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10「ドラキュラはバラの香りに包まれて」

ブルガリア・ルーマニア

2019年6月4日〜11日

目次
初日から疲れました
熱帯のドーハ カタール国旗
バラの国へ・花の町ソフィア ブルガリア国旗
リラの僧院へ ブルガリア国旗
遺跡の町プロブディフ・バラの町カザンラク ブルガリア国旗
国境越え、トラブル発生 ブルガリア国旗 ルーマニア国旗
駆け足の見学ペレシュ城 ルーマニア国旗
いよいよドラキュラ城・・・だがまたも? ルーマニア国旗
最終日ブカレスト ルーマニア国旗
最終日は飛行機の中で
旅の終わり


初日から疲れました


地図・ブルガリア・ルーマニア

成田へ着くまでに、既にヘロヘロになった。家を出て北陸新幹線、成田エクスプレスを乗り継いで、夕方第2空港ビルに着いた。夏の日は長いとは言っても、いつもなら夕食を食べようという時刻だが、集合時間まではまだ間がある。(地図)

ここに至ってようやく、この旅行(ツアー)に申し込んだ無謀さを悟った。出発は深夜の0時30分の予定。電光掲示板を見ると、本日の最終便、それでも予定時刻は繰り上がって、24:10とある。


空港に着いたら、ゆっくり夕食を食べよう・・・などという計画も、ひたすら襲ってくる睡魔に負け、コンビニで調達してきたオニギリ一個を、目をこすりながら飲み込む。

のろのろと時間が過ぎて、添乗員さんの説明を聞き、航空券を手に入れ、セキュリティーチェックも出国審査も、ふわふわと済ませて搭乗ゲートに向かう。

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搭乗ゲートまでの長い通路の途中に、畳を敷いた大型椅子や、布団の宣伝を兼ねた大型ソファがあり、少し体を横にして伸ばすことができた。(写真1)

「う〜ん、このまま寝ちゃいそうだ」と言う夫は、夜8時には布団に入る生活、夜11時過ぎまで体を横にできないのは辛いだろう。あと少しで目覚める時間・・・かもしれない。


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それでもなんとか持ちこたえ、予定のカタール航空機に乗り込んだ。日本航空との提携便とのこと、日本人アテンダントが乗り込んでいるそうだ。(写真2)

窓側3席ABCのうち、AB席だったのをBC席(通路側)に変えてもらったのだが、結局A席には乗る人がいなかった。11時間半もの長い飛行、3席の空間を使えるのはラッキーだ。


さて、カタール航空で向かうのはドーハ国際空港。しかし旅の目的地はカタールではない。私たちが向かうのはブルガリア、そしてルーマニアなのだ。ドーハからさらに乗り継いで、ブルガリアの首都ソフィアまで飛ぶ。

■ 成田からドーハ(カタール )へ 11時間半の飛行 ■

二つの空港の位置関係を示すもので、実際の航路は複雑です。


成田から出発した飛行機は太平洋に飛び出し、日本列島に沿って南西方向を目指す。久しぶりに富士山の上を飛ぶが、深夜のため窓は閉じている。開いていたとしても、暗くて見えないだろうが・・・。

国内線では沖縄や四国、九州などへ飛んだことがあり、雲の上にポッカリ茶碗を伏せたような富士山を見たこともある。けれど国際線では、これまで全て北上し、日本海へ出た。

富士山は見えないけれど、新しい道をゆくのはなんだか嬉しい。目の前のモニターには、TOKYO〜DOHAの航路が描かれている。機長の挨拶でも、ミャンマー、インディアを越えて行くと言ったようだ。初めて飛ぶアジアの国々にワクワクする。ただ、今はどこも夜のしじまの中に沈んでいる。


枕に空気を入れ、毛布にくるまり、横にはなれなくても目を閉じて、少しでも睡眠をとろうと試みる。

深夜、体は疲れていて眠いはずなのだが、目は冴えてしまっている。うっすら目を開けたり閉じたり、モニターの数字や文字をぼんやり眺めているうちに、最初の機内食になった。

日本語も載っているメニューが配られる。日本食に「そば」とある。以前読んだエッセーに、機内食の和食に期待してはいけないという説があった。確かにそうかもしれないが、あの出し汁の匂いには抵抗しがたいものがある。しかも夫の意見では、日本からの出発便は日本で積むから美味しいのでは・・・ということになる。何れにしてもつゆと麺の魅力には逆らえず、私たちは和食をオーダーした。お供は赤ワイン。

お蕎麦は・・・、まぁ「麺に期待はしない方がいいでしょう・・・」かね。でも、「疲れた身体には優しい食べ物でした」よ。


空港では眠さをこらえていたが、機内で身の回りを整えたりしているうちに、気がついたら安定飛行に入り、眠気が吹っ飛んでしまっていた。

それでもここで寝ておかないと、着いたらすぐ観光が始まる。一つの空席を活かし、身体を横にしてみる。夫と交代でようやく少し眠ることができた。


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そうこうするうちに飛行機はインドの上を飛び、再び海の上に出たようだ。(写真3)

ここはアラビア海。中東の国々は、宗教の違い、政治の違い、長い戦いの歴史を、ニュースを通して知るだけの国々が多く、国名も境界線も私にはわかりにくいところが多い。

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けれど、インドを超えればドーハまでは西へ一直線で、近そうだ。機内も2回目の機内食の準備でざわざわし始めた。(写真4)


ところが、モニターを見て驚いた。海上を北へ向かっている。オマーン海峡を進み、北はイランとの間の、狭いホルムズ海峡の上を飛んでいく。南にはアラブ首長国連邦の半島が出っ張っているのだが、そこを避けるようにぐるりと回っていくようだ。

モニターでは細かくはわからないが、イランの上を少しかすめたあと再び南下してペルシャ湾に入ればもうドーハはすぐそこ。着陸態勢に入るとのアナウンスが聞こえてくる。


熱帯のドーハ カタール国旗


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ドーハに到着したのはまだ未明。空港の外れの海の上がほの白く明けてきた。到着したところは広い空港の外れか、タラップで降り、建物まではバスで移動する。一歩飛行機を出ると熱気が襲ってきた。朝早いのに、空気は南国のイメージだ。(写真5)



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機内は寒いくらいだったので、私たちは厚い長袖の上着を着ていたが、外では暑いくらいだ。

ところが、タラップの前に控えているバスに乗り込んだ途端、今度は一気に冷蔵庫に飛び込んだよう。強い冷房が効いている。

バスから降りて再び建物の中へ、この繰り返しは熱帯と寒帯の往復、体がびっくりしている。(写真6)


ここから乗り継いで行くのだが、少し時間がある。次の便への集合場所と時間をアナウンスした後、添乗員さんは家族へのお土産を買いに行くという。ドーハに寄るときは必ず買ってきてねと頼まれていると笑わせている。その品物を教えてくれた。それはレモンアーモンド、私たちも興味があったので一緒に買い物をした。アーモンドの袋は大きくてびっくり。様々な味があることにも驚いた。

帰りもドーハで乗り換えるけれど、帰りの予定ではほとんど待ち時間がないので、ここで買うことにする。一番小さい袋が1kg、日本では徳用袋だ。

でも、このレモンアーモンドはなかなか美味しくて、良い買い物だったと思う。


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買い物を済ませて、少し早目に乗り換えのゲートまで行こうと思ったのだが、ドーハの空港は広い、広い。行けども、行けども同じような通路が続く。さすがハブ空港。早めにと思って正解だった。

再びバスに乗って、ソフィアへ飛ぶ飛行機を目指す。太陽が昇り、もうすっかり明るくなっている。(写真7)

ドーハから、目的地のソフィアまでは、少し小型の機。(写真8)時間になって出発。ワクワクする。窓側の席。今度は明るい時間なので、窓から外を見る事ができる。


■ ドーハからソフィア(ブルガリア )へ5時間あまりの飛行 ■

二つの空港の位置関係を示すもので、実際の航路は複雑です。

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ドーハは見下ろすととても近代的に設計されている都市だという事がわかる。新しい、勢いのある都市なのだろう。(写真9)


北上して、ペルシャ湾からイラン、トルコを通り、黒海を横切ってブルガリアに入る。トルコの上空では、アララト山が見えないか と目を凝らしたが、モニターに映る航路を見ると、どうやら私たちの席とは反対側の下になるらしい。

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それでも真っ白く雪を抱いた山々が続き、トルコ=砂漠の国というイメージがボロボロと崩れた。(写真10)

雪の山が続いたと思ったら、下に海が見えた。黒海だ。(写真11)この海岸線の近くにヴァルナがある。バレエが好きなものにとっては興味深い、国際コンクールが行われる都市。コンクールが行われるのは屋外ステージ、一度は見てみたいものだ。けれど、ツアーではなかなか訪ねない都市でもある。


バラの国へ・花の町ソフィア ブルガリア国旗


ブルガリアと言えば、『ヨーグルト』と返ってくる。日本人の一般的な反応だ。90歳を越す義父や母も、中学生の孫も、同じで、少し笑える。別な言い方をすれば、『ヨーグルト』以外に、ブルガリアについてほとんど知らないということなのだろう。

かく言う私たちもさほど知っているわけではなかった。黒海の周囲の国に興味があったことや、黒海沿岸のヴァルナで行われるバレエの国際コンクールが有名だということなど、いくつかの知識に加えて、バラの産地ということが大きな魅力だった。

いくつかの旅行代理店のパンフレットを見ると、5月から6月にかけてのバラシーズンにはツアーが売り出されるが、他の季節にはほとんど商品がない。

数年前の3月に見つけたツアーに申し込んだが、客が集まらなくて不催行となってしまったことがある。

ブルガリアのバラはオイルを採取して、食品や生活用品に加工するのだということは知っていた。世界の70パーセントのシェアということは今回行って初めて知ったけれど。それでも、6月初旬であれば一面のバラの花を想像して出かけた。

人気のツアーは『バラ祭り』の日を旅程に含むものだが、私たちが申し込んだ時は定員オーバーだった。

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『バラ祭り』も、気にならないと言えば嘘になるが、あまり拘束される行事よりは、より自由に回れるのも嬉しいと考えたのも事実だ。日程はもう少し長くても良かったのだが・・・。(写真12)


何はともあれ、ソフィアに到着、予定より早く着いた。現地ガイドさんと合流して、早速通貨の両替をする。ブルガリアの通貨はレフ、複数になるとレヴァ、日本では両替できないので、私たちは成田でユーロに両替してきた。現地では日本円からの両替も難しいと聞いていたので。

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ユーロから無事レヴァに両替をする。現地のお金を持つと、なぜかとても裕福になった気がする。実際は大した金額ではないのだけれど。自由に買い物ができるという気持ちが、豊かな気分を盛り上げるのだろうか。(写真13)

ホテルでも両替はできるらしいが、空港で済ませたのは、このあと行く予定の教会で内部の写真撮影が有料という情報があったから。教会では、現地の通貨しか使えない。


両替をして、ガイドさんの後をバスまで歩く。バスにスーツケースを積み込むと少し気分が楽になる。身軽になるから。バスはソフィアの町を走って、中心街に停まった。ソフィアの中心街にいくつかの観光名所があるけれど、まとまっているので歩いて回ることができるらしい。

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緑が綺麗な公園がある。町の中心の公園が広く綺麗なのはヨーロッパらしいと思う。ソフィアは花の町とも呼ばれるそうで、公園には色とりどりの花が植えられていて、花の中の道を歩いて行くのは気持ち良い。(写真14)


突然ドカンと大きな教会が目の前に現れた。アレクサンダー・ネフスキー教会、白い壁と薄緑色の上品な屋根が美しい。(写真15)

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私たちは裏側から教会に近づいた。左回りに大きな教会を見上げながら進む。丸い屋根がいくつも重なっているのがユニークだ。白い壁に、淡い緑と金の屋根が重厚な感じを醸している。その丸い屋根に、ロシアのイメージだなぁと思っていたら、ここはブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争で戦死した約20万人のロシア人兵士を慰霊する目的で建立されたのだそうだ。

