5 「アルプスの空気の中に」スイス
             2009.7.31〜8.9

インフォメーションのイメージ画像 文中の写真について・・・パソコンでは写真画像の上にカーソルを当てるとそのタイトルが表示されます。
 スイスの国旗のイメージ画像 もくじ
サブメニューのイメージ画像 どこにいてもあるがままに
サブメニューのイメージ画像 地図・スイス(+フランス、イタリアの一部)訪れた主なところ
サブメニューのイメージ画像 出かける前に
サブメニューのイメージ画像 怖い飛行機に乗って・一日目
サブメニューのイメージ画像 氷河まで・二日目
サブメニューのイメージ画像 ハイジの家に・三日目
サブメニューのイメージ画像 トップ・オブ・ヨーロッパ・四日目
サブメニューのイメージ画像 街が一つの空間・五日目
サブメニューのイメージ画像 天空の散歩・六日目
サブメニューのイメージ画像 裏マッターホルン・七日目
サブメニューのイメージ画像 マッターホルンの朝焼け・八日目
サブメニューのイメージ画像 雲に隠れたマッターホルン・九日目
サブメニューのイメージ画像 涼しいアルプスから猛暑の日本へ・十日目


どこにいてもあるがままに


私たち夫婦が初めて海外旅行に出かけたのは2001年、行先はアメリカ。 そのとき高校を卒業して絵の勉強をしていた娘が一週間先に出発し、カナダの友人を訪ねていた。娘はカナダでの1週間を楽しんだ後、一足先にロサンゼルスの友人のアパートに到着していた。私たちがロサンゼルスの空港に到着したとき、友人と娘は、『WELCOME』と大きく書かれた風船を持って出迎えてくれた。 そのときが初めての海外旅行だった。仕事で出会ったアメリカの友人の誘いで、決意した。決意というのは大げさかも知れないが、飛行機が怖い私にとって、十時間あまりの飛行はまさしく決意なのだった。

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この、初めての海外旅行を経験することで、これまで自分の頭の中で作り上げてきていた様々なイメージを修正せざるを得ないことに気づかされ、「これがカルチャーショックということか」とうなずいたのである。(写真1絵Noriaki)


海外に出かけることへの実際的な楽しみ、心の浮き立つような時間の過ごし方、私たちはそのような楽しみに憧れは持っていた。しかし、友人を訪ねるという、行ってしまえばあとは安心という旅がいつでもどこでもできるわけではない。

そしてその後も、日常の忙しさの中で何年かが過ぎて行った。

あるとき、仲間たちと海外旅行をしようという話が持ち上がった。私たち夫婦は同じ職業仲間と月に一度集まって自分たちの仕事についてミーティングをしてきた。その中の数人の気の合う友人たちと、カナダに行こうという話になったのだ。仲間の一人が定年を迎えるので、それを記念してみんなで旅行という話になったのだ。以前にカナダを旅したことがある別の友人が、もう一度ゆっくり行ってみたいということでカナダを提案していた。私たち夫婦は山が好きなので、プランの中にロッキーの山並みに近づくということも提案の中に含ませてもらっていた。そしてレンタカーでカナダの森をドライブし、コテージに泊まってカナディアンロッキーの山並みを眺めるという旅のイメージはどんどん膨らんだ。私たち夫婦は切れていたパスポートの申請をし、海外旅行へ気持ちを高めていった。

気持ちはカナダへ行こうと高まっていったのだが、具体的な話をしないで気分だけ盛り上がってしまったことと、あまり先の計画だったためか、いつの間にか話は立ち消えになってしまった。私たち夫婦は「海外旅行」へ気持ちが盛り上がっていたので、その気持ちの落とし所がほしくなった。そこでようやく、それでは自分たち二人で計画して行ってみようかと重い腰を上げることにしたのだった。


さて、どこへ行こうか…、という話になり、これまで行ってみたいと思っていた国々の名前をどんどん言ってみた。おかしいことに具体的なイメージよりも思いつく名前を並べてみるという感じ。二人とも本当に行ってみたい国には不安もあり、そこそこ安全に行けそうなところを口にしているのだ。言葉の不安、政情の不安、衛生的な不安…を乗り越えることができない。自分たちが少しずつ疲れやすくなっていること、とっさの判断が鈍くなっていること…認めたくないけど、背中の皮一枚のところでそーっとなでられているような確かな感覚がある。でも、自分の目で見てみたいところは世界中どこも皆同じ。ほんとのことを言えば、どこにもみんな行って見たいのだった。 それでも、今気持ちが強く向くところというのはある。いろいろ話し合ってみると、これまで話題にしてきた国々には二人とも同じような感想を持っていることが分かった。

たとえばイギリスはどうだろうか。二人とも、イギリスのヒースばかりが咲くという荒涼とした丘には高校時代からずっと思い入れがあることが分かった。私たちくらいの年齢の者は『嵐が丘』というエミリー・ブロンテの作品(1847)に懐かしさを感じる人が多いと思う。ヒースが風に揺れる様の描写が読者の想いをも揺さぶり、『嵐が丘』を奥行き深い作品にしているのではないかと思うほどだ。いつか行ってみたい魅力を感じる筆頭のイギリス。

また、知り合ったころインドの文化について話し合っていたことを思い出した。仏教と哲学の揺りかごの国インド。哲学はギリシャの哲人が有名だが、自然と人の融合する時間を感じさせられる国インド。あの頃いつか行ってみたいと意気投合したが、ついに実現か…とか。 夫はピアノを弾くことが大好きだが、特にバッハの曲が好きだ。ドイツに行ってバッハゆかりの地を見てきたいということも強い希望だった。私はバッハに強く惹かれるわけではないがローレライの歌の調べに誘われるように、どの町にもバレエ団があると言われるドイツという国の国民性には興味があった。

いや、しかし、今回友人たちとの旅は実現しなかったカナダ。ロッキー、厳しい山並みと大きな動物に会えることを楽しみに、せっかく計画したのだから実行しようか。などなど。 自分たちの考え通りに実施できる初めての海外旅行ということで、あっちもこっちもと話に花が咲き、話の世界旅行になってしまうくらいだった。

しかし決まったのは、今回あまり話をしなかったヨーロッパアルプスだった。行先についての話をたくさん楽しんだ結果、「やっぱり、アルプスね」とあっけなく決まった。すとんと入れ物の中に物が収まるような感覚で、ずっと前から計画していたかのようにあっさり決まった。私たちの胸の奥にアルプスの風景はひっそり住み着いていたようだ。


私たちは二人とも外国語に自信がないし、体力もいまひとつという自分たちの現状を謙虚に受け入れ、旅行はツアーに参加する形にした。話が決まってすぐ、もよりの駅の近くにある旅行会社に行きパンフレットをもらってきた。ツアーの内容を吟味して選ぼうと思ったのだが、二人の休暇がいつ取れるかを突き合わせてみたら、出発日と帰着日がぴったり合うのは一つのツアーだけ。そのツアーの前日は私が仕事、帰った翌日は夫に外せない仕事が入っていた。

たった一つしかない実現可能のツアーだったが、行先や行程表などを見て候補にあげた中に入っていたことがうれしかった。これしかないねと、私たちは勇んでツアーの申し込みをした。「勇んで」というのは大げさな、と思われるかもしれないが、旅行代理店のカウンターに座り、大金を支払う旅の申込書を書くことは、心の中で勢いをつけて踏み切って一気に跳ぶような気持ちだった。

旅の内容として望んでいたのは、自由時間が多いことと、できるだけゆっくり一つの場所で過ごせることだったが、このツアーはたまたま2連泊で移動するというコース選定なので、私たちの望みとも合うのだった。後でわかったのだが、このコースは何回かアルプス旅行した人が今度はちょっと趣向を変えて、範囲も広げてみたいなと思って参加するようなコース選定だったらしい。旅行会社の企画としても、もうアルプスには何度も行ったからどうしようかな…と迷っているような人を引き付けようということだったらしいのだ。私たちは初めてでいきなりそういうコースに参加したわけである。

実際一緒に行動したツアーの仲間はみんなスイスには以前何度か行ったことがあるという人たちだった。初めてなのは私たち二人だけ。(地図)

地図・スイスとその周辺国

スイス(+フランス、イタリアの一部)訪れた主なところ


出かける前に


実は私はとても飛行機に乗るのが怖い。でも、よその国に行くためには飛行機か船に乗るしかない島国日本人なので、頑張ることにした。成田からイタリアのマルペンサ空港まで約12時間半、飛行機の中のことはあまり考えず、旅の先へ夢を飛ばす。

ガイドブックを購入し、自分たちのツアーコースになっている記事を眺める。つい何冊か買ってしまう。その中からツアーコースになっているところを切り取って薄い冊子にする。これは夫の仕事。パスポートや保険関係の書類の保管、これは私の仕事。

次に服装などの準備。山に行くにも、鑑賞に出かけるにも、私たちはそれぞれで準備したあと意見交換して微調整することもある。旅行の時も同じ。十日間の日程で、ハイキングもあるので、服装は寒さに耐えられるものが必要。夏とはいえ3000メートルの山の上に行くのだ。しかし、持っている登山靴は軽登山用でも重く、街歩きには向かないので、愛用しているウォーキングシューズで、ハイキングを兼ねることにした。また、氷河では強い日光で目を傷めないようにサングラスが必要という。二人とも眼鏡をかけているので、度の入ったサングラスを用意するか迷ったが、コンパクトに眼鏡の上に装着するタイプのサングラスを用意した。

アメリカへの長い飛行機の旅には首が安定できるトラベル枕が便利だった。また、アメリカに旅した時は知人の家に泊めてもらったので必要ではなかったが、ホテル住まいではスリッパなどの室内履きがあると便利らしい。ガイドブックの中のちょっとした知恵の案内をたよりにこまごました物を用意した。ひもと洗濯バサミなどは実際重宝した。また、夫が思いついて荷物に忍び込ませていたおせんべいの子袋分けはとても嬉しかった。


けれど、まったく考えていなかったカップラーメンなどを添乗員さんの口添えで、成田空港で購入持参したが、これもまた、グッドアイディアだった。

行ってみて初めてわかることだが、スイスの食事は肉料理に使われるソースに独特のにおいがあり、しばらく続くと匂いをかいだだけでお腹がいっぱいになってしまう。途中で日本食を食べる日が設定されていたが、そのような特別な配慮はなくてもいいが、自由に食べられる日にカップラーメンと、スーパーマーケットで買ったトマトとハムと安いシャンパンがなんだか旅の気分を盛り上げて意外な満足感だったのだ。スイスやフランスのスーパーマーケットは、果物や野菜のグラム相当の値段が決まっていて、自分のほしいだけを袋に入れて、秤で量って買うような仕組みになっている。今日はリンゴと大きめのトマトを2個とレモン1個、今日はバナナと、ブルーベリーと小さなトマトを数個、などと楽しみながら買い物ができる。私たちはあまりたくさんは食べられないが、食べきれる程度の物を買うことができるこの仕組みはよいなぁと思った。日本ではあまり食べないカップラーメンを、かの地の物と組み合わせて食べるというのも、また旅という非日常を象徴するようで面白いと感じたのだった。



怖い飛行機に乗って・一日目


朝、最寄りの駅まで車にスーツケースをつめ込んで行く。スーツケースと私を下ろして、家まで戻り、車を置いて歩いてくる夫を、駅前で待つ。横浜まで混んでいる電車に乗っていき、横浜からはJRの成田エクスプレスの指定席を取ってあるので優雅な旅の始まりはここから。窓の外を流れる千葉の森も、今日から仕事としばらくお別れと思えば、なんだか奥深い優雅な森に見えてくる。

成田について、ツアー添乗員さんに初めて会う。考えてみれば、これまで二人で旅をするときにツアーに参加したことはない。初めての経験だった。最近ツアーコンダクターから見た旅と旅人の話などが何冊も出版されていて、そのような書物を読むと、ツアーで旅をすることへの不安が、時々シャボン玉のように湧きあがってくる。しかし、経験がないということは実感を伴わないことなので、案外素早くはじけて消える。成田であいさつする頃は不安の代わりに旅への期待がパンパンに膨らんでいた。

いや、飛行機に乗る不安だけは同時に膨らんでいったのだが、これはただ耐えて乗り越えるしかなかった。


余談だが、アメリカに行ってきて以来、ふと空を見て上空はるかに飛行機が飛んで行くのを発見すると、私は必ず「無事に目的地に行けますように。飛行機さん頑張ってね」と話しかけている。もちろん心の中で話しているだけ…のはずなのだが、時にはぶつぶつ声に出していることもあるみたいだ。飛行機さん頑張って、というのは変かもしれず、機長さん、クルーのみなさん頑張ってという方が現実的かもしれないが、なぜか飛行機さん頑張ってとつぶやいている。


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その飛行機に乗った。夫が窓側、私はその内側。成田を飛び立った機は新潟上空を飛び、日本海からロシア・イルクーツクの方まで北上する。それからロシアの大陸の上を西に向かってひたすら飛んでいく。高度10000メートルの上空から見下ろす世界。どこまでも人間の気配が何もない、山なのか木々なのか、暗く動きのない世界。時々光るのは湖か、白い筋は河なのだろうか、時速900Kmものスピードで飛んでいるのに、どこまでも、どこまでもヒトのいない風景は続く。けれど、あるときそこに不自然な、幾何学的な一筋の道があることに気付く。ヒトが力を尽くして伸ばしただろう道。いったいこの道を作って、人はどこへ行こうとしたのだろうか。日々の生活を超えて何を望んだのか…。こうして、怖い飛行機に乗って未知の国を目指す私もその、人の系譜に繋がっているのだろうか。(写真3)

機はモスクワの北方を飛び、東ヨーロッパのあたりから南下を始め、今回はイタリア・ミラノのマルペンサ空港まで直行する。せっかくスイスの上空にたどりつくのに、飛び越えてイタリアまで長く飛ばなければならないのが納得しにくい旅程だったが、スイスへの直行便はあまりないことが後で分かった。

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飛行機はJAL。機内食はまずまずおいしかった。私たち夫婦は赤ワインを1本ずついただいて、機内食をゆっくり楽しんだ。(写真4)


マルペンサ空港に着いたのはもう夕方だったので、荷物を受け取るゲート付近の店は閉まっていた。のどが渇いた私たちは飲み物を買おうと、自動販売機を探した。しかし、ようやく発見した自動販売機はコインしか使えないものだった。成田で両替できるユーロは紙幣のみなので、私たちは空港では飲み物を買えなかった。

空港で待っていたバスに乗り換え、その日の宿泊予定地スイスのサン・モリッツに向かった。空港で飲み物を買えなかったので、夜中にのどが渇いてしまったら、どうしようかと困っていたら、バスの中に積んであるミネラルウォーターを売ってくれるとのことだった。代金は翌日買い物をしてコインを用意してからでよいとの申し出だったので、譲ってもらうことにした。初めてのヨーロッパだったが、生水を飲まないほうがよいという知識は、ガイドブックでしっかり仕入れてある。ツアーの仲間も、何本か購入する人がいた。

イタリア北部の観光地コモ湖のほとりを通って行く道だったためか、道路は渋滞。イタリア・スイスの国境の峠に着いた時には真っ暗になっていた。峠あたりからは長い旅の疲れでうとうとしていた。時折目を開けると闇の中に湖がひろがり、湖のほとりに建つ村の家々がゆったりと浮かび上がり、後ろに消えていく。夢を見ているようなふわりふわりとした窓外の景色もすっかり睡魔に覆われた頃、サン・モリッツのホテルに着いた。時間も気分も真夜中。ここがスキーで有名なところか…というような感慨を覚える暇もなく部屋に入って休んだ。



氷河まで・二日目


翌日は楽しみにしていた氷河への散策。まずホテルで朝食を食べ、バスに乗る。ホテルの朝食はバイキング方式でこの後どこもだいたい似たようなものだったが、どこへ行っても小さなかわいいダイニングで、落ち着いて食べることができた。また、果物が何種類か籠に入っているが、これはまるごとノーカット。食べたい果物を自分たちでカットして食べる(写真5)。スイスのリンゴは小さくて酸っぱい、日本のリンゴがいかにおいしいか…と、私たちは話した。

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さて、食事がすむと出発である。サン・モリッツの駅からイタリアへ向かうレーティッシュ鉄道ベルニナ線の電車に乗る。駅に入ると、ホームにはキオスクがあって私はびっくりした。キオスクというのは日本の駅の売店のことだと思っていたからだ。自分の無知はいつも自覚していたつもりだったが、このような歳になってもまだ「世間知らず」という言葉が使えることに我ながら驚いた。無知なのは恥ずかしいことでもあるが、発見の喜びもまたあるので素直に新しい発見を喜びながら旅をすることにする。

キオスクでお菓子とスイスの地図を買う。スイス全土の地図がコンパクトに折り畳んであるもの。地図上の地名などは読めないが、地図そのものは万国共通、アルファベットの地名も、読むことはできないが標識に同じ文字を探すことはできる。英語読みをしてもなんとなく通じる地名も多い。スイスの山や町はどこを取っても比較的知名度が高く、私たちでも知っているところが多いのだった。


