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私たち夫婦が初めて海外旅行に出かけたのは2001年、行先はアメリカ、ロサンゼルス。
そのとき高校を卒業して絵の勉強をしていた娘が一週間先に出発し、カナダの友人を訪ねていた。娘はカナダでの1週間を楽しんだ後、一足先にロサンゼルスの友人のアパートに到着していた。私たちがロサンゼルスの空港に到着したとき、友人と娘は、『WELCOME』と大きく書かれた風船を持って出迎えてくれた。(写真 1)
そのときが初めての海外旅行だった。仕事で出会ったアメリカの友人の誘いで、決意した。決意というのは大げさかも知れないが、飛行機が怖い私にとって、十時間あまりの飛行はまさしく決意なのだった。
と、ここまではスイス旅行の記録に書いた。
あれから17年の年月が流れた。当時はデジタルカメラを持っていなかったので、何本もフィルムを鞄につめて出かけた。撮った写真をアルバムに貼り、楽しみなこまごまとした地図やパンフレットなどはファイルにまとめてあるのだが、思い出は時とともにゆっくり輪郭がぼやけていくようだ。一緒に食事をした男性は数年後に亡くなられたと聞く。時の経過は確実に足跡を残して行く。それでも懐かしさはひとしおで、初めて外国で暮らし、カルチャーショックの毎日だったから、印象は強烈だ。
本当に、アメリカ10日間は、それまでの自分たちの概念を覆すことの繰り返しだった。
当時友人(以後友人の愛称であるミッキーと記する)は、日本とアメリカを往復するような生活をしていた。もともと彼女はニューヨーク生まれだそうだが、仕事をするようになってからは、ずっとロサンゼルスに暮らしているそうだ。
ミッキーは日本が大好きで、かの地で日本人の友人も何人かいるとのこと。そのうちの一人が鎌倉出身だったので、彼女はそのつてで日本にやってきた。そして鎌倉を拠点にして、あこがれの日本生活を送ることになった。私がミッキーに出会ったのはまさにその頃だ。
仕事を手伝ってもらいながら、様々な話をしたり、互いの家を訪問したりするうちにより親しくなり、彼女は私たちに「アメリカにおいでよ」と言うようになった。
私はなかなか休みが継続して取れないのと、やはり費用がたくさんかかることとで、決心がつかなかった。なにより飛行機に長く乗るのが怖いという、理屈では乗り越えられないことが一番の理由だったかもしれない。
ミッキーは日本が大好きだったが、夏の蒸し暑さだけは苦手で、初夏になるとアメリカに戻り、ロサンゼルスを起点に、ニューヨークの家族のもとへ旅したり、各地の友人を訪ねたりしていた。そして秋風が吹く頃になると再び日本にやってくる。日本の学校も1ヶ月あまりの夏休みがあることを知っているので、その間にアメリカに来ればいいと言う。
私がいつも「行きたいと思ってる。でもね(But)・・・」と言うので、彼女は「もう!日本人はすぐ But と言う」と笑いながら怒るふりをする。
そしてそのうちに「おいでよ」ではなく、「いつ来る?」と聞くようになった。
「いつ来る?8月になってから?7月中に来る?」などと聞かれるようになって、さすがに真剣に考えざるをえなくなった。
前年には娘がロサンゼルスのUCLAに短期留学をし、その間ミッキーや、ミッキーの友人たちにはたくさんお世話になっていたので、そのお礼も兼ねていつか重い腰を上げなくては・・・とも思っていた。
そしてついに決心して、私たちは渡米の準備をすることにした。少しだけ英語に慣れていた娘も一緒に行くということになり、一人より二人、二人より三人というような心持ちで、少し不安が薄くなったかもしれない。 私たちは色々調べて、ミッキーも利用しているという旅行会社で格安航空機のチケットを買うことにした。往復の旅客チケットと、ロサンゼルス滞在中にミニトリップをしようと目論んで、サンフランシスコまでの往復旅客チケットを手に入れた。
サンフランシスコからは、あこがれのヨセミテに一泊する、現地のバスツアーにも申し込んだ。
娘はカナダの友だちを訪ねたいと言うので、一足先に出発した。手配したチケットはタイ航空便、一週間後には私たちも同じ便に乗ることになる。(写真 2)
娘を成田まで送って、帰る時にはドキドキしてきた。まだ一週間先なのに自分が乗ることを想像してしまう。娘は「じゃ〜ね〜」とあっけらかんと手を振って出発ゲートに消えていった。娘の乗る飛行機が滑走路を滑り出し、ふわっと浮いたかと思ったらあっという間に視界から消えていった。重さなどというものがこの世にないような、飛行機が綿で作られていたかのような・・・あっけらかんとした消え方だった。消えた飛行機をさらにしばらく見送ってから帰路についた。
それから、一週間、いよいよ私たちも出発だ。色々助けてもらっていたミッキーへのお土産を大事に梱包する。彼女の大好きな日本のものをと、考えに考えてひな人形を持って行くことにしていた。時期がずれていたので、いくつかの製作所に問い合わせた。そして製作所を訪ねて手に入れたお内裏様はかなり大きく、黒漆の屏風も思ったより大きかったので、その人形が入るスーツケースも買い求めることになった。
山登りが好きな私は、普段の旅の荷物もできるだけ必要最低限のものをと考えている。自分たちの荷物だけなら、二人分を合わせてもスーツケース一つで十分だろう。だから、今回は人形用のスーツケースが一つ余分という感じだった。これ以上増えないようにと、もう一つのスーツケースに二人分の荷物と人形の付属品も詰め込んで、なんとかスーツケース二つで足りた。
いよいよ長〜い、長〜い飛行機の旅、おひな様の入っているケースはちょっと厚めのデザイン、初めての大きなスーツケースを持て余しながら成田まで移動する。成田エクスプレスに乗れば、そのまま空港に連れて行ってくれるので便利ではある。
そういえば、ミッキーはしょっちゅう日本にやってくるのだが、一回成田空港で大失敗をしたと話していた。到着して、成田エクスプレスに荷物を乗せ、喉が渇いたので、ホームの自動販売機で飲み物を買っていたら、エクスプレスが発車してしまったと言う。
「お〜私の荷物、バイバ〜イ」と、ジェスチャーまじりで笑いながら話してくれたが、それはもちろん荷物が無事に戻ったから。
「日本は安全な国」と、彼女は言う。
さて、話を戻そう。安全な国、日本なので、ドキドキしている私の心とは無関係に時間になれば、搭乗アナウンス、そして離陸、私たちはもう空の上だ。
滑走路を一気に加速して、ジェット機はふわりと重力の一部を捨てた。ぐんぐん登っていくのが体の感覚で分かる。この時の自分の感覚を今でもくっきりと思い起こすことができる。恐怖とも後悔とも未知への希望とも名付けがたい、言いようのない全身の緊張感!
それまでにも何回も飛行機に乗ったことがあるが、遠くても沖縄までのフライトだったから、安心感があったのだろうか・・・。時間の長さは空中に飛び出す恐怖感とは直接関係ないように思うが、説明のつけ様のない強烈な感覚だった。
しかし、安定飛行に移ってしばらくすると、今度はまた驚くほどあっけなくその恐怖感は消えた。足の下1枚の板の下には何もない空間が広がっているのだと思うと、ただもうおまかせというような気分になってしまって、驚くほどの諦観だった。
そして機内食のメニューや、目の前のモニターの操作など具体的な事柄に気持ちが向かう。やはり具体的なことを考えていると、気持ちがどこか日常に近づくのかもしれない。
安定飛行に入って、シートベルトが解除になると、若者たちが立ち上がっておしゃべりを始めたが、英語のおしゃべりは声が大きくて賑やかだ。そんな、まるで町の一角にいるような光景も私の緊張感をほぐしたのかもしれない。
しばらくすると機内食が出る。私たちの乗ったタイ航空機では、機内食のメニューが配られたが、その表紙がジンジャーだった。その時は、機内食と言えばおしゃれなイメージ、そこにどうして生姜なんだろうと首を傾げた。これは本当に生姜の絵なのだろうかとさえ思った。(写真 3)
今になってみれば分かる。タイの生姜はけっこう有名だった。ガランガルというのが本当の名前らしいが、タイ生姜はタイ料理には欠かせないスパイスとのこと。私でも知っているトムヤムクンにも入れるそうだ。仕事仲間にトムヤムクンを作るのが得意な男性がいて、ごちそうになったことがあるけれど、彼は材料もできるだけ本物を使うと言っていたので、もしかしたら、知らずにガランガルをいただいたことがあったのかもしれない。まぁそれはいいのだけれど。
生姜畑が広がるタイの丘の写真や、花の写真も見たことがあるが、毎日のように食べている日本の生姜畑は・・・、そう言えば見たことがない。
そんなものかもしれない。さて、話を戻そう。長い、長い飛行中本を読んだりして時間をつぶすが、そのうちに窓の外が暗くなってきた。さっきまで賑やかだった機中も静かになっている。狭いイスに座ったままで眠るのはなかなか大変。首に付ける枕に空気を入れて膨らませる。U字型の枕を付けると、首が安定して確かにらくちんだ。少しはうとうとしたかな。
機外が明るくなって、また賑やかになる。もうアメリカ大陸が見えてくる。茶枯れた山肌が見おろせる。アメリカ西海岸の海岸線と、そこに添うように続く山脈の様子がすぐ下にくっきり見える。雲がないのだ。 初めて見る大陸の大地、飛行機の窓から写真を撮った(写真 4、5)。私が山登りをすることを知っているので、ミッキーは滞在のプランに登山を入れようかと提案してくれた。けれど、短い日数で山まで組み込むと、なにもかもが中途半端になりそうだったので、今回は山には行かないことにした。