この教会の内部を撮影するには10レヴァが必要ということなので、私たちは空港で両替を済ませてきたのだ。


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内部は広い、そして暗い。高い天井から、巨大なシャンデリアがつりさげられているが、窓が小さいので、中はかなり暗い。暗いけれども、見渡す限りどの壁にも柱にもきらびやかなモザイク画が施されていることがわかる。正教なので、内部には椅子がなく、広い空間があるだけ。(写真16)

教会の厳かな雰囲気が好きな人も多いだろうが、私は少し苦手。カメラでの撮影代金を払った印の紙を見えるようにということだったが、カメラを構えているときに隠れてしまう。すると、長い黒衣を着た女性がドスドスと近づいてくる。カメラを構えながら白い紙を見えるようにすると、うなずきながらまた入口の方に去って行く。

疑うくらいなら、もっと目立つものをカメラにつけるとかすればいいのに・・・などと思ったりして、罰当たりかもしれない。


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本当に広いドームをゆっくり見てから、私たちは教会を後にした。正面から振り返ると、繊細なスマートな教会に見える。面白い設計だ。私たちはツアーの仲間で大きなカメラを持った女性と写真を取り合ってから、ソフィアの町歩きに向かった。(写真17)

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町には公園が多く、遠くから見ると一面のクローバーが満開という感じだったが、近づいてみると、白い花はシロツメクサではなく、デージーだった。小型の白いデージーがたくさん咲いていて、気持ち良い広場となっている(写真18)。ブルガリアの色々なところで、このデージーがちょうど満開なのだった。公園には彫刻も飾られていて、広い空間を引き締めているようだ。


歩き始めると、ポツリと当たるものがある。空が重そうだったから心配していたけれど、ついに落ちてきた。けれど、濡れるほどではなく、ポツリポツリと当たる感じ。私たちは傘をスーツケースに入れたままだったので、建物の影や木陰を選んで歩いていたが、そのうちに止んだ。

そういえば、出かける前にブルガリアで大雨が降ったとか、ニュースになっていたらしい。外務省からの案内サービスを受けている人たちは、成田ですでに心配していた。

だがまぁ、今日のところはちょっと地面を濡らした程度の雨で済んでよかった。


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公園沿いに歩いていくと、木の枝に赤いものがついている。花かな、実かなと思いながら近づくと、それは紐のようなものを結んであるのだった。(写真19)

ガイドさんの説明によると、実のなる枝に紐を結んで願い事をし、その枝に実がなると叶うのだそうだ。木によってはとてもたくさんの紐がぶら下がっている。木の神様ということかな。


公園はとても広いし、道路の脇にも木が植えられている幅広い空間があって、ソフィアの町は本当に花がいっぱいだ。(写真20、21)

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見上げれば木の花も満開。上を見上げて写真を撮りながら歩いていると、毛足の長い珍しい鳥が私たちを見下ろしていた。『珍しい人間がいるぞ』と、思ったかどうかはわからないが。(写真22)

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美しい建物と花の中を歩いた。黄色い石の建物は昔の王宮だそうだ。現在は博物館などになっているようだが、その建物の周りの道はやはり黄色の石が敷かれている。

この黄色の石は高価なものなので、王宮の周りの道だけに敷かれたのが、今に残っているという。

黄色に限らず、石畳の広い道は美しい。ただ、現代の車社会では便利なのか分からない。


その美しい道を歩いてしばらく行くとオペラハウスがあった。ヨーロッパの町は、小さな町でも中心にオペラハウスがあって、豪華な建物が多い。芸術が町の中心という考え方がとても羨ましいと思ったりする。

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このオペラハウスはイヴァン・ヴァゾフ国立劇場、ブルガリアの著名な作家の名を冠している劇場。ブルガリアの歴史的建造物、文化財に指定されているという建物は色彩の美しいファサードが印象的だ。

オペラハウスの前には池があり、噴水が噴き出している。その中央に、踊り子の彫刻が空に向かって腕を伸ばしていた。(写真23)

オペラハウスの向かいには図書館。図書館への道は広く、幾つもの看板が連なっていた。若者たちがその看板を見ながら三々五々歩いている。残念ながらブルガリアの文字は読めない。キリル文字という独自の文字なのだ。


幸い雨も止んで、町歩きには申し分ないのだが、少しずつ長旅の疲れが感じられるようになってきた。成田からの長い飛行機の旅、睡眠が足りない。ガイドさんの説明を聞いていても頭に霞がかかったようですっきり飲み込めない。

もともと、町の歴史や建物の由来を詳しく知りたいという欲求は薄い。その町のその空気の中に身を置いて、道ゆく人とのすれ違いを生で感じたい。自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じたい。もちろん自分が立っているその町の姿は、長い歴史があってこそなのだから学ぶことももちろん大切だとはわかっている。だから話は聞いている。そして自分の中に残るものを大切にしようとは思っている。

でもどうやら寝不足には勝てないようだ。

ぼんやりした頭で町歩きを続ける。


ところが一気に眠気が覚めた。町の真ん中に崩れかけた石のオブジェが続いている。いや、これはもちろんオブジェなんかじゃない、遺跡だ。ローマ時代のものが、ここに残っているのだ。

旧共産党の本部という建物の地下に入っていくと、大きな石が積まれた遺跡がある。古代の城塞都市セルディカの遺跡だそうだ。

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地下鉄の工事をして発見されたということだが、それが綺麗に保存されている。ガラスで覆われ、照明設備も整えられ、大切に守られている。紀元2世紀頃というから、恐ろしいほどの昔だ。(写真24)

ここから聖ゲオルギ教会までのローマ遺跡には浴場跡なども残っている。ヨーロッパの何箇所かを旅して巡り合った古代の遺跡だけれど、浴場跡が残っているところが多い。その作りが崩壊しにくいものなのだろうか。もちろん空中高く積み上げられた塔や壁などは、雨風の侵食を受けやすく崩壊してしまうのだろうが・・・。


聖ゲオルギ教会は、渋いレンガで建てられた小さな教会だが、紀元4世紀、ローマ時代に建てられたのだという。もちろんソフィア最古の教会だ。人々が大切にし、守ってきたのだろう。教会の隣の遺跡には小さな鳥が遊んでいた。(写真25)


遺跡を歩いていくと、四角い小さな建物に行き当たる。ここが聖ペトカ地下教会。名前の通り地下に半分隠れているから、外観からは教会に見えないくらいだ。この教会が建てられたのは14世紀、オスマン朝の時代だった。目を上げれば向こうに丸いドームと赤い尖塔が大きく目立つ、イスラム寺院のバーニャ・バシ・ジャーミヤがある。イスラム全盛期に質素に控えめに建てられたキリスト教の教会というわけだ。

中に入るとたくさんのイコンが飾られ、壁も美しく装飾されていて、狭いながらも荘厳だ。

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ここは写真撮影禁止だと思っていたが、10レヴァと表示がある。ガイドさんもびっくりしていたが、修復の費用を集めたいのでごく最近撮影OKにしたのだそうだ。

とても狭いので、ツアーの人たちは「まぁいいや」と言う人も多かったが、私たちは再び来られないかもしれない上に記憶力に自信がないから、撮影してきた。(写真26)


教会を出た後はホテルへ向かう予定だが、30分ほど自由時間をもらえることになった。歩いてきたばかりの遺跡の周辺にはお土産屋さんも並び、近くの公園では賑やかな音楽と共に何かイベントをやっていたが、私たちは近くのショッピングセンターに向かった。

観光客相手のお店に頼るときもあるのだけれど、その土地の人が毎日足を運ぶ市場のようなところにより興味がある。ショッピングセンター『セントラル・ハリ』は石造りの大きな建物で、かつての中央市場だそうだ。

一歩入ると奥行きが広く、地下に行く階段も明るく人々が歩いている様子は活気があって楽しい。絵葉書がないかなぁなどと言いながら見て回ったが、ここは土地の人々の生活の場、観光客相手の絵葉書はなかった。けれども、ブルガリアの産業の中心、バラの香水などは並んでいた。

しばらく歩いてワインがたくさん並んだお店を見つけた。年配の男性が一人中にいる。圧倒的なワインの数にびっくりして、「ブルガリアのワインですか?」と聞くと、男性は何本か出してくれた。これがイチオシだよと言っているらしい。

夫の直感(多分ラベルデザインだと思う)でよしと思うものを1本買った。ありがとうと言って歩き出そうと思った瞬間、「そうだ、ラキア」と声が出た。

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ラキアは果物を原料にしたブルガリアの蒸留酒、何種類かの果物を使っているらしい。ガイドブックを見て気になっていたものだ。男性は私の声を聞きつけて、「ラキアもあるよ」と、端の棚を指し示す。そうだ、これ。ガイドブックに載っていた写真と同じ。いくつも紹介してくれたけれど、その中から杏を原料にした小さな瓶を買った。集合時間も近づいたので、酒を抱えてご機嫌で帰ろうとした私はふとこのお酒いっぱいに囲まれている男性の写真を撮りたくなった。聞くとにこやかに「いいよ」という。夫がカメラマンになって、ワインがいっぱいのお店をバックに私と男性と並んで撮った。(写真27)


帰ってガイドブックを見ていたら、このおじさんの写真が載っていたので「お〜」と叫んでしまった。セントラル・ハリの1階にある『ヴィノボリス』という名前のお酒屋さんなのだそうだ。ブルガリアワインの品揃えが豊富だと書いてあった。私たちの動物的な勘もなかなか隅に置けないと自画自賛。


買い物をした後はすっかり満足、昨日からの長い旅の疲れも出て、ホテルへのバスが嬉しい。ホテルには早めの16:00着。しかも夕食もホテルの食堂だからずいぶん楽な気分だ。豪華なレストランに連れて行ってくれるツアーも多いが、私たちはいわゆるグルメではないようで、地元の人が食べているようなものを味わえれば嬉しいというくらいの望み。ホテルの食事はあまり地元風ではないかも知れないが、豪華なレストランだって似たようなもの。

とにかく今日は早めに食事をして早く休みたい。成田からの寝不足が溜まっている。

夕食はシーザーサラダ、丸パン2種、牛肉の肉団子、パンナコッタ自家製、もちろん赤ワインを添えて。


ホテルでは一人に1本ずつ水のペットボトルがつくことになっていたが、私たちの部屋にはそれがなかった。他の部屋でもタオルがないとか、風呂マットがないとかいくつかの不備があったそうで、夕食前に添乗員さんに伝えた。添乗員さんはホテルに要求を伝え、それぞれ足りないものを持ってきてもらったようだ。けれど、私たちの部屋には水がこない。ホテルについてすぐ、夕食どき、さらに食後部屋に入ってと、結局3回要求してもらったようだが、水は来なかった。



リラの僧院へ ブルガリア国旗


一夜明けて、今日はリラの僧院へ向かう。ゆっくり眠れたので、気分は爽快。そして昨日の日程を配慮してか、出発も遅め。

ホテルでゆっくり朝食を食べて、9時半に出発。ここで添乗員さんに「水はきましたか」と聞かれたので、「結局来なかったんです」と伝えると、添乗員さんはびっくりして自分の水を1本分けてくれた。私たちも持っているから大丈夫と一回は断ったのだが、添乗員さんとしての立場もあるかもしれないと思い直し、ありがたくいただいた。


まずは、ビトシャ山の中腹にある世界遺産ボヤナ教会を訪れる。ビトシャ山はソフィアの南にそびえる標高2000メートル級の山々の総称。夏はトレッキング、冬はスキーで人気なのだそうだ。