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箱根登山鉄道と同じ真っ赤な電車にも嬉しくなったが、ホームには日本語で箱根と書いた板があった。箱根登山鉄道の登山鉄道線は、建設当時の技師長がベルニナ線を視察、調査した結果などを基に建設されており、このことが縁で1979年にレーティッシュ鉄道と箱根登山鉄道は姉妹鉄道となったそうだ。ベルニナ線の主要3駅には箱根登山鉄道から寄贈された駅名板が設置されていたり、「Hakone」と命名された車両があったりするそうだ。私たちがこの後、モルテラッチ駅で見た、日の丸と「箱根」という文字をつけた電車がそれだったのだろう。(写真6)


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ホームの地下道を通ってこれから乗る電車のホームに行く(写真7)。ホームから段差のある車両に乗る。電車の席の予約は日本と違うことが分かった。団体の人数で一つの車両が割り当てられる。私たちは一車両全部には少なすぎる人数だったので、車両の前側、または後側などと指定されていて、中のシートは自由だった。きっちり何シートという風になっていないので、少しゆとりがある。バスに乗るときにも感じたが、今回のツアーの仲間は我先にと席を争うような人はいなく、周りの様子を見ながら自然に収まるところに収まっていくという感じだった。

ツアーは夫婦らしき二人連れが7組、私たちもこの仲間。母娘が2組、友人同士の二人連れと、単独の人が2人。合わせて22人の参加者に、添乗員さんで総勢23人。私は「やくざ風さん」「せいたかさん」「チロルさん」「げんきさん」「しとやかさん」「山あるきさん」などと、勝手に呼んでいたが…私たちもどんな風に呼ばれていたのだろうか。

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さて、ところ変わればいろいろな約束事も変わるのだという、私たちの新鮮な驚きを乗せて山と湖のサン・モリッツの駅を電車は出発した。車内は四人掛けの向かい合わせのシートで、窓の内側には日本の電車にもある小物が置ける棚があったが、その小さなスペースに沿線の観光地の地図が描いてあった(写真8)。窓外にはヤナギランのピンク色が次から次へ流れていく。小さな川沿いに走っていくが、川の淵には明るい緑とヤナギランのピンク。そのピンクの帯が細くなったり大きく広がったり、さわさわ揺れていたりするのだった。日本の山々のヤナギランは年々減っている。大菩薩峠ではほとんどなくなって、これはシカが食べたためですと、小屋のおじさんが嘆いていた。スイスでは町の中にも山麓にもたくさん咲いていた。


モルテラッチ駅に着く。ここからモルテラッチ氷河目指して歩いて行くのだ。

全長約7キロメートル、グラウビュンデン州最大の氷河。2008年、世界遺産に認定されたレーティッシュ鉄道ベルニナ線の周辺にあたる地域。モルテラッチ駅前には、鉄道が開通する前の19世紀末から世界中から訪れる多くの登山家に愛されてきた歴史を誇るホテル・レストランがある。

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約120年前にはこの駅まで氷河がきていたそうだ。氷河が後退していくとともに新しい谷が形成されてきた。歩いて行くと立て札がある。初めは岩に1878などと赤い大きな数字が書いてあったが、次第に立て札に変わった。約20〜30年おきに「1960年の氷河の最後」「2000年の氷河の最後」などと、氷河がどのあたりまであったかを示す標識があり、だんだん氷河が後退していく様子がわかる(写真9)。1878年から測量されてきた氷河の記録を確かめることができるようになっている。

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駅から2キロ、ゆっくり写真を撮ったりしながら1時間半歩いてようやく氷河の最後のところにたどりついた。道は氷河が削った谷筋をゆったりと山に続き、氷河が融けた河原には小さな高山植物の花が広く、広く、咲き競っていた。(写真10)


話も道草になるが、私は歩きながら道端を眺めていて四つ葉のクローバーを発見した。視力が悪いのに不思議なのだが、何気なく歩いていて発見することはよくあるのだ。スイスの旅ではツェルマットの川沿いの道を歩いているときも、草むらの中に四つ葉を発見した。視力が悪いゆえに、一つ一つ細かいものを注視しない癖のようなものがあるのかもしれない。全体をとらえていると、四つ葉の広がりはイレギュラーで、視線がそこに止まるのかもしれない。分析しようとは思わないのだが、山道を歩いていて道端の四つ葉を発見したことは何度もある。しかし、ではクローバーが一面にある草原でじっくり四つ葉を探そうと思っても、意外に見つけられないのだ。私は発見した四つ葉を手帳の間に挟んで押し葉にした。

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氷河は遠いが、高山の光は強く、私たちは今回用意した取り外しができるサングラスをメガネの上に装着した(写真11)。ここに咲く高山植物は、花の形は小さいけれど、とてもくっきりした彩りで鮮やかだ。濃い赤のサボテンのように見える花、ベンケイソウの仲間らしい。空よりも深い蒼の竜胆の仲間、輪郭の線で手が切れそうなくっきりした黄色の菊の仲間。そして背の高いトリカブトも、深い紫の花をたくさんつけていた。どれもこれも見とれてしまう(写真12)。日本ではあまり見かけない形のアメジスト色に光るような花、エリンギウム・アルピヌムは、保護指定植物なのだそうだ。鳥の羽のような細かいトゲ状のガクらしき物が、日光を反射してきらきらしている(写真13)。私たちはあっちもこっちもと写真を撮りながら歩いていて、気がつくとツアーの仲間たちに遅れているのだった。ただ、このツアーのよいところはおよその行程のイメージを説明して次の集合時間と場所をはっきり知らせ、後は自由にどうぞという姿勢だったから、私たちはそれほど焦ったわけではない。

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道の向こうに氷河が見えてきた。自分の目で初めて見る氷河だ。山の上は真っ白、そこから筋をひいて、自分たちが今歩いている道の端まで氷が届いている。氷河と言うから河なのだろうが、どう見ても、氷の谷としか見えない。近づいていくと、筋のように見えるところはかなり大きな起伏で、石や岩や土で汚れていて、氷河は実は真っ白ではないのだった(写真14)。

ここまでの一時間半、次々に出てくる立て札によって、心はいざなわれていたが、本当の氷河、そしてこれは河口と言ってよいのだろうか。そこに今私たちは立っているのだ。

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たくさんの小説、写真、映像などでイメージしてきた氷河。もっともっと暗い巨大な重量感を感じるかと思っていたが、ここはひたすら広く明るい。私たちは並んでしばし氷河と向き合っていた。(写真15)


氷河からの帰り道はあっという間だった。駅に引き返し、今度はバスに乗り込んだ。駐車場までの道は水量の多い川を渡っていく。氷河から流れてくる水は光を反射して滝となって足下を流れおちていた。私たちはバスでさらに上方のディアボレッツァ駅まで行って、ロープウェイに乗る。

ヨーロッパアルプスと言えばエーデルワイスを見たいと多くの人が思うだろう。映画『サウンド・オブ・ミュージック』(ロバート・ワイズ監督1965年)の挿入歌「エーデルワイス」も日本ではよく歌われている。エーデルワイスの花は目立つものではないが清楚な感じが多くの人に好かれることと、ヨーロッパアルプスにはこの種の花が一種類のみということもあって希少価値があるようだ。日本の同種の花はウスユキソウの仲間で、山塊ごとに異なる品種のウスユキソウがあり、しばしば見ることができる。

私はハヤチネウスユキソウを見るために、岩手の早池峰山まで登りに行って、友人にあきれられたことがある。尾瀬の至仏山ではホソバヒナウスユキソウに出会えた。小さな可憐な花である。東北地方の日本海側の山々ではこれらのもとになるヒナウスユキソウが群落になって咲いている様子が見られる。秋田駒ケ岳、鳥海山、月山などでは、高山植物の色とりどりの中にあってお花畑をつくっていて美しい。


さて、アルプスのエーデルワイスだが、この地域には自然に咲くものはないとのことだった。私たちは駅の周りの植栽のなかに大振りの花がたくさん咲いているのを見つけた。私たちが花と呼んでいるところは、本当は花弁ではない部分だが真っ白で、純白とはこういう色かと思った。大きな花だったので、さすがにアルプスの名花と呼ばれるだけあると思ったのだが、のちに自然の中に咲く姿を見て、実はとても小さくて可憐な花だったことを知った。この駅では栽培されていたので、大きな花がついていたのだろう。それでもアルプスの山を歩いた最初の日にエーデルワイスの花をたくさん見ることができてうれしいのだった。

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私たちは少し歩いてバスに乗り込んだ。バスは川沿いをぐんぐん登っていき、隣にはイタリアまで続く線路が走り、遠くにはディアボレッツァ氷河が見え隠れしていた。ディアボレッツァ駅の駐車場でバスを降り、ロープウェイに乗るのだが、ロープウェイ乗り場に行く道は線路を越えていく。駅にはホームがない。線路沿いに駅舎が建っているだけである。道は駅舎の近くの線路を横断するので、電車が駅に停まると車両が道をふさいでしまう。ちょうど電車がやってきて駅に停まり、私たちは線路のこっち側で電車の通過を待った。観光路線なので、電車の中からはたくさんの人たちが外を眺めている。お互い観光客なのだが、手を振り合って面白い光景だった。

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からし色のロープウェイで一気に上るとそこは標高2978メートルのディアボレッツァ展望台。目の前に真っ白いベルニナ山脈が連なっている(写真16)。ピッツ・バリュー3905、ベラヴィスタ3922、ピッツ・ズッポ3996、ピッツ・ベルニナ4049、一つ一つがどおんというふうにそびえている。圧倒される。

その峰から雄大なヴァドレット氷河が流れている(写真17)。下流でモルテラッチ氷河に注ぎ込む。氷河を挟んで、目の前に鋭角の白い山頂、ピッツ・ベルニナがそびえている。肩から伸びている二重山稜はナイフのように鋭く空に切り込んでいる。氷河から真っすぐそびえている。この足元の幾筋もの連なりが氷の塊ではなく、氷の流れだということは何回見てもすとんとうなずけない。日本で普通に暮らしてきた私には氷河は理解を超えた存在なのだった。しかも、氷河地形と呼ばれる削られた山河の姿が、どうしてもこの氷との関係としてうなずけないのだ。「だって、動いていないでしょ!どうして削ってしまえるの?あの硬い岩山を!」と、心の中の自分がぶつぶつ言っている。

日本の立山などでカール地形を見た。氷河の名残という。そう説明されて、分かる気がした。スプーンでさっくり削ったような地形だが、ここアルプスの岩山のように1枚の壁になって立ってはいない。しかし、大きさ、広さが違うだけで、よくよく目を上げてみると、確かにスプーンでざぁ~っくり削ったようにも見える、かな。


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ここのレストランで昼食。この建物は氷河の谷に向かってガラス張りの広い展望台になっている。このガラスに向かいの山脈がきれいに映っている。レストランではさっそくスイスの味、黄色がかった薄いオレンジ色のソースでまぶした肉が大きな皿にたっぷり。そのソースの香りが独特の強さで鼻につく。隣の席に座った、私がこっそりやくざ風と名付けたこわもて顔のおじさんは、匂いをかいだだけでお皿を脇に寄せた。食べられないと奥様らしき人に話している。上品な感じの奥様は「何も食べないと、お腹が空くわよ」と言いながら、自分も顔をひそめている。私は肉が苦手なので、その量を見ただけでごめんなさいと言いたいところだったが、旅は何でも経験と思っていたので少し口にした。しかし、そのソースはやはり苦手なものだった。(写真18)

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この日のランチはこんな感じであまりすすまなかったのだが、デザートはかわいらしいジェラートで、スイスの国旗のデザインがおしゃれだった。日本の国旗だって同じ色だからおしゃれにできそうなんだけど…、なぜかアイスのデザインにはあまり似合いそうではない。あまりにもシンプルすぎるのか。食事の後私たちは絵ハガキと切手を買った。そして、少し氷河の方に降りてみた。岩角には花が咲いている。周りは氷と岩ばかりの世界なのに、小さな高山植物がとても色濃く咲いている。(写真19)

しばらく山頂の散歩を楽しんだ後、再びロープウェイに乗ってバスの待つ駅前広場まで下った。ロープウェイからはベルニナ急行の線路がぐるっと山麓を回っているのが見える。その線路をおもちゃのような電車が走っている。赤い色がスイスアルプスの山並みにはとてもよく映える。少し下ると線路の両脇に二つの湖が見える。細い線路を挟んで白い湖と黒い湖、つながっていないのが不思議なくらい近く隣り合っているのに、まったく色の違う水をたたえている。確かこの湖の間が分水嶺になっているそうだ。(写真20)

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私たちはあまり予習などはしないのだが、世界の電車を特集したDVDを見たときにベルニナ急行をイタリア側から旅する記事があったように思う。その中でこの二つの湖の間のオスピッツオ・ベルニナ駅が紹介されていた記憶がある。DVDでは湖の色は見えるが、大きさはよくわからなかった。今ロープウェイから見おろすとその大きさがよくわかる。黒い湖は小さいが、白い湖はその5~6倍、いやもっと大きいように見える。

白い湖はラーゴ・ビアンコといい、カンブレナ氷河の氷河湖で、発電用のダム湖でもあるのだそうだ。対になるレイ・ネイル(黒い湖)も、オスピッツオ・ベルニナ駅近くの車窓から見ることができると案内されていた。ラーゴ・ビアンコは、強い浸食作用を持つ氷河の溶け水が流れ込むために水が白濁して見えるのがその名前の由来だという。


さて、再びバスに乗ってサン・モリッツに戻った。そのあとは自由時間。サン・モリッツの街は建国記念日のお祭りで楽団が演奏したり、町の人たちがにぎやかに屋外でパーティをしていたり、花や風船に飾られて中心部は空気までも浮かれている感じだった。私たち二人は別のケーブルカーの駅を目指した。そこは古い小学校の校舎の裏だった。古いと言われたが、お城のような立派な建物で、ヨーロッパの建物は古いほど重みが感じられて美しい。つい写真を撮ってしまう。

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また道路のロータリーが円形で、信号がないのが珍しく、その道路標識なども写真におさめる。(写真21)

この円形の交差点は大きなもの小さなものいくつも通ったが、とてもよく考えられていると思った。ヨーロッパなどを時々旅している人には珍しくもないのだろうが、私たちは初めての旅だったので、そんなことの一つ一つが新鮮な驚きなのだった。円形の中は町ごとに工夫された彫刻や花壇などで飾ってあり、この交差点が成り立つためにはゆとりある土地が必要なのかもしれないと思った。人が集まって暮らすために、豊かな街をイメージして、恐らく厳しい自己規制もあって出来上がってきたものなのではないかと思う。私たち日本人は欧米の文化を自由と感じ、自分たちが不自由な社会で生きてきたと感じて近代を過ごした。そして、自由を手に入れたいと強く願って、今の日本の文化を築いてきた。しかし、自由というのは「何でもアリ」と錯覚してきたのではないだろうか。自分がよければ何をしてもいい、と。アメリカを旅した時に厳しい人間関係を感じた。自分が考えをきちんと表出できないとはみ出してしまう。ヨーロッパの一部ではあるが今回スイス、イタリア、フランスの端っこを歩いてみて、この美しさはみんなで約束事を厳しく守りながら作ってきたのではないかと感じた。おそらく日本の里山がとても美しく守られてきたのは、里の人々が厳しく約束事を守って暮らしてきたからなのだろう。そしてその美しさが結局はそこを守る人々の暮らしを豊かにするものでもあったはずだ。

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さて、話をもどそう。ケーブルカーに乗ってサン・モリッツを出発した私たちは、途中2486メートルのコルヴィリでロープウェイに乗り継ぎ、標高3030メートルのピッツ・ネイル展望台駅についた。この日の乗り物はホテルからもらった1日パスを利用した。夕方にはまたホテルに返したのだが、サン・モリッツのいろいろなケーブルカーやロープウェイにそのまま乗れる便利なカードだ。

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ケーブルカーの駅は広場からは学校の裏に隠れていて見えない。地味な駅だった。しかし、展望台からは雄大なアルプスの山が360度の大展望。ロープウェイの駅にはアルプスの大きな動物シュタインボックの銅像が立って、ロープウェイで到着した人々と一緒にサン・モリッツの街や湖を見下ろしている(写真22)。私たちはそこから少し自分の足で歩いてピッツ・ネイル山頂まで登った。ピッツ・ネイルとは黒い山という意味なのだそうだ。途中の岩肌は険しく、アルプス!という感じだ。そして、この岩の間に小さな花々が風に揺れている。濃いブルーの小さなリンドウのような花はこの後他の山でも見ることができるのだが、その濃い蒼の深さにしばらく見入ってしまうほどだった(写真23)。またフィテウマ・グロブラリイフォリウムという長い名の花は紫色の小さなおもしろい形の花が集まって咲いている(写真24)。日本の山では見かけない形のおもしろさで、スイスでは行く先々の山で見ることができた。