見おろすうちに、大地はぐんぐん近づき、機はロサンゼルスの空港に到着した。
入国審査を済ませ、ゲートを出たところでミッキーと娘と合流。日本人には照れくさいハグと頬へのキス。でも、嬉しい再会だ。
スーツケースを引きずりながらミッキーの車に移動。これがまた面白かった。
「私の車はハンダ(ホンダ)よ」と言いながら、キーロックを外そうと車に向けて『ピッ』とスイッチを押す。けれど、車は反応しない。
「あら、違うみたい」と言いながら少し歩き、また『ピッ』。けれど反応無し。
「あら、これも違うわ。どこへ停めたかしら」。
とにかく広いのだ、駐車場が。しかも目印が無く、ズラ〜とどこまでも車、車。確かに分かりにくいけれど・・・。
少し焦り始めたミッキーだったが、ようやく目的の自分の車にたどり着き、私たちは乗り込んだ。
初めての海外での左ハンドル、もちろん初めて乗るミッキーの運転する車(写真 6)。広い道路を走る車はみんな左ハンドル!あたりまえか・・・。ロサンゼルスの町を通り抜け、丘を登り、郊外のアパートに向かった。途中ケーキ屋さんに寄って、ミッキーお勧めというケーキを買って行ったのだが、夢の中をゆくようでしっかり覚えていない。
ケーキ屋さんのショーウィンドウの中がとてもカラフルで、どうやってこの色をだすのだろうと思ったことだけ覚えている。
十年以上も前のことだが、横須賀の米軍基地に入ったことがある。年に何回か入れる日が設けられて、中では見学したりイベントに参加したりできるようになっている。私が子どもたちと一緒に入った日は、7月初旬アメリカの独立記念日だった。
出店もあって、食べたり買物をしたりできるのだが、その一角にとてもカラフルなケーキが沢山並んでいた。
確かテレビ番組で有名なセサミストリートに登場するキャラクターなどが描かれていた。濃い青や、赤、オレンジなどの楽しい色のキャラクターがそのままの色だったので、ビックリした。
米軍基地に勤務する人の夫人達の手作りなのだと宣伝していたが、その色の氾濫は見るには楽しいが、口に入れてみたいとは思えないのだった。
あのケーキを思い出すような、でもそれほど派手はでしくはないが、私の中ではいかにもアメリカといううなずきのあるケーキ屋さんだった。
アパートに着くと、地下の駐車場のドアをリモコンで開け、車を停める。エントランスはホテルのように広くはないが、ソファが置いてあり、優雅な空間になっている。 私たちが停めてもらうアパートは、ミッキーの家ではない。ミッキーの友人の持つ家なのだそうだ。
アパートというと私のイメージは6畳くらいのリビングに小さなキッチンと玄関がついている程度の部屋なのだが、ミッキーのアパートは日本で言うマンションの中でも広い部屋というところ。
しかも自分の部屋ではないところに友人を泊める?どうも私たち日本人の常識を超える・・・けれども、ミッキーはとても嬉しそう。
しかも、ベッドは主寝室の広いダブルベッドのみ。このベッドがまた、日本のアパートの一部屋くらいの広さだから驚く。ただ、いくら広いと言っても、このベッドに全員がごろ寝する訳にも行かない。リビングの大きなソファも活用することにした。(写真 7)私と娘は2台あるソファに、そして我がパートナーは厚い絨毯の床に巨大な寝袋を置いて、そこに寝ることになった。
日本にいる時に「寝袋もあるから」と言っていたのが冗談ではなかったのだ。
だが、翌日からミッキーのパートナーは仕事の出張、娘がミッキーとベッドで寝ることになり、寝袋は1日でお役ごめんとなった。
アパートに着いてまずは、私たちが日本から運んできたお土産を出す。大きなお内裏様は、私たちなりの思いを込めたもの。ミッキーは手放しで大喜び。テーブルの上に並べ、しばらくじっと眺めていた(写真 8)。
季節外れのおひな様だが、しっかりした人形屋さんで作ってくれた。ミッキーと並んで見入る私たちにとってもそれはなかなか美しい日本の自慢の工芸品だった。
しばらくおひな様を前に、話が弾む。
ひと休みしたあとは、アパートの周辺を散歩することにした。とは言っても、いきなり地理も分からない私たちがのんびり歩くには少し危険らしい。
ミッキーのパートナーに案内してもらって一回りしてきた。ここはロサンゼルスの郊外、比較的裕福な人たちの住まいが集合しているらしい(写真 9)。家の周りには広い芝生があり、もちろんブロック塀などという無粋なものは全く見えない。イヌと遊んでいる子どもたち、芝刈りをしているおじさん・・・あまり人がいない時間帯だったが、それでも生活の動きは感じられた。
ミッキーのパートナーが言う事によると、このあたりは乾燥地帯なので、水があまり潤沢にない。そんな場所で家の周りの緑を保つことができるのは一種のステータスなのだそう。
ゴッホの絵で有名な糸杉がくねるように突き上げている、乾いた青い空を見上げて、私たちは異国を強く感じていた。
その日は歓迎の意味を込めてと、車でしばらく走ったロサンゼルスのレストラン『Villa PIACERE』に案内された。ミッキーは「あなたはお肉がダメでしょう」と、サーモンなどをオーダーしてくれたような気がするが、初日の興奮で私はメニューをあまり覚えていない。その時の写真を見ると、私と夫はビール、ミッキーは大好きな赤ワイン、そして娘と、運転するミッキーのパートナーはノンアルコールの飲み物で乾杯している。(写真 10)
今も覚えているのは、そのレストランで隣のテーブルにいた人たちのこと。我が家では時々話題になる。
私たちがレストランに着くと、奥の中庭のようなところに案内された。花に囲まれたおしゃれなテーブル。日本では当時それほど多くなかった戸外のテーブルで、それはそれで少し驚いたのだが、そっと見回すととても落ちついた優雅な雰囲気の、緑に囲まれた数台のテーブル席だった。
私たちが席に落ちついて、オーダーをとおして、ふと隣を見ると家族のような集団がおしゃべりに興じている。早口の英語だから、ほとんど理解できないのだが、大きな声でとても楽しそうだ。
私たちも負けずとブロークン英語や、日本語で話し、久しぶりのおしゃべりを楽しんだ。ミッキーのパートナーは日本語が話せるので、安心しておしゃべりができた。
おいしくディナーをいただき、そろそろ帰りましょうかと席を立つ時にふと隣を見た。すると、彼らは『そろそろオーダーしましょうか』と、メニューを持ってきてと言っている。私たちがおしゃべりしながらゆっくり食べている間、彼らはまだオーダーもせず、おしゃべりに興じていたのだ。なんというのんびりスタイルなのだろう。
まるで時間の流れが違うようではないか。もちろん、レストランの人たちも急かす訳ではなく、対応している。
これはまず私の目から大きな鱗が1枚はがれた出来事だった。
レストランを出ると、夜空に大きな月が浮かび、街の夜景と月と、素晴らしい光の響宴の中、ミッキーのアパートに帰った。
翌日からミッキー手作りの朝食をいただいた。私がほとんど肉料理を食べないことを知っている彼女は、ベーグルとスモークサーモン、マーマレード、そして厚く切ったトマトを並べてくれた。(写真 11)
飲み物はコーヒー、コーヒーが苦手な娘にはオレンジジュース。サーモンもトマトもみずみずしくて美味しいので、そう伝えたら、なんと、それから毎日朝食は同じメニューだった。
気取らない、正直な歓迎の示し方、これもまた私の目から1枚鱗を剥がしてくれた。
もし、他のものを食べたかったら、ただ正直にそう伝えればいい、それだけのこと。日本のおもてなしや遠慮の心は、たぶん互いに言葉に出さずに相手の思いを計ろうとする。奥ゆかしいとか、嫌な思いをさせないとか・・・そこに相手を思う気持ちがあることも認めるけれど、互いに伝え合えばよいではないかという関係が、私には新鮮で嬉しかった。
2日目はミッキーの案内で、近くの美術館と、娘の希望のUCLAキャンパスに行こうと話していた。
そうそう、ここでまた驚いたのは、出がけにさっと周囲を片付けていた私に、ミッキーが言う。
「ゴミはそのままでいいわよ。あとで掃除の人が来てくれるから」。
不在の時に、自分の家に他人が入るのは嫌だなぁと思うのは貧乏人の感覚?サービスする人と、受ける人、雇用関係のあり方が私のイメージを越えていた。
ミッキーの運転する車で出発。ミッキーは日本では運転しないので、私たちがミッキーの車に乗るのは昨日が初めて。何車線もある広い道路や坂の多い郊外の道もミッキーはスイスイ飛ばす。けれど、信号が黄色になるとピタッと停止する。自由を謳歌する国だが、このような公共の決まりに対しての違反には結構厳しいらしい。
目指したのは丘の上にある『The J・Paul Getty Museum』。ゲートを入ると小さなケーブルカーがあり、それに乗って高台に上がる。(写真 12)
ケーブルカーの乗り場には背の高い木が茂り、終わりかけた大きな薄紫の花が咲いている。一つ一つの花を見ると筒型になっていて、桐の花のようにも見えるが、全体は大きな広がった房になっている。薄い竹色の細い羽状複葉が茂っている葉も、桐とは全く違う、これまで私は見たことがない植物だ。(写真 13)
美術館はやはり広い。とても1日で回りきれる広さではない。庭も広く、大きなサボテンが一面に並ぶ庭(写真 14)や、遠く見おろせるロサンゼルスの町並みにすっかり満足して、私たちはお気に入りの絵を見たあとはのんびり過ごした。(写真 15、16)
美術館を出ると、今度はUCLAのキャンパスを目指す。1年前短期留学していた娘が私たちを連れて行きたかったようだ。大学のキャンパスと言っても、広大なストアーが入る人を迎えている。
広い前庭には大きな熊の彫刻があり、どうやら娘はこの熊さんと一緒に写真を撮りたかったらしい。
