空港の近くにある。女性がやって来て、建物の外へ案内される。農家の庭のような路地を通ると、広い葡萄畑に出た。畑の真ん中を少し行くと、葡萄畑の中に屋根だけつけた四阿があり、真っ赤なテーブルクロスの大きなテーブルが用意されている。コーカサスでの最後の食事だ(写真98)。

ここでは旅行社からのサービスで飲み物がついた。やはり、昨夜のテーブルに対するお詫びの意味だそうだ。メインはチキンのケバブに、アチャルという麦を炒めたような付け合わせがたっぷり(写真99)。

写真99・ケバブ、アチャル
99 ケバブ、アチャル

サービスの赤ワインをゆっくり味わいながら、最後の食事を楽しんだ。


コーカサス3国の食事はどこでもフルーツがたくさんだった。ここでも、ベリーやサクランボが山盛り(写真100)。

私が
「1年分のサクランボを食べちゃったかも・・・」
と言うと、仲間の女性は、

写真100・ベリーやサクランボが山盛り
100 山盛りフルーツ

「とんでもない。一生分食べちゃったわよ〜」
と笑っていた。

食卓にのったものだけでなく、木になっている枝を折って頂いたこともあり、本当にたくさん食べた。熟したおいしいサクランボ!


いつものように運転手のハコブさんが、「コーヒー」と手を挙げるのを待っている。食後に数種類の飲み物から選ぶとき、添乗員さんが何にするかを聞くのだが、コーヒーと言う瞬間にさっと手を挙げてにっこり笑う。たまにフライングで、早く挙げすぎて笑われるのも楽しんでいる。

ハコブさんは、添乗員さんが日本から持って来た醤油の小さなペットボトルをもらって大喜び。旅の間に何回か魚料理があり、添乗員さんが用意してきた醤油をみんなにまわしてくれたが、今回のツアーの仲間は現地の味で楽しめる人ばかりで、あまり醤油は減らなかった。ハコブさんが楽しそうにかけて食べていた。それで、ずいぶん残ってしまったのをプレゼントしたというわけ。

とても嬉しそうな笑顔が忘れられない。ここで、サチコさんが全員の写真を撮って、空港に向かう。ツアーで安心旅ではあったが、事前情報が少なく、日本の日常、あるいはヨーロッパナイズされた生活イメージとはかけ離れた様々な出来事が心に残っている。


スヴァルトノツ国際空港に着いた。空港で、ハコブさん、サチコさん、そしてアンドレイさんにお別れを言って、帰国の途に着く。


これでおしまい・・・と言いたいのだが、まだまだ。

私たちの乗った飛行機はグルジアの上空を越え、ウクライナとロシアの国境辺りを北上してモスクワに向かった。窓から2人目の席だったが、外はよく見えた。眼下に都市のような風景が広がり、時間も到着予定になったので、着陸態勢にはいるかと思った。しかし、少し高度を下げたかと思うと、再び旋回して上がって行く、何回繰り返しただろう。どうやら、モスクワのシェレメチェヴォ空港で、何かあって降りられないらしい。30分ほど下降、旋回、上昇を繰り返して、ようやく着陸できた。飛行機が滑走路に着地したとたん、機内には大きな拍手がわいた。そういえば、モスクワからバクーに飛んだときも、着地したとたんに拍手がわいたことを思い出した。

降りた空港は水たまりもあちこちに見え、どしゃ降りの後という様子。どうやら激しい雷雨だったらしい。



モスクワ乗り継ぎ、日本へ・13日目


モスクワで、乗り継いで成田に向かう。1時間ほど時間があったので、空港内を散歩することにする。バクーへの乗り換え時に可愛いバレエの絵の宝石箱があって、なんとか買える金額が残っていたので、探してみたが、フロアーが違うらしく見つけられなかった。空港はとても広いので、迷子になっては大変と、近いところを見ていたからかも知れない。マトリョーシカがたくさんあったが、それはいつかロシアに来たときにしようと、買うのは止めて眺めて楽しんだ。


写真101・モスクワ空港タラップ搭乗
101

ついに時間がきて、搭乗ゲートが開いた。搭乗券を出して通過すると、外に出る。飛行機がない。あれ?と思っていると、バスに案内された。ぎゅうぎゅうに乗ったバスが出発、すぐ近くに運ばれるのかと思ったら、びっくり。バスはでこぼこ道をどんどん走る。空港の滑走路を遠回りしているのか、荒れ果てた大地をどんどん走る。

「ホントに飛行機がいるの?」などという声も聞かれるくらい走って、ようやく飛行機が見えて来た。搭乗ゲートからバスで25分。荒野の真ん中に何台かの飛行機があり、そのうちの1台AIRBUS A-330-300のタラップのところでバスは停まった。

タラップで飛行機に乗るのは久しぶり、それはそれで面白いのだった(写真101)。


日本へ行く便は人気がないのか、空いていた。私たちは4人がけの席に夫と二人、体を伸ばして休むことができて、とても楽な飛行だった。



成田から我が家へ


成田に着いた。日本時間で11時25分着陸、拍手は起きない。自分たちで入国手続きをして荷物を受け取りに行く。荷物を受け取った人から挨拶をして分かれて行く。ここで、13日間の仲間は解散だ。

私たちも成田エクスプレスの席を買って東京へ向かう。その先、長野新幹線の指定席も買っておく。成田から東京は思ったより長い。けれど、車内は空いていて、ゆとりの旅だ。そして、新幹線はやっぱり速い。あっという間に長野に着く。明るいうちに到着できた。

荷物を開き、お土産を一堂に並べて、帰って来たなぁと思う瞬間だ(写真102)。

写真102・お土産
102


しかしそれから数日後、恐ろしいニュースが流れた。ウクライナの上空を飛行中のマレーシア航空機が何者かに爆撃されて墜落してしまった。報道の地図を見ると、帰りに飛んだ私たちの航路に近い。日本で平和ボケになっていては行けないと、ぼけて来た頭を懸命に振った。




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