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ピッツ・ネイル展望台はシュタインボックの銅像があることでは有名らしいが、日本ではあまり名前を聞かない。360度の大展望は険しく、少しおどろおどろしく、どこまでも広くてあまり絵画的なまとまりはない。山頂は、風が強く寒いくらいだったが、初めて自分の足で登った最高点、素晴らしい時間だった。(写真25)


山頂の展望を満喫した後は、ロープウェイで下る。


このロープウェイからは、広々としたアルプスの草原が見渡せるが、その草原に時折動くものが見える。これはマーモットという、ネズミ目リス科の動物で、ずんぐりした体格の大型のジリスのこと。マーモットは巣穴の中で生活していて、冬季は冬眠するということだが、夏は草原を走り回っている。大部分のマーモットは社会性の高度に発達した動物で、危険が迫るとホイッスルのような警戒音でお互いに知らせあうということだが、その声は聞くことができなかった。マーモットは主に草食である。草、果実、コケ、木の根、花などを食べるのだそうだ。ロープウェイから草原を見ているとすばしこく走っていて、岩の上でちょこんと立ち止まる。岩の色とマーモットの毛の色がそっくりなので、うっかりしていると見つからなくなってしまう。アルプスにはたくさん生息しているということだが、このロープウェイからが一番よく見えた。

ロープウェイからケーブルカーに乗り換え、途中駅チャンタレラで下車した。少しハイキングしてハイジの家を探そうというプラン。自由時間だったが、この展望台へはツアーの人たちは数人が登ってきた。添乗員さんも、ハイジの家まで行くということで、私たちは数人でぶらぶら山道を歩き始めた。ハイジの小屋までの山道は両サイドに高山植物を植えてあり、小さな花の名前の札が立ててある。できるだけ自然の風情を残した中にアルプスの花々が風に揺れて咲いている。いかにも植物園という感じの日本のいくつかの高山植物を植えてある園に比べると、ここは田舎の山道にしか見えない。私たちツアーの何人かは連れ立つとも見えず、付かず離れずという感じでそれぞれ興味のある花の前で立ち止まったり写真を撮ったりしながら登って行った。

26

狭い山道が開けると、斜面いっぱいの草原をトラクターが草刈りをしていて、その向こうにケーブルカーが見える。私たちが乗ってきたラインである。道の向こうから一つ上の駅で降りた同じツアーの仲間が歩いてきた。ここで合流したねと、一緒にハイジの小屋に向かうことにする。高台のサン・モリッツが見渡せる丘の上にその小屋はあった。中には何もない、ハイジヒュッテという看板がかかっている頑丈な木の小屋だった(写真26)。隣の広場には子供向けの遊具があり、小さい子どもたちが遊んでいた。母親らしき人達が脇にいて、私たち旅行者にとっては感動のアルプスの山麓や広い草原や古い木の小屋も、ここで暮らす人々にとっては日常なのだということを感じた。その風景は私たちと彼らが2枚の絵を重ねているかのようにそれぞれが独立している姿として実感され、妙な感覚だった。ここに何日か暮らすと2枚の絵が自然に合体してくるのだろうか。

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さて、ハイジの小屋だが、息子の妻がハイジの話を好きだということで、ハイジの家に行ったら写真を撮ってきてくださいと頼まれていた。そこで、この頑丈な木の小屋の写真もたくさん撮った(写真27)。中には家具はなかったが気持ちよさそうな木の木目が美しかった。ここは、ハイジの映画を撮った時の小屋なのだそうだが、実はもう一つのハイジの家があり、私たちのツアーコースに入っている。このピッツ・ネイルの山麓にあるハイジの小屋は知る人ぞ知る静かな場所で、観光者も私たち以外はいなかった(写真28)。見渡すばかりの草原にぽつんと立っている、物語の主役にぴったりの小屋だった。

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小屋からの展望を楽しんだ後、さらに歩いて、サン・モリッツの街に戻った。さすがに足が疲れた。しかし、私たちの望みはアルプスをできるだけ自分たちの足で歩いてみたいということだったから、初日からどっぷりアルプスの空気に包まれて、気持ちは最高だった。サン・モリッツの学校前広場に集合して夕食を食べに行くことになっている。この広場にはバス停があり、待っているあいだに、楽しい模様の連結バスが何台も止まっては走って行った。バスのデザインが踊り出すようなカラフルな色で見ているだけで楽しいものだった(写真29)。ツアーの仲間がみんな集まってディナーに出発、近くのホテルの地下にあるレストラン。ここでは、レタスが山盛りになって出てきてびっくりした。サラダには違いないが、レタスだけ?山盛りですか?みたいなクエスチョンマークを頭の周りに飛ばしながらおいしいワインと共に夕食をいただいた。サーモンのグリルもとても大きかった。夕食後はまたバスでホテルに戻った。

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ホテルの窓からはサン・モリッツ湖が見える。すぐ近くに見えるグランドは、スポーツ選手たちがやってきてトレーニングをすることで有名なグランドとのこと。あまり興味のない私たちでも、ニュースなどで時折耳にするような選手の名前を聞かされた。サン・モリッツのホテルとはこの夜でお別れである。

翌朝、ホテルの朝食は昨日と同じく野菜がない。果物はあるが丸ごと用意してあって、自分でカットして食べる。このホテルで驚いたのは味噌スープがあったことだ。しかし、この味噌スープ、まさに味噌のみ、つまり味噌味のお湯なのである。卵がそばにあって、自分でボイルドすることもできるし、生のまま味噌スープに入れて食べてもよいようだ。しかし、他に私たちが思う味噌汁の具は何もない。チーズとハムが数種類、ミルクやジュース、コーヒー、紅茶などの飲み物とパンは豊富にあり、ジャムやバター、数種類あった果物のジュースはフレッシュだった。驚いたのはシリアルがたくさんあったことだ。ヨーグルトも数種類あった。この後いくつかのホテルに泊まるのだが、朝食はほぼ似たようなメニューになっていた。どこのホテルでもパンはとてもおいしかった。今回の旅行で記憶に残ったことの一つは、パンがおいしかったことが意外だったのと嬉しかったことだった。パンが主食の国なのだから当然といえば当然のことなのだった。私の友人のアメリカ人が日本に来ると、パンをたくさん買い込み「日本のパンが一番おいしい。つい食べ過ぎちゃう」と言っているので、つい私もそういう先入観になっていたのかもしれない。日本のパンは確かにおいしいが、甘くてふわふわしていてお菓子のようだ。

このホテルのレストランは窓から遠くの山と庭の大きな木がとてもバランス良い配置で眺められ、毎朝木に泊まった小鳥がさわやかに鳴いていた。私たちはホテルを出発する時、門のところにあった大きな鳥の彫刻と一緒に写真を撮った。しかし、その彫刻の鳥と毎朝鳴いていた鳥が同じ鳥なのかは残念ながらわからないままだった。



ハイジの家に・三日目


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三日目は再びサン・モリッツの駅から、今度はレーティッシュ鉄道アルブラ線に乗る。フィリズール駅で降りて、世界遺産で有名なランドヴァッサー橋を下から見上げることになっているのだが、ランドヴァッサー橋は修復工事中で赤いカバーが掛けられている。ガイドさんは100年に1回の工事ですから、皆さんは珍しい橋を見ることができるのですよと、笑わせていたが、写真などで見る橋の美しい姿は見られないのだった。小さな川沿いに歩いて橋の下につくと、見上げる高さにびっくり。写真でも感じていたが、電車の通る橋の部分がとても狭く見える。ポキッと折れそうだ。その折れそうな橋の上を工事中のためか少しスピードをゆるめてベルニナ急行が走っていく(写真30)。私たちは下から手を振ったが、電車の乗客も手を振っていた。あの中にはきっと日本人観光客がいっぱいいるねと私たちは話していたのだった。工事中のランドヴァッサー橋の見学は早々に引きあげて、バスでマイエンフェルトへ向かった。


マイエンフェルトは公園全体が小説『アルプスの少女ハイジ』(スイスの作家ヨハンナ・シュビリの児童文学作品1881)の世界をイメージして作られているところ。ハイジの泉やペーターの小屋もあり、ここのハイジの家は様々な家具などもあって生活の場として作られている。ハイジは小説上の人物だから、実際にその人がいたわけではないのだが、ハイジの時代の生活という風に見ると興味深い。 最初にハイジの泉の駐車場で少し休んだ。売店もありきれいな花が咲く草原もあり、バスの旅で疲れた足をのばしながら、私たちはハイジワインの小瓶を買った。ホテルの夜のお楽しみに。泉の水も飲めるというので飲んでみた。格別異なる味を感じなかったのは感性がにぶってきているのだろうか。泉には木の葉が浮かび、注ぎ込まれる湧き水が作る小さな波に揺れていた。

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しばらく休んでさらに山を登り、レストランで昼食をとった。このレストランにも、ハイジがいっぱい。ランチョンマットもハイジの絵。庭にはおじいさんと牛の彫刻がある。私たちの昼食はパスタ、はて、ハイジも食べたのだったっけと記憶をたどるが思いだせない。まあよしとして、旅の特権、昼からワインをいただいた(写真31)。日本では考えられなかったが、ここではワインの方がジュースより安いのだ。安心していただける。だが、もちろん1杯だけ、たくさん飲んでもそのあとの時間を楽しめなければ意味がない。

食後は自由時間。ハイジの家までは山道を少し歩く。あいにくポツリポツリと雨が降ってきた。傘をさしての散策となるが、雨は降ったりやんだりしている。ハイジの家というハイジハウスがある一角はリンゴの木があったり、売店があったり、普通の農家のような家があったりする。リンゴの木がとても自然な枝ぶりでたくさんの小ぶりのリンゴがなっているのが美しかった。夫の生まれ故郷は長野なのでリンゴ畑はたくさん見ているが、日本のリンゴ農園の木は剪定がされていて、人間が手を入れやすいように、地面から一定の高さで横に伸ばしてある独特の枝ぶりになっている。木の自然の姿ではないため全体の姿はあまり美しくない。私は夫と一緒に初めてリンゴの花を見に行った時軽い失望感を持ったことを思い出した。今目の前にあるこのリンゴが私のイメージのリンゴの姿だったのだとうなずいたのだった。もちろん日本のリンゴ農家の作るリンゴはとてもおいしいし、スイスの小さなリンゴは酸っぱくて実はそのまま食べてもあまりおいしくない。どちらを選ぶかは単純なものではないし、どちらもそこに住む人々や生活に密接に結びついている姿なのであろう。一旅行者があれこれ言えることではないとも思うが、自然の姿に近くのびのびしているリンゴの木はとても美しかった。(写真32)

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長野は様々な実のなる果樹園があるが千曲市森の『杏の里』も有名だ。山に挟まれた空間がピンクに染まる。私たちが訪れたときは、まだ三分から五分咲きの頃で、サーモンピンクがたゆとうようだった。

杏の木もやはり人間の工夫がこらされているのだが、山に迫った畑の奥に杏の大木があった。枝を空に広げる姿は言葉を忘れるほど美しかった。私たち夫婦は、定年退職後は長野で暮らそうと野望を抱いているが、私にはさらに密かな野望があって、庭にリンゴの木を自然のままに置きたいと思う。


ハイジの家に入るにはチケットを買う必要がある。そしてチケットを買うとハイジの家を訪ねた証明書も書いてくれる。これは息子の奥さんに見せてあげなくちゃと言いながら、彼女へのお土産を選ぶのも楽しいのだった。楽しみにはいろいろあるが、誰かの喜ぶ顔を思い描いて物を選ぶなどというのもまた楽しみの一つかもしれない。ただし、その人の好みがわかっている場合の話で、何がいいか悩むお土産選びというのもよく経験することでこれは苦しみに近いものになることすらある。ハイジの家ではきっと喜んでくれるだろうという見通しがあったので楽しみながら小さな品たちを見て回った。

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石の家の中は、全体にとても狭い印象だった。小さな曲がった階段を上っていくと、ベッドルームがあり、昔の生活の様子が再現されている(写真33)。そして、そこにはおじいさんの人形もちんまりと座っていた。私たちはおじいさんを挟んで写真を撮ってもらった(写真34)。このおじいさんはこれまでたくさんの人と一緒にカメラに収まってきたのだろうと、意味のないことを考えながら。最後にハイジの家を訪ねた証明書に印を押してもらった。こういう徹底して楽しませようという観光への意気込みのような姿勢は経済的にも効果をもたらすのだろうが、一方で強い意志がなければ成り立たないことだと思った。そして地域全体の共同体としての連帯感をも必要とするだろう。これまで歩いた場所は観光地として客を集めているところだが、そこで感じたのは、自然の景観やそこで暮らす人々の生活を乱すような大きな看板が全くないことだ。ひらひらする幟など全く見ない。自然そのままを、暮らしそのままを、よかったらどうぞ一緒に、という空気なのだろうか…居心地がよかった。

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ハイジの家の散策を終えた後、私たちは再びバスに乗った。湖沿いに長いドライブをして、目的地ルツェルンに向かった。


マイエンフェルトの山の向こうはリヒテンシュタインという。スイスの東の端だ。そこからスイスの真ん中あたりまで、湖沿いにバスはひたすら走る。チューリヒへの別れ道まで、道はしばらくヴァレン湖、チューリヒ湖と、湖に沿っていく。細長いチューリヒ湖の中ほどから左に曲がり、ツークを越えて、ルツェルン湖まで高速道路を利用しながらひたすら走った。道は湖を眺めながらの自然豊かな道中だった。


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ルツェルンではライオンの記念碑にまず向かった。観光ガイドなどに掲載されている写真を見ると大きさが分かりにくいが、池の水面越しに白い岩の壁が立ちはだかり、その壁の中腹に大きなライオンが臥している(写真35)。私たちは池のこちら側からライオンを見上げる。ライオンは苦しそうな表情である。フランス革命で戦死したスイス兵を悼む記念碑だという。スイスの若者が兵隊としていろいろな国に行き、そこで命をおとしたり、けがをしたりしていた歴史を表しているそうだ。スイスは山ばかりの小さな国で、精密機械の時計産業などは有名だが、他に産業が起こしにくかった歴史をもっている。永世中立国を宣言し、山ばかりという国土を、美しさとしてアピールし、世界中から訪れる人の多い国となっている。スイスではユーロに加盟していないので貨幣もスイスフランを使用している。誇りを持っている国という印象がある。

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ライオン記念碑を見た後は少しだけ自由時間があった。有名なカペル橋のたもとで解散。ツアーの多くの人はカペル橋をちょっと見て旧市街の教会に足を延ばしたようだ。私たち夫婦はゆっくり橋を散策した(写真36)。カペル橋はヨーロッパでもっとも古い屋根つきの木造の橋という。屋根があるのだが、柱や屋根の桟にもさまざまな絵が描かれていた。欄干にはずっと花が飾られていてそぞろ歩くのが気持ちよい。橋のかかるロイス川には白鳥が何羽も浮かんでいて橋からパンくずを投げると優雅に泳いで近づいてくるのだった。私はちょうど小さなパンの塊を持っていたので、白鳥さんたちにあげる人達の仲間になった。橋の中央には水の塔があり、そこは円形に広くなっていて小さな雑貨店があり、さすがに観光名所だけあってかわいいマグネットや小物が並んで、にぎわっていた。私たち夫婦も少しお店の中をのぞいて対岸へ渡った。

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対岸の町並みを川沿いに歩いた。すると、川岸の歩道に銅像のように立っている人がいた。全身シルバーに塗っている。しばらく眺めたが、動かない。本当の銅像のようだ。でも、子どもが足元の帽子にコインを入れたら、銀の銅像は静かにお辞儀をした。私もコインを入れ、しかも並んで写真を撮ってきた(写真37)。彼はカメラに収まるときには銅像スタイルをやめて、少し寄り添ってくれるのだった。

そんなことをして、子どものように歩いてから、もう一つのラートハウスジュテク橋を渡って戻った。カペル橋は川を斜めに渡るようにかかっていて、中央の水の党と呼ばれるところは高い塔になっている。もう一方の橋はまっすぐ川を渡る。この橋からはカペル橋の美しい姿を平行して眺めながら川を渡ることができる。(写真38)

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ルツェルンの町は川沿いに古い建物が並び、とても美しい。スイスの街を旅していて感動するのは建物の窓々にたくさんの花が活けてあることだった。カペル橋にも彩り豊かな花が並んでいたが、ガイドブックによるとこれらの花には虫の嫌う香りがあり、窓を開け放っていても虫が入ってこないようにしているとのことだった。標高が高い国土のスイスでは、夏も冷房の必要はなく、窓を開けて冷気を入れて生活していたらしい。一部のハーブには虫の嫌う香りがあるとのこと、私は帰ってから台所の掃き出し窓の外にハーブを植えようと決めた。日本の蚊にも効果があるとよいのだが…。