「去年、帰る前に写真を撮ろうと思っていたのに、忘れちゃったのよ」と笑う。
今回は思い残しなく、熊さんと一緒にカメラに収まってから、(写真 17)私たちはストアーに入った。
日本でもよく見かけるロゴの入った鞄や衣服がずっと奥まで展示されている。もちろん文房具もあるが、その広さはちょっとした日本のスーパーより広い・・・。
まだ2日目なのに、私たちはUCLAのロゴ入りTシャツやトレーナーをお土産に買い込んだ。
ミッキーも笑いながら見ている。
買物をして、のんびり校内を歩く。建物は美しく柔らかいカラーで統一されていて、周囲の空間が広く、気持ちよい(写真 18)。
しばらくのんびりしてから、ミッキーの車に戻る。初めてアメリカを訪れた私たちに色々なところを見せてあげようと、ミッキーが張り切っているのが伝わってくる。
ミッキーは私たちに何か欲しいものはないかと聞く。私たちには特にこれっという買物リストなどなかったが、夫がCDを見てみたいと言ったので、昼食を兼ねてショッピングモールのようなところに連れて行ってくれた。大きなスーパー(デパートか?)を中心に、周囲に専門店が並んでいたり、テントの市のような売り場があったりする。その一角で夫は好きなカントリーウェスタンやジャズなどのCDを何枚か買った。ざっくりと並んでいる商品の中には、ケースにヒビが入っているものもあったが、中味が良ければいいでしょうという雰囲気、なんとも大まかな国民性と言うものか。
私はそこでサングラスを買った。小降りで、鼻の低い私にもちゃんとつけることができたので嬉しく、その後長く愛用した。
ミッキーは私たちを案内しながらも、気に入ったドレスを見つけると手を伸ばし、あわてて「ノーノー」と叫んでいた。
買物を楽しんだあと、少しドライブをしましょうと、「ロデオドライブよ」と言って笑う。
ブランド品に興味のない私たちは『Rodeo Drive ロデオドライブ』と聞いても全く想像ができなかったのだが、そこはロサンゼルスの観光スポットらしい。
ロスの西部にあるBEVERLY HILLS ビバリーヒルズはさすがに知っていたが、その中の『ゴールデントライアングル』とよばれる一角には高級ブランドのお店がずらりと並んでいる。
少し前に寄ったショッピングモールとは全く異質の、けれど言ってみれば同じショッピング街だ。
俗な言い方をすれば、私たちには『お呼びでない』場所だけれど、ずらりと並ぶブランドのお店を見ていると、おしゃれと言うのはとてもシックな、イキを感じさせるものなのだということが分かる気がする。
ミッキーは、手が出そうになってはその手をもう一方の手で押さえる、というジェスチャーで『とても手が届かない』という悔しさを表して笑っていた。
岩山の上に白く『HOLLYWOOD』の文字が描かれている。遠く高く見える。カーブした道を登って行くと、木々に囲まれた、いかにも高級住宅という建物が沢山見える。有名なハリウッドスターなどの邸宅もあって、ミッキーが教えてくれたのだが、私はあまりスターも知らないので、その豊かな景観を眺めることで楽しんでいた。中でもちょっと昔話に出てくるお化け屋敷のような不思議な建物にはビックリし、車の窓から写真を撮ってしまった(写真 19)。
この街を走っているときのこと。道路の脇の広々した歩道、ここにはおしゃれな形のベンチがポツポツと置かれ、散策を楽しめるようになっているのだが、そのベンチの一つにくたびれた男の人が座っていた。足元にはいくつかの汚れた袋を置き、髪や髭もかなり伸び放題、着替えもあまりしないような雰囲気の衣服をまとっていた。
あれは・・・やっぱりホームレス?と、私たちが首を傾げると同時に、ミッキーが言った。
「ホームレスも、ビバリーヒルズのホームレスの方が格が高いと、いばっているみたいよ」。
有名なビバリーヒルズをめぐり、映画スターの手形などの観光目玉を横目で眺め、まずはロサンゼルスの紹介編の1日は終わりに近づいていた。
この後、私たちはミッキーの友人たちと夕食を共にすることになっていた。
ミッキーがよく話してくれたルースさんにも初めて会えるので、私はワクワクしていた。ルースさんは、今私たちが滞在しているアパートの所有者でもある。彼女は遠くの大きなお屋敷に住み込みで犬の教育をしているので、ミッキーがその留守を預かっているような話だが、私の英語聞き取り能力ではもう一つ細かい部分が分からない。
けれど、それはまぁいいかな・・・、みんなでメキシカン料理をいただくというので、その店に向かった。
『Tia Juama』という名前の店は、明るく賑やかな、ホットな店だ。お店の人もとてもフレンドリーで、私がピザの焼き釜に興味を持ってのぞき込んでいると、ひょうきんに向こう側から手を振ったりしてくれた。(写真 20)
お料理はざっくりと盛り合わせたスパイシーな肉やタコスのようなもの、焼き飯などで、色々な味が楽しめた。
ミッキーの友だちのルースさんと、一組のご夫婦と一緒に食事をしたが、このご夫婦の男性が日本人だったので、夫人も片言で日本語ができた。おかげでルースさんとも話が弾み、楽しい時間だった。
娘は昨年留学した時にもルースさんにはお世話になっているので、懐かしそうに話をしていた。我が家の本棚にはルースさんが娘にと譲ってくれた分厚い画集が何冊かある。
翌日はいよいよ私たちだけの旅、ロサンゼルス空港からサンフランシスコへ飛ぶ。
私たちはミッキーに車で空港まで送ってもらい、あとは自分たちの乏しい英語力で頑張るしかない。
一年前にしばらくロサンゼルスで暮らした娘が頼りだ。
空港でのセキュリティチェックは今から思うととても簡単だった。電車に乗るような気分で私たちは機内に収まり、小型の飛行機は少し揺れたけれども、予定通り1時間20分ほどでサンフランシスコに到着した。
機内で娘が話してくれた1年前の国内(アメリカの)格安便でのニューヨーク往復はものすごく揺れて怖かったそうだ。
このニューヨーク行きは娘が日本への帰国前にどうしても見てみたかったという『メトロポリタン美術館』をメーンに、自分で予約して行ってきた。
ところが、当時のニューヨークはかなり物騒というイメージがあり、娘の出発直前に聞いたミッキーとルースは青くなって、娘がロサンゼルスに帰ってくるまで、本気で心配してくれていたそうだ。
「なんという冒険家でしょう!」と、後で笑いながら話してくれたが、実は娘の無事な顔を見るまで気が気じゃなかったらしい。
さて、サンフランシスコ。空港からは予約していたホテルまで、タクシーで直行した。街には勢いがあり、椅子がくっついていたり、車が半分飛び出したりしているような、ビックリするデザインのビルの壁もあった。タクシーの運転手さんが、「あれを見てご覧」と自慢そうに教えてくれた。
ホテルに着いたのは、まだ午後の早い時間だったので、有名なケーブルカーに乗って『FISHERMANS WHARF フィッシャーマンズ・ワーフ』へ行ってみようということになった。
まずは腹ごしらえと入ったバーガー屋さんで出てきたハンバーガーの大きいこと。ビックリしながら周りを見ると、もちろんみんな普通に食べている。
でもここで見た女性は皿の上でハンバーガーを分解して、ちびりちびりと食べていた。それが面白くて、つい盗み見してしまった私たちのしばらくの話題となった。
ケーブルカー乗り場はホテルから近かったので歩いて行く。その辺りはサンフランシスコの中心街ダウンタウンと呼ばれるところだ。坂を降りてきたケーブルカーは、終点に着くと乗っていた人をみんな降ろし、ぐるりとUターンする。そして再び客を乗せて行く。
周囲は通行人の多い賑やかな通り、ふと見ると金ぴかの人がいる。体中を金色に塗っていてじっと動かない。足元には金ぴかの缶のようなものが置いてあるから、通行人がコインなどを入れるのだろうか。(写真 21)
その後ヨーロッパを旅するようになって、金、銀、銅色の大道芸人を沢山見るようになったけれど、初めて見た金ぴか人には本当に驚いた。
向こうからケーブルが現れる。濃い茶色がレトロな雰囲気を醸し出している。車体の外には樽のようにお腹を膨らませたおじさんが立っている。
待っていた私たちの前で、ケーブルカーはぐるりと回転した。ターンテーブルという仕組みらしい。私たちは方向転換したケーブルカーに乗り込んだ。待っている間、周囲を見回してデッサンをしていた夫は、実は鉄ちゃん、ケーブルカーに乗れてご機嫌そうだ。午後になっていたせいか、混んでいなかったのも嬉しい。でも、夫によれば、このケーブルカー、車両の外に足台が着いていて、どうやらそこに立って行くのが通(?)らしい。私たちは茶色が美しい板作りの車内でゆっくり座った。(写真 22)
ケーブルカーと言えば2台の車両が繋がっていて、互いに引っぱり合うことで登ったり下りたりする仕組みだと思うが、サンフランシスコのケーブルカーは直線ではない。なんと道路に沿って曲がって行く。一体どんな風になっているのだろう。私たちは興味津々で周囲を見回していた。
空気が眩しくなって、一気に海になる。海産物の匂いがあたりに漂い、街の活気を感じる。私たちは賑やかな通りを越えて海岸に向かって降りて行った。
有名なフィッシャーマンズ・ワーフだ。どこもかしこも魚、海産物の料理の匂いがして小腹が空いている私たちの鼻をくすぐる。広いお土産売り場があちこちにある。海の向こうにある旧刑務所のあったアルカトラズ島が売りらしく、縞縞の囚人服の土産物が多い。
様々な店を見て回って、ふらふら歩いた。大きな丸い看板はどこかで目にしたことがある。日本でも観光案内などに出ていたのだろうか、カニのマークの看板は思ったより巨大で、下に立つ私たちは豆粒になった。(写真 23)