森が深く、木々の間を縫ってぐんぐん登っていると、長野にいるような気分になる。少し針葉樹が多く、寒い雰囲気があるが、木々の緑は長野に似ている。


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バスが停まって、小さな門をくぐる。どこか日本の門と似ている(写真28)。山道を少し奥へ進むと、小さな教会が見えてきた。道の周りには様々な花が風に揺れて咲いている。

教会はとても狭く10人くらいまでの人数制限があるということなので、私たちツアーは2組に分かれて入場する。私と夫は後の組になったので、まずは外観を楽しんだり、近くの売店で説明書を見たりした。正面から見るととても小さい教会だったが、横に回ると奥に長い。それでも全体が深い森に包まれたレンガの教会は、どこか可愛らしい感じがする。(写真29)

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10分ほどして、前の組が出てくる。私たちは中に入った。建物は細い通路を通って奥へ進めるようになっている。だから、横から見ると長かったのだ。

面白い作りだと思ったら、これは増築していった結果なのだという。一番奥は11世紀、真ん中は13世紀に建てられたという。さらに19世紀にも増築された。

内部は丁寧なフレスコ画で装飾されている。ソフィア周辺の領主夫妻の絵が美しいと思ったら、中世ブルガリア美術の最高傑作として知られているものなのだとか、なるほど美しかった。


ボヤナ教会を後にして、リラの僧院に向かう。山道を登り始める分岐の脇に大きな像が立っていた。バスなのであっという間に通り過ぎたのだが、この像のイワン・リルスキーさんがリラの僧院の元々の創設者。(写真31左)

ガイドさんの説明によると、イワンさんが隠遁の地として小さな寺院を建てたのが10世紀、その後次々と信者が集まり、14世紀には宗教の中心地としての現在の姿になったという。

しかも、その後の500年にわたるオスマン朝の支配下にあってもこの僧院については様々な制約が黙認されていたというから、すごい勢力だったのだろうな。


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いくつもの村を通り過ぎ、山道をぐんぐん登る。途中の村のレストランで昼食をいただく。冷製スープ、チキン、ビスポットケーキというメニュー。(写真30)

メインのチキン、大きな皿に付け合わせのポテトがゴロゴロ。我が家の何日分かと思うくらいの量だ。とても食べきれない、申し訳ないと思いながら、周りを見るとみんな同じように残っている。

いつも話題になるのだが、日本人のツアーの場合は控えめの量にするとかできないのだろうか。現地のレストランは、自信を持って迎えるのだから普段のメニュー通りじゃないといけないと考えるのだろうか。


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お昼の後はひたすら登る。リラの僧院はかなり山の上にある。

途中の村で、コウノトリが巣作りをしているのを見た。家々の煙突の上に大きな巣を作っている。もう卵から孵ったヒナがかなり大きくなっている。煙突の上に巣を作ってしまって換気は大丈夫なのだろうか・・・と心配になったが、巣には隙間があるので大丈夫なのだそうだ。この村ではコウノトリが巣を作ると幸せになると言い伝えられ、コウノトリは大切に迎えられるらしい。(写真31)

日本でもツバメが巣を作る家は幸福になるとか言われるようだから、「世界は広くても人間の考えることは似ている」と、可笑しくも嬉しくなる。

バスの窓から見るだけでもコウノトリの親子は愛らしい。


さて、森の中の山道をぐんぐん登って、ついにリラの僧院についた。

日本にいると、ブルガリアの情報に出会うことは少ないが、リラの僧院の映像は見る機会が多い方だと思う。今回のツアーの参加者にも、ここを訪れることがいちばんの目的という人が数人いた。


バスの中で情報を得てきている。つまりガイドさんの話で事前のお勉強をしたわけ。リラの僧院の4つの有名なもの、『国立公園の自然』『リラ七つの湖(トレッキングできる)』『蜂蜜(アカシア、菩提樹、ハーブ、もみの木)』『川ます』。

この中で、1日だけの訪問者の私たちが享受できるのは、自然と、もしかしたら蜂蜜を買えるかもしれない。

また、郵便局も入っているから切手が買えるけれど、奥の事務所に行くと大きな記念切手が買えるとか、昔の僧たちが朝食に食べていたドーナツが今も作られていて、奥のお店で売っているとか・・・。


そんな話を聞きながらやってきたリラの僧院。門をくぐって一歩入ると、山の上の空気が変わったような気がした。白と黒の横縞の柱の向こうに極彩色の絵が一面に広がっている。周囲をぐるりと取り巻く4階建ての回廊、往時にはここにたくさんの僧たちが生活していたのだろう。

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中庭に入ると、辺りに響く大きな音がした。なに?鳥の声?それにしては大きくかん高い。長く尾をひくような空に響く音だ。それが定期的に聞こえる。でもどこかで似たような音を聞いたことがある。この音は、野鳥を追うためのものなのだそう。日本でも畑の広がるところで定期的な音を聞いたことがあった。日本で聞いた音はもう少し爆発音に近かったけれど、ここの音は巨大な怪鳥が雄叫びをあげているような・・・。野鳥が天敵と思って近寄らないようにしているということか。


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私たちは教会正面の中庭で、ガイドさんの説明を聞きながら、全体を見た後、教会内部に入った。教会は1833年に一度火災で焼けて、再建されたものだそう。(写真32)


これまでにもたくさん教会や、その内部のフレスコ画を見てきたけれど、これほど色鮮やかな色彩のものは初めて見た。白黒の縞と極彩色、そして遠くにはリラ山脈の稜線が取り囲む・・・、なかなか現実離れした空間で、ここに宗教的な何かを求めて人が集まったというのもわかるような気がする。(写真33,Video)

■ Video リラの僧院 ■


見学の後は少し自由時間。無宗教の私たちは、絵ハガキと切手を購入。記念切手ももちろん購入。ホテルに帰ったら、子ども達にハガキを書こう。

その後少し時間があったので、昔のままのドーナツとやらを買いに行くことにした。『ここでしか食べられない』というフレーズが気をひく。

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奥の門を出ると、小さな川に橋がかかっている。流れがすごく速い。ごうごうという音がする。夫は面白いと行って、写真を撮っている。私はドーナツ!門を出たところの教会のような建物と言っていたっけ、あった、その奥の小さな窓のところに行って、ドーナツくださいと言う。一個だけ。しかも持って帰れるようにお願いして、袋に入れてもらった。(写真34)

このころ少しだけ、雨粒が落ちてきた。私と夫は急いでバスに向かう。ドーナツを買いに行くと言うツアーの仲間の女性とすれ違ったので場所を教えてあげた。まだ雨はポツリポツリだったので、傘もいらなかった。


後の話だけれど、何人かのツアー仲間がドーナツを買いに行って見つけられなかったのだそうだ。すれ違った彼女も、雨に降られ、集合時間に遅れて探したけれど見つけられなかったと言う。変だなぁ、すぐ目の前だったのに・・・。

このドーナツ、ホテルに帰ってから夫と半分こして食べたけれど、なんだかホッとする素朴な味だった。グルメが追いかけるようなきらめく味ではないけれど、貧しい人たちが毎日飽きずにいただいたものなのだろうなと思った。


さて、みんなバスに乗り、プロブディフのホテルに向かう。

しばらく走って、ガソリンスタンドでトイレ休憩。小さな売店で、私がブルガリアのチョコレートを探しているとガイドさんが教えてくれた。スイスなどの見慣れたパッケージのチョコがたくさんある中にブルガリアの国産チョコは肩身がせまい様子で少しだけ並んでいた。

私はそれを1個買うことにして、先にトイレを済ませた夫に任せてトイレに並んだ。その後、ふともう一個買っていこうかなと思い、トイレを出てみたら、レジにはずらりと列が続いていた。みんなツアーの仲間たち、手にはチョコの箱をたくさん持っている。

売店の棚のブルガリアチョコは一個も残っていなかった。

夫は「これがブルガリアのチョコと聞いたみんなが一斉に買い始めたんだよ」と苦笑い。


買い物も済ませて、バスは一路プロブディフに向かう。途中右に大きな湖が見えた。イースカ湖というらしいこの湖は、水質を守るためモーターや舟は禁止なのだそうだ。

何が大切かを将来まで見通した目で見極め、そのために決まりを作って守っていくという生活が、とても豊かだという風に思える。

広がる大地、牛の群れ、養蜂の箱が並ぶ斜面、小さな花がたくさん咲いている。日本の草原にも咲くような、懐かしい花の色が見える。所々に白い煙が登っているのは地熱発電なのだという。走っても、走っても広がる大地になんだか羨ましさを感じてしまった。(写真35)

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長いバスの旅を終えて、プロブディフの町に着いた。夕食はホテルで。ショプスカサラダ(白いチーズ)、野菜卵チーズの煮物(ミシュマシュ)、スポンジケーキ、そしてもちろん赤ワイン。



遺跡の町プロブディフ・バラの町カザンラク ブルガリア国旗


ブルガリアと日本の時差はマイナス6時間、ようやく身体が慣れてきた。

今日は、プロブディフという町を歩く。昨日バスが町に近づいた時、城壁の跡らしいものが見えていた。

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プロブディフという都市を私は知らなかったが、ソフィアに次ぐ大きな都市だという。

ホテルの前は広く工事現場のようになっていて、駐車場もガタガタしていた。周囲は工事中だったりして落着かない雰囲気だが、朝食のバイキングは豪華だ。出発はゆっくりなので、落ち着いて食べる。(写真36)


ホテルで朝食を済ませると、玄関前に集合。ホテルからゆっくり歩いて行く。ホテルの前の広く工事現場のようになっているところを足元に気をつけて歩く。

プロブディフは2019年、欧州文化都市に指定されているそうで、いろいろなイベントの準備が行われているのだ。ホテルの前に大掛かりな工事も、遺跡の修復作業の一環らしい。

ちょっと歩くと、ローマ時代の競技場の一部らしいものが見下ろせる。とても大きいと思ったが、これはごく一部しか残っていないようだ。3万人の観衆が入ったというからすごく広かったんだ。

広場に当時の模型が置いてあるが、とても細長い。今見ているところがその端の部分だとすれば、どれだけ広かったかがわかるというもの。下に降りると、当時の石などが展示してある。

近くにはオスマン時代に建てられた寺院、ジュマヤ・ジャーミヤが美しい塔(ミナレット)を伴っている。(写真37)

37


そこを通りすぎて、町の賑やかな通りに出る。最初に郵便局で、ハガキを投函する。昨日のリラの僧院の絵葉書にホテルで書いたもの。ツアーの仲間にもたくさんまとめて投函している人がいた。(写真38)

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町の中心街を歩く。賑やかな通り、人々の足元にネコが歩いている。リラの僧院にも主のようにどっかりと座っているネコさんがいたが、この町のネコさんものんびりと我が物顔に歩いている。

通りは朝の出勤時間か、人通りが多い。欧州文化都市のイベントか、カラフルな文字が飾られている。その前に、こちらは古い彫刻のおじいさんが座っている。本当にそこに人がいるようだ。おじいさんは耳に手を当ててちょっぴり首を傾げている。『ちゃんと聞いているよ』というポーズなのだそう。カラフル文字は確かにTOGETHERと書いてある。(写真39)

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坂道を少し登ると、ローマの円形劇場が見下ろせる高台に出る。劇場ではイベントの準備らしくライトや音響設備の設定に忙しく人が動いていた。とても広い劇場で、現在でも屋外劇場として十分使用できるのがすごい。高台から見ると、劇場の向こうにプロブディフの町、そしてその向こうにはロドピ山脈が青く横たわっている。(写真40)山脈の向こうはもうギリシャ。そして、ここにもネコちゃんが何匹も歩いていた。

イスラム教の人たちはネコを大切にすると聞いていたけれど、ブルガリア正教はキリスト教だから、この町のネコを大切にしている生き方は宗教とは関係ないのだ。人が動物とどのように暮らすかということは、取り囲む空間や食べ物のこともあり、単に気持ちだけでは言えないと思うが、それでもやはり根底には気持ちがどこを向いているかがあると思ってしまう。『ネコが幸せだと関わる人間も幸せ』とは、私の好きな動物写真家の岩合光昭さんの言葉だけれど、深くうなずいている。