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さて、ルツェルンの観光を終えると、私たちは再びバスに乗ってこの日の宿泊予定地インターラーケンに向かった。インターラーケンは名前の通り二つの湖の間にある都市で、交通の要衝地でもあった。町には大きな二つの駅があり、私たちはその二つの駅を通り越してホテルに向かった。

途中カジノ・クアザール・インターラーケンの中にあるレストラン「スパイヒャー」で夕食を食べた。このカジノは1859年に建てられた宮殿のような美しい建物で、前庭の花時計や噴水もきれいだった(写真39)。インターラーケンの社交場として賑わってきたそうだ。現在はカジノとしての規模はほとんどなく観光の要所となっているらしい。ここのレストランは日本の京都にある「祇園コーナー」のようなものだと、私たち夫婦は話し合った。ステージがあって、そこではヨーデルの演奏が行われている。館内は外国からのツアー客でいっぱい、と言えば想像できると思う。ヨーデルと大きなアルプスホルンを演奏してくれたのはみんな年配の男性だった。ボールの中にコインを転がして音を出す珍しい楽器(写真40)も演奏しながらテーブルを回ってくれたが、彼らはおじいさんと呼ぶのが似合うくらいの年配者で、そしてみんなとても陽気なのだった。私たちは今回の旅の間ワインをいただくことが多かったが、ここで1回だけビールをいただいた。メニューのヌードルにビールが合うかなと思ったのだが、特別うまいという感じはしなかったように思う。あまり記憶にない。ビールの値段は少し高めだと思った。

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このカジノのレストランのように観光客向けの演技を毎日行っているところは、探せばきっとたくさんあるのだろうということに私は初めて気がついたのだった。日本では京都の「祇園コーナー」、北海道の「アイヌ民族舞踊」、沖縄の「エイサー」などを見学したことがあったが、何か特別なニーズがあるからという風に思い込んでいた。自分で選んで高い技術の演技者の舞台を観るのは大変…、そこでコンパクトにその国や地方の芸術をまとめて観ることができる場所ができるのだと思う。「祇園コーナー」で頑張っている若者には申し訳ないが、外国からの訪問者がこの一日で、日本の芸術とはこういうものかと、思い込まないでほしいと思ってしまう。日舞、狂言など、奥の深い芸術の世界の玄関をのぞいたのだ。そこから興味を持って一歩踏み込んでいただくことを願う。カジノの公演も、客が楽しめるよう、年配の演奏者が頑張ってくれていたが、アルプスホルン、ヨーデル、もっともっと吸い込まれるような音色で演奏できる人たちが沢山いるのだろうと思った。「この程度なら、もう聴かなくて良いさ…」とは思わなかったが。

カジノを出ると、目の前に大きな山がそびえている。左に三角のおしゃれなメンヒ、右に大きなユングフラウがどっしりと黒い姿を見せている。頂近くは夜でも雪と氷が白く光っているのがわかる。その二つの山の間にオレンジ色の灯が見えて、そこが明日の目的地トップ・オブ・ヨーロッパの駅だ。私たちは雲の間からのぞく山と、赤い灯をしばし眺めてからバスに乗った。

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インターラーケンのホテルについて荷物を置いた後、買い物をしようと街を歩いたが、スーパーマーケットもみんな閉まっていたので、ゆっくりホテルの周りを散歩して帰った。インターラーケンのホテルは道路に面した庭がとても美しい花畑になっていて、バラが満開だった(写真41)。また、アジサイとコスモスも花盛りだ。アジサイは、花の一つ一つがとても大きくて、その花が集まっている房は抱えきれないほど大きい。コスモスも花は大きいが、背丈が小さいのが特徴だった。アジサイもコスモスも日本では見かけないタイプで、バラと並んでも見劣りしない花の存在感だった。

花々の上には万国旗ならぬスイス国旗が幾列にもなびいていて、お祭りのようだったが、これはスイス建国の英雄ウィリアム・テルのお祭りがこの時期に行われるかららしい。バスで通った広場、ウィリアム・テル野外劇場で、毎年ウィリアム・テルの物語の芝居が上映されるとのこと、自由時間がもう少しあればのぞいてみたいと思ったが、実はこの町に滞在していた時はそこまで詳しく知らなかった。後日帰国して、調べたところ、その広場でまさに私たちが滞在していたときに行われたらしいことがわかったのだ。


神聖ローマ皇帝アドルフの時代、ハプスブルク家が、ウーリ(スイス中央部)の支配をさらに強めようとしていた。そしてヘルマン・ゲスラーというオーストリア人の代官は、中央広場に立てたポールに自分の帽子を掛け、その前を通る者は帽子に頭を下げてお辞儀するように強制したそうだ。

テルは帽子に頭を下げなかったために逮捕され、罰を受ける事になった。代官ゲスラーは、クロスボウ(弓)の名手であるテルが、テルの息子の頭の上に置いたリンゴを見事に射抜く事ができれば彼を自由の身にすると約束した。テルは、息子の頭の上のリンゴを矢で射るか、それとも死ぬかを、選択しなければならないことになった。

1307年11月18日、テルはクロスボウから矢を放ち、一発で見事にリンゴを射抜いた。世界的に有名な話である。この事件は反乱の口火を切り、スイスの独立に結びついたそうだ。

歴史的には資料が見つかっていないため、実在は証明されていないが、スイス人はテルが好きだと言われている。スイス人の6割はテルの実在を信じていると言われているそうだ。テルやテルの息子は様々な絵やイラストになり、スイスを象徴するモチーフとして使われることが多いが、実はそれだけではなく、矢の突き刺さったリンゴも同様にモチーフとして使われている。

スイスの紙幣、硬貨、郵便切手にも当然のように登場し、1918~1925年に発行された100スイスフラン紙幣やその後発行された5フラン紙幣にはウィリアム・テルの肖像が描かれていたらしい。ほかにも矢の刺さったリンゴの図案が紙幣の裏に描いてあるものなど、探せばいくつかあるようだ。

私も子どもの頃絵本などでテルの話を読んだ記憶がある。日本でも弓の名人として知られているのではないだろうか。

しかし、そのテルがスイスの建国の人として尊敬され演劇まで催されているとは全く知らなかった。いったい何を学んできているのやら…と思う。私はおとぎ話の主人公のようなイメージで記憶していた。



トップ・オブ・ヨーロッパ・四日目


翌日はトップ・オブ・ヨーロッパへの電車の旅と、私たち夫婦が今回の目玉として楽しみにしていた、アルプスハイキング。ところが、朝から空一面の雲。早朝散歩に出かけ、ホテルの周りをゆっくり歩いてみたが、昨夜見えていたユングフラウ、メンヒは多くが雲の中で、かろうじてメンヒのトップがその三角の美しい頂をのぞかせている。

それでも、気分を奮い立たせて、私たちはバスに乗った。まずバスでグリンデルワルドまで上る。グリンデルワルドは登山を楽しむ者にとってあこがれの地だ。駅には切符売り場はあるが、ホームを覆うような駅舎というものはなく、線路が何本か並び、そのホームは自由に歩けるばかりか、車まで線路のすぐわきに入っている。その間を登山の装備を身につけた、大きな荷物を背負った人々がザクザクと歩いている。私たちは切符をもらい少し周りを歩いてみたが、なぜか、ホームのようには見えない。それでも、駅周辺を見まわしているうちに列車が入ってきた。列車に乗り込むと、いよいよアルプスのトップに向かって出発。しかし、ここにきてだんだん空は下に降りてきた。周囲が深い霧に覆われるようになって、これから向かう山頂は見えない。

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私たちは緑と黄色のラインが派手な電車に乗った(写真42)。電車は標高2061メートルのクライネシャイデックに向かってどんどん登っていく。そこで電車を乗り換える。こんどはかわいらしい赤い電車だ。この電車が標高3454 メートルのユングフラウヨッホまで連れて行ってくれる。途中駅のアイガーグレッチャーを過ぎるとあとはアイガーの中をトンネルで登る。アイガーヴァントと、アイスメーアという二つの駅では5分間停車して山の壁に開けられた窓から外の風景を眺めることができる。(写真43)

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クライネシャイデックからアイガーグレッチャーまで登る間にも外はどんどん雨模様になっていく。ツアーの仲間はみんな窓ガラスに顔をつけるようにして外を見てはため息をつくのだった。しかし、雨が降っているのに草原の美しい花々が彩り豊かに見えていることが不思議だった。日本の山にも時々登っているが、雨になると風景全体が灰色のモノトーンになってしまうような日本の気候とはどこか違うのである。これはこの後、雨の中をハイキングしながら撮った写真にもはっきり表れていた。


ユングフラウヨッホまでは50分の電車の旅、最初の駅アイガーヴァントで窓の外を見た私たちはがっかり。そこは真っ白な世界。端の方によるとかろうじて窓を開けるために掘った崖が垂直にそのぎざぎざの岩肌を見せている。次のアイスメーアの駅でもほぼ真っ白な世界、しかしここではふわりと霧のカーテンが揺れると山肌の襞がカーブを描いているのを見ることができた。
こんな状態で展望台に登っても、何も見えないねと話しながら、山頂のスフィンクス展望台へのエレベーターに乗った。そして、一歩踏み出した世界は雪が舞う白い空間だった。8月の雪。はらはら落ちてくる雪を受けながら真夏の雪を経験するのもめったにないことねと、もう諦めそのものを楽しむ気分になっていた。

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スフィンクス展望台は観光の人気スポットらしく、お土産売り場やレストランなどが充実していた。私たちは「トップ・オブ・ヨーロッパ」とデザインされているTシャツを息子のお土産に買い求めた。また、電車が大好きな孫のために赤い電車のマグネットも買った。(写真44)

この展望台には日本の郵便局の赤いポストが設置されていて、スイスの黄色い函のポストと同様手紙を投入できるようになっていたのには驚いた。ここで絵はがきと切手を買って、娘と息子の家に送ることにした。そして、私たちは同じ絵ハガキを日本の自分たちの住所にも送ることにした。その地で一番ぴったりくる言葉を書いて投函し、帰国した時のお楽しみとしている。

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話は前後するが、展望台の雪の中でしばらく360度の白い世界を見ていると、時々ふわりとアルプスの山並みが姿を見せてくれる。すると、白い崖を人が歩いているのが見える。こんな天候でも、アルプスに登っている人がいるのかと、目を凝らすようにして見ているが、その姿はまた白い世界に溶け込んでいってしまう。ただ、ひらひら舞い落ちる夏の雪と遊びながら展望台をふらふらするのもまたおもしろいのだった。展望台の床面は端の方は網になっていて自分の靴の下に雪の崖が見える(写真45)。なかなかスリルのある設計で、こんなこともアイガーやユングフラウが見えないことへの悔しさを紛らわす一興とはなった。

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晴れていればユングフラウヨッホから外に出てアレッチ氷河の上流の雪原を少し歩くこともできるのだったが、私たちは諦めて、もう一つの楽しみ、氷河の中に掘られたトンネルを歩くことにした(写真46)。上も下も周りもみんな氷のトンネルを進んでいくと広場になっていて、氷の彫刻が飾ってある。大きなクマや、小さな動物たちが迎えてくれた。氷の壁に窓があいていてそこから覗くと…やっぱり氷、とにかくどこまで行っても氷だけ。氷河を掘り進んで作ってあるため、何年かに一回掘り直すそうだ。掘り直した筋が残っていて、氷河は流れていることを証明しているのだが、頭ではわかっていてもなぜか納得しきれないのは自分が即物的な証拠だろうか。


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氷の穴から「はいチーズ」と記念写真を撮って(写真47)、私たちは駅に向かった。このほかにもラックレールの線路と車輪なども展示してあって、どこを散策しても楽しめるトップ・オブ・ヨーロッパだった。

私はガイドブックを斜め読みしていたため、「トップ・オブ・ヨーロッパ」という名称を聞いてこの展望台がヨーロッパで一番高い所にある展望台なのだと思い込んでいた。ところが、シャモニーのエギーユ・デュ・ミディは富士山より高い標高にある。なぜ、ユングフラウヨッホがトップなのだろう。これは鉄道の駅として一番高い所にあるということなのだった。


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帰りはトンネル内に途中停車せず、アイガーグレッチャーまで一気に下る。私たちのツアーはここで下車し、雄大な山並みを眺めながらハイキングをする予定になっていた。しかし、雨はあがらず、ハイキングは希望者のみとなった。私たち夫婦は雨具も用意してきていたので、雨の中を歩くことにした。ツアー添乗員さんの他に、ハイキングのガイドさんが案内してくれる。ガイドは女性だった。彼女は季節によって移動し、カナダの山のガイドもしているのだそうだ。日本女性の活躍を目にして嬉しくなった。

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道は緩やかな下りの多いコースで、周囲はお花畑、雨の下でも彩りの鮮やかな花々が咲いている(写真48、49)。雨の下だったので、花の名前を聞いてもメモすることもできず、カメラも回しにくいため、目に焼き付けながら歩いた。微かに揺れ動いている霧の向こうにクライネシャイデックの駅が見えてきた。

赤い電車がゆっくり動いてくる。緑の広い草原の向こうの小さな駅と電車は何とも美しい眺めだった。雨の日にしてこれほど感動的な風景なのだから、晴れていたらどれほどだろうか…と、私たちはまたいつか訪ねたいという気持ちを強くしたのだった。(写真50)

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クライネシャイデックの駅舎の地下にあるレストランで昼食を食べた。ペンネは例のソースで、あまりおいしくいたけなかったが、ここで出たガーリックパンはとてもおいしかった。食事の後、いくつかあるお土産屋さんを回ったり、駅の裏手のちょっと登ったところにある新田次郎(作家1912~1980)の碑を見たりした。高い所にあると聞いたので、一気に丘を登って探したが見つからず、下り出したら、その途中に草に半ば隠れるようにしてあった。その日は濃霧で見えなかったが、雄大なアルプスの山並みを見渡せるところに「アルプスを愛した日本の作家、新田次郎ここに眠る」と、日本語と英語で銘が彫られている盤があった(写真51)。骨も埋めたかったそうだが、それは許可にならず、遺品のメガネ、万年筆、取材ノートなどを入れて、碑が建てられたそうだ。新田次郎の作品をほぼ全部読んでいる私は、この地を愛した氏の気持ちがわかるような気がして、碑に向かって手を合わせ、丘を下った。

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駅の近くには線路に沿っていくつかの土産店があり、私たちは日本語仕様のスイスの電車のカレンダーを発見し、買った。このとき支払いのレジで、エーデルワイスの押し花をさりげなく紙にくるんでくれた。もちろん栽培種だとは思うがなぜか嬉しさがひとしお。集合時間に駅に向かったら、ホームにもカウベルをつけたヤギさんたちがいっぱい。彼らの糞を踏まないように客たちはにぎやかに電車に乗り込んだ。 


52

インターラーケンのホテルに戻って一休みしたあと、ホテルの中庭に馬のひずめの音がしてきた(写真52)。この日は馬車に乗ってレストランへ出かけるという豪華な企画。映画に登場するような二頭立ての馬車が、私たちの登場を待っている。ここまで書くと、なかなかすてきな夜の過ごし方なのだが、物々しい馬車を連ねて、インターラーケンの街を旅するのはちょっと恥ずかしいものだった。しかもまだ少し雨が残っている。馬もコートを掛けるのだと知った。何台かの馬車に乗り分けて出発。私たちツアーの客だけがはしゃいでお互いに手を振り合ったり写真を撮ったりしていたが、じつは思い切り楽しめていなかったのは私たち夫婦だけではなかったのではないか。ただ、何台もの馬車がゆっくり走る様は眺めるにはよい被写体だったようで道に立ってカメラを向けている他の観光者らしい人たちもいたのだった。幸いにも雨は収まっていた。

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着いたところは日本食レストラン、ご飯と焼き鮭、肉じゃがのメニュー。遠くヨーロッパに来てご飯がいただけるのはありがたいことなのだろうが、私たちはちょっとあまのじゃくで、せっかくスイスまで来ているのだから、ちょいとスーパーにでも行って、地元の人たちに混ざってお買い物をしてワインとパンとソーセージにサラダなんかをいただくのがいいと思ってしまう。ツアーで旅をすると、こんなところが小さな不満となってあまり重なるとツアーから独り立ちということになるのだろうか。私たちは何と言っても初めての海外ツアー体験なので、ありがたいことに、いろんなことをそうかそうかと取り込むのに忙しい、興味津津の毎日なのだった。

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食事の後、今度はホテルまでバスがでたが、希望者は途中の繁華街で降りてよいという。私たちも下車してぶらぶら歩いた。川沿いにインターラーケンヴェスト駅がある。みんなは免税店にむかったようだが、特に買い物の予定がない私たちは駅に停まっている赤いどっしりした機関車に近寄って写真を撮ったり(写真53)、駅に貼ってある時刻表やポスターを眺めたりした。電車に興味のある夫は、このどっしりとした機関車は国際線で、ドイツまで走っているものだと、感激して言った。ベルリン中央駅までは9時間ほどかかるらしい。