サンフランシスコ湾の砂浜に立つと、少し斜めになった日が水辺をキラキラ輝かせ、遠くに有名なゴールデンゲートブリッジが見える。(写真 24)
思いきりのんびり散歩したので、そろそろホテルに帰ろうかとケーブルカーの乗り場に行ったら、そこには乗り場をぐるりと取り巻くように長〜い行列ができていた。来る時は空いていたケーブルカーだったが、夕方になってみんな帰る時間帯らしく、それでも並ぶ人々はどこか並ぶことまで楽しんでいるような空気をまとっている。
長い行列はゆるゆる蛇行して、それぞれが勝手なことをしながら待っている。すると、その行列に沿うようにサキソフォーンの響きが流れてくる。ジャズナンバーのリズムに合わせて体を揺すっている人も多い。サキソフォーン奏者の足元にはコイン入れが置いてある。
ここではきっといつもたくさんの人が並んで待っているのだろう。そこにちゃんと商売している人が現れるというのがすごい。
待った。ずいぶん、待った。ずるずると行列は進むが、何しろ1台のケーブルカーに乗れる人数は限られている。やってきては出て行くケーブルカーを何台見送ったことか。
1時間半くらい待っただろうか、ようやく私たちはケーブルカーの客になった。(写真 25)
今度は車体の外に立って、街を見ながら行こうと、後ろのデッキのようなところに立った。出発。ごついおじさんが私たちの隣にやって来て、デッキの真ん中にある太い鉄の棒を握った。そして彼は胸を張って言う。
「アイ アム ア ブレーク(brake)マン」。
そして大きな声で笑う。
こんなに陽気でいいのか・・・と思うくらい楽しそうだ。
ブレーキマンのおじさんと、彼の仕事の合間に片言で会話をしながらケーブルカーは再びサンフランシスコの市街地に到着した。さすがに疲れたので、夕食になりそうなものを見繕って買物をし、ホテルに戻った。
私たちは日本で予約する時に、3人で泊まるための簡易ベッドを申し込んでいた。ところが部屋に戻ってみてもエキストラベッドは用意されていない。電話を使ってフロントに「エキストラベッドを持ってきて」と言って、食事の準備をしていたが、いつまで待ってもベッドはやってこない。部屋は広く、立派な大きなタンスなどの家具があって、とても居心地のよい部屋なのだが、3人で雑魚寝するのはちょっといただけない。
欧米のホテルは、ツインやダブルが標準で、3人などの使用はあまり無いと言うことは聞いていた。けれど、今回のホテルは3人も申し込めるという契約書になっていて、私たちはそれでこのホテルを申し込んだのだ。
しばらく待ったが、あまり何も音沙汰がないので、ついに私はフロントに出かけることにした。英語には、まるで自信がないのだけれど、伝えたい内容ははっきりしている。
フロントには上品なおじいさんがいた。私が、「エキストラベッド」と言うと、困ったように「オー、ソーリー」と言うのだが、ちっとも I am sorry という気持ちを感じない。私は日本での契約書を見せ、早口でバババと何か言った。
相当ブロークンの英語だったと思う。ほとんど単語を並べただけの・・・。けれど、私が本気でちょっと怒り始めているということは伝わったみたいだ。
上品そうなおじいさんが「オーケー」と言うので、私は部屋に戻ったのだが、あっという間にエキストラベッドはやってきた。
なんだ、あったんじゃないの・・・と拍子抜けするくらいの早さだった。(写真 26)
私たちは優雅に買ってきたピザなどの夕食をすませ、お風呂に入って休んだ。(写真 27) 頭の中には今日見たサンフランシスコの風景がグルグル回っていて、なかなか寝付けなかったが、それはどこか心地よい興奮だった。(写真 28)
サンフランシスコのホテルで夜が明けた。
アメリカの国内ツアーで、1泊2日のヨセミテバスツアーに参加する。出発は朝7時半、私たちが泊まったホテルの前が集合場所だ。
やってきたバスには、若い男性の運転手さんしかいない。どうやらワンマンカー。運転手さん一人で運転も案内もするらしい。
短い距離ならいざ知らず、ヨセミテの到着予定時間は午後1時だから、相当の距離だ。しかもツアーガイドも兼ねている訳。これにはビックリだ。
でも私たちのビックリをよそに、運転手さんは軽快な案内を話しながら一気にサンフランシスコの郊外へ飛び出した。
運転手さんは、街の中でもツアーガイドの面目躍如と、道路の両側の建物などを説明してくれるのだが、まだ渋滞もない時間帯だったせいか、朝もやの中を車は順調に走って、私たちが聞き取る余裕もなく街を走り抜けていた。(写真 29)
郊外に出るとバリーと呼ばれる、広い、広い砂漠地帯には見渡す限り風力発電の羽が回っていた。どうしてここがバリー(谷)なのだろうと思うが、確かに大きく窪んでいるような地形だ。道路は大きな、大きな砂山の起伏の中を緩やかなカーブを描いて登って行く。(写真 30)
運転手さんのガイドはもちろん英語だから、実は私にはほとんど聞き取れない。けれど、目に入るものが何もかも面白い。何もかもビックリだ。
到底日本では見られないだろう風景がどこまでも続く。
なんだかもう驚きなんか通り越して、目の前に展開する全てが新鮮で、ぐんぐん自分の内部に入り込んでくる感じだ。
私たち3人は周り中が英語圏の人たちの中で、不思議なことに豊かな開放感に包まれていたのだ。
そんな私たちを乗せてバスはぐんぐん進んだ。そして、途中荒野のど真ん中で休憩をした。いくつかの建物があったから、そこは村落のようなものかもしれないが、バスが停まった周辺には小さな売り場とトイレがあるだけ。もちろん運転手さんも休憩するので、しばらくは私たちも土の上を歩くことができる。
お土産売り場を冷やかしていたら、夫が飛び出して行った。何事かと思ったら、向こうから大きな機関車に引かれた貨物列車が近づいてくる。
さすが鉄ちゃん、夫は大喜びでカメラを構えている。線路の脇はただただ土のひろがり。
大きな赤い機関車はとても頼もしく美しい。私たちが見守る中、ノッシノッシという感じで通過して行く。先頭には機関車だけが4両も、そしてその後ろは貨物だ。ところがこの列車しばらく見ていても終わりがない。ずっと向こうまで貨物が続いている。その長さは1kmもあるそうだ。(写真 31)
私と娘は途中で厭きてしまったが、夫は最後まで見ていたみたいだ。その夫が言うには、たった一人の運転手さんがこれだけの物を運ぶことができるから、鉄道はとても優れた輸送機関なのだとか。ま、これだけの貨物列車を見れば、確かにうなずけるかも・・・ね。
休憩後は、いよいよ山らしい地形になってきた。それまで砂漠のように緑がなかったが、大きな木々の姿も見えてきた。それでも日本の山と比べると、緑が白っぽく見えるのだが・・・。これは植物の種類なのだろうか。
ちなみに私たちのツアーバスは緑色だ。前面に『PARLOR CAR』と書いてあるので、私たちはいつもそれを目印にしていた。(写真 32)
ヨセミテの端っこの方にたどり着き山道をくねくねと走る。何年か前の山火事の後というところも走った。どこまでも続くその後を見ると、山火事の恐ろしさを実感する。
どんどん、あこがれのヨセミテらしい風景の中に入って行く(写真 33)。ヨセミテビレッジに行く前に、とても豪華なホテルの食堂で昼食をとった。重厚な家具が置いてある、美しいロビーを通って入って行くと(写真 34)、食堂にも趣のあるテーブルや椅子が並んでいる。
ただ、とても混んでいた。そして、私たちはずいぶん待たされた。良い匂いが漂う、中世のお城の食堂のような雰囲気の中で、長く待たされれば、誰もが出てくる料理への期待がふくらむ。
私たちももちろん、楽しみにしていた。だんだん周囲のツアー客がイライラし始めた頃になってようやく大きな皿が運ばれてきた。
やっと食事、という気持ちよりどんなお料理?という期待感の方が大きかった私たちは、しかし『あっ』と、叫ぶところだった。
巨大なお皿に優雅に乗っているのはまさしくハンバーグ、そしていく切れかの生野菜、脇にチンとすましているのは、どう見てもバンズだ。
つまりこれは、まさしく『ハンバーガー』なのだ。
周りの人たちは満面の笑顔でパンにハンバーグをはさみ、かぶりついている。
『えっ?これがこの豪華なホテルの食事ですか?』と、驚いたり、がっかりしたり、なんだか笑ったりしているのは私たち3人だけだった。
なんとか食事を終えて、いよいよヨセミテビレッジへ。お土産売り場やレストランもあるロビーに行き、今日泊まるロッジの説明を聞き、鍵を受け取る。
私たちのロッジは『JUNIPER』。道路を挟んだ向かいだ。鍵を受け取り、ロッジの地図をもらって、まずは、明日のグレイシャーポイントへのバスを申し込んだ。午前中のバスツアーだ。チケットを受け取って、私たちはロッジに向かった。
ロッジは森の中に点在する、横長のコテージで、外から見えるベランダも広い。たった一晩だが、私たちの家だ。鍵を開けて中に入ると、広い部屋にベッドが4台もあった。その一つ一つは優にセミダブルの大きさ。娘とふざけて転がったが、二人でも十分に眠れそうな大きさだ。でも、もちろん、一人ずつベッドを選び、まだ1台余っている、なんと優雅な気分!(写真 35)
ウェルカムプレゼントで、ラッピングされたフルーツがテーブルに乗っている。小さなリンゴは皮が厚くて酸っぱいと、早速食べた夫が言う。日本のリンゴはおいしいからね。
荷物を置いて、ベランダの空気を吸って、ひと休みしてから(写真 36)、私たちはヨセミテの散策に出た。 ヨセミテと一口に言っても、私たちのいるところはその広いエリアのほんの一隅。氷河が削った谷をU字谷と言うが、谷と言うにはあまりに広い。広いが、やはり遠くには切り立った崖が見え、あれが氷河が削った痕か・・・と、私たちはその広大さに呆れ、深い息を吐きながら眺めるだけだった。(写真 37)