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さて、横道はこのくらいにして、坂道の町プロブディフを先へ進む。古い建物の間の道を右へ、左へ。1階より2階、そして3階はさらに外へ飛び出している作りが面白い。(写真41)


旧市街の中にある聖コンスタンチン・ヘレナ教会に入る。門をくぐるとすぐ教会の入り口だ。イコンがたくさん飾ってある。

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この辺りには古い建物が並んでいて、昔の薬局跡などは、窓から中を覗くと薬瓶が並んでいる様子が見える。(写真42)

また大きな門の中は幼稚園になっていて、子ども達のにぎやかな声が響いていた。真っ白い立派な壁の中から賑やかな声が響いているので、ツアーの仲間の女性とのぞいたら、たくさんの小さな子ども達が遊具で遊んでいた。(写真43)

民族衣装を飾った商店もあり、お店のお兄さんが声をかけてくれるのだが、彼も民族衣装をまとって武士のようないでたち、ちょっと恐い。遠巻きに写真を撮って、ありがとうと伝えた。(写真44)

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この辺りには、たくさんのネコだけでなく犬も自由に歩いていた。


坂道を下っていくと、道路は門をくぐる。この門はヒサル・カビヤという要塞門。なんだか古めかしいと思ったら、それもそのはず紀元前4世紀にマケドニアの王によって建てられたんだって。旧市街の防衛の要になるところで、長い年月支配者が変わるたびに破壊され、また修復されてきた門だ。

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どんな風に人間の歴史を眺めてきたんだろうなぁなどと思って見上げた。(写真45)


石畳の坂道をたくさん歩いて、プロブディフの旧市街を一巡りして、私たちはバスに乗った。いよいよ目的のバラの谷へ向かう。最初に目指すのはカザンラク。バラ祭りが行われることで知られている。

私たちもバラ祭りに参加するツアーに申し込もうかと思ったのだが、すでに予約がいっぱいということで諦めた。しかし、今年のバラ祭りは大雨で大変だったそうだ。


バスは大平原を進んでいく。そして、周りはバラ畑。ブルガリアのバラは、切花ではなく、バラの香油の生産が主な目的。

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バスが走る道路の両脇に広がるバラ畑には小さな花が咲いている。バラの谷に入ったようだ。谷というが、日本でイメージする谷とは全く違う。山脈と山脈の間なのかもしれないが、谷はもとより日本の盆地よりもはるかに広々している。

ガイドさんの計らいで、バラの谷の真ん中でバスは一時停止をした。青い空、遠い山並み、そしてバラの花。空気までバラの香に染まっているようだ。(写真46)


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再びバスは走り、カザンラクへ到着。町は小さく、中心の道路も思ったより狭い。ここでバラ祭りのパレードが行われる、この狭いところで雨が降ったのでは確かに大変だったことだろう。幸か不幸か、私たちは祭りに来ることができなかったけれど、諦めがつく感じ。もちろん人の不幸を喜ぶ気はないのだけれど。(写真47)

カザンラクへ着いて観光の前に、レストランで食事をする。昼のメニューはブロッコリースープ、鯛の塩焼きじゃがいも添え、フレンチヌガー。

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ヨーロッパのレストランではよく見かけるが、ここでもスープはテーブルでサービスしてくれる。暖かい入れ物のまま持ってきて、それぞれのスープボールに注いでくれるのだ。日本人の私たちは慣れていないので、なんとなく落着かない気分になってしまう。それでもどこか嬉しい気もする。(写真48)


食事の後は、トラキア人の墳墓の見学。と言っても世界遺産になっている本物は厳重に保存されていて、覆われている建物を見るだけなのだが(写真49)、隣に公開されているレプリカは小さな傷跡まで本物そっくりに作られているとか・・・。(写真50)

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紀元前4世紀後半から3世紀頃にこの辺りに住んでいた人たちの様子がフレスコ画でわかるのはすごいことだ。小高い丘のような公園の中にあるが、防空壕を掘っていてたまたま発見されたのが1944年。2千年以上もの間、土の中に埋もれていて色あせない技術をトラキア人は持っていたのだ。

まだまだこのような遺跡はあると考えられているそうで、平原にぽっかり浮かぶ島のような丘はトラキア人の墳墓だと考えられるのだそうだ。

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話は前後するが、翌日のバスの窓からいくつかのぽっかり丘を見ることができた。

そうそう、墳墓(レプリカ)の入り口に大きなネコさんがのったりと寝転んで、まるで番をしているみたいでおかしかった。私たちが近寄っても、隣を歩いても動ぜず、ごろりと横になったままだった。(写真51)


墳墓の中はとても狭いので、順番に数人ずつ入って見てきた。レプリカだから、写真を撮ってもいい。二人並んで写してもらった写真は紀元前の亡霊が近寄ったような奇妙な写真になった。(写真52)

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たとえレプリカにしてもここはお墓、空気を乱さないようにと早々に退散した。


再びバスに乗って、バラ博物館に向かう。博物館の前は広い公園になっていて、遠くに屋外舞台がしつらえられている。民族衣装を着た子供たちが集まっていて、音楽も流れているから、これから催し物があるのかもしれない。

そんなことを話しながら、博物館の中に入った。博物館は2016年に新装オープンしたばかりでガラス張りの明るい建物。円形になっていて、中庭には綺麗なバラが植えてある。ぐるりと回ってくると、受付に戻り、そこにはバラの香油やお土産品などの売店があるという仕組み。

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バラの香油を製造する器具が古いものから新しいものまでたくさん展示してある。面白かったのは、高価な香油を保存するための大きな金庫、本当に大切なもの、高価なものだったんだということがわかる。

製造用の釜はウィスキーなどの蒸留釜ととても似ている。花摘み用の大きな籠や、花を運ぶ荷車の写真、それに比べてとても、とても小さな香油の瓶。たくさんのバラの花から、とても少しの香油しか取れなかったことがわかる。(写真53)

香油を取るバラはダマスクローズ、小さくてピンクのバラ。季節としては遅めだったが、博物館の庭にまだ咲いていた。

一回りして自由時間。みんなは売店に並んでいるが、私はもう一度館内を見て回った。夫は庭に出て、子供たちのダンスなどを見てきたようだ。民族舞踊が可愛いらしかったと言う。

■ Video 子供たちの歌と演奏 29秒 ■


博物館は思っていたよりこじんまりしていたが、香油にするためのバラにも会えたし、思わぬ子ども達の民族舞踊にも出会え、満足した気分でバスに向かった。あとは今日の宿、ベリコ・タルノヴォまでひたすら走るだけ。

平らなようで意外と山の多いブルガリア、この道も途中峠を越えて行くそうだ。長野に住む私たちは、車窓の風景に懐かしさを感じる。長野の山道に似ているのだ。ただ、黄色いアカシアやピンク色のマロニエの花が森を彩っているのを見ると、「ああやはり違うんだなぁ」などと思う。


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山道をぐんぐん登ってシプカ峠に着く。標高1199m、ここで休憩。ガイドさんお勧めの水牛のヨーグルトがいただけるという。夫はお腹の調子を気にして、食べないと言うが、私はもちろん食べてみる。蜂蜜がたっぷりかかっているヨーグルトはこってりとして美味。蜂蜜もまたツブツブがあって爽やかに美味しい。(写真54)

夫も少しだけ味見をした。蜂蜜が美味しかったので、売っていないかなと周りを探す。隣に売店があったので、聞くと、ここで採れた蜂蜜も売っていた。

自分たちのために大瓶を、そして娘や息子の家族に味見用の小瓶を買い求めていると、ツアー仲間が「なになに」と言いながら集まってきた。私が買い物を済ませて峠の風景を眺めている間、売店は人だかりで賑やかなことになっていた。

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シプカ峠の頂上には自由の碑が立っている。駐車場からは山道を少し登ったところに立っているので、近くに行くことはできなかったが、高さ32mもある大きな塔なので、よく見えた。オスマン支配から脱するための戦争の犠牲者を悼み、ブルガリアの象徴のライオンが碑の前に立っている。

そして私たちが休んだ峠の売店の横には、いかにも峠のシンボルという感じで、自由の碑とライオンのモニュメントが立っていた。(写真55)


峠での買い物も済ませ、美味しい水牛のヨーグルトも食べ、後はホテルに向かうだけ。

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ベリコ・タルノヴォのホテルには夕方早めに到着したので、夕食までの間周辺を散策した。ホテルのすぐ前の広場から細い坂道が登っていて、その奥には様々なお店が並んでいる。ここは職人の道と呼ばれるところ、道々ガイドさんが話してくれたので楽しみにしていた。(写真56)

夫はゆっくりCDを見ることができて大喜び。孫にキリル文字のデザインされたTシャツも買った。店のおじさんが、自分がデザインしたんだよと嬉しそう。CDもお勧めのブルガリア音楽のものを買った。


のんびり職人の道をぶらついて、ホテルに戻る。食堂からは夕日に染まるベリコ・タルノヴォの天然の要塞、湾曲した川の向こうにそびえる丘が美しい。(写真57)

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夕食は魚のスープ、カバルマ、チョコレートケーキ。カバルマというブルガリアの伝統的な煮込み料理は小さな壺のようなものに入って出てくる。このまま料理したのかしら・・・などと女性陣は話がはずむ。

夫はブルガリアのビールも味わってみようとビールを注文、私はいつもの赤ワイン。ビールはフルーツの香りがする変わった味だったので、夫は今ひとつだったみたい。結局赤ワインと交換、私がいただくことになった。(写真58)



国境越え、トラブル発生 ブルガリア国旗 ルーマニア国旗


早朝、ホテルのロビーに集まる。一面ガラスの窓の外には霧に包まれた幻想的な風景が広がる。ホテルは崖の上に立っているので、窓の外は切れ落ちている。湾曲した川がクネクネと続き、その向こうも切り立った崖。その崖の上には大主教協会などが霧のベールに包まれて見えている。美しい風景を眺めて出発の準備をする。(写真59)

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いよいよ今日は国境越え。7時には出発の予定。ロビーでお弁当を受け取る。早起きしてお弁当を部屋で食べた人もいるが、私たちは「バスの中で少し食べればいいや」と、出発に合わせて受け取ることにしていた。

『BENTO弁当』は今や国際語、けれど、その中身は全く違う。細かいところまで神経が行き届いた日本のお弁当は格別のもの。ヨーロッパでよくいただくお弁当は20㎝〜30センチメートルもある大きな箱の中にごろりとリンゴやバナナなどの果物がそのまま転がっていて、飲み物のペットボトルとヨーグルトなどのカップが一つずつ、そして主食はサンドイッチなどが多い。

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ここベリコ・タルノヴォのホテルで用意してくれたお弁当は大きな箱ではなかったけれど、やはりサンドイッチとバナナが一本という簡単なものだった。(写真60)


ツアー仲間はロビーに集まって、今日の国境越えについて話している。成田からドーハ、飛行機の中はバラバラだったけれど、その後のバスツアーで少しずつパーソナリティが見えるようになってきている。私たちを含めて21人のツアー仲間だ。

しかし、ホテルの前には、いるはずのバスがいない。いつも出発前に待機して、運転手さんが私たちのスーツケースを運んでくれるのだが・・・。

添乗員さんが携帯電話で話している。なんだかトラブルみたいだ。

バスが動かないため出発が遅れるとアナウンスがあったのは、その後すぐ。ホテルの食堂を使ってよいので、お弁当を食べる人はそこで食べてくださいとのこと、食堂の飲み物も自由に飲んでいいそうだ。