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ホームは道路とそのままつながっていて、どこが境目なのかすらよくわからない作りになっている(写真54)。時折雨がぱらつくので傘をさしたり閉じたりしながら歩いた。明るい黄色一色にラッパのマークのバスが走っているのをよく見たが、これは郵便バスで、昔は郵便物を運んだものだったそうだ(写真55)。今は観光バスとしても走っているらしい。いくつかの電車が過ぎるのを眺めて、川を渡りホテルに戻った。川の色は白く濁った青緑色で、手が届くほど近くまで満々と水をたたえていた。(写真56)



街が一つの空間・五日目


どうやらお天気は回復したようだ。今日は山には行かず、スイスの古い街、世界遺産に登録されているところを旅してフランスのシャモニーまで行く予定。

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インターラーケンを出発したバスはベルンに向かって走る。まずはバラ公園、広々とした緑の公園のあちこちにバラが咲き競っている(写真57)。この公園は高台にあり、園内にはたくさんのバラが咲いていたが、園の広さに比べてバラの咲く場所はそれほど広く感じなかった。ほかの花々もたくさん咲くそうだが、芝の広さや木々の緑もあって、公園全体が広いからかも知れない。バラだけが密に咲いている感じはしない。彩り豊かに咲いているバラのコーナーをひとめぐり眺めて、公園の奥に向かった。バラはどこで見てもバラだねえと、つまらない感想を言いながら、この公園からベルンの旧市街を見下ろせるところに立つ(写真58)。屈曲してUの字になっているアーレ川のむこうに大聖堂が空に突き刺さるように鋭角にそびえている。アーレ川沿いに美しい赤い屋根がうねるように続いている。

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バラ公園から石畳の道を歩いて下り、熊公園に立ち寄った。残念ながら最後のクマがいなくなってから、熊公園には生きているクマはいないそうだ。スイスのベルン市は語源が「熊」で、市の紋章にもクマが描かれている。広く世界的に、クマは人間と異なる神・あるいは知恵のある存在・豊かさの象徴として、信仰の対象とされてきた。ベルンだけでなくベルリンなど地名に用いられることも多いようだ。

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スイスには固有種ブラウンベアという熊が生息していたそうだが、乱獲のため1904年には全滅したといわれる。だが、最近再びその姿が見られるようになったのはイタリア北部から移動してきたからだそうで、大きなブラウンベアと人間の共存ができるかというような議論もあるようだ。しかしいずれにしても、クマのいない熊公園はなんだかさびしい。ここからは再びバスに乗って、ベルンの街に向かった。時計塔のある中心部の通りは車を止めてはいけないそうだが、イタリア人の運転手さんは、オーケーと太っ腹で通りの奥に停車して下ろしてくれた。本当にOK?こんなことで日本人がとやかく言われるくらいなら歩くんだけどなぁ…と思いながらも、イタリアからの出稼ぎ運転手さんがOKというのにはOKの訳があるのだろうとも思って素直に下りた。

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旧市街は世界遺産に登録されていて、時間が優雅に流れているような気がする街のたたずまいだ。きれいな青、緑、赤などの色のトラムが走り(写真59)、様々な彫刻の施された噴水が並んでいる。噴水の彫刻にはいろいろな意味が込められているらしい。鬼が子どもを食べているものなどもあった(写真60)。このバスを下りた街の中心部には古い時計塔があり、定時にからくり人形が時を告げる(写真61)。

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街をそぞろ歩き、スーパーで少し買い物をした。長いアーケードをすべて歩くことはできなかったが、大聖堂脇の広場には市場がたっていて果物などがかわいらしく並べられていた(写真62)。また、店は閉まっていたが、小さなトウシューズとクラシックチュチュが飾窓に展示してあるのを発見して嬉しくなった。ベルンの街にはバレエ団があるのか、商店街の宣伝冊子のような、いくつかの店頭に自由にお持ちくださいと置いてあった冊子の表紙がバレエダンサーの写真だった。帰ったら、調べてみようかと言いながら1冊もらってきたが、ついアルファベットを読むのが苦痛でそのままになってしまっている。

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大聖堂の前の広場はとてもとても広い。大聖堂の前面には細かい彫刻があり、それはよく見ると天国と地獄を表わしている(写真63)。どんな宗教も、人の命と、死後の世界への恐れを内包しているのだとうなずきながらその彫刻を見た。大聖堂の内部は厳かな雰囲気に包まれ、華やかなステンドグラスの光に満ちていた。(写真64)

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ベルンの街で昼食をとったのち、私たちはまたバスに乗り、レマン湖のほとりを目指して出発した。ローザンヌから船に乗る予定だが、途中ラヴォー地区のブドウ畑を少し散策した。レマン湖に向かう斜面が一面ブドウ畑になっている。太陽と、湖から反射する二つめの太陽とで、この地区のブドウは良質なものだと聞いた。ワインを醸造している小さな農家が沢山あって、添乗員さんが試飲できるか聞いてくれたのだが、残念ながら断られた。


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日本の私たちが住んでいる家のすぐ近くに小さなブドウ畑がある。また山梨のブドウ園の道をよく通るが、日本ではぶどう棚は地面に水平に広く作られているのが普通だと思う。スイスに来て、ぶどう棚のイメージが消えた。ブドウは縦に蔓を張り、整然と列を作って並んでいるのだ。日本の長芋の畑のような感じ。道路から見下ろすと、レマン湖に向かって広がる畑、太陽がブドウの葉にあたってキラキラと反射している。とても美しい風景だった(写真65)。このブドウ畑の広がるラヴォー地区も世界遺産に登録されていると聞いて、なるほどとうなずいたのだった。

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バスを停めたところは「CHEXBRES」という小さな駅だったが、赤いペンキで塗られた民家のような駅舎がかわいらしく(写真66)、その広場で二人の少年が自転車に乗って遊んでいて、私たちのバスが出発する時には手を振りながら追いかけてきたのも記憶に残るところだった。近くの農家の庭には小さなネコが二匹ちょこんと座っていて、とてもかわいい顔をしてこっちを見ていたので、思わず写真を撮ってしまった(写真67)。そして、スイスの人と日本人はこんなに違うのに、スイスのネコと日本のネコはどうしておんなじに見えるのだろうと、またつまらないことを考えているのだった。

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少年に見送られて出発した私たちはレマン湖の北側に添って走り、ローザンヌについた。ローザンヌはバレエファンには大切な街なのだが、それは若手の登竜門として知られるコンクールが毎年開かれるということと、先年惜しまれながら亡くなられた振付家モーリス・ベジャール(1927−2007)のバレエ団(ベジャール・バレエ・ローザンヌ)があることでも忘れられない土地なのである。私たち夫婦はバレエを観に行くことを楽しみにしているので、まず、そのことが頭に浮かぶのだが、また、一般的にはオリンピックの記念館があることでも知られている。バレエについては自分の目で見たり感じたりできるような痕跡には出会えなかったが、オリンピックの記念館はバスの窓から5輪のマークの旗がひるがえるのを見ることができた。

68 魔女いっぱいのレストラン

レマン湖を渡る船の乗船ゲートの近くでバスを降り、湖を渡る船に乗る。乗船券をもらって、しばらく時間があったので、レマン湖のほとりをそぞろ歩いた。ところがこの時、急に夫の腹具合が悪くなり公園のトイレに駆け込んだ。ベルンのレストランで食べたのはとてもおいしいイカのフリッター、特にお腹に悪そうではなかったのだが。レストランは壁一面に魔女のグッズが踊っていて、大小さまざまな魔女の人形や、ポスターなどで埋まっていた(写真68)。あの魔女にやられたの?一気に下痢をしてしまったが、幸いに一過性のものらしく、船が出港する頃には落ちついたので、私たちはほっとした。国内でももちろんだが、海外で体調を崩してしまうと言葉の壁がたちまち巨大なものとなって気持ちの上に覆いかぶさってくる。ツアー旅行なので、添乗員さんはいるが、全体の旅程の中で動かざるを得ないのだから、最終的には自分たちの責任なのだ。たった10日ほどの旅でも具合が悪くなってしまうことはある。できるだけ、体調にも意識を集中し、元気に過ごしたいと思う。

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私は夫を待ちながら湖のほとりを歩いていたが、水際の石積みや花々がきれいに植えこまれている防波堤の開放的な美しさに感動した(写真69)。コンクリートの壁が連なっている日本の護岸との違いはどこから来るのだろう。

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船のへさきにもベンチがあって、何人かの人が風を受けながらきらめく光を浴びていた。夫は船の中ではもうけろりとしてレマン湖の美しさを満喫していた。(写真70)


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ローザンヌから湖を渡るとそこはフランス。船を降りた街はミネラルウォーターで有名なエビアン。石畳の坂を登ると天然水がわき出しているところがある。公園の中に彫刻で飾られた湧き口があり、町の人々も入れ物を持って集まってきている(写真71)。昔は水差しや鍋だったのではないかと思うが、多くの人がペットボトルを持っている。私たちも添乗員さんにアナウンスされていたので、空になったペットボトルを何本か用意していた。みんなで並んで水を汲んでいると、近所のおじさんという人が私たちの持っているペットボトルのラベルを見ながら近寄ってきた。

私は日本のお茶とスイスで買った水のペットボトルを持っていたが、おじさんはそのお茶のラベルが珍しかったのか、自分のペットボトルと交換しようと言う。私のは500ミリリットルの小さいペットボトルだったが、おじさんが持っているのは750ミリリットルくらいのもの。ラベルはない。おじさんは自分の持っている方が大きいから得だよ、と盛んに言っている。私たちは少しあればいいので大きなペットボトルはいらないんだけど、おじさんが熱心に言うので、交換した。スイスの水のペットボトルも珍しかったのか、2本とも交換した。周りの日本人は、よく洗った方がいいよと忠告してくれたが、私は普通に一回ゆすいで水を詰めた。おじさんは離れたところでにこにこ見ていて、私から受け取ったペットボトルを大事そうに持っていた。

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エビアンの水は日本でもたくさん売られていて、あのピンクとブルーのデザインは日本の物のような錯覚をしていた。エビアンの博物館でも同じマークのTシャツやボールペンなどが売られていて、自分の錯覚がおかしく、記念にピンバッジを買った。まさしくかの地で買ったエビアンのバッジである。エビアンもせまい石畳の道とおしゃれな統一された建物の町並みで、そぞろ歩くだけで気持ちのいい街だった。中華風の意匠を凝らしたレストランと、江戸時代のかがり火のような楽しい形の花束を道に並べている花屋さんが印象的だった(写真72)。どこの町でもレストランには必ず屋外で食事やお茶を楽しめるようなスペースがとってあり、強い日差しの下でもこの国の人たちは帽子もかぶらず屋外のテーブルでおしゃべりを楽しんでいた。


再びバスに乗ってこの日の宿泊地シャモニー・モン・ブランに向かう。標高1036メートルにある町。しばらくレマン湖を左に見ながら走る。木の間越しに美しい湖面が光を放っている。レマン湖に別れを告げる頃、狭まってきた対岸に古城らしきものが見える。レマン湖の一番東の端の辺りの都市モントルーにあるという、シヨン城だろうか。木々の枝の間から水面に浮かぶようなグレーの塔が見えた。走るバスの中からなので、そうとは分からなかったが、湖に浮かぶ湖上の城は物語の世界に誘われるような美しさだと思った。

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そこからは深い山の中の道を進んで、しばらく走る。少し疲れを乗せていて、空気は静か。そして、田舎道の広がりを見るころ、左手に氷河と険しい岩峰群が霧の中から姿を現してきた。シャモニー針峰群。岩がとがっている。明日観に行く予定のモンブランはなだらかな山容だったと思うが、今見えてきたのはとがった岩山の連続。氷河が山腹まで来て削り落ちている。しばらくガスの奥に見え隠れする岩峰群を見ながら走り、私たちはシャモニー・モン・ブランのレストランに到着した。初めてのフランスのレストラン、期待でいっぱいだったが、窓の外に見える夕焼けのモンブラン山群に見とれているうちに食事は終わり、なんだか、どこに入ったかわからない食事で、終わってしまった。テーブルの隣にワインの瓶がいっぱい並んでいたことだけ妙によく覚えている。(写真73、74)

食事の後またバスに乗り、郊外のホテルに向かった。



天空の散歩・六日目


朝、目覚めるとすぐホテルの庭を散歩した。庭にはたくさんの椅子が用意してあったが、霜が降りていて、座れない。細かい赤い枝の灌木があったが、霜がついて朝日に輝いている様は宝石のようだ。日本的かもしれない。しかし、細やかな枝ぶりの木はそこだけで、ホテルの庭は全体的に広々とした芝の空間と籐の安楽椅子が並んでいるレジャー空間といったざっくりとした広がりだった。山小屋風のホテルは渡り廊下でつながっていて、庭から廊下を歩く人も見えていて、少し仲良くなってきたツアーの仲間も内と外で挨拶したりするようになった。

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食事を済ますと、ロープウェイ乗り場に急ぐ。この日は今回のツアーの目玉、フランスとイタリアをロープにぶら下がって超える空中散歩だった。ロープウェイ乗り場に行くと、びっくりすることに広場は人で埋まっている。今回の旅で、こんなに人が一つの場所に集まっているのは初めてだ。日本ではちょっと大きな都心の駅前などに行くと、いつでも見ることができるが、アルプスの山に囲まれた広場にはなんだかそぐわない光景だった。そのように思えるのは、これまで旅をしてきた数日の実感なのかも知れなかった。

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私たちはツアーで予約してあったためか、並んでいる人の列の脇を通って進み、あまり待つことなくロープウェイに乗ることができた。(写真75)

まず、シャモニー・モン・ブランから二つのロープウェイを途中のプラン・デュ・レギュー(2310)で乗り継いでエギーユ・デュ・ミデュ展望台に上がる。ここからは目の前にヨーロッパアルプス最高峰のモンブラン(4807)が見える(写真76)。この展望台の高さは3842メートル、富士山頂より高い(写真77、78)。そして、ここからイタリアのエルブロンネ展望台3462までゴンドラで渡る。この3000メートル級の高さを行くゴンドラはジュリアン氷河の上を5キロメートル、30分ほどかけていく。

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途中に支柱がなく、一か所岩山の上を超えるが、下にはどこまでも氷河が広がっている。グランドジョラスの岩峰に手が届くようなところをゆらゆら行く。4人乗りの赤いかわいいゴンドラが3台ずつ組になって続いて行く(写真79、80、81)。風景が大きいのであまり早く進んでいるようには思えないのだが、すれ違う3台のゴンドラを見ているとあっという間に近づいてきて去っていく。そしてロープが大きな弧を描いてずっと向こうの山頂まで続いている(写真82)。

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人が乗り降りするたびに、一時停止する。氷河の真上でゆらゆら揺れているのは、正直怖い(写真83)。

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しかし、アルプスの3000メートル級の氷河を歩くことはなかなか実現させにくい私たちにとって、この一面の氷河の世界はただただ感動あるのみだった。見おろせば、目の下に大きなクレバスを避けながら歩いている人たちの姿がある。真っ白な氷河の上にきちんと道がついているのが面白かった。これが登山ルートというものなのだろう。雪が積もって消えてもまた、そのルートの上に新しい人の足跡が道を刻む、人間ってなかなかやるなあという感じがした。

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この日はとても奇麗に晴れ渡っていて最高の空中散歩だった。しかし、このゴンドラの仕組みから言って、風が吹くとすぐ停止してしまうそうだ。ツアーを組んでも半分強は中止になってしまうので、添乗員さん泣かせのコースらしい。快晴に恵まれた私たちはとても幸せだったのだろう。ゴンドラで国境を超えると、そこはまた360度の大展望台。遠くにマッターホルン、モンテローザが見えている(写真84)。累々と続くアルプスの山並みだ。(写真85)

85 アルプスの山々

エルブロンネの展望台はフランスとイタリアの国境になる(写真86)。お土産売り場は、にぎやかに人で込み合っている。他の観光地に比べると、人が多い。日本の子どもたちと、自分たちに送るはがきと切手を購入。ここで買い物をした人には旧国境のスタンプを押してくれる。

今はシェンゲン協定を結んでいるヨーロッパの国々の間では入国審査を行わないが、昔使用していたという入国スタンプを押してもらった。ここからはまたロープウェイを乗り継いでクールマイユールに降りる(写真87)。途中の乗り換え駅ではグランドジョラスを見上げる高原に花がたくさん咲いていて少しだけ寄り道をした。

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さて、ロープウェイを降りるとすぐのレストランで昼食、イタリアのおいしいパスタを食べることになっていたので、楽しみにしていた。ところが、着いてみたらすごい混雑で、もうパスタはないと宣言されてしまった。添乗員さんは「だからイタリア人は嫌いよ~」とみんなにアナウンスしている。

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パスタの代わりにペンネを食べ、ミラノ風カツレツを食べた(写真88)。私は肉が苦手なのだが、ミラノ風カツレツはおいしく食べることができた。とても薄く叩いてある。もしかすると、肉が大好きな人には肉汁の味が薄くて物足りないのかもしれない。グリッシーニもカリっとしていて、美味だった。また、このレストランのスタッフは面白い人がいて、私たちツアーのおじさんとナイフで戦う真似をして、そのポーズで写真に納まったりしていた。とにかくにぎやかなレストランだった。