U字の底にあたるところ、つまり今私たちが立っているところは平に緑が広がり、小さな花々が一面に夏を謳歌している。
とても嬉しいことに、足元にはリスが(写真 38)、木々の枝にはきれいなブルーに光る小鳥(写真 39)が、近づいても逃げもしないで戯れている。小鳥は何種類もいたのだが、ぼんやり眺めているうちに時が過ぎ、写真を撮るのも忘れていた。
のんびり歩くともなく足を運び、肺の奥まで高原の清々しい空気を吸い込んで、私たちはここに来ることができた幸せをかみしめていた。
ロビーのレストランで夕食を食べ、ロッジに戻る頃には辺りは暗くなり、黄色い光が点在する様子は深山の雰囲気を醸し出しているのだった。
目覚めると、今日はいよいよグレイシャーポイントへの登山。登山と言っても、登るのはバス。私たちは最後のわずかな山道を歩くだけ。前日に聞いておいたバス乗り場に行く。チケットを見せて乗り込むと、バスは出発した。すごい山道をぐいぐい登る。バスが登るにつれ、渓谷は遠ざかって行く。あっという間にずいぶん下になった。
もう上には岩も土も見えないくらい空の近くに登って、ようやくバスは停まった。私たちはバスを降りて歩き出す。
今日は快晴。標高が高いけれど、思ったより暖かい。岩の上には20㎝位はあるトカゲが日光浴している。少し歩くと鹿がノソリと現れた。「あ、鹿」などと言っているうちにまたノソリと去って行く。(写真 40)
クマじゃなくて良かったね、などと話しているのは、これだけ人が多ければ、クマも現れないだろうとのんきに構えているから・・・。
でも、ヨセミテはクマでも有名なところ。あちこちにクマ注意のような看板がある。
しばらく歩くといきなり目の前が何もない空間になる。グレイシャーポイントのてっぺん(2199m)だ。(写真 41)
谷をはさんだ向こうにハーフドームが垂直に切り立っている。どこまでも青白い岩の芸術。見おろせば、ヨセミテビレッジの建物が小さな点のように固まっている。パンフレットによれば、真下に1,000メートルを見おろせるという。
明るい緑の谷の向こうには、ロッククライマーの血を湧き立たせるだろう垂直の岸壁が連なり、一気に落ちるヨセミテ滝も見えている(写真 42)。
私たちは声にならない叫びを胸に抱きながら遠く、遠く続く大地の出っ張りと空を眺めていた(写真 43)。
どこまでも続く青白い岩の出っ張りは5億年前には海底にあったという。この層が湾曲運動で隆起するのと同時に、上昇してきたマグマが冷えて、層の下部に花崗岩の層を作ったのだ。
隆起を続けるうちに表面の層が氷河などで浸食され、花崗岩が美しい、現在のヨセミテ峡谷が誕生したというが、その規模の大きさには驚くしかない。
この広いヨセミテ国立公園も、シエラ・ネバダ山脈の一部でしかないのだ。
ヨセミテ国立公園と言えばすぐ思い浮かべるのが、あの巨大なセコイア(レッド・ウッド)、巨木をくりぬいたトンネルを車が通っている写真を何回か見たことがある。
私たちは1泊なので、その巨大セコイアのある地域には行かないのだが、森の木々は堂々とそびえ、様々な太い幹に何度も触ることができた。そしてつい、木と一緒に『ハイチーズ』などと写真を撮ってしまった(写真 44)。
ヨセミテの木にはどこかそんな気分にさせるあっけらかんとした親しみがあるようだ。
グレイシャーポイントからの素晴らしい眺めを堪能し、私たちはバスでヨセミテビレッジに戻った。ロビーの広いレストランで軽く昼食をとったが、サンフランシスコへ帰るツアーバスの出発時間までは、まだ数時間あった。
私と娘はサイクリングロードを走ってみることにした。夫は、のんびりと素晴らしい景観を楽しみながらスケッチをしていると言うので、しばらく別行動。
夫が広々とした景色の中のベンチに座ってスケッチブックを広げると、足元にリスが寄ってくる。人がいることなど、全く意に介さない風のリスたちは、チョコチョコ走っては何かの実を口に持って行き、カリカリと齧っている。(写真 45)
そんな一人と何匹かに手を振って、私と娘は貸し自転車コーナーに行った。手続きをして自転車を借りると、サイクリングロードのマップを見ながら説明してくれた。
どうしても行きたいところがある訳ではないので、のんびり高原の風を感じながら、川上の方へ走り出す。道路は整備されていて、気持ちよい。(写真 46)
しばらく走ると原住民(アメリカインディアンとのこと)の家などが展示してある広場に着いた。もっと南部のワオナと言うところにはアメリカインデァンの歴史資料や幌馬車などが展示されている博物館があるらしいが、ここはもう少し規模は小さいようだ。森の中に小さな三角の建物が点在している。『SWEAT HOUSE』と、看板が立っていた。小さな資料館もある。私と娘は三角の建物に入ってみたり、民族衣装をつけた『酋長さん』のような人形に挨拶したりして楽しんだ。(写真 47)
さらに緩やかに登って行くと、川は次第に細くなる。いくつかの橋を渡って、渓谷の森の中の道を楽しむうち、川幅が広くなり流れも緩やかになる場所が何カ所かあった。そこでは家族連れが楽しそうに水遊びをしている。(写真 48)
最も広い水辺に看板が立っていた。そこには『Natural Dam』と書いてある。自然の働きでダムのような地形ができて、水がせき止められるということだろうか。
水は透き通って美しい。所々で自転車を降り、川原を歩いて、きれいな水の流れに手をひたして暑さをしのいだ。森の中には白や黄色の小さな花が群落を作り、夏の高原を謳歌しているようだ。(写真 49)
標高が高いので涼しいのだが、今日のように快晴の直射日光を浴びていると結構暑い。水着姿の子どもたちは大はしゃぎだ。
時計を見ながらさらに道を登って渓谷の森がせまる川辺を楽しみ、私たちは引き返すことにした。
風を切るように草原を走り、夫と合流した。淡い色の小さな花がどこまでも咲いている。
「まだ帰りたくないねぇ」と呟きながら、バスの発車時刻まで、私たちは草原の中を歩いていた。(写真 50、51)
馬に乗ったレンジャーが、かっこ良く通り過ぎて行くのをポカンと見送り、しばらく後ろ姿を見送ってから、「あ、写真撮れば良かった」と叫んで笑われたり・・・。
当時はデジカメなどという物を持たなかったので、フィルムを沢山持って行った。とは言っても1日1本ほどがやっとだった。風景などはプロが写した素晴らしい物を見ることが出来ると思ったので、どうしてもその場にその時いたね・・・と、自分たちを撮った物が多くなった。
今なら、小さなメモリーカード1枚に何倍もの写真を記録できるから、食べ物や動く動物なども失敗をおそれず、何回でもシャッターを押すのだが・・・。
さて、余談はこのくらいにして。
ついにヨセミテとお別れする時間が来てしまった。私たちは素晴らしい景色をしっかり目の中に焼き付けて(写真 52)、夕方4時前、ツアーのバスに乗った。
ヨセミテからサンフランシスコへのツアーの帰りは、違う道を走ってヨセミテを出るようだ。山の上、峠の道をしばらく走った。山火事の痕が遠くまで広がっている。来たときより高いところから広く見ているようだ。(写真 53)
山火事は恐ろしいが、セコイアの樹皮や木質は燃えにくく、火災に対して自己防衛力を持っているのだそうだ。それにセコイアの種子の発芽にも火事が不可欠な要素となるらしい。
雷によって山火事が発生し、林床の密生した植物や地上に堆積した枯れ枝を焼くことで、セコイアの稚樹に太陽の光を浴びせることができた。その自然の営みがヨセミテの森を育ててきたのだろう。
ところが人間が山火事を消す努力を重ねた結果、日陰でも育つ樹木が大きく生育し、セコイアの稚樹が成長しにくい環境となったのだそうだ。
山火事は怖いし、ちっぽけな人間には予測不可能な惨事になることも多い。しかし、大きな自然の営みには、想像もできない大きなエネルギーの変化が必ずある。
そこで、出来ることを模索しながら、自然に働きかけて行くことになる。今では、国立公園局のプログラムで、人為的に森林火災を起こし、セコイアの稚樹が成長しやすい環境を作るのだそうだ。その結果、セコイアの若木が生長できるようになり、自然の中で長い時間をかけてできてきたセコイアの森がよみがえってきたそうだ。
山火事を全てコントロールするのは不可能だと思うのだが・・・、人間の挑戦はすごいなぁと思う。
来たときと同じ砂漠のような大地をひたすら走り(写真 54)、夜の9時前にサンフランシスコのホテルの前に到着したときは、もうすっかり暗くなっていた。
私たちはまずホテルにチェックインをする。サンフランシスコ1日目と同じホテルだから、気分が楽だ。
私がフロントに近づいて行くと、あの上品なおじいさんが立っていた。そして彼は私の顔を見たとたん、
「オー、ユー カムバァーック」と、情けない口調で呟いた。
『なんだ、また来ちゃったんだ〜』という感じかな。日本のホテルのフロントマンは絶対あんな口調では言わないだろうと思う。たとえ心の中では思っていても。
でも、こちらも「ええ、来ましたよ。今度はすぐベッドを持ってきてね」と、言えるくらいオープンな感じでもあった。
英語力がないので、言えなかったのが残念だが。
ただ、彼は窓口のコンピューターを操作して部屋を探してくれたのだが、隣の女性がそこは特別だから・・・と言うような抗議をするのを押さえて、私たちに鍵をくれた。