これからの国境越え、長いバス旅を思ってコーヒーは自粛、お弁当だけ食べることにした。何人かで集まって、窓の外の刻々変わる朝景色を眺めながらお弁当を食べる。


しばらく経っても、バスは来ない。エンジンがかからないとか・・・対応している様子から、あと1時間は無理ということで、それまで自由時間となった。

ベリコ・タルノヴォは、夜ホテルに泊まるだけの予定だったけれど、美しい町だから、みんな嬉しそうに歩き出した。

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私と夫ものんびり坂道を下る。大聖堂が近くに見えるところまで行くという人が多かったが、私たちは特に見なくてもいい。町の普通の道を歩きたい。少し下ると、細い道が分かれていたので、そこに進んでみた。崖の方に降りていく道らしい。かなり荒れ果てている。そこにはびっくりするほど大きな木の椅子がいくつもあった。これは天狗の椅子かしら?よじ登ろうとしたけれど、登れなかった。なんのためにあるのだろう。(写真61)さらに降りていくと草ぼうぼうの道の真ん中を小さなヘビが歩いている。いや、動いているかな。でもほとんど動かないで、のんびりしている。コウノトリはヘビも食べると言っていたから、こういう小さいヘビを食べるのかもしれないね。草ぼうぼうには花もたくさん咲いていて、蝶やトンボが飛んでいる。建物の裏手に当たるのか、崖に迫るように建物が並んでいる。木立が途切れて見晴しが開けたところで、しばらく対岸を眺め、引き返すことにした。

ホテルに戻ったが、まだバスはいない。昨夜散歩した職人の道の方へ行ってみる。ネコさんも同じ道を散歩している。高台から川向こうのツァレヴェッツの丘や大聖堂が見える。


ようやく、バスがやってきた。早朝出発のはずが9時になろうとしている。いよいよ国境越えだ。国境の町ルセまでは2時間弱の道のりだが、国境を越えるにあたってはどのくらい時間がかかるか予測できないそうだ。

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途中のガソリンスタンドで休憩、そこで、ブルガリアのガイドさんとルーマニアのガイドさんの交代となる。バスはルーマニアから来ていたので、運転手さんは変わらない。出発が遅れているので、大急ぎでトイレを済ませ、バスは走り出す。ブルガリアとルーマニアの国境は大きなドナウ川。長い橋を越えるとそこはルーマニアだ。(写真62)

バスは国境越えの列に並ぶ。ずるずると進む。前の団体が長引けばそれだけ遅くなる。バスの中でパスポートをチェックするだけの時もあれば、パスポートを持って行ってチェックする時もあり、時にはバスから降りて一人一人チェックし、荷物を開けさせられることもあるという。どの方法になるかはその場にならないとわからないという。

ルーマニアのガイドさんはとても小柄なディアナさん、明るくて楽しそうに話す。まずガイドさんが係員と話し、そのあと対応が決まるようで、ガイドさんの力は大きいと感じる。以前アゼルバイジャンからジョージアへの国境越えでも、書類不備があったけれどベテランガイドさんの力で乗り越えたことがある。

今回も一番短いバスの中でのチェック方式であっという間に済んだ。国境を通り超えたところで、ルーマニアの通貨に両替をする。


さぁ、ついにルーマニアにやってきた。まずは首都ブカレストで昼食、そのあとペレシュ城を見学してブラショフの町へ足を延ばす予定だ。ところが、バスの故障で大幅に遅れている。ガイドさんも添乗員さんも焦り気味。

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ブカレストの町を歩いて、レストランに到着。周囲には美しい建物があるが、急ぎ足で横目に見ながら通り過ぎる。交差点に着いたら、自転車マークの信号があって、ツアーの仲間は歓声をあげた。(写真63)

自転車は車両なのだけれど、日本では道路が狭いというハード面の理由もあってか、歩行者なのか車両なのかわからない実態がある。自転車道路と歩行者道路と、車道がしっかり分離しているところが多いヨーロッパの町を見本にできればよいのだが。


レストランは広く豪華な建物、案内されて席に着くと、周りを子ども達が走っている。ふわふわしたドレスを着た女の子、小さな紳士のようにきめた男の子、楽しそうだ。何か催しがあるのだろうか。

私たちが食べている間賑やかだった中庭では、洗礼のお祝いのパーティが行われていたそうだ。仲良く走り回っていた子ども達は親戚なのだろうか、ご近所なのだろうか。


遅れた時間を取り戻すことはできないけれど、これから行く予定のペレシュ城は、4時までに行かないと入場できないという。お役所の管轄だから早いのよと、聞こえたような気がしたけれど?

レストランの厨房にもできるだけ早くサーブしてくださいと頼んだから、皆さんもご協力をお願いしますと言われた。

昼食のメニューは豆のスープ、キベジ(野菜の煮込み)、パパナッシュ(ドーナツ)、それに夫は赤ワイン、私は炭酸水を頼んだ。

キベジはブルガリアの壺に入った煮込み料理カバルマと似ていて、野菜たっぷりで美味しかった。

メインをすっかり食べてからしばらく経ってもデザートが出てこない。今日のデザートはドーナツと聞いていたけれど、どうして待たされるのかな。などと、私たちは呑気だけれど、ガイドさんはペレシュ城に入れなければ大変と、気が気ではない様子。

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何度か厨房へ掛け合いに行ったみたいだけれど、頑として『美味しい揚げたてを食べてもらう』と取り上げられなかったらしい。

そして出てきたのは、すごいドーナツ。これがドーナツなの?というくらいの豪華なもの。これで時間がかかったのか・・・。(写真64)


大きいので食べきれない。しかもゆっくり味わえない、慌ただしく食べてペレシュ城に向かって急いだ。



駆け足の見学ペレシュ城 ルーマニア国旗


急いだ成果があって、ギリギリ駆け込みセーフ、私たちは最後の見学客としてペレシュ城の入場口に入った。人数制限があるので、ここで少し待たされる。


ペレシュ城が立っているのはシナイアという町。ルーマニアの中央にある2000メートル級のカルパチア山脈の中腹にある。町の標高は800メートルほどというが、ペレシュ城は少し登って1000メートルくらいのところ。森と花畑に囲まれた素敵な建物だ。

ブカレストの王侯貴族の別荘地として栄えたという町らしく、ペレシュ城に向かって登っていく間に、宮殿のような建物がたくさん見られる。今、それらの建物は宿泊施設のヴィラとして使われているところが多いようで、案内板が立っている。

目的のペレシュ城は、ルーマニア王室のカロル1世の夏の離宮として、1875年に建てられたそうで、ドイツ風の趣がある。


少し待って中に入る。ガイドのディアナさんが内部の美しい建築様式、様々な彫刻や美術品の説明をしていると、係りの人が「ディアナ」と声をかける。もう先に進みなさいという催促のようだ。

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係員はきっちりさっさと閉めたいと思っているのだろう、ゆっくり説明しているガイドにイライラしている様子がよくわかる。でも、ディアナさんはここでもよく知られているらしく、ハイハイという風に手を振って、でもちゃんと説明してくれる。

160もあるという部屋の全てを回ったのではないが、とにかくたくさんの絵画や陶磁器、宝飾品が展示されていて圧巻だ。また、武器がずらりと並べてある部屋もすごい迫力だ。

人が人と殺し合うという世界はどこかに狂気じみた空気を纏っているのだろう、そのための武器には当然マイナスのエネルギーがあると思われ、私などは歪んだ気配を感じてしまう。(写真65)

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他にも金ピカの装飾の部屋や、絵画で飾られた部屋などが続いている。その中に、音楽の部屋があった。カール1世は音楽を好んでいたのか、古いピアノやハープが置いてある部屋があって、その古い楽器たちがどんな音色を出すのか、聴いてみたいと思った。ガイドのディアナさんは「ここが私の一番好きな部屋です」と言っていた。私たちと同じ感覚だなぁなどとちょっと嬉しくなった。(写真66)


一通り内部の説明が終わると、外に出て、外観をゆっくり眺めましょうということになった。ガイドさんが、中庭からの眺めが素晴らしいし、ペレシュ城の全体をバックにした写真も、中庭から撮ると素晴らしいですよとアナウンスしてくれたので、みんな中庭を目指す。

ところが、私たちが中庭に入っていこうとすると、係員のおじさんが『出ろ出ろ』という身振りをしながら、人々を押し出している。「え〜っ入ることができないの?」

係員は腕時計を示しながら、『もう閉館の時間だ』とばかりに強引。それでもしぶとく写真を撮ろうとしていたら、すごい豪傑がいた。ツアーの仲間で大きなカメラを持っている女性が、その係員にカメラを渡して、自分を撮ってくださいと頼んでいる。『すみませんがほんのちょっと』という具合にカメラを渡す。ペレシュ城をバックに撮ってねと頼んでいる。訳がわからず押し切られたようにおじさんがカメラを構えるのを横目で見ながら、私たちも隣で撮影した。

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さらにその女性と私たちとで交代で撮り合う(写真67)。おじさんは諦めたように見ていたが、また急に思い出して『もういいだろ、おしまいだ』とばかりに私たちを追い出した。

バスのアクシデントがあって、ギリギリの入場だったから残念ながら、中庭から見えるというシナイアの渓谷をゆっくり見ることができなかった。

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気持ち良い森の中を歩いて、隣のペリショル城を見る。森といってもお城の庭園なのだろう、大きな木の下は広く手入れされていて、野の花の盛りだ。どこか長野を思い出させられる森、地形や気候が似ているのだろうか。(写真68、69)

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ペリショル城は、ドイツ中世の木組みの家が美しいお城になったようなおしゃれな城。カロル1世がドイツから来た奥様のために建てたと言われているとか。ペレシュ城に比べれば、派手な外観はないかもしれないが、落ち着いた美しさが好ましい。(写真70)

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ペレシュ城の中庭を追い出されたのは5時、閉館ということだった。そのあと、ペリショル城を見て、バスに戻った時はもう夕暮れが迫っていた。これからブラショフに向かう。ブラショフの町を散策する予定なのだが、急ぐような時に限って何か起こるもの。シナイアの町から坂道を下ってブラショフへの大きな道に出ようという時に渋滞にはまってしまった。くねくねとカーブが続く坂道なので下の方が見通せる。赤いテールランプが道なりにカーブして続いている。

自然渋滞とか、観光のための混雑渋滞だったら今日の予定は大幅に変更かと思ったが、事故渋滞だったようで、しばらく走ると抜けられた。

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ペレシュ城ではトイレも閉まってしまったので、近くのガソリンスタンドでトイレ休憩をした後、まっしぐらにブラショフへ向かう。

1時間あまり走ってブラショフの町に着いた時は7時になっていた。ヨーロッパの北部は夏の夕暮れが遅い。ブルガリアも北欧ほどではないけれど、暗くなるのが遅めなので、散策するのはまだ大丈夫だろう。町に近づくにつれ、トゥンバ山の方にブラショフと大きな看板が見えてきた。アメリカのハリウッドのような、山肌に据えられた大きな町名の看板だ。(写真71)


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最初に訪ねたのは聖ニコラエ教会。丘の上を登っていくと、繊細な塔がそびえている(写真72)。ここは中には入らず、外から眺めるだけ。ガイドさんの話を聞きながら周囲を見ると、教会の前のベンチに座っている少女たちが明るく笑っている。ふと見ると、彼女たちはキャンデーを舐めているのだが、それがスイカのデザインのキャンデー、可愛い。私は思わず、カメラを持ち上げ、彼女たちに写真を撮っていいかと聞いた。

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少しはにかみながらもうなずき、二人寄り添ってポーズを取ってくれたので、撮影させてもらった(写真73)。そんな私たちの姿を見て、ツアーの仲間が何人か、同じように女の子たちの写真を撮っていた。女の子たちはキャッキャッと楽しそうにポーズを取ったり、おしゃべりしたりして、丘を駆け下りていった。


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夕暮れの町を歩き、黒の教会の前の広場に着く。建物は黒くはないので、なぜ黒の教会なのだろうと思う。見上げると首が痛くなる。高さ65mというから、納得。トランシルヴァニア地方最大のゴシック教会なのだそう。どうして黒の教会と呼ばれるかというと、1689年にハプスブルク軍の攻撃にあった時に、外壁が黒焦げになったからだという。今は立派な石壁で、黒くは見えない。(写真74)