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食事のあとはバスでフランスにもどる。アルプスの下をくぐりぬけるモンブラントンネルを通ってシャモニー・モン・ブランに抜けることになる。トンネルの入り口には大型トラックが沢山停まっていた。

シャモニー・モン・ブランに着くとその日は自由時間となる。夕方ホテルに帰る人は、決まった時間にバスが待っているということだったが、私たちはバスには乗らず街の中をうろうろして見ることにした。まずは有名なモンブラン初登頂のバルマらの像があるバルマ広場に行ってみた。日本の綿菓子のような屋台が出ている。子どもたちが群がっている様子は日本と同じ、微笑ましい。シャモニー・モン・ブランは登山発祥の地として登山家の聖地とも呼ばれているそうだ。1786年8月にモンブランが初登頂されてから、現在の登山というスポーツが始まったとされているため、登山発祥の地と呼ばれることになった。街は登山者らしい姿の人もたくさんいて、活気がある。

バルマ広場から川を渡ると山岳博物館がある。入場券を買って入って見る。18世紀の登山の様子などが沢山の絵に描かれている。女性がまるでドレスのような服装で杖を持ち雪の上を歩いている。当時の装備を見ると、人間の力のすごさを感じる。博物館の建物は優雅な作りになっていて、正面の階段がお城のようで素敵だった。

また、シャモニー・モン・ブランでは1924年に冬季オリンピックの記念すべき第一回大会が開催されたため、冬季五輪・発祥の地とも呼ばれるそうだ。

モンブランはフランス語で白い山の意味があり、ヨーロッパアルプスの最高峰(4807)だが、アルプスの他の山に比べると山頂部分は白くなだらかなので、それほど高い山に見えない。近くの岩峰群の方が高そうに見えたりする。しかし、この山に登るのは大変だったそうだ。

1760年、スイスの博物学者ソーシュールが氷河を観測するためにシャモニーを訪れたことが始まりだった。彼は、モンブランとシャモニ渓谷を挟んで位置するブレバンに登頂し、他の山々をすべて見渡せるモンブランの自然科学的な意義に気づいた。当時の技術や道具では、ルートの選択がとても重要なことだったので、ソーシュールはこの山への登山ルートを見つけた者に賞金を出すことを約束した。多くの探検旅行が試みられたがすべて重大な障害に阻まれた。人間は高い山の上で夜を過ごすことはできないという誤信と、「呪われた山」モンブランに登れば生きては帰れないという迷信が強かった。そして誰も成功することはなく、26年間もの歳月が流れた。1786年、ある登山隊がモンブラン山塊のボス(4513m)の山陵に到達した。この時、悪天候により引き返さざるをえなかったが、水晶細工人のジャック・バルマは雪の中にうずくまって嵐の去るのを待ち、氷河の上で夜を過ごした。翌朝、彼は無事にシャモニー・モン・ブランの町に戻った。彼の生還は絶望と思われていたので、この露営は山男たちの迷信を取り除くこととなり、一気に登頂の機運が高まった。 

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シャモニー・モン・ブラン生まれの医師、ミッシェル・パカーはバルマとは知己の仲であった。バルマが賞金とモンブラン初登頂の夢をいだいていたのに対し、彼は賞金など眼中になく、ただ山に魅せられていた。彼はバルマと登頂計画を練り、1786年8月7日に登攀を開始した。ボソン氷河上部のコートの山頂に露営し、翌8日朝4時には氷河地帯に突入した。そして18時23分に2人一緒に頂上に達した。この様子はシャモニーから望遠鏡で見守られていたという。以降、ヨーロッパ最高峰のモンブランは多くの人に登頂されることになり、同時に、山に登ること自体を目的とした登山がスポーツとして認められるようになった。そしてモンブランの麓の町シャモニーはその登山基地として、やがてはモンブランと氷河の観光の町として発展することになる。

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シャモニーの広場にはモンブランを指さすソーシュールとバルマの像がある。私たちは広場でバルマと同じようにモンブランを指さして写真をとってから(写真89)、川沿いにフランス国鉄のシャモニー駅の方にぶらぶら歩いた(写真90)。川には小さな木の橋がかかっていて欄干には赤い花がたくさん咲いている。このような風景はスイスと似ている。少し疲れたので、川沿いの喫茶店でコーヒーを頼んだ。川を見下ろせるところに椅子とテーブルが用意してある。私たちはそのテーブルに座って遥かアルプスの山並みを眺めながら一時コーヒータイムを楽しんだ。余談だが、お店の看板にコーヒーの値段が書いてあったので、安心して頼んだのだが、このカップがおままごとのカップのように小さなものだった。とても美しいデザインなのだが、手を握り締めるとそこに埋まってしまうほどの大きさ…私たちはそのかわいいカップのコーヒーをゆっくり味わった。(写真91)

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それからスーパーマーケットで今夜の食べ物を仕入れることにした。さすがにフランス、シャンパンが安い。嬉しくなって、パンや野菜の他にシャンパンをしっかり買い込んで駅に向かった。駅にはフランス国鉄のマークがあり、美しい木造の建物だ(写真92)。電車に乗れないのが残念だったが、しばらく眺めてタクシーでホテルに帰ることにした。駅前にはタクシー乗り場の標識があったので、そこに行ったのだが、困った。タクシー乗り場には車が何台も並んでいる。しかし、タクシーらしいセダンタイプの車は列の何台も後ろにいて、一番前にはワンボックスの、日本でいえば福祉タクシーのような車が停まっている。これもタクシーだよね…と言いながら近づいてみたら、運転手のおじさんがにこにこしながらタクシーかい?と聞いてくれた。私たちがイエス、タクシーと応えると、おじさんはうなずいてドアを開けてくれた。どうやら、ここではどんな大きさの車も同じタクシーとして機能しているらしい。こうして、宵闇の迫る中を優雅にホテルまで運んでもらった。

ホテルでは買ってきた食べ物で今宵の夕食。シャンパンはやはりおいしかった。



裏マッターホルン・七日目


翌日は、再びトンネルを通ってイタリアを歩く。目的地はアオスタ、古代ローマ時代や先史前の遺跡などがある街だと言う。旧市街地から少し離れたところにある駐車場でバスを降り、街を歩く。ローマ時代の門や教会、倒壊した円形劇場の壁が青空の下にそびえている(写真93、94)。

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アオスタは山を越えるための中継地として位置するため、長い歴史の中で支配者が変わってきたようだ。ずっとずっと昔、先史時代はケルト人の一族が支配していたが、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの軍が山に向かってやってきて支配した。そしてしばらくローマ帝国の支配下にあったので、その頃の遺跡が残っているのだ。

その後、何回か支配者が変わってサヴォイア公国となり、最終的にイタリアになった。

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狭い商店街を抜けると広場があり、何かお祭りをしていた。現代的なデザインのポスターが置いてあり、自由にどうぞとお兄さんが手渡してくれたので、私はつい受け取ってしまった。ポスターは四つ切大の大きさで、緑を基調にしたデザインと赤を基調にしたデザインの2枚。子供が描いたようなラフなデザインだが、危ういバランスで描かれている生活グッズが伸び伸びしていて気持ち良い。しかし、大きいので持って帰るのに困った。もちろん折り畳んでしまえばわけないのだが、その美しいポスターに折り目をつけたくなかったのだ。スーツケースに何とか工夫して入れて持って帰った。今は我が家のダイニングキッチンの壁を明るくしてくれている。

商店街は楽しい雰囲気で、サッカーチームのグッズなどもそろっていた。私たちはあまりサッカーに興味はなかったが、息子がイタリア大好き、サッカー大好きといっていたような気がしたので、サッカーチームのTシャツを買おうと思った。だが、どこのチームのファンだったかを聞いてこなかったので、あきらめた。そこでイタリアの国名ロゴ入りのTシャツをお土産に買った。ずいぶんゆっくり街を歩いたつもりだったが、昼食には早い時間だったので、添乗員さんが先に山に行きましょうと提案。アオスタでの昼食を山から帰ってからに回して、バスに乗り込んだ。


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私たちが目指したのはモンテ・チェルヴィーノという避暑地、そこはマッターホルンの麓。スイスから見る有名なマッターホルンの三角錐に比べ、少しごつごつしているこちら側を裏マッターホルンと呼ぶらしいが、イタリアの人から言えばこっちが表さ、ということになる。山を登る途中で一回下車し、少し歩いて裏マッターホルンの逆さマッターホルンを見に行った。今日も青空、小さな湖(ブルー湖)に裏マッターホルンがきれいに映っている。私たちは運がいいねと言いながら森の中の湖でさわやかな息をした(写真95)。

モンテ・チェルヴィーノの街は峠に向かう山道沿いに開けている避暑地。別荘やホテルが並んでいる。マッターホルンの左右に伸びている山々の稜線がくっきりと青空に浮かび、裾野にはヤナギランの濃いピンク、とても開放的で全身が伸びるような気分になるところだった(写真96)。

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マッターホルンの肩にあるはずの十字架が見えるという。ツアーの仲間で、一眼レフの大きなカメラを持っているおじさんが、ぐっとズームをきかせて写真を撮って見せてくれた。私たちの持っているカメラではそこまでズームインできなかった。

散策路は小さな川沿いに伸びていたがその川の縁にはエーデルワイスなどの花々を植えた鉢が並んでいた。私は不思議な感覚に襲われた。険しくも美しいアルプスの稜線、空は透明なブルー、足元から続く緑の草原と森、風に揺らぐヤナギラン…、この世界が現実離れした絵の中のような感覚、そしてそこに立つ自分がまるで絵の中に入りこんでしまったかのような感じ、いわれのない感覚ではあるが、しばし我を忘れてただ立っていた。


とても優雅なしばしの時を過ごした後、私たちは再びバスの人となった。一路アオスタへ。だいぶ時間が押してしまったので、レストランの人たちが昼食を出してくれるか心配になった。添乗員さんは携帯電話でしきりにイタリア語らしき言葉を早口で話している。あまり時間が遅くなってしまうと、レストランの人たちは店を閉めてしまうのだそうだ。でも何とか待っていてくれて、私たちは遅い昼食にありつけた。そしてここで食べた食事が今回の旅の間で最もおいしく感じられた。豆と穀物のスープと魚のから揚げ、何かのソースかけだったと思うが、シンプルでおいしかった。空腹が最も効果的な調味料というから、空腹だったこともその味に魅力を加えてくれたかもしれないが、穀物のスープはじんわりと味覚のつぼにしみこんできた。


食事のあとはイタリアにさよならをして、スイスに向かう。バスはモンブラントンネルの手前まで戻って、今度は峠道を登っていく。登り道にさしかかってから、しばらく道の両側の建物の屋根の美しさに目を奪われた。バスはゆっくり登っているようだが、もちろん車の速さ、窓外の景色はどんどん過ぎていく。追いかけるように右を、左を、そして通り過ぎてきた道の下に広がる風景を、私の目は追いかける。この辺りの建物の屋根には薄く削った石を重ねてある。この石葺きの屋根は、自然の大小の石を見事に積んだ芸術品。この石は白っぽい灰色が多いのだが、瓦のように重なっている様子は、瓦のように規則正しくなく、しかし大きなまとまりで家を包んでいる感じがして、とても美しいと思った。イタリア、スイスの山坂に奥まった町や村ではこの石の屋根を見ることが多かった。ただ、新しいものは石の形がかなりそろっていて、どうやら機械できれいに作った石らしい。古い自然な形の石を積んだ屋根はあまり見ることができなくなりつつあるそうだ。

97 セント・バーナード峠

さて、私たちの目指すところはグラン・サン・ベルナール峠、別名セント・バーナード峠、標高2469メートル。昔ナポレオンも超えたという峠だ。峠に近づくと右下に池が見えてくる(写真97)。この峠にはセント・バーナード犬がいて、観光客と一緒に写真を撮ったりするようだ。彼らはアルプスの救助犬として知られ、首に小さなボトルをぶら下げている。ここに気付け薬が入っていて、吹雪にあって動けない登山家などを助けたそうだ。

グラン・サン・ベルナール峠は歴史上にもよく登場する。いつか、イタリアからモンブランに登る旅を映像で見たが、峠に至る道には古代の舗装が施されていて、馬車の轍の跡がうかがえるとのことだった。歴史をひも解くと、青銅器時代には人の通った形跡があり、古代からアルプス山脈を越える重要な交通路であったという。正確なところは不明だが、紀元前200年頃にハンニバル(カルタゴの将軍:紀元前247−183)が戦象を連れてアルプス山脈を越えたのもこのあたりと考えられているそうだ。

ローマ帝国の時代には皇帝アウグストゥスが街道を敷設し、山頂にユピテルの神殿が祭られていた。この跡が今に残るのだろうか。800年にはカール大帝がミラノでの戴冠式の帰りに越えたという。18世紀までの間、毎年2万人程度の商人や巡礼者がグラン・サン・ベルナール峠を行き交ったという。だが、峠では山賊の出没や悪天候、雪崩などにより遭難者の数が多かった。1050年、アオスタ大聖堂の助祭長ベルナール・ド・マントン(聖バーナード)は、峠の山頂に遭難者の救助を目的としたホスピス(救護所)を建設し、人々に宿泊と食事を提供した。こうした功績によりベルナール・ド・マントンは教皇インノケンティウス11世によって聖人に列せられた。グラン・サン・ベルナール峠の名は彼に由来する。この時、遭難者の救助に活躍したのが犬たちである。代々育成されてきた救助犬たちは、樽に詰めた食料や気付け薬を遭難者へ送り届けた。こうして少なくとも2500人もの遭難者が救助されたということだ。バリーという名の救助犬は、1814年にオオカミと間違えられて射殺されてしまったそうだが、バリーは生涯で40人以上の遭難者を救助したそうだ。救助犬として用いられたのは2世紀頃にローマ帝国の軍用犬としてアルプス地方に移入された大型犬であるが、後にこの種は峠での活躍にちなんでセント・バーナード犬と命名された。

グラン・サン・ベルナール峠に縁のあるもう一人の有名人がナポレオン・ボナパルト。1800年5月、ナポレオンはイタリア遠征のために4万のフランス軍を率いて峠を越えた。このとき、ナポレオンは付近の村からワイン21724本、チーズ1.5トン、肉800キロなどの物資を調達し、峠のホスピスに40000フランの借用証を置いていったことが記録に残っているそうだ。だがフランス帝国政府が実際に支払った代金はその一部だけであった。1984年にようやく時のフランス共和国大統領フランソワ・ミッテランが残額を清算したそうだ。おそろしく息の長い貸し借りだと思った。

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山頂のすぐ下には大きな池がある。山頂には歴史あるホスピスの建物が建っていて、私たちは泊まらないが、ここは今でも登山者向けの宿泊・救護施設として機能している(写真98)。山頂付近の冬季の気温は氷点下30度にもなり、積雪は最大で25メートルを記録する。このため自動車の通行が可能な期間は6月から9月までに限られる。1967年に中腹にグラン・サン・ベルナールトンネルが開通した。この長さ6596メートルのトンネルはゴッタルド道路トンネルなどと並ぶ、アルプス山脈を貫く重要な交通路で、交通量も多い。


峠越えの私たちも、聖人が祭られているホスピスでトイレを借りて、さらに続くバスの旅に備えた。しかし、ここで奇妙なことが起きた。私は先に用を済ませたが、夫はセント・バーナード犬を見てからやってきた。ところが夫が入口をはいろうとしたら、シスターに止められてしまったのだ。この後しばらくはトイレがないから、どうしてもここで寄りたい。しかし、なぜか阻まれてしまったらしい。私は難なく通ってお祈りをするらしい教会内部も見てきたので、なぜなのか理由がわからない。他の男性も通っていたから、男性ということで差別されたわけではないみたいだ。私は夫の手を引いて「ソーリー」とか何とか言ってさっと通ってしまった。「止められないだろうか…などと恐る恐る入ろうとするといけないの、さっと当たり前のように歩けばいいのよ」と言ってはみたけれど、実は内心ヒヤヒヤだった。外に出るときにも、待っていて一緒に出た。シスターも玄関近くにまだいたけれど、特に私たちに注目している様子はなかった。ま、とにかくスムーズに外にも出られたのでよかった。

しかし、いまだに何故だったのか分からない。もしかしたら、何か聞こうと思っただけなのかもしれない。


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その日は、スイスに入ってからも長いドライブをしてテーシュ駅に向かった。途中のドライブインで少し休憩したが(写真99)、運転手さんはほとんど休みなく運転していた。一日に運転していい時間というのが決められているそうで、違反すると大変らしい。添乗員さんも心配しながら我々にアナウンスをしてくれた。