部屋はフロントから近かったので、階段を上がってみた。厚い絨毯が敷かれた階段は、小説に出てくる中世のお城のような空気が満ちていた。狭いのだけれど、優雅な空気に満ちている。
部屋に入ると、そこは一段と豪華な部屋で、大きなツヤのある木製のクロゼットや、4人くらい並んで眠れそうなベッド、そして布貼りのフカフカソファは、大人が十分眠れる大きさだった。
「今回は、エキストラベッドの代わりにこのソファを使えと言うことかしら・・・」と、話しているうちに、早々とエキストラベッドもやってきた(写真 55)。
フロントのおじいさん、また言われるのがイヤだったのかしら・・・と、私たちは笑いながら部屋の中を探検した。
しかしもう暗いので、街に繰り出し、その日の夕食を買うことにした。小さな、コンビニのようなお店があったのでのぞいてみると、なんと日本のカップヌードルが並んでいた。いくつかの食品と、そのカップヌードルを話の種に買うことにした。
ホテルからは近かったので、あまり時間もかからず、私たちはホテルのマークをバックに記念撮影をして、サンフランシスコの夜を楽しんだ。(写真 56)
部屋に帰って、さっそく湯を注ぐ。なんとも奇妙な香りが漂う。
確かに日本のメーカーの商品で、同じ容器に入っているカップヌードルなのだが、なんだか複雑な味付けに変えてある。これがアメリカ人好みなのだろうか。
夫と娘は一口でアウト。私は海鮮味にしたせいか、半分くらいは食べることができた。
私たちのミニトリップは今日で終わりだ。今日は、サンフランシスコ空港からミッキーの待つロサンゼルスまで飛ぶ。
空港までは22㎞、車で30分ほどの距離だ。来たときはタクシーに乗ったが、鉄ちゃんの夫は鉄道を利用することも考えているようだ。彼が調べたところによると、 BART が空港近くまで走っているようだ。計画では空港まで伸びる予定なのだが、まだ途中までしか行っていないとのこと。
終点で降りた後の交通手段が心配だったが、さすがに空港まで伸びることをうたい文句にしているのだから、分かりやすくなっているだろうと、BARTに乗ってみることにした。
私たちが泊まったホテル《THE HANDLERY UNION SQUARE HOTEL》は、名前の通り、通りを出るとすぐユニオンスクエアで、ケーブルの通るパウエルストリートを少し下ると、ケーブルカーの終点に着く。いわゆるサンフランシスコの中心地、ダウンタウンと呼ばれる辺り。
ケーブルカー乗り場の向かいにある、9階建ての大きなショッピングセンターには、ノードストロームデパートも入っている。その他にも沢山の商店が入っていて、もらってきたパンフレットを見ると60店を越す店舗が入っているのだそうだ。私たちは、少し買物をしたあとはウィンドウショッピングしながら歩いた。(写真 57)
街歩きを楽しんだ後、時間を見計らってBARTの駅に行く。《Powell St.》駅は、ショッピングセンターの地下にある。私たちはチケットを買ってホームへ下りた。少しドキドキしている。
ホームで電車を待っていたら、アジア系のおじさんが「中国人ですか?」と話しかけてきた。
私たちが日本人だと応えると、彼は「自分は中国から来て、ここで暮らしているのだ」と、楽しそうに話し出す。知らない人に話しかけるのは苦手な私たちだが、ここアメリカでは色々な人が明るい声で「やぁ!」と話しかけてくるのに驚いた。
BARTは空いていた。のんびり窓外を眺めて揺れに身をまかす。海辺の街サンフランシスコの郊外は、丘の上に続く明るい住宅地が霧にけぶっていた。(写真 58)
ベイエリアをいくつもの路線が走っているBARTだが、空港まではまだ開通していなかった。終点《Daly City》駅の前は閑散として人がいない。乗り換えルートが分かりやすくできているかという期待は、みごとに外れた。空港までのバスはあるらしいが、案内が簡単過ぎてよく分からない。
タクシーが数台停まっていたので、私たちはタクシーに乗ることにした。
タクシーの運転手さんは、恐そうな、ごっつい顔をしたおじさんだったが、見かけに寄らず親切で、もうじき空港まで開通するのだけどねぇと話していた。
(私たちの旅行の翌年、空港まで開通したとのニュースを見た)
空港からはユナイテッド航空の小型機、乗ってしまえばあっという間、1時間20分ほどで、私たちはロサンゼルスの空港に着いた。(写真 59)
夕方5時過ぎ空港を出た私たちは、迎えに来てくれたミッキーの車に乗って、再びミッキーのアパートに着いた。
一夜明けて、いよいよ今回のメインイベントの日だ。
今回の旅行を実現するにあたっては、アメリカの養護学校を見学させてもらうことを、ミッキーにお願いしていた。ミッキーはロサンゼルスのUCLAのチームとして3校の養護学校を周り、S.T.(言語聴覚士)としての仕事をしていたから、私の願いをむしろ自分から誘うような形で引き受けてくれたのだ。
仕事上の研修などでは、外国の学校や施設の写真、ビデオを見る機会もあったが、やはり自分がそこに行ってみるのは全く違う。
その日、朝起きると、娘はどこか億劫そうな赤っぽい顔をしていた。本人いわく「そんなに体調が悪い感じじゃないけれど・・・」。それで、娘は学校見学には行かず、アパートで留守番をしていることにした。
食べ物は適当にパンや冷蔵庫の物をつまんでいいからと、ミッキーに言われ、キッチンをのぞくとシリアルの箱がいくつもあった。
娘は一人でものんびり本を読んでいれば満足という性格で、そんなところだけは私に似ているようだ。ベッドにゴロゴロして1日中のんびり過ごすのもいいなぁと思っている様子。
「1日ゆっくり寝ていていいからねぇ」と言いおいて、私たちは海岸の方へ向かった。これから行く養護学校はサンタモニカビーチの近くらしい。
ミッキーが言うには、アメリカの学校はパブリックの養護学校じゃないのだそうだ。日本で言う、国立、県立、市立という学校ではなく、私立の学校ということだ。私たちが訪ねた学校も、校長だか、創立者だかの名前がついていた。
玄関脇の壁には大きく学校名が書いてあった。そしてカラフルなウェルカムボードもある。(写真 60)
まず、学校の代表の女性と挨拶した。ミッキーが私たちを紹介したので、校内を案内してくれると言う。
夏休み期間だったので、校内にはあまり生徒はいない。残念ながら、日常の授業の様子は見られない。それでも特別プログラムも進行中とのことで、いくつかの部屋では授業らしきことが行われていた。
夏休み、日本では1ヶ月あまりの期間学校はお休み、子どもたちは学校には行かず、沢山の宿題をこなしたり、家族と過ごしたりする。
アメリカでは6月〜8月の3ヶ月間夏休みが続く。いわゆる年度末、9月からは新学期になるから、夏休み中の宿題は無い。ヨーロッパなどでも3ヶ月ほどになる休みだけでなく、休日に宿題を出すことは禁じられているところも多いと聞いた。
夏休み3ヶ月をどう過ごすかは自由だ。生徒も教員も。フリーとなる教員は、様々なプログラムの企画に加わることも多いという。もちろんバカンスを楽しむ人も多いようだが。
夏休みの企画の中には海辺や高原へキャンプに行くツアーもあるようだ。キャンプと言っても、日本で考える林間学校や臨海学校のような短期間のものではなく、1ヶ月もそこで暮らすような企画だ。参加は自由。
その他に、校内の教室を使って、日常では取り組みにくいプログラムも企画されるようだ。
私たちがいくつかのぞいた教室では、《低学年の子どもたち(健常児と障害児)合同学習》や、《動くのが苦手な子どもたちの少人数学習》《入学前の子どもたちとの合同学習》・・・などなど、それぞれのプログラムで授業が行われていた。(写真 61)
どのプログラムも、参加したい人は申し込んで、各自の思う夏休みを過ごすらしい。
ただ、もちろん費用がかかるので、その辺りは開けっぴろげの自由という訳でもないようだが。
歩いて行くと、大きな話し声がするのでのぞくと、廊下の角の少し広い部屋では教員のミーティングが行われていた。窓も、ドアも開け放しているので、オープンだけれど、聞いていても残念ながらほとんど理解できないので、挨拶だけして通り過ぎた。
10人ほどの教員がそれぞれ椅子を持ち寄って円形に向かい合うような形で座っていた。くつろいでいるように寄りかかったり、足を組んだりしながら、互いに意見交換している。長い廊下を遠ざかる間、ずっと話し声は賑やかに聞こえてきていた。
私はつい自分の職場での会議を思い浮かべた。整然と並んだ机に向かって座っているけれど・・・。こんな風に賑やかに意見交換されることがどのくらいあっただろうか。
広い校内を歩き、そこに置いてある、日本ではあまり見たことが無い補装具の写真を撮ったり(写真 62)、使い方を尋ねたりしていると、廊下の向こうから少年が歩いてきた。ダウン症候群らしい、その少年はニコニコと挨拶する。
「何でも自分に聞いて」というようなことを言っている。
日本でも、初めての学校や施設を訪ねると、まず挨拶してくれることが多い。ミッキーは「彼らは素晴らしい親善大使」だと言う。
さらに奥の方に行くと、背の高いワゴンのような物を押してやってくる人に会った。ワゴンにはギターもぶら下げてある。彼は音楽の教員で、そのワゴンは自分が作った物だと言う。様々な教材を全て乗せて運べるのだと自慢そうだ。
その男性は「日本で音楽の先生をしたいのだが、どうすればいいか」と聞いてきた。日本で教員になるためには、教員の資格が必要なことと、採用試験を受けなければならないことを話した。外国人のための方法があるかどうか私たちは知らないので、そのことも話すと、彼は明るく「オーケー」とうなずいていた。
校舎を通り抜けると広い校庭があり、隣の学校と繋がっている。校庭でお弁当を食べる子どもたちもいるそうだ。(写真 63)