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巨大な教会を見上げ、ぐるりと回って、スファトゥルイ広場の方に回る。そこから綺麗な建物が続くレプブリチ通りをゆっくり歩いていく。通りには街路樹のように一定の間隔で木が植えてあるが、その木には大きな囲いがあり、そこにはブラショフのシンボルのレリーフが飾ってある。(写真75)


シックなシンボルが続く道を緩やかに下っていくと、中央公園のある広場に突き当たる。劇場広場というこの広場は美しい赤い屋根の建物に取り囲まれ、もう夜の8時だというのに、人々がたくさんそぞろ歩いていた。

広場から見上げると、山の上のブラショフという文字がくっきり見える。カメラを向けている人も多く、広場にいるたくさんの人々は私たちと同じ観光客なのだろう。


暗くなりつつある町の賑やかな広場にお別れをして、ホテルに向かう。今日の夕食はホテルで。サラダ、パーチ(魚とコメ)、アップルパイというメニュー。

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ヨーローッパを旅行していて文化の違いを感じることの一つに、コメがある。日本ではコメ=ご飯という風に、コメはパンと同じ主食だが、ヨーロッパではコメは野菜の一種になるらしい。ジャガイモなどと同じようにメインの肉や魚の付け合せに出てくる。付け合せにコメが出てくると、ちょっと妙な気分になる。(写真76)


朝バスの故障で予定がずれ込んだということで、旅行会社から飲みもののサービスがあった。私と夫はいつもの赤ワインをいただいた。ルーマニアの赤ワインは美味しい。黒海を挟んでジョージアとお隣の国、ワインといえばジョージアというくらい、私たちはジョージアのワインが好きなのだが、ルーマニアのワインはジョージアのワインと似ているような気がする。

明日はいよいよドラキュラの城へ行く、楽しみだ。ブラショフのホテルは町から離れて静かなところ、窓から見える草原や山々を楽しんでベッドに入った。



いよいよドラキュラ城・・・だがまたも? ルーマニア国旗


午前中にドラキュラの城ブラン城を訪ねる予定。8時出発、昨日は遅かったけれど、観光が終わってからホテルに入るまでが短かったし、食事もホテル内だったので、体を休める時間はたっぷりあった。みんな元気にバスに乗り込む。

しばらくバスの中はおしゃべりで賑やかだったが、次第に静かになる。何か変だぞ。いつまでたってもバスは動かない。エンジン音がしたけれど・・・。どうやら、また故障らしい。運転手さんとガイドさんが頭を寄せて、アクセルが効かないようなことを話している。オイルがあればうまくいくのではないかということになったようで、運転手さんが走っていく。ホテルの近くにはガソリンスタンドが二つある。道路の向かいの近いスタンドにはなかった。さらに少し離れたスタンドまで走っていく。でもやはり目指すオイルは置いてなかったようだ。運転手さんはオイルを買いに走ったり、会社に電話したり必死だったが、バスは動かない。

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私たちツアー客はホテルのロビーあたりで待っていた。しかしバスが簡単に動かないことがわかったので、代替のバスを手配することになったらしい。そのバスが到着するまで部屋で休んでいることになった。ホテルの周辺にはガソリンスタンドしかない。スタンドにも売店はあるから、そこに買い物に行っても良いということだったが、私と夫は部屋に戻った。(写真77)


予定の時間にロビーに降りる。ロビー奥の食堂にはルーマニアワインの瓶がずらりと並んでいるから、眺めているうちに、新しいバスがやってきた。

8時に出発してブラン城を見学する予定だったが、みんなが新しいバスに乗り込んだ時はもう10時40分をまわっていた。

見学の順序を変え、一気にシギショアラへ向かう。ブラン城は午後に回すことになった。

シギショアラはトランシルヴァニアの中心に当たる都市。ルーマニアの人々が観光地として必ず薦める町だという。中世の面影が残る魅力的な町で、ガイドのディアナさんも大好きな町だと言っていた。


シギショアラまでは2時間あまり。元々は午後に行って、時計塔の見学と旧市街の散策という予定だった。けれど、午後にはブラン城へ回らなければいけなくなったので、着くとまず時計塔に登って、その後すぐ昼食のレストランへ行くことになった。

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駐車場から坂道を登っていくと、石の門があり(写真78)、その門をくぐっていこうとしたら奥からおもちゃのような自動車が現れた。シギショアラの歴史地区は世界遺産に登録されている、町を守るために車の制限もあるらしい。子供たちが喜びそうな遊園地の汽車ぽっぽのようなものも走っていた。(写真79)

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門の奥には小さな広場があり、そこから綺麗な建物の間を歩くと目の前に時計塔が立っていた。時計塔の下には石畳の坂道が続き、トンネルのようなところに店もある。時計塔は道の上に立っているような感じ。立体的な構造が面白い。この時計塔は14世紀に建てられたそうだ。一回火事で焼けたけれど再建されたそう。(写真80)

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私たちは時計塔の中に入った。ここは博物館になっていて、狭いけれど、生活用品などが展示されていた。ぐるぐると登っていくと見晴らしの良い回廊に着く。ぐるりと回ると360度のシギショアラの町が見下ろせる。展望台の手すりには、世界の様々な都市のある方向を示す都市名の名札があったが、「TOKYO」も見つけた。(写真81)

綺麗な町並みをバックに写真を撮りあったりしているうちにあっという間に時間が過ぎる。忙しい旅なので、展望台を一回りしたら、また狭い階段を降りてレストランに向かう。4方360度どこから眺めても美しい町並みが見下ろせて、のんびり時間を過ごしたいところだったが・・・。(写真82,Video)

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■ Video シギショアラ旧市街 View ■


レストランはシギショアラの中心、時計塔のすぐ近くのドラキュラレストラン、正式には『カサ・ヴラド・ドラクル』という。ドラクルというのはドラゴンのこと、看板は龍の形だった。ドラキュラのモデルとなったブラド公の生家をそのままレストランにしたところで、メニューもドラキュラメニュー。

マッシュルームスープ、ママリガ、サラダフルーツというメニューはしかし、どこがドラキュラ?という感じだった。ママリガはとうもろこしの粉で作ったルーマニアの定番付け合わせ料理だそう。とうもろこしの粉に牛乳などを合わせてねって、蒸し焼きにしたもの。黄色いマッシュポテトのような見た目だけれど、もう少しふわっとしている。今は付け合わせとして食べるけれど、昔は貧しい農民たちの主食だったらしい。

私は少し胃が痛かったので、朝ご飯は食べなかったのだけれど、昼も用心して食べないことにした。せっかくのドラキュラメニューなので、一口ずつ舐めるように味見だけした。

前夜のご飯はあまりこってりしていなかったと思うのだけれど、何かハーブのようなものがたまに胃を刺激するらしく、洋食をいただいた後胃痛になることがある。皮肉なことに、私の大好きなパエリアを食べた時が一番多い。そういう時は1日か2日絶食をする。白湯を飲んでいると治ることが多い。でも今回は軽い胃痛だったので、まぁ心配はしていなかった。


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食事の済んだ人から少しだけ自由時間。レストランの中には、小さなお化け屋敷があるそうだが、そこは敬遠した。レストランの入り口には鎧が置いてあって、首切り斧みたいなものを持っている。きゃーと言いながら写真を撮って外に出た。(写真83)

時計塔の下の立体構造が面白く(写真84)、坂道を少し下って、トンネルの中のお土産売り場をのぞいてみる。面白いTシャツを見つけたので、孫用に買うことにした。大きくなった孫たちに同じデザインのTシャツを買おうと思うが、サイズがない。中に入って店のおばさんに聞いたら、後ろのダンボールの中から探してくれた。「どう、これでいいでしょ」と言うように、ニコニコ。

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Tシャツを買った後は、カラフルなお店が並ぶ通りをブラブラし、絵葉書を数枚買った。道路に並んだお土産売り場はとても美しく商品が並んでいて、見ているだけでも楽しい(写真85)。ゆっくりしたいところだが、集合時間が迫っている。私たちは、再びバスに乗るためシギショアラの美しい建物の間を歩いて駐車場まで戻った。(写真86)


いよいよドラキュラに会いに行く・・・いや、それは心の中の話。ドラキュラは小説の中の存在だから、会えないのだけれど。でも、夜になると現れるかもしれない?

いつの時代も、様々なお話は人の心の中で育ってきた。ドラキュラもモデルはいる。ヴラド・ツェペシュがその人。そして、『吸血鬼ドラキュラ』に登場する城のモデルがブラン城。ブラン城は、ドラキュラのモデル、ヴラド・ツェペシュの祖父ミルチャ1世が14世紀に居城としていたお城。現在はルーマニア国王の末裔に返還され、博物館として内部を公開している。


バスを降りると賑やかな商店が並ぶ通りを歩いていく。カフェや飲食店の露店も並んでいて、肉が焼ける匂いが満ちている。この奥に切手を売っているところがあるとガイドさんに教えてもらい、帰りに買うことにする。

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切手売り場の対面には大きなお化け屋敷がある。ドラキュラというとやはり怖いもの見たさに走る人が多いのだろうか。

門を入ると広い公園の中に古い建物が建っている。池もあり木立が美しい。花々が咲いている庭を進むと、その奥の崖の上に立つのがブラン城。(写真87)


ガイドさんの後に続いて狭い階段をのぼる。14世紀、この辺りに住んでいたドイツ商人がオスマン朝軍を発見するために築いたという城は、ヨーロッパの宮殿などに比べると天井が低い。そして入口は狭い。けれど、内部は豪華な造り。中庭をめぐる回廊は曲がりながら続いていて、遠くを見下ろせる。赤い瓦と白い壁、木組の美しい壁が続く回廊を私たちはガイドさんを先頭に歩いた。(写真88)


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内部は豪華な造りになっていて驚く。そして、一つの部屋の奥の壁に小さな扉があった。ここは隠し扉だったらしく、壁で塗り込められていたのだそうだ。修復作業をする時に見つけたとか・・・壁の裏側に狭い階段があり、そこから別の部屋につながっている。忍者屋敷みたいだ。(写真89)

次から次へと美しい部屋を通っていく。ル―マニア国王の末裔に変換した時の書類なども展示してある。調度品は派手ではないけれど落ち着いた豪華さがある。しかし、黄金の王冠などもあり、やはり貴族の館なのだと思う。(写真90)

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ドラキュラのお城というイメージだからもっとおどろおどろしいのかと思っていたが、むしろ爽やかな印象だった。城を出た後はバスに戻る時間に余裕を持って自由時間。坂道を下り池のほとりからブラン城を見上げてから賑やかな露店が並ぶ通りに戻った。

まず、日本へのハガキに貼る切手を買う。窓口に行ったら、男性客が切手を買っていた。英語でアメリカへのポストカードと言っている。私も日本へのポストカードと言って購入、同じ金額を言われた。ルーマニアからだとアメリカも日本も同じ金額のようだ。


余談だけれど、この切手を貼ったポストカードをガイドのディアナさんに投函してもらった。空港で別れるまでにポストの前を通らなかったので、彼女が気持ちよく「私が投函するわ」と言ってくれたのでお願いした。帰国してしばらくしてからそのハガキは届いたのだが、私が貼った切手では足りなかったのか、もう1枚隣に貼ってあった。

ディアナさんには、一緒に撮った写真を送ってほしいと頼まれ、データで送るためメールアドレスを教えてもらった。彼女に写真を送ってからそのハガキが届いたので、「あなたが切手を足してくれたのですか?」とメールを送ったけれど、返信がないままで、真相がわからない。