運転手さんは「オーケー」と、明るく笑っているが、カードに記録が残る仕組みになっているので、ボーナスサービスはできない。スピード違反ももちろんできない。ぎりぎりのところで急いで走っていたと思う。長い1日となった。周囲がゆっくり夜の帳に包まれるころ、ようやくテーシュ駅に着き、バスを降りた。ここまでの運転手さんとはお別れとなる。

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赤と白の華やかな電車に乗り換えてツェルマットまで登る(写真100)。谷あいの線路を登っていく電車に揺られながら、私たちの期待も登っていく。途中窓の外にマッターホルンの山頂が見えるところがある。少しの間なのだが、みんな窓にぶら下がるようにして外を見る。マッターホルンはやはり特別な山なのかもしれない。マッターホルンは期待通りにきれいな山頂をのぞかせてくれて、私たちは満足してツェルマット駅に着いた。駅からは電気自動車に乗ってその日の夕食を食べるレストランに向かった。レストランの前からは夕焼けにシルエットとなったマッターホルンが大きく見えている。その姿だけで気持ちが満足してしまうから不思議だ。


101

夕食はワイン飲み放題ということだった。穴倉のようなかわいいレストランで、チーズフォンデュ、ミートフォンデュ、ラクレットというスイスの有名なお料理が出てくる。この店の料理はみんなおいしく食べられた(写真101)。しかし、翌日の予定が日の出前というスケジュールだったので、ワイン飲み放題はあまり活用されなかったように思う。それでも、ついお代りをしてしまったのは、さもしい根性だろうか。このレストランではスペアリブが出たが、これがカリカリに焼けていて、肉が苦手な私でも食べられる、感動した。夫が小さくカットしてくれたものを何個か食べた。

お腹がいっぱいになったところでホテルに向かった。移動は自分の足か電気自動車のどちらか、暗い中の初めての道なので、電気自動車にお世話になった。

ツェルマットは環境保護の観点から一般の車は進入禁止になっている。馬車と電気自動車が移動手段となっている街なのだそうだ。そして、電車。アルプスの山を登っていく電車の写真はよく見ることがあるが、ツェルマットから出ているゴルナーグラート鉄道は有名だ。途中からマッターホルンが目の前に見えるのだそうだ。私たちのツアーコースには入っていないが、自由時間に乗ってみようと計画していた。


ホテルは家族経営のこじんまりとしたところだった。ロビーで鍵を受け取って自分の部屋に行く。ここで、大変なことが起こった。これまで何日も特に困ったこともなく無事に過ぎたので、油断したのかもしれない。また、控えめにしたとはいえ、ワイン飲み放題にすこし浮かれたのかもしれない。部屋で荷物を整理していたら、夫が肌身離さず持っていたはずのビデオカメラがキャリーバッグごとないことに気づいた。私はあわてて、一階ロビーに引き返した。もう遅かったので、一階には誰もいない。夫が座っていたソファの辺りをのぞいていたら、ホテルの婦人が出てきて何か言った。私が「ブラック、バック」と言うと、「イエス、4--」と、添乗員さんの部屋番号を言う。私はサンキューと言うのももどかしく、部屋に戻り、添乗員さんの部屋に電話した。ホテルの人が気づいて添乗員さんに渡してくれていたことが分かり、すぐもらいに行って無事一件終了。しかし、無事に戻ったからよかったが、もし、他のところだったら、そのまま見つからなかったかもしれないと思うと、一時は青くなった。
安心して、翌日の4時起床に備えてゆっくり休んだ。



マッターホルンの朝焼け・八日目


まだ眠い。でも、今日への期待がまぶたを軽くしてくれた。まだ暗い道をロートホルン展望台へのケーブルカー乗り場に向かって歩く。ホテルから川沿いに歩くと乗り場には係員が待っていてくれた。こんなに早い時間は本来ケーブルカーやロープウェイは動かさない時間帯らしい。日本の旅行会社が頼みこんで動かしてもらっているような話だった。係員は一人しか見えない。私たちツアーの仲間は添乗員さんを入れて23人。途中でロープウェイに乗り換えて、標高3100メートルのロートホルン展望台に着く(写真102)。この展望台はホテルにもなっているので、前の日にここまで上がれば日の出のマッターホルンを見ることができる。私たちは早朝にここに着いて、これから日の出まで時間を過ごすことになる。辺りは月の表面かと思うような岩のひろがり。目の前に黒々とマッターホルンがそびえている。雲はまったくない。マッターホルンの斜め左上空に月が静かに光っていて、ここが月の世界ではないことを教えている(写真103)。

102

103

104

どこまでも広く、どこまでも冴えわたっている空気。そして、寒い。今はもちろん8月上旬、真夏。3000メートルの山上の日の出前は日本でも寒いが、周りに何もない広がりは怖いくらい。夫は持ってきたビデオをセットする。少しずつ色を変える空と、マッターホルンの山肌をただひたすら映像に収める気らしい。私は話に聞いていた日の出の瞬間の赤く光る山頂を見たい一心で、辺りをうろうろ歩きまわっていたが、それから約1時間、悠々と流れるアルプスの時間、夫はやはり悠々と過ごし、風景と同化しているようだった(写真104)。その周りを私はチョコチョコと歩き回り、あっちの山、こっちの山、あっちの人、こっちの人を見て動いていた。

105


初めにモンテローザの山頂が白く輝く。それが、今日の太陽の最初の光。それから待って、待ち遠しい気持ちが大きくなって、じっと眼を凝らすのをやめようかという時に光が来る。光は、マッターホルンの山頂にひらめき、山頂は赤く輝く(写真105)。

106

それまで軟らかく静かに変化していた空の色などすべてどうでもよかったかのように、その輝きは強い力を放っている。それまで、岩山のあちらこちらに散らばって思い思いに写真を撮ったり、寒さをこらえたりしていたツアーの人々が展望台前の広場に集まってくる。誰が呼びかけたわけでもないが、そこで互いに写真を撮りあっている(写真106)。仲間のうちの一組の夫婦が新婚旅行でスイスに来た時に買ったというチロル帽を持ってきていた。そして、それをみんなに貸してくれている。記念写真にぴったりでしょうということらしい。私たちもそのダークグリーンのチロル帽をかぶって写真を撮ってもらった。夫はなかなか似合っていたのに、私の方はとってつけたような感じでとても似合うとは言えない。でも、みんなにはやされながら、そんな写真を撮るのもツアー旅行のお楽しみかもしれない。

ひとしきり写真を撮ったり、あちこちの山頂に日光が当たるのを眺めたりしているうちに、マッターホルンの中腹まで日があたり、私たちは朝食をいただくことにした。


■ Video:マッターホルン朝焼け■

14倍速で編集:実録26分37秒を1分54秒に縮めています。


展望台のホテルのレストランで朝食。これまで、どこのホテルでもたくさんのシリアルが用意されていたが、私はなかなか食べてみる気になれなかった。しかし、この日、私はシリアルを少し味見してみた。一度も口にせずに日本に帰るのもさびしい気がしたのだ。二種類のシリアルを少しだけいただいた。とても香ばしくておいしい。夫にも「カリッとしていて、おいしかったよ」と勧めたが、夫はついに口にしなかった。けっこう頑固なんだ。日本でなんだかグチャッとした甘いタイプのものを口にしたことがあり、そのイメージが自分たちの中に「シリアル」という言葉と同一化して強くある。しかし、ここで口にしたものは、イメージしていたものとは全く違うものだった。けれど、スイスではパンがとてもおいしかったので、シリアルの味見はこの一回だけで、あとはやっぱりパンをいただいた。


食べた後すぐトイレの話は恐縮だが、このホテルのトイレは広々としていて、一面にシックな花柄のタイルが貼られ、とても高貴な場所という雰囲気だった。

107

朝食のあと、展望台の周囲を散策した。足元に小さな花がたくさん咲いていた(写真107)。目の前には巨大な氷河と、その向こうに大きな、大きなモンテローザがそびえている。のんびり花を眺めていると誰か呼んでいる。ツアーの仲間みんなで写真をとりましょうという呼びかけだった。今回のツアーはとても和気あいあいとした集団だったこと、残り二日を残して少し感傷的になっていたこと、そしてこの雲ひとつない雄大なアルプスの真ん中であまりにも美しい風景の大きさに圧倒されたことなどがみんなの気持ちを一つにしたようだ。順番にさしだされるカメラを次から次へとシャッターを押すロープウェイマンも終始大笑いしていた。私たちはマッターホルンをバックに、今回の旅で唯一の集合写真に収まった。


お腹もいっぱいになって再びロープウェイに乗る。今度は下り。途中のブラウヘルト駅で降りてハイキングをする。スネガ展望台でロープウェイとさよならをするので、ロープウェイマンのお兄さんと一緒に写真を撮った。大きい人だと思ってはいたが、後で出来上がった写真を見ると、彼と並んだ私はまるで小学生の子どものように小さい。年寄りの顔をして小さいから変なだまし写真のようだ。

ここで撮った写真を見たとき、プレゼントしなくては…と思った。真剣に考えればロープウェイの営業所に送るなどの方法もあるのだろうが。ぐっとこらえてやめることにした。ツアーの集合写真を撮ったときも、仲間たちはみんなそれぞれのカメラで撮影していた。つまり、交換しなくていいように…ということなんだ。

写真が趣味の私は、家族が集まったとき、友達との会食、いくつかの自然観察会などでいつも写真を撮った。そして、人物を撮ったときはその人にプリントアウトして渡すことにしてきた。

108

もちろん勝手に撮って勝手に渡すから、基本はプレゼント。…私の人生における写真代は結構な率をしめているかも知れない…。それを含めて、私の趣味といえるのだろう。今回の旅では、ツアーの添乗員さんと並んで写した写真を旅行会社宛に送った。添乗員さんにはとても楽しい旅のクリエイトを助けてもらったと思ったし、写真が良く撮れていたので、送ることにした。しばらくして、フランスのモン・サン・ミッシェルからの絵はがきが届いた。彼女の旅はずっと続いているのだなと思う。


109

ロープウェイを降りたブラウヘルト駅からは、現地ガイドがついて少しハイキングをする。シュテリゼーという湖まで歩く。スイスではゼーというのが湖という意味だから、小さな湖もみんなゼーがつく。歩く道々高山植物がたくさん咲いていてとても気持ちのいいところ。そしてこのハイキングでついに自然に咲くエーデルワイスに会うことができた。とても小さな、けれど純白の可憐な花、風に揺れている。見つけた人が誰かに踏まれないようにと、花の周りを小さな石で囲っているところもあった。探すとあちこちにその姿を見ることができた(写真108、109)。

110 シュテリゼーの花々

111

ツアーの先頭近くを歩いていたのに、いつの間にかびりの方になっている。ワタスゲの咲く湿原地帯(写真110)を少し行くと思ったより広い湖が開ける。そして後ろを振り返るとマッターホルンがきれいな三角にそびえている。雲ひとつない蒼の広がりの下、風のない湖面には逆三角に美しいマッターホルンが姿を映している(写真111)。添乗員さんがこんなにきれいな逆さマッターホルンはなかなか見られないですよと話している。私たちはまたチロルハットのご夫婦から借りてみんなで交代して写真を撮った(写真112)。このご夫婦は新婚旅行以来、5年ごとにスイスを訪れているのだそうだ。それを楽しみに働いているのよと、奥さんは元気な笑い声と共に話していた。美しい景色の中ではいつまでも時間が止まっているような、自分もその風景の一員になってそこに定着されてしまうような不思議な気分になる。飽きない。いつまでもここにいたい。そんな、ちっとも波立っていない淡々とした気持ち…。

112

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しかし、やはり時間は普通に流れて、そこを発つ時がきた。もう一回ケーブルの終点に戻りそこからツェルマットに下る。朝が早かったので、まだ昼前なのだ。この後は自由行動となっている。駅に戻る途中から左のハイキングコースを回り、歩いてツェルマットに下る人たちもいる。スイスの山を含め、いろいろな山を歩いているというご夫婦と、サン・モリッツでも自由行動をして楽しんでいたお友達連れの人たちが手を振って高原の道を遠ざかっていく。私たちはこの後、もう一つの目的地ゴルナーグラート鉄道に乗る予定だ。添乗員さんと別れて、自分たち二人で切符を買って行けるだろうか、不安と道連れの小旅行だ。


スネガから降りたロープウェイの駅は、ツェルマット駅から少し奥まっている。駅の方にすこし戻ると、ゴルナーグラート鉄道の駅がある。窓口で切符を買う。大丈夫、カードで買えた。片言の英語でOK。

ゴルナーグラート鉄道はスイスのツェルマットとゴルナーグラートを結ぶ登山鉄道である。長さは9キロメートルで、軌間はメーターゲージ(1000ミリ)である。全線でアプト式ラックレールが敷かれている。ツェルマットの標高は1604メートル、ゴルナーグラートの標高は3089メートルだから、標高差は1485メートルもある。ゴルナーグラートは、ゴルナー氷河とフィンデル氷河に挟まれている。周りはアルプス山脈の29もの4000メートル峰に囲まれているそうだ。これらの山々へのハイキング・登山の出発地としてにぎわっている。

今日のように晴れた日には、ゴルナーグラート駅からマッターホルン4478やモンテローザ4634、ブライトホルン4164、リスカム4527などが見える。冬になるとこの辺りは人気のあるスキー場にもなるところだ。スキーに来たいね…と、思わず周囲を見まわす。しかし、3000メートルのゲレンデはガチガチで、きっと私なんてはじき飛ばされるのだろうな、とも思う。

ゴルナーグラート鉄道の建設は1896年に始められ、1898年に夏期のみの営業で開業した。終点まで年間を通して運行するようになったのは1942年になってからなのだそうだ。私たちが生まれる前から活躍していたのだと、びっくり。山頂側ターミナルは2004年にリフォームしたそうだが、この鉄道は当初から電化されている。路線長は9339メートルで、このうち3790メートル、約三分の一が複線となっているとのこと。この鉄道は典型として2両編成の列車を運行していて、1時間当たり約2400人をツェルマットからゴルナーグラートまで運ぶことができるそうだ。

114

茶色の車体の電車に揺られながら、ぐんぐん高度を上げていく。車内では日本語のアナウンスがあった。いかにも観光地という感じで、英語、ドイツ語のほかよくわからないことばと日本語で何回もアナウンスする。途中からは目の前にマッターホルンの三角の壁が聳え立っているのが見える。写真や映像で何度も見たことがある風景だ。何度も見た風景ではあるが、その風景の中に自分もいるということが実感を超えて迫ってくる。(写真114)

終点の駅からゴルナーグラート展望台までひとのぼり。氷河を見おろしながら広場になっている展望台を歩き、さらに奥の岩山の上に上ると、眼前にモンテローザの勇姿とグレンツ氷河からゴルナー氷河に続く雄大な流れを見ることができる。氷河は手を伸ばせば届くようでありながら、岩から一気に落ち込んで吸い込まれるような深い、深い谷にも見える(写真115)。なぜか、すいつけられるように目を離せず、しばらくそこに座っていた。

115

氷河にはモンテローザへの登山道が踏まれている。向こう岸のふもとにはモンテローザヒュッテがあって登山基地となっている。ここまでなら、天候に恵まれれば行くことができる。またひとつ見ーつけた、いつか行ける山の近く。氷河の上流、山腹に小さな湖が見下ろせた。後に夫はこの湖の名前を調べるためにずいぶん時間をかけていた。買ってきた、スイス全土の地図にも、もらってきたツェルマット周辺の地図にも載っていなかったのだ。一時はあきらめていたが、どうにかして発見した。やっぱり頑固だった。

気分を変えて広い展望台に戻り360度の山々を眺める。モンテローザの美しさは格別だが、反対の山並みもまた鋭角に空を突いていて美しい。飽きることなく眺めていたいが、ここでも私たちはハイキングをしたいと思っていたので、まずは腹ごしらえ。

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展望台の中にはレストランがある。自分で盆を持ち、食べ物を選んで、最後にレジでお金を支払う仕組みなので、値段さえ確認すれば、あまり困らずに誰もが利用できる。パンとサラダと、少しだけパスタを選び、コーヒーを載せて支払いを済ませた。せっかくのマッターホルンを見ながら食べようと、屋外に出て空いているテーブルを探す。屋外にはたくさんのテーブルがセットされていたが、かなり満員状態だ。奥のほうから手を振る数人の人たちを見つけ近づくと、ツアーの仲間で、彼らの席の近くにあるいくつかの空きテーブルを教えてくれた。仲間たちと簡単にこの後の予定を話し、彼らはもう食事を終わっていたので、先に移動して行った。私と夫はマッターホルンを眺めながら食事をした。テーブルにつかず離れず、黒い鳥が歩いている。大きさといい、歩く姿といい、日本のカラスそっくりなのだが、このカラス、嘴と足がとても明るい黄色だった(写真116)。私たち夫婦はアルプスにもカラスがいるんだねと毎度のことながら他愛もないおしゃべりをしながら食事をしたが、何かもらえるものはないかと思っているように、チョコチョコ歩き回っている姿は日本の真っ黒なカラスより親しまれている様子だった。