お弁当と言っても、日本のお弁当とは全く違う。パン一切れと丸のままのリンゴというようなことは普通だと言う。
籠にサンドイッチやハムなどを入れて持って来ることができるのは、裕福な家の子どもらしい。
私たちが校庭のベンチで休んでいると、隣の職員室の男性が自分たちの職場を案内してくれた。そして歓迎の印にと、私と夫に小型の計算機をくれた。ソーラー電池で、厚さ7〜8ミリほどしかなく、6×8センチほどの玩具のような計算機だったが、ちゃんと使えた。
いくつもの教室を見て回り、そこに置かれている教材を見たり、展示の工夫を見たりしながら、後半はミッキーと私たちだけで校内をめぐった。(写真 64)
いくつかの教室で大型絵本を見つけた。日本でも何冊かはあるが、高価なので学校の予算で毎年1冊くらいずつ購入している。人気の絵本を4、5倍に拡大したものだが、表紙が固紙で、なかなか重い。
ところが、ここアメリカの養護学校においてあるのは表紙も薄い紙で持ちやすい。全てのページが薄くコーティングされているので簡単には破れないのも、教材にするのに適している。
校内をひととおり見て回ったので、私たちはおいとますることにした。校舎を出ると、スクールバスが沢山停まっていた。すぐ近くの1台はちょうど運転手さんが降りてきて、リフト(車椅子などを乗せたまま昇降する装置)を片付けようとしていたので、お願いして写真を撮らせてもらった(写真 65)。リフトのすぐ脇に階段があるので、係の人が上がったり、降りたりするのに便利かもしれない。
黄色のスクールバスは大小様々な形で道の向こうまでずらりと並んでいた。私たちがミッキーの車で学校の角を曲がると、そこにも何台も停まっていた。必要な方向に必要なタイプの車が走っているらしい。
私が勤務する肢体不自由校の大型スクールバスは、校区の道をグルッと回ってくるので、一番早く乗った子どもは1時間以上もバスに乗っていることになる。子どもたちへの負担が大きいことは、悩みの種なのだが・・・。
様々な思いを胸に、ミッキーの車に乗って、私たちはサンタモニカの道を海沿いに走った。ミッキーの友人たちと昼食をすることになっていた。
合流した二人の女性は、養護学校に勤務しているとのことで、私たちとの食事を楽しみにしてくれた。一人はミッキーが来日している時に、日本に訪れたことがある。私も誘われて、めったに行ったことが無いカラオケを一緒にしたことがあった。
彼女はアメリカ式のハグで私を歓迎してくれた。
お互いに関心のあるところが同じだからか、単語レベルの会話でも話が弾んだ。ミッキーが、日本の養護学校で私の授業に顔を出してくれているので、彼女の説明が会話の助けになっている。ミッキーの通訳では心もとないのだが、私たちのブロークン英語も合わせてなんとか楽しく食事時間は過ぎていった。
眩しい太陽に照らされたテラスには、何度も笑い声がわき起こった。(写真 66)
楽しく食事をしたあと、同じエリアにある教材などのお店に案内してくれた。おしゃれな店には、木製の教材などの他にカラフルな文房具なども沢山並んでいて、私たちは目の保養をした。
せっかく来たのだからと、サンタモニカのビーチを歩くことにした。
8月の前半、日本の海岸はどこも海水浴客でいっぱいだろう。砂浜には海の家が並び、色とりどりの水着を着た海水浴客、そして小振りなパラソル・・・狭い弓形の砂浜の両端には黒い岩場が張り出していて、関東近隣の海水浴場の風景はどこも似たような感じだ。
ところが、サンタモニカのビーチには泳いでいる人がいない。球技を楽しんでいる人たちはいたが、どこまでも広い砂浜にはカモメが遊んでいるだけだった。私たちは靴を脱いで水辺に行ってみたが、8月の前半とは思えないくらい、水は冷たかった。(写真 67)
一度アパートに戻り、娘の様子を見ることにした。夜はミッキーの親友と食事をする予定だったから、娘の体調によっては変更しなくてはならない。
アパートに戻ってみると、娘はとても元気そうだった。ゆっくり眠っていたようで、さっぱりした顔をしている。
ヨセミテへの旅の疲れが出たのかもしれない。娘はロサンゼルスに来る前にも慣れないカナダで1週間過ごしているのだから、その疲れもたまっていたのかもしれない。
しかしさすがに若さか、半日しっかり休んだおかげで元気になったようだ。
ミッキーが「元気になったのなら、夕食前にスーパーへ行ってみる?」と言うと、「行こう」との答え。
早速支度をして出かけることにした。着いたところは、あまりに広い駐車場の真ん中に四角いビル、それはただの倉庫に見える。そして、倉庫の中に入って、さらにビックリ。どこまでも続く通路の脇にはびっしりと商品が詰んである。ペットボトルなどもダースで箱入りが重なっている。
ミッキーはここでいつもお水を買うのよと言って、持つのもやっとなケース入りのペットボトルを買っていた。
娘も元気が出てきて、ミッキーとあれこれ言いながら店内を回っている。ぬいぐるみコーナーでは二人とも子どもになって大騒ぎ。原色に近い色の巨大なぬいぐるみがゴロゴロしている。おまけにワニだのカエルだの・・・あまりかわいいとは言えないタイプの物も多い。
私はここでいいものを見つけた。午前中訪ねた養護学校に置いてあった大型絵本だ。何冊かあったけれど、日本に持って帰ることを思うとつい気後れがして1冊しか買わなかったことを、後で後悔することになってしまったが、その時は気に入った物が買えて大喜びだった。
この絵本はもちろん英語なのだが、軽いことや色がきれいなことなどで重宝し、その後長い間仕事先で使うことができた。(写真 68)
この大きなスーパーは《COSTCO》というスーパー、当時は日本では見ることができない、大型店舗だった。みんな巨大なカートに山盛りに商品を積み上げてレジを通って行く。会員カードのようなものを提示して、支払いをし、さらに出口でレシートにチェックを入れていた。(写真 69)
(あれから17年、《COSTCO》スーパーは日本にも進出している)
物を済ませて私たちはミッキーの親友と待ち合わせをしているレストランに向かった。レストラン『トニーローマ』は江ノ島や横浜にも支店があるレストラン。私も江ノ島のレストランに行ったことがあった。ただ、お肉が専門のお店だったような・・・。
テーブルに着くと金髪の美女が立って挨拶する。ミッキーの親友バーバラさん、私は初めて会う。娘は前の年の短期留学の時会っているらしく、懐かしそうに挨拶をしている。
ミッキーがメニューを見ながら、元気に注文をしてくれる。楽しそうに友人と相談している。
話しているうちにオーダーの料理が運ばれてきた。やはり・・・巨大なお肉のかたまり。夫と娘にはポーク。そして私の前には・・・。
「あなたは、ミートはダメでしょう。だからチキンにしたわ」得意そうに言うミッキー。
大きな白い皿にどっかりと乗っているローストチキンを見て、そうか日本では「肉」と言えば鶏肉も含まれるけれど、ここでは「ミート」と「チキン」は、はっきり区別されているんだ。
レストランは子ども連れも多く、とても賑やかだった。私はミートもチキンもあまり食べられないのだけれど・・・、それでもタマネギのフライタワーは美味しかったし、香ばしいチキンの端っこをつまみながら、周囲の喧噪に負けじと、おしゃべりを楽しんでいた。
だがやはり、お料理は沢山残ってしまった。お土産にしてもらった大きな紙袋を持って、私たちはアパートに帰った。(写真 70)
ディナー用にスカートをはいている私が珍しいからと、アパートのロビーでミッキーが写真を撮ってくれた。(写真 71)
確かに私はもう何年もの間、ほとんどスカートをはいていない。生徒の成人式のお祝いパーティの時くらいだろう。冠婚葬祭もパンツスーツが多い。
おしゃれなミッキーはよく見ている。
ミッキーは親友を明日の晩餐に招待した。翌日は私たちのロサンゼルス最後の夕食なので、ミッキーがアパートで手料理をごちそうしてくれることになっていた。
ロサンゼルス最後の一日は、特に予定を決めていなかった。いくつかのお薦めコースから、娘も楽しめそうなところをと、『ユニバーサルスタジオハリウッド』に連れて行ってもらうことにした。
娘はディズニーランド・リゾートに行ってみたかったようだが、そこは遠くて日帰りでは楽しめないだろうと、ミッキーが提案したのだ。
『少しはお楽しみも』との、ユニバーサルスタジオ行きだったが、私はそこがどんなところか知らなかった。
大阪に『ユニバーサルスタジオジャパン』が開園したのは2001年春だというから、私たちのアメリカ旅行の直前らしいが、私は全くその存在を知らず、ハリウッドの園内に入って初めてそこが映画をテーマにした巨大なテーマパークだと知った。
正式には 《UNIVERSAL STUDIOS HOLLYWOOD ユニバーサルスタジオハリウッド》というそこは映画製作スタジオでもあり、沢山のアトラクションショーもあるテーマパークとなっている。(写真 72)
ミッキーは私たちをゲート近くに降ろすと、戻って行った。入り口は広々としていて、様々な人種の人たちが歩いている。
チケットを買って、歩いて行くと巨大なギターのモニュメントが立っている。ハードロックカフェの看板みたいだ。日本でもハードロックカフェのTシャツを着ている人がいて、世界各国の支店を訪ねるのがどうやら旅人のステータスになっているらしいことは知っていた。しかし・・・巨大な看板、私と娘はその下に立ってみたが、見上げると首が痛くなってしまう。(写真 73)