写真を送った時にはすぐお礼の返信が来たのだけれど。もしかしたら、切手代を心配するかと思って気づかないふりをしているのかもしれない。


さて話を戻そう。賑やかな露店街は楽しい。ぶらぶら眺めながら歩く。おもちゃ、小物のお土産品、洋服、バッグ、そして食べ物、ありとあらゆるお店がある。(写真91)

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買い物をしなくても賑やかな商品が並んでいるのを眺めながら歩くのは楽しい。それはやはり異国情緒のある、初めて見るような品物が並んでいるからだろう。そして、人々の行き交う様子がちょうど良い密度なのも嬉しい。ぶつかり合うような混雑の中では散策も楽しめない。


ぶらりぶらりと駐車場の方に向かい、バスに乗る。

あとはブラショフに戻り、今日はレストランで食事をする予定だ。昨日歩いたブラショフの町の一角にレストランはある。もう薄暮れの中を賑やかに人々が歩いている。私たちも少し歩いてレストランに入った。

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夕食のメニューはラクスカ、ミティティ(ひき肉の炭火焼)、ティラミス、そして赤ワイン。ミティティはルーマニアの代表的なお料理だそうだ。お昼は食べるのを我慢したけれど、胃の調子が良くなってきたので、私も少しずついただくことができた。(写真92)

このおしゃれなレストランの名前は『TAVERNA』、私たちは大笑い。ルーマニアではどのように発音するかわからないけれど、日本人が読むと『食べるな』でしょ。(写真93)


食べるなレストランで、美味しく食べて、外に出るともう暗かった。それでも人々は楽しそうに歩いているのが都会風だった。民族衣装のような裾の長いスカートをまとった若い女性が3人話しながら歩いていたが、ルーマニアの民族衣装なのかな。ガイドのディアナさんも首を傾げながら見ていたし、アラブの雰囲気が感じられたから、異国の民族衣装なのかもしれない。(写真94)

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ホテルに着いたのは21:50、部屋に入るとテーブルにボールがあり、中にブルーの包装紙に包まれたチョコが入っていた。ホテルのウェルカムチョコ、添乗員さんが美味しいとオススメのチョコだ。

これはプレゼントなのかなと言いながら、疲れもあってすぐ寝てしまった。



最終日ブカレスト ルーマニア国旗


いよいよ最終日。朝食事に行くと添乗員さんがチョコの説明をしてくれた。バスの故障のため日程がずれたのでお詫びにチョコを手配したとのこと。綺麗にラッピングしてもらうつもりでホテルに頼んだそうだが、実際はボールにバサッだったのでがっくりしていた。しかも面白かったのは、ツアー参加者一人に一箱と頼んだというが、私たちの部屋には奇数のチョコが置いてあった。日本人の感覚とは異なる、なんともおおらかというか大まかというか・・・違いを感じる。


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今日は1日が長い。ブカレストの町を観光してそのまま空港へ、そして深夜便で帰国する予定なのだ。

そのため、朝は少しゆとりをもって出発。9時半にバスは順調に走り始め、ブカレストに向かう。ブラショフからブカレストまで3時間ほどの行程。途中シナイアの近くの山脈を越えて行くが、窓から険しい山並みが見える。そこを抜けると今度は大平原。広々とした大地をひたすら走る。

■ Video 一面ポピーの草原 ■


途中ガソリンスタンドで休憩。ここは平原の真ん中、周囲はどこまでも赤いポピーのお花畑だった(写真95, Video)。みんなが売店に並んでいる間、私と夫は花畑に踏み込み、綺麗な花たちを写真に撮ったり、ただぼーっと遠くを眺めたりしていた。(写真96)

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ブカレストの町に近づくとまず凱旋門が見える。ブカレストは小パリと呼ばれたこともあるそうだが、この凱旋門もその一つの理由だろうか。けれど、ブカレストの凱旋門は町の中心地からかなり離れて立っている。バスの窓から見ただけだけれど、周囲は緑が多くて美しい公園になっているようだ。(写真97)


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町の中心地に着くと、歩いてレストランに行く。歩いていくと堂々とした大きな建物、国立歴史博物館がある(写真98)。美しいバラの咲く庭の脇を歩いていくと、18世紀に建てられたとても美しい修道院に突き当たる。スタヴロポレオス修道院という、小さな教会だけれど、ルーマニア独特のブルンコヴェネスク様式なのだそうだ。どんな様式かというと、案内書には『ワラキアで発展したビザンツ建築との混合様式』とある。と聞いてもやっぱり分からないけれど、とてもしっとり落ち着いた雰囲気の教会だ。中をのぞいたけれど、美しいというイコンはあまりよく見えなかった。(写真99)


町の中心街は人々が笑いさざめきながら歩いたり、レストランのテラス席でくつろいでいたりする。なんだかいい感じ。(写真100)

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そんな人々を眺めながら私たちもレストランに向かう。

今日の昼食はサルマーレというルーマニアのロールキャベツが出る予定。ガイドのディアナさんが日本に滞在中にも食べたそうだが、ルーマニアのものとは全く違っていたと力説。キャベツが違うらしい。酢に漬けたキャベツを使うのがルーマニア風。

楽しみにレストランへ。チキンのスープ、サルマーレ(ロールキャベツ)、そしてデザートは嬉しいアイスクリーム。

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レストランはブラショフと同じ『TAVERNA』という店だったが、店内はイメージが違う。レトロな装飾で落ち着いた雰囲気、壁には古いお皿がずらりと並べられ、民族的な織物がたくさん使われている。けれど、ヨーロッパの人たちは屋外が好き、テラス席はとても混んでいたけれど、中にはあまり客がいない。(写真101)

とても美しいレンガ調の店内でいただいたサルマーレは美味しかったが、日本風に作ったサルマーレとの違いというのはわからなかった。日本でサルマーレを食べたことがないから当然なのだが、ロールキャベツにも家庭の味があって色々工夫して作るので、その一つの形と思えなくもない。その味で育った人の感覚というものなのだろうか。

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付け合わせにとうもろこしの粉で作ったママリガがたっぷり乗っていて、それが嬉しかった。ドラキュラの家レストランでママリガが出た時は、私は胃痛でほとんど食べることができなかったので、とても残念に思っていたが、ここで心残りなく味わうことができた。(写真102)

バスの運転手さんは、自分の親はママリガだけ食べていたよなどと笑わせていた。昔の人々の常食だったのかもしれない。


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食事の後は、ブカレストの町を歩く。少しだけの自由時間。町は美しく、小パリと呼ばれたということがうなずける。旧王宮跡という建物の横には、ブカレスト最古のクルテア・ヴェケ教会が明るい色彩で可愛らしく立っている。16世紀半ばに建てられたそうだが、なんだか新しい感じがする。(写真103)


ルーマニアにはジェロビタール化粧品というアンチエイジングの効果があることで有名なメーカーがあるとのこと。ツアーの仲間の女性たちはその化粧品もお目当ての一つだったらしく、ガイドさんがそのお店に案内してくれた。市街地の中心に近いお店は狭いけれど、両側の棚にびっしりと化粧品が並んでいる。普段化粧をしない私だけれど、アンチエイジングという効果には心が揺れる。もうあまりに遅すぎるというものだが、せっかくルーマニアに来たのだからと1瓶買うことにした。これでシワの1本でも減ったらみんなが振り返るかしら・・・などと冗談を言いながら。


私たちの買い物は簡単、すぐに終わったので、ワインと本を目当てに歩いてみることにした。お店で色々品定めをしているツアーの仲間たちとは別れ、二人だけで散策する。

ワインのお店はすぐ近くにあったので、赤ワインを選ぶ。文字が読めないので、ラベルを見ての勘頼り。いつも気に入ったラベルで選んでいるが、だいたい美味しいワインにあたるから嬉しい。


さて、残りの時間は書店に行く。ここに CDがあると聞いてきた。大きな書店で、何階もあるようだが、CDは地下にあるという。夫は民族音楽を探しているが、こちらはワインと違って、文字もカバーの絵も意味があるようでかえってわからない。品揃えも多く、ちょっと見たくらいでは選べなかった。(写真104)

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自由時間の後は、国民の館に向かう。ツアー申し込み当初、国民の館に入場する予定だったが、その後行事が行われるということで入場はしないことになった。

ところが当日まで予定はわからないとアナウンスがあり、ガイドさんが直前まで会社とやりとりしていた。結局入場はできないことになったが、夫は国民から搾り取ったものなんか見たくないからいいよと言っていた。


国民の館は道路や広い駐車場をはさんだところから見ないと全体が見えないほど巨大な建物だった。しかも見えている大きな建物と同じ広さで深さの地下があるのだそうだ。部屋の数は3千を超え、1500億円もの費用をかけて作られたという。いったいどれだけの血と汗が染み込んでいるのだろう。


最初にルーマニアに入った時、ガイドさんが「みなさん、ルーマニアについてどんなことをご存知ですか?」という質問をした。バスの中に聞こえたのは『チャウシェスク1918-1989ルーマニア初代大統領』『コマネチ(体操オリンピック金メダル)』という二人の人名だった。共産主義時代に、かたや独裁者として悪名を馳せ、かたや白い妖精と称えられた。

私も似たような知識だが、つまりルーマニアについてはほとんど何も知らないのだが、もう一人コジョカルさんを知っている。現在はイギリスで活躍しているバレエダンサーだが、その美しい舞は世界中を魅了している。来日公演の時に一緒に写真を撮ってもらったが、気さくな笑顔とフレンドリーな振る舞いがとても好印象だった。

ガイドさんに伝えると、彼女もコジョカルさんを知っていて、とても美しい人だと嬉しそうに言っていた。

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どんな国でもそうだと思うが、悪いニュースによって世界に知られるのは嬉しくないだろう。一方にそういう事実があったとしてもそれは一面でしかない。その周りにはまた違う色の歴史が必ずあることを忘れてはならないと思う。日本でも、大戦中の一つの出来事だけを取り上げられるとすぐ大議論になるではないか。広く見る目を持ちたいものだ。


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話が逸れてしまったが、チャウシェスクが国民のためと言いながら、私欲を満たすために建てた贅の限りを尽くしたという建物、国民の館はとにかくすごい存在感だ。(写真105)


国民の館を見た後は、大主教教会に向かう。17世紀半ばに貴族の館内に建てられたという。ルーマニア正教の教会。屋根に珍しく3つの塔が立っている。貴族の館内というだけあって周囲は宮殿に囲まれ、広い丘の上に優雅に立っている。(写真106、107)

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教会の入り口には聖水をいただく水槽があったが、内部のきらびやかな装飾画などと比べると質素で、バケツのようなものが置いてあっておかしかった。聖水と信じていれば、見た目は関係ないのかな?(写真108)

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信仰心の薄い私にはよくわからないのだが、キリスト教でも国によってそれぞれの正教がある。私たちが訪問した国だけでもジョージア正教、アルメニア正教、今回のブルガリア正教、ルーマニア正教・・・。細かく言えばお祈りの仕方や、教会の仕組みなど、見えやすくわかりやすい違いなどを説明してもらったけれど、そういう違いより、信仰の内面の方が大切なのだろうと察しはする。しかし、それは外部のものにはわからない世界なのかもしれない。

私たちはただ歴史的な建物や装飾を見て、再びバスに乗る。


いよいよルーマニア最後の見学地、国立農村博物館へ。入り口に近づくと雲が広がってきた。門をくぐって入場するのだが、入り口には売店がある。発券を待つ間、わずかな時間にのぞいてみた。昔農民が着ていた服や農具などもあったが、ここにCDが数枚おいてあった。「きっと民族音楽だ、舞踊曲かもしれない」と、買い求めた。これは正解、家に帰って聴いて異国情緒を味わうことができた。

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さて農村博物館、まずこれが国立ということに驚く。ルーマニア国内各地の農村から農家、水車、教会などが集められていて、なんと300棟近い建物が屋外に配置してある。主に18〜19世紀の代表的なスタイルの建物が集められているそうだ。所々に昔の生活の様子を写真入りで説明したボードが立てられている。悲しいかな、説明文は読めないので、写真を見て想像する。(写真109)