早朝は一面の青で、全く雲のない空だったが、山々の後ろから、いたずらっ子がのぞくようにだんだん雲が湧いてきている。腹ごしらえを済ませて、いよいよハイキング、数日前のユングフラウでは雨の中のハイキングだったので、今日のハイキングをそれは楽しみにしていた。

117

ゴルナーグラートの展望台からの歩き始めは少し岩の多い急なコースだった。もちろん、日本アルプスの穂高などを歩いていれば、とても緩やかな危険の少ないコースではあるが。ただ、日本アルプスを歩くときは、登山靴に登山用の服装と、身を固めていくのだが、今回は歩きやすいとはいえ、タウンシューズのようなものを履いているので、気をつけて進んだ。


コースは下りで、しばらくは線路沿いを行く。ゴルナーグラート鉄道が通るたびに写真を撮ったり、眺めたり、なかなか忙しい。線路脇の広い道に立ってしばらく電車の行き来を眺めた(写真117)。

電車は2車両で走っているが、2台ずつ続けて走ってくる。下りが2台いくと、今度は登りが2台行くという感じで、つい交互にくるような期待を持ってしまうと、なんだかだまされたような気がしてしまう。しかし、しばらく見ているうちに、その法則にも慣れて、近いところでは電車の客と手を振り合いながら、歩いた。

■ Video:ゴルナーグラート鉄道と展望■


118

次の駅は有名なローテンボーデン駅で、この駅で下車して少し下ったところにあるリッフェルゼーから、逆さマッターホルンを眺める人もたくさんいる。しばらく歩いてきた私たちはリッフェルゼーを見下ろす小高い岩場で小休憩をとった(写真118)。まだまだ青い空とともに逆さに移ったマッターホルンは少し揺れていた。風も出てきたらしい。山頂付近に雲の襟巻きをまとい始めている。

119 花々とマッターホルン

しばらく休んだ後、今度はマッターホルンに向かって歩く。間に氷河が横たわっているとは思えないほど近くに見える。しかし、道は急に切れ込むように落ちている崖の手前で右にカーブしていく。このあたりまではさまざまな色の高山植物が咲いていたが、道がカーブしたあたりでは白と黄色の花々がじゅうたんのように道の脇を彩り、その向こうにマッターホルンが稜線を見せてそびえている姿はまた格別だった(写真119)。どこまでも広がるという月並みな表現が恥ずかしくなくしっくりくる広がりの中に私たち二人がゆっくり歩いている。あまりすれ違う人もいないコースだったが、時折行き交うハイカーが、「ハ~イ」「ハロー」「ボンジュール」と挨拶の言葉もさまざまだったのが面白かった。中には「コンニチハ」と、言いながらニコニコしていく背の高い金髪の人などもいて、一瞬の差でこちらは「ハロー」と言ってしまって、あわてて「オ~コンニチハ」と言い返すひとコマもあった(写真120、121)。

120


雲上ではなかったが、ただただ心地よいハイキングも、前方にリッフェルベルク駅が見えてきて、終わりに近づいた。私たちは駅の隣のホテルでお茶をいただきながら電車を待つことにした。ホテルの庭は広々としたカフェテリアになっていて、日差しの下で、マッターホルンを眺めながらゆっくりおしゃべりしている人々がたくさんいた。こちらの人たちはあまり帽子をかぶっていない。サングラスはしっかりかけているのだが。太陽の光を浴びることがステータスなのだと聞いた。日に焼けることをいとわないのだということは、今回の旅でなるほどとうなずけることだった。

121

カフェテリアで、コーヒーとそれぞれ気に入ったデザートを購入し、広いテラスの中ほどに向かい合って座った。私は巨大プリン、夫は杏の入ったケーキ、どちらも甘すぎず、おいしかった。カフェテリアのレジには若いお兄さんが座っていて、コーヒー二つとケーキを持って行くと、ニコニコして金額を言ってくれた。実は言われてもよく聞き取れないことが多いのだが、商品にはそれぞれ値段がついているし、レジスターに金額が表示されるので、あまり困ることなく買い物ができる。私は金額を支払い、お盆を持って店を出ようとした。するとお兄さんがコーヒーを指差し「ショウガ?」と聞く。

えっ、コーヒーに生姜?私は「ショウガ?」と繰り返し、お兄さんはますますニコニコして「ショウガ」とうなずく。今思い出せば、スイスのお兄さんが日本語の生姜を知っているわけもなく、「ジンジャー」とでも言われればそうだが…、そのときは私の頭の中は生姜がぐるぐる回って大混乱。コーヒーにショウガを入れる習慣があるのだろうかなどとも考えた。

しかし、混乱していたのは実はほんの一瞬だった、お兄さんはそのまま出ようとした私に「シュガーとミルクは持っていかなくていいか」と聞いただけだった。私が「シュガー!」と叫んで、「ノーサンキュー」と言うのを聞いて「オーケー」とさわやかに笑った。でも…おにいさん、何回聞いても私には「ショーガ」としか聞こえなかったんだけど…。

122

朝は雲ひとつない青空だったが、今はマッターホルンの頭に少し雲の帽子がかかっている。上空は風があるとみえて、雲の帽子は時折肩まで降りたり、頭に載ったり、緩やかに動いている。日差しは強いけれど、2582メートルの空気の軽やかさに全身がのびのびしていくようだ。ふと気がつくと、向かい合っている夫のサングラスに、マッターホルンが小さく、小さく全身を映していた。(写真122)

しばらく休憩した後、ゴルナーグラート電車に乗ってツェルマットまで降りた。

駅前広場に馬車が止まっていて何頭もの馬が尻尾を振りながら足をぶるぶるさせていた。馬車は駅前で客を拾うとにぎやかに去っていき、入れ替わりやってくるようだ。駅から路地を少し入ると、スーパーマーケットがあった。その日の夕食も自由だったので、私たちはスーパーマーケットで買い物をしようと考えていた。

123

フランスのスーパーマーケットではシャンパンがとても安くて、そしてとてもおいしかった。ツェルマットは、スイスなので期待はしていなかったが、ここでもおいしいシャンパンが安く買えた。フランスに近いからかな。大きなトマトも買い込み、ホテルに戻った。この小さなホテルのエレベーターは厚い木の扉がついていて、まるで部屋に入るようにドアを開いてエレベーターに乗る(写真123)。部屋に落ち着き、パン、ハム、果物で、十分リッチな夕食となった。



雲に隠れたマッターホルン・九日目


翌日は1日自由行動、午後にはバスに乗ってイタリアに出発する。いよいよ最終日、ミラノのマルペンサ空港から飛び立つことになる。ホテルでの朝ごはんを済ませると、荷物をまとめて、出発。荷物をまとめてホテルに預け、私たちはその日のプラン、マッターホルンへの登山基地ヘルンリ小屋に至るロープウェイの駅に向かった。ロープウェイはシュワルツゼー展望台まで上る。そこからヘルンリ小屋のあるところまでは登山装備で1日かかるところ、私たちはロープウェイの終着駅から少しハイキングをしてこようという計画。

124

駅で降りてレストラン・ホテルシュワルツゼーの前の広場を回り、まず氷河を見ようとしたら、氷河に向かい合うように木のベンチがあり、そこに年配のご夫婦らしき二人連れがゆったりと座っていた。しばらく周りをあちこち歩き回ってみた(写真124)が、彼らはうなずきあう様子はあるもののほとんど動かず、雲に覆われて時折姿を見せる氷河に向かって泰然と座っているのだった。このご夫婦らしき二人連れに心引かれながらも、彼らを後にし、稜線を歩いてみた。少し長い登り道だ。ピッツ・ネイル以来の登り道だ。朝から雲が多く、風も少し出てきたので、あまり遠くまでは行かず雨粒が落ちてきたらすぐ引き返せるようにしようと話しながら登り道を行く。羊がたくさん近寄ってきて、道の脇の草原で草を食べている(写真125)。遠くにヘルンリ小屋が見えている。いつか、あそこまででも登りたいねと、見上げるが、そこまででも、なかなかの鋭い稜線が見え隠れしている。雲の流れが激しい。すぐ近くに見えるはずのマッターホルンの壁は残念ながら白い世界の向こうになっている。

125

私たちは駅前のホテルに引き返し、簡単なティータイムとした。アップルパイを食べたら、りんごの皮がとっても長く繋がっていて面白い(写真126)。このアップルパイ、高い山の上とは思えぬおいしいお菓子だった。ホテルの玄関にはスイスの国旗となぜか日本の国旗が並んではためいていた。

126

そして、なんと驚くことに、あのご夫婦らしき二人連れは同じベンチに同じように腰掛けてその展望台の置物のようにそこにい続けた。私たちが忙しく氷河をのぞき、稜線を歩き、対岸の山並みが雲から現れるのを待って写真を撮り、羊たちの顔を識別できるかなどとつまらないことを言いながら歩き、ホテルのレストランでお茶をいただき…していた間、かの人たちはずっと座って、二人だけの世界の小さなおしゃべりをしながら時を過ごしていたようだ。このご夫婦の姿は何度となくその後の私たちの会話に登場する。私たちだって、日本人の中にあっては、どちらかというとのんびり過ごすほうだと思うが、彼らの時間の使い方とは所詮比べるのがまちがっている。スケールが違うという印象。あんなふうに時間を自在に感じられたらいいね、と思う。

けれど、その日帰る予定の私たちは、その日に彼らを見習うわけにもいかず、少し早めにロープウェイの客となった。もし、ロープウェイが止まってしまったらお手上げである。このロープウェイは深い谷を渡っていく。私たちのような軽装ではとても歩いて降りられない。幸い雨はまだ落ちてこない。展望台では雲に混ざって流れていた水の粒も、街ではまだ感じられない。ツェルマットの駅集合までにはまだ間があったので、私たちは街の中をぶらぶら歩いた。


ツェルマットには有名な登山者の墓地がある。その脇の道路を通ったとき、道の端に小さな日の丸を見つけた。近づくと、ツェルマットと姉妹都市だという新潟県の妙高を紹介するレリーフ版が立っていた。マッターホルンと妙高山のレリーフが並び、そこにスイスと日本の国旗がカラーで描かれている。妙高は私のふるさと新潟県にある。妙高山と、隣の火打山は高山植物のとても美しい山で、私の大好きなところなので、とてもうれしかった。

そこからわずかに歩くと山岳博物館がある。山岳博物館はマッターホルンの形を模した三角屋根の形をした建造物だ。その前の広場には円形に階段があり、人々は三々五々腰掛けては散っている。私たちも、少し腰掛けて休み、かわいい幼児が遊ぶのをしばらく眺めていた。子どもが遊ぶ姿はどこもあまり変わらないが、隣の親の対し方がどこか違う。小さな子どもとつい目が合ってしまうことが多い私は、子どもと目で話してしまうことが多いのだが、そのことに気づく親と気づかない親がいる。気づいても自然に子どもを見守る親と、間に入ってくる親がいる。日本では気づかない親が多いが、気づくと間に入ってくる親が圧倒的に多い。でも、ここでは、親は気づいていても静かな笑顔で見守るだけ。言葉の壁もあるかも知れないが、片言でも大きな声であいさつするこれまでの経験からすると、やはり子どもに任せているのだろうと感じられた。

127

さらに歩いていくと、狭い路地が奥に続いているところがあったので、入り込んでみた。その路地はツェルマットの昔の建物が残されている一画だった。木造の建物が並び、その建造物の足元には大きな石が据えられていて、建物の下に空間が作られている(写真127)。事前学習をしない私たちにはうれしい発見だったが、後に案内書などを見ると、ちゃんと書いてあった。この建物は黒いカラマツ材でできていて、高床式の穀物倉なのだそうだ。柱の木材の間に円盤状の石をはさんであり、「ネズミ返しの小屋」と呼ばれている。昔の人が穀物などを守るための知恵だったらしい。日本にも似たような考えで建てられた旧家の倉庫などがある。しかし、路地にずっと続くこの旧建造物は、傾いていても美しいと感じる。そういえば、日本の宿場町をそのときの状態に近く残している観光地があることを思い出した。あの雰囲気に似ているかも知れない。そのエリアにいると、タイムスリップしたような、なぜか美しい空間にいる気持ちになるが、一歩出てしまうと夢が覚めるのだ。

128


時間になってきたので、ツェルマットの駅に向かった。駅にみんなが集まってくるころからぽつぽつと雨粒が落ちてきた。私たちはいよいよスイスとお別れ。(写真128)

再び赤と白の電車に乗ってテーシュ駅まで戻る。そこからバスに乗り込んで、ミラノの飛行場に向かう。

バスは山道をぐんぐん登っていく。目指すはシンプロン峠。雨の中の山道で、面白いものを見た。急な斜面に創られた道は渓谷側を柱で補強したトンネル道になっているところが何箇所かあったが、その道の上の崖から滝のように水が谷に向かって噴出している。トンネル上の道の屋根には水の流れができているらしく、大きな滝の裏側を車が走っているような感じだった。木々の緑が美しい山道に滝が出現し、近づいていくと、その滝のトンネルをバスは通過していく。谷に噴射するような水の流れの裏側をバスはぐんぐん登り、シンプロン峠に着いた。

シンプロン峠にはシンボルの大きな鷲が立っている。バスから降りて、少し足を伸ばし、峠のホテルでトイレ休憩をしようと思ったが、ここではトイレ休憩ができないことがわかり、少しあわてて、出発することになった。

129

峠からの下りはイタリアの美しい農村を行く。大きな湖の脇を走り、ミラノに向かう。明るい林が続く中に、農家だろうか石造りの小屋がポツリポツリと点在している。走っても、走っても美しい風景は続く。広い大地に広がる淡い緑の木々の揺らぎは、日本にはない優しい風景だ。人口密度の少なさを実感する。(写真129)


しかし、ついに建物が占める割合が増え、ビルが見えるようになってきた。ミラノ市の郊外にさしかかって来たのだろう。私たちの乗るツアーバスはマルペンサ空港の駐車場に入った。郊外の時代をさかのぼったような風景とは変わって、空港は近代的なデザインの建物だ。9日前に到着したときは、夕方だったので、建物全体をゆっくり見回す時間はなかったが、今日は最後に飛行機が飛び立つまでゆっくり時間がある。空港の周りを少し歩き、ミラノの空気を楽しみたいと考えていた人は多かったようだ。私と夫もバスが空港に入るときは周囲を眺めて、どこを歩いてみようかなどと思いをめぐらせていた。

しかし、バスから降りて説明を聞きながらカウンターに並び、航空券のチェック、出国手続きと、流れ作業のように済ませてしまった。添乗員さんは、「中には免税店も沢山あるのでゆっくり最後のお楽しみを」と説明した。

これまで、添乗員さんにはとても楽しい時間を作ってもらっていて、みんな感謝していたと思う。かなり豪快な交渉をしてくれたり、自由時間を保証してくれてみんなが自分の楽しみを作れるようにしてくれたり、楽しい話をとっても沢山聞かせてくれたり、私と夫の初めてのツアー海外旅行がこれほど楽しく過ごせたのは添乗員さんのおかげも大きいと思うほどだ。それから、22人の仲間たちと、ね。

しかし、最後のこの時間の過ごし方だけは残念な思いが残った。一回チェックインしてしまえばもう出られない。これで、安心としたいよね。添乗員さんにとっては、あとは飛行機に乗って帰るだけという、ほっと力を抜きたいところだよね。その気持ちはなんだかとてもよくわかるが、少し時間が長すぎた。しかも、免税店は高級なブティックなどのブランド品のオンパレードで、私と夫は一回りしてしまうともうすることもなく、ビルの外の飛行機の動きを眺めて残りの時間を所在無く過ごした。


涼しいアルプスから猛暑の日本へ・十日目


130

帰りの機内では、疲れも手伝ってか、ほどほどに眠れた。機内食はどこで積んだのだろう、イタリアだよね、でも期待が大き過ぎたのか、期待したほどおいしくなかった(写真130)。私と夫は赤ワインを1本ずついただいて、うとうとしたり、モニターで機外の映像を見たりして過ごした。飛行機が現在どこを飛んでいるのか、スピードはどのくらいか、高度は何万メートルか、機外の気温は何度か、というアナウンスが刻々と画像表示されていく、その様子を飽きもせず眺めていたりする。(写真131)

131


もう終わってしまうのがとても残念だけど、なんだかほっとするような気分。


JALのジャンボ機は予定通り成田空港に到着した。機外に一歩踏み出すとそこは熱風が吹く日本の猛暑だった。湿気が押し寄せる。荷物を受け取って添乗員さんにお礼を言って、私たち二人は10日間の旅を共にしたツアーの仲間と別れを告げた。

箱根にスイスの牛がいたよ!
スイス土産のシャツを着て(孫)

成田エクスプレスの乗り場に向かおうとしたが、台風か豪雨かの影響で運休しているというアナウンスがされている。

初めての経験とばかり、日暮里周りで帰ることにした。最後の最後まで、意外性や楽しみがあるのが旅の面白さ、湿気に押しつぶされそうになりながら家路についた。




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