何はともあれ、ここに来ればまず《スタジオツアー》でしょうと、ツアーバスに乗ることにした。バスなのかトレインなのかよく分からない不思議な乗り物に乗って出発する。窓外はめまぐるしく変わり、色々な映画の舞台の中に飛び込んで行くようだ。ロケットがあったり、洞窟に入ったり、大洪水のさなかに飛び込んだり・・・。なかなかドキドキさせてもらった。(写真 74)
ツアーの後は広い園内を自分の足で歩いてみることにした。園内は起伏があって、宇宙ステーションのようなカプセル状のエスカレーターに乗って移動できる。
喉が渇いたので、ここはやはりアイスと、娘と私はニコニコ、アイスタイムとした。夫はこんなところでも周りを見回し、なにやら《学ぶ人》になっている。(写真 75)
アイスを食べながら歩くが、とにかく広い。とてもじゃないが、看板も読めない私たちが見て回れる規模を越えている。それでもこれは外せないでしょう・・・と、ジョーズの口の中に潜り込んで記念撮影。(写真 76)
歩いたり、お土産売り場を冷やかしたり、周り中色の氾濫の中で少し疲れたかなという頃に、ミッキーとの約束の時間が来た。
とにかくどこもかしこも原色やら明るい色に満ちていて、映画を知っていれば楽しめるグッズも沢山散りばめられているようで、ここはもう少し下調べをしていれば、もっともっと楽しめたのかもしれないと思わせられたのだった。(写真 77)
ユニバーサルスタジオの出口のところでミッキーと合流し、私たちはミッキーのアパートに送ってもらった。たった1日だけれど、疲れたような興奮しているような、ふわふわした気分だった。
アパートで、私たちがくつろいでいる間にミッキーは夕食の準備を始めた。明日は日本へ帰るので、今日はロサンゼルス最後のディナーだ。昨日レストランで会ったミッキーの親友を招いての夕食。ミッキーが料理をすると言う。
冷蔵庫から大きなお肉を出して見せてくれる。やはりアメリカ文化では歓迎はお肉なんだなぁと、なんだか感心する。
キッチンに立つと、調理台が高い。平均身長が高いからなのだろう。立ってみると、腰を曲げなくてすむから、とても作業がしやすいと思う。
そう言えば、ミッキーのアパートで過ごす間に日本とは違うことをいくつか発見した。広いバスルームには湯船もあったけれど、その中は物置状態。半畳ほどのシャワールームを使っているのみだった。大きな体重計も無造作に置いてある。(写真 78)
居間の壁には一面に絵が掛けられていて、まるで美術館のようだったし、別の壁一面を隠すほどの本棚には天井までびっしり本が詰まっていた。(写真 79)
本棚に関して言えば、我が家と同じかもしれないが・・・。
私は肉の大きさにビックリしただけで、あまりお手伝いもしないうちに夕食の準備ができた。ミッキーの親友バーバラもやってきて、おしゃべりしながらテーブルセッティングをする。
ワインを飲みながら様々な話をする、快いひととき。
けれど、ヨセミテの話をしていて「rock ロック」という私の単語が全く通じないことに驚く。何度も言い直して、身振りで大きい様子を示して、ようやく通じた時にはみんなで大笑い。
それからいつも思うのだが、「flower フラワー」も、なかなか通じない。「travel トラベル」は「trouble トラブル」に間違えられる。
とにかく英語の発音は難しい。L・R・F・Vなどの音は、自分ではちゃんと発音しているつもりでも、実は全然違うようだ。
そう言えば、ミッキーに何度も教えてもらった。唇を閉じて勢いよく息を吹き出しながら声を出すとか、下唇をかむようにとか、舌を上唇につけてから音をだすとか・・・。日本にいる時、ミッキーは良い英語の先生だったが、この生徒は覚えが悪くて、ちっとも身に付いていなかったようだ。
なんだか色々勘違いをしたり、それをまた直したり、大笑いをしたり・・・と、普通に通じ合える会話では絶対に起こらないような、トンチンカンなやりとりを楽しんでいるうちに時間は過ぎて行った。(写真 80)
食事の後、ミッキーは親友に私たちが日本から運んだお土産を見せてあげた。日本のことを学んでいるミッキーは、得意そうにおひな様の説明をしている。(写真 81)
そんな姿を見て、私は大きなおひな様を運んできて良かったと思っていた。
いよいよ日本に帰る。
娘はミッキーの部屋で一緒に過ごした大きなぬいぐるみさんたちにお別れを言っていた。いくつになっても、ぬいぐるみが好きな娘らしい。でもこのアパートに住むのはもっと大人だけだけれど、ぬいぐるみがあるのだから・・・、まぁいいか。
私たちは、アパートの前でミッキーと記念撮影をした。(写真 82)
今日は空港まで shuttle シャトルが送ってくれることになっている。予約するとアパートの前まで迎えにきてくれるという、タクシーのような物。
待っていると、シャトルがやってきた。私たちはお別れを言い、運転手さんはスーツケースを車に乗せる。
「バイバイ」と手を振るとミッキーとパートナーはアパートに入って行った。日本では車が見えなくなるまで、そこに立って手を振ることが多いが、なんとも簡潔スッキリなお別れだ。
その後ヨーロッパのテレビ番組などでも《別れのスッキリ》を何度も見る機会があり、これは文化の違いなんだろうかと思うようになった。その時はあっさりしているなぁと思ったのだけれど。
空港までの高速道路は片道6車線ほどもある広い道路。渋滞まではいかないけれど、車はいっぱいだ。その車の海を我が運転手はスイスイと泳いで行く。
でも彼は、空港に着くまでのほぼ全行程を、携帯電話でおしゃべりしながら運転していた。色の黒い運転手の話す言葉は英語ではなかった。
空港について手続きをして、私たちは機内に落ちついた。窓側の3人席。自分たちだけだから、長い道中も気兼ねなく過ごせるので安心だ。(写真 83)
娘は早速カナダで買ってきた小さな熊さんぬいぐるみを自分の隣に座らせている。
午後2時半、飛行機は日本に向かって離陸した。10時間も飛んで行くのに、日本に到着するのは同じ日の夕方だ。魔法にかかったような時差のマジック。
もう17年も時が経っている。色々なことが記憶の彼方に霞んでしまっていた。もともと記憶力が良い方ではないうえに、今のようにデジタルカメラであれもこれもと撮影できた訳でもないから、写真を見ながら記憶が薄れないように補強することもできない。
それでも鮮明に覚えていることはあった。ロサンゼルスの空港で Welcome 風船が揺れている光景、サンフランシスコのケーブルカーで「アイアムアブレークマン」と言う自慢そうな声、ヨセミテの広大な岩山、「オーユーカムバァ〜ック」というホテルマンの情けない声、びっくり箱のようなユニバーサルスタジオ・・・。そして何よりも養護学校の中で見せてもらったあれこれ。
そんな鮮明な記憶を、何度も、何度も呼び起こしているうちに、次第にその周囲の出来事がじわりじわりと浮かび上がってくることに驚いた。
すっかり忘れていたかと思ったあの時の言葉、あの人の表情、そして自分の感覚まで、最初はぼんやりと、そのうちに豊かに色づいてさえ来るのだった。
なんだか2回旅をしたような得な気分を味わっていた。
ただ、私たちがアメリカを訪ねた1ヶ月後、あの恐ろしい同時多発テロが起こったのだった。
その日私が家に帰り、一息入れている時に隣の部屋でテレビを見ていた息子が大声で私を呼んだ。何が起こったのかと慌てて行くと、彼はテレビ画面を指差して「見ろよ」と叫ぶ。
画面には高層ビルが煙と炎を吐きながら崩れて行く様子が写されている。「何の映画?」と聞く私に「映画じゃないよ。本当のことだよ。ニューヨークだよ」息子も興奮しているので支離滅裂に叫ぶ。
私は体がガタガタ震えるのを必死で押さえながら画面から目が放せない。画面は繰り返し、恐ろしい光景を写していた。
そのときふと、旅行の最後の日にミッキーが話していたことを思い出した私は青くなった。
「今日は何日?」
それは2001年9月11日。
ミッキーは私たちを見送りながら、明るくこう言っていた。
「9月になったら、ニューヨークの家族のところへ行ってくるわね。10日頃に行こうかと思っているの」
目の前の画面で貿易センタービルに飛び込んで行った飛行機にミッキーが乗っていたのではないかと思うといたたまれない。
私はすぐ、ロサンゼルスのアパートに電話したが、通じない。その頃アメリカでは色々なところがパニック状態になっていて、電話もなかなか通じなかったようだ。
それでも私は繰り返し電話をし続けた。
どのくらい経ってからだったろう。1週間は経っていたと思うが、ようやくアパートにいたルースに繋がった。挨拶もそこそこに「ミッキーは?」と聞く私に、ルースはミッキーが事件の前日にニューヨークに行っていたこと、今は事件で不安定になった沢山の子どもたちの精神的なケアをする係わりに参加していることを教えてくれた。
この未曾有の大事件は、その後世界の政治に影響を与え続けているが、私にとっても人事とは思えない一大事として、記憶に綴られたのだった。
ミッキーはその後しばらく、ロサンゼルスと鎌倉を行ったり来たりしていた。日本にいる間は私の勤務先に手伝いにきてくれた。
ロサンゼルスではルースのアパートを出て、自分の家を借りたそうだ。
夏の終わりにニューヨークの家族を訪ねるのも、毎年の恒例になっているそうだ。
7〜8年前に、日本で暮らすために買い集めた家財の多くを我が家にプレゼントして、彼女はアメリカに戻った。
桜が好きなミッキーは、毎年のように「桜を見に行くわ」と言ってくるが、なかなか実現しない。
アメリカからの手紙の束が増えて行くだけ・・・。
アメリカ西海岸10日間 (娘:カナダ 7月25日〜) 2001年(平成13年)8月3日〜8月12日・2019年記 |