内部は一面の緑で、ここにはたくさんのネコさんたちが暮らしているとか。何匹のネコさんに出会うかも楽しみの一つと聞き、期待が高まる。

それにしても広い。農家の人たちの暮らしは物質的には決して豊かではなかったと思われるが、果たして現代の都会生活者と比べてその心の豊かさはどうだったろう。簡単に優劣はつけられないだろうが、伸びやかに自然の中で暮らしていた農民たちの生活が豊かでなかったとは言えないと思う。

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歩いてみると点在する農家は魅力的だ。もちろん、現代の文明生活に慣れた私が今そこで暮らすとすれば、大変な不便をかこつことになるのだろうが。それでも美しいとさえ思える建物がたくさんある。(写真110)

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巨大な木、サクランボがたくさんぶら下がっている並木、木造の教会、茅葺の屋根・・・。一つ一つ歓声をあげながら歩く。そして何匹ものネコさんたち、みんな気持ち良さそうに転がっているのがおかしい。(写真111)

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しばらくしたら、雷がなった。急に雨が降る。本当に農村にいるみたいだ。私たちはそれぞれ建物の中や四阿の屋根の下に逃げ込んだ。夫がちょうど近くにいたガイドさんに傘を差しかけるのをツアーの仲間たちが冷やかしている。(写真112)

通り雨だったらしく、雨はすぐに止み、みずみずしくなった木々の緑の下を歩いて出口に向かった。門の近くには大きく枝を広げた巨木が堂々と立っていて、この博物館を包んでいるような気がする。(写真113)

最後にとても爽やかなルーマニアを見ることができて、嬉しい気分になった。


深夜便に乗るためには時間があるということで、ブカレストの大きなショッピングモールに行くことになった。スーパーも入っているので、最後にお土産などを買えるだろうということ。

私たちも、ルーマニアの国産チョコレートや、赤ワインを買おうと楽しみにバスを降りた。そして私は乾燥のためか鼻水が止まらないので、ティッシュペーパーを買おうと思った。日本から持ってきたポケットティッシュはほとんど使い切ってしまうほど。

ショッピングモールはとても広い。バスを降りてからかなり歩いてスーパーのある方へ向かう。帰りの時間までには余裕を見ておかないと集合時間に遅れそうだ。


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広いスーパーの中を大きなカゴを持って散策する。ワイン専門店はあまりに広くてなかなか選べない。やっぱりラベルの印象と、あとはお値段で決める。

チョコはたくさんの種類があったので、プレーンやナッツ入りを少しずつ買った。(写真114)

困ったのはティッシュペーパー、巨大なパッケージの紙類、ロールペーパーなどはたくさん積んであるのだが、私の欲しいポケットティッシュが見つからない。綺麗な模様の紙ナフキンのような包みがたくさんあったので、その中のあまりかさばらないものを選んで買うことにした。しっかりした紙で、日本ではレストランなどで使われるペーパーナフキンみたいだ。背に腹は変えられないので、それで鼻水を拭きながらバスに戻った。


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レジで支払いをするとき、前の男性はお釣りのコインを受け取らないで行ってしまった。レジの女性はそのコインを備え付けの透明の箱にポンと入れた。その箱は募金箱らしい。そういえば、ルーマニアではほとんどコインを使わないとガイドさんが話していた。「紙幣はプラスチックできているので丈夫で切れないのよ」とも言っていた。(写真115)


帰りは多分時間がかかるだろうと少し早めに歩き出したが、広いモールの中をキョロキョロ楽しみながら歩いていたら、やはり集合時間ぴったりだった。そして、遅れて走ってくる人が何人もいた。

細長いモールは、端の方まで一目で見渡せるので、それほど時間がかからないように思えるが、歩くとかなり遠い。まるで、山みたいだ。すぐそこにピークが見えていて、「あと少しだね」などと言っているとなかなか到着しない。

時間はたっぷりあったので、みんなが集合するのを待ってレストランに向かう。


ルーマニア最後の食事は豆のペースト、マスの塩焼き、パンケーキ、そして私たちはもちろん赤ワイン。豆のペーストは日本の白餡みたいだけれど、もちろん甘くない。豆の味が濃くて美味しかった。パンケーキは綺麗に巻いて縦に置いてあるのが変わっている。春巻みたいだ。

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マスは黒海でとれるのだろうか、ブルガリアで食べた魚は地中海から運んできたと言っていたが・・・。(写真116)

最後の食事だったが、体調を崩して食べられない人もいて、気になった。今回は大丈夫だったが、私たちも具合が悪くなったことがある。旅先で体調を崩すと辛いものだ。

そんな心配を含んだ食事だったが、ここで、ガイドさんと添乗員さんから全員にプレゼントがあった。つまり日本とルーマニアの旅行会社からということなのだが。今回は2日間に渡りバスの故障というアクシデントがあったので、そのお詫びということらしい。ホテルに置いてあったチョコレートはあまりにも『お詫び』というイメージからは遠いということなのだろう。ルーマニアのアンチエイジング効果が高いとされるジェロビタールクリームを一人1瓶、いただいた。

女性は大喜び、男性もこれならお土産になりそうだと言っている。


お腹がいっぱいになったらホテルへ帰って横になりたいところだけれど、今日はそうは行かない。これから空港へ行く。9時を過ぎてオトペニ空港へ到着。朝バスに積み込んだスーツケースを下ろし、そのあとスーパーなどで買った土産品を詰め込む。

私はハガキを投函したかったのだが、ここまでにポストが見つからなかったので、ガイドのディアナさんの好意に甘えることにした。日本から持っていったおせんべいなど、ほとんど食べなかったので、ディアナさんにお礼として少し渡した。彼女は日本で暮らしたことがあるので「おせんべい好きです」と気持ちよく受け取ってくれた。


荷物を詰め込み、搭乗券のチェック、そしていよいよ出国審査へ。日本語がとても上手なガイドのディアナさんともここでお別れ、彼女はみんなと握手してサヨナラをした。

私のカメラで写真を撮ったので、最後に「写真送ってくださいね」と言われ、「教えてもらったアドレスに送ります」と約束して別れた。



最終日は飛行機の中で


空港を出発するのは真夜中 0:35の予定。まだ時間はかなりある。成田でも深夜便で疲れたけれど、待つだけというのは案外疲れるものだ。

■ 帰路:ブカレスト(ルーマニア)からドーハへ 約5間の飛行 ■

二つの空港の位置関係を示すもので、実際の航路はもっと複雑です。

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それでもいつか時間は過ぎ、ドーハへ向かって深夜便は飛び立った。来た時はブルガリアのソフィアへ降りたが、今度はルーマニアから出発。黒海の上を行くのは同じだけれど、いくらか短い。約5時間の飛行だが、機内食が出る。夜食か、早い朝食か?ワインをいただいて、眠ろうと試みる。(写真117)

しかし、狭い機内では疲れていてもなかなか寝付かれない。

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窓側の席だったので、真っ暗な空が少しずつ明るくなってくる様子がわかる。黒から青く光りだす空は美しい。(写真118)


予定より早く5時前にドーハに到着。ちょうど日が昇ってくる。空港の向こうは海、ペルシャ湾か、そこに丸く赤く太陽が昇ってくる。南国の太陽というものか。黒かった空が日の出とともにどんどん青く染まってくる様子は美しい。空港内を移動するバスの中からその変化に見とれていた。

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ドーハは新しい都市、空港の外にはビル群が続いているらしいが、空港は海岸にあるので、海の方は建物が無く太陽だけがくっきりと見えている。(写真119、120)

ドーハの国際空港はとにかく大きい。帰りは乗り換え時間に余裕がないので買い物もせず出発のゲートに向かうが、長い、長い動く歩道に乗っていく。

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日の出とともに気温がどんどん高くなってくる。空港の建物から飛行機に移動する間も暑いくらいだ。やはりここは砂漠の国なんだと実感する。(写真121)


日本へ向かって、7時20分いよいよ離陸。短いのだけれど長い旅だった気がするのは、行きも帰りも深夜便だったせいか。


ドーハからの便ではまた窓側の3席を二人で利用できた。これは長い飛行ではとてもラッキー。窓から見下ろす景色は砂漠。そしてペルシャ湾。機内のモニターを見ていたら、帰りの航路は来る時と全く違うので驚いた。ペルシャ湾を北上し、ホルムズ海峡を右に見てイランから中央アジアの方へ向かっている。今回はインドを通らないみたいだ。ヒマラヤの北のユーラシア大陸を東へ、そして中国、韓国を通って日本へ至る航路。

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余談だが、家に帰ったら『ホルムズ海峡』の文字が新聞に大きく載っていて驚いた。タンカーが狙撃されたというニュースだった。私たちが飛んだすぐ後ではないか。いつもなら遠い国の出来事とうわの空で読み飛ばすところ、あのあたりの地図を思い浮かべながら読んだ。

世界は常に動いていることを実感した。


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さて空の上に戻って、ここはいったいどこだろう。見下ろす風景は平らな乾燥した畑だろうか、そして雪をかぶった山々、その山の間に大きな湖のようなものも見える。いつか行ってみたいウズベキスタンやカザフスタンのあたりなのだろうか。(写真122、123)

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真っ白く雪をかぶった山を見ると「ヒマラヤ?」と言いたくなってしまうが、もちろんもっと北を飛んでいる。「残念、ヒマラヤが見えればいいのに・・・」などとつぶやきながら山々にみとれてしまう。(写真124)


嬉しくて写真をいっぱい撮っていたが、だんだん疲れが押し寄せてきた。3席を使えるので、交代で体を横にすることができる。機内食をいただいて、少し休む努力をする。私たちの隣には大柄な外国人グループが賑やかに話していたが、彼らはクェートのフェンシング選手らしい。日本で試合があるのだろうか。その若者たちも静かになる頃には外も暗くなってきた。

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交代で少しずつ眠り、日本に近づくと2回目の機内食が出る。(写真125)


日本は夜。帰りは羽田空港に着くことになっている。航路が違うので飛行時間が違う、帰りは10時間かからずに羽田に到着した。行きもこの航路で行ければよかったのに・・・などとぼやきながら、空港の長い廊下を入国審査に向かって移動する。

荷物を受け取るとツアーは解散、添乗員さんに挨拶してそれぞれの家路につくことになる。とは言っても、滑走路に到着したのが夜の11時だから家に帰ることができる人はわずか。

そうそう、荷物がぐるぐる回ってくるのだが、最初にフェンシングチームの特別製の長くて大きな荷物がどんどん出てきて、私たちのスーツケースはなかなか出てこなかった。電車の時間が気になる人もいて、添乗員さんも最後まで心配が絶えなかったことだろう。


もう一つ余談だが、夫は後日このフェンシングチームの記事を新聞で見つけ、あの若者たちだ、やっぱり試合だったんだと言っていた。


しばらく待った後、私たちもようやく荷物を受け取り、羽田のホテルに向かった。

ホテルのベッドで全身を伸ばし、旅の疲れを心地よく感じながら休むことができた。



旅の終わり


ブルガリア、ルーマニアの旅は終わりだが、翌日私たちは新幹線で長野に帰る。懐かしい京浜急行に乗り、東京から北陸新幹線。

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家に帰ると心底ホッとする。旅は心浮かれ楽しいが、それは帰るところがあるからかもしれない。

旅から帰るとスーツケースの中身を部屋に並べ写真を撮る。孫に買ったお土産や、見つけたワインやチョコなどの記念品だけではなく、かの地のスーパーの袋とか包装紙なども思い出になるから並べてみる。(写真126)

こんな些細な一コマが思い出を豊かに彩ってくれるような気がする。



ブルガリア・ルーマニア8日間
2019年(令和1年)6月4日〜6月11日

フライトアニメーションは AppleのiMovie を使用し作成しました。

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