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夫が長年努めた仕事を、3月に定年退職。再任用勤務で1年働いた私も、ほんとに退職。
休日に縛られず、今度こそ行きたいところに行ける。だが、ツアー旅行なので、商品がなければ行けない。色々な会社のパンフレットを見ながらドイツのツアーをさがす。
4月1日発という、ライプツィヒに1泊するツアーがあって、ぜひ参加をと希望したが、この日の企画は集客できず、ツアーは実現しなかった。う〜ん、エイプリルフールでしたか…。
退職前に、好きな芸術鑑賞の予定をいくつか入れていたので、その予定も考慮しながらの検討。色々なパンフレットをもらってきては、楽しみながらああでもない、こうでもないとおしゃべりに花が咲く。いくつかのツアーを検討した結果、6月のドイツ13日間に申し込んだ。これは、無事催行することになって、私たちはツアーの客になった(地図)。
ところがしばらくして、ニュースを聞いていると、中欧辺りに集中豪雨という。昨年行ったチェコのブルタヴァ川も氾濫している。下流にその被害が及んでいるらしく、ドレスデンなども影響がありそうだ。
ライン川も百年に一回の大洪水という。ツアーの行程に入っているラインクルーズはもちろん、沿岸の町をのんびり観光旅行などできるのだろうか。不安はあるが、旅行会社からは特に通知はなく、ツアーは実施できるらしい。
退職と同時に、山の近い長野県に引越をした私たちにとって、成田は遠かった。以前住んでいた神奈川県からでも、かなり時間がかかったことを思い出す。
当日長野からではやはり不安だ。そこで、前日泊をすることに決めた。実は昨年、中欧旅行に神奈川から出発するときも、前日泊にしたのだが、そのときは成田エクスプレスの始発駅に近いホテルに泊まった。
今思えば、どうせ前日泊なら一気に成田に行ってしまえば良かったのに、なぜか朝ちょっとだけ楽な方法にしてしまった。
しかし、今回はもちろん長野から新幹線で東京へ行くので、そのまま成田へと行ってしまう方が楽。ホテルを予約して、前日のうちに成田に行くことにした。
旅行に出かけるときは、どうしても天候が気になるものだが、成田は少し雨模様。窓ガラスには雨粒が筋を引いている。6月というのに台風が近づいていて、私たちが出発する翌日あたりに、関東に接近するという。明日は大丈夫だろうか。
ホテルの窓から、空港エリアを望むと、到着する飛行機が次々雲の中から現れる。飛行機は雲の中から現れて、整然と空港の建物の陰におりて行く。飛行機が現れてくる、厚い雲を見上げながら、どことなく明るい空に望みをつなぐ。
出発当日、ホテルで朝食を食べながら、天候の大きな崩れがないことに感謝。周囲は旅行者らしい人たちが、慌ただしく食事をしたり、早朝便らしく大きなトランクを転がしてエントランスを出て行ったり、観光地のホテルとは一風変わった空気に包まれている。
気分は既に海外へ飛んでいる。
前日、ホテルに入る前に空港を歩いてみた。下見はばっちり、という訳。いずれにしても私たちは添乗員同行のツアーなので、気分は楽。旅行社の窓口で添乗員さんと初対面、私たち客はもちろんだが、ツアーガイドさんにとっても緊張の瞬間なのだろうと思う。
13日間と言えば結構長い、この期間共に過ごすのだから、面倒な客がいたらいやだろうなぁと、自分たちのことは棚に上げて、そっと周囲を見てみる。
驚いたことに、このツアー、私たち夫婦が最年少だそう。
でも、確かに。6月の半ば過ぎに、13日間も仕事を休んで観光旅行に行くなんて、昨年までの私たちには絶対無理だった。
そう言えば、周りに集まった人たちは、どことなくゆったりしていて、旅慣れている感じ。
今回はルフトハンザ航空、ジャンボ機だ(写真2)。1日に6便も出ている路線だとは知らなかった。フランクフルトは国際空港で、ここからさらにヨーロッパ各地に乗り継いで行くからなのだろう。
出発前のアナウンスで、フランクフルト空港は税関のチェックがとても厳しいと、添乗員さんが心配してみんなに注意を促す。貴重品を身につけていると没収されるかもしれないとか…。一点物のような仕立ての服を、さらりと着こなしている女性がふと手を出して、「指輪もはずした方がいいかしら…」と呟く。私たち二人はアクセサリーや高価な腕時計などは持っていないが、ビデオカメラが気になった。添乗員さんも首を傾げる。心配ではあるが、今までの旅行でもいつも持っていたのだからあまり悩まないことにした。
時間が来て搭乗。10時6分離陸。成田からフランクフルトまで5951マイルと、表示が出る。9577Km、遠い。長い飛行時間は、いつも身を持て余す。最初の機内食を食べてしばらくすると、機内は眠りに入る(写真3)。
この眠りに入るまでが長く感じる。
新潟上空を過ぎ、日本海を北上し、ロシアに入ってからが長い。シベリア上空を果てしなく飛び続ける。座席は通路に挟まれた、中央の4人がけの席だったので、時々立ち上がって窓から眺めるが、延々と、人間の痕跡の見えない大地が続く。
大きな飛行機なので、ゲームができるかと期待したが、見れば何とかなるのではと考えたカードゲームらしきものも、ドイツ語の説明が分からず、断念。
そこで、今回は映画を見ることにした。できれば映画は大きな画面で見たいのだが、背に腹は代えられない。
オペラ歌手たちの、老後の生活が生々しく描き出された秀作があって、面白かった(『カルテット』2012:監督ダスティン・ホフマン)。そして、フランスの古いぶどう農園を舞台にしたものも楽しめた(『プロヴァンスの贈り物』2006:監督リドリー・スコット)。
それでもまだ時間が余った。アメリカの母子の旅が少し日本的に脚色されたような映画も見た(『ザ・ギルト・トリップ』2012:アン・フレッチャー)。
もちろん、吹き替え、または日本語の文字つきでなければ、私には無理!
飛行機は予定通り快適に飛び続け、約11時間の後、ドイツの国際空港フランクフルトに到着した。(写真4)
近代的な建物。空は抜けるように高く明るい。フランクフルトは午後の2時過ぎ。
ここで、ツアーの全員が集合、いよいよ税関を通る。大きなカートにスーツケースを積み、係員が運んでくれる。その後に添乗員さんを先頭に、17人が列になって進む。「ちょっと」と呼び止められると、スーツケースも開けさせられることがあるという。心の中はドキドキ。表面はにこやかに、係員に会釈して歩く。係員は真顔なので、ちょっと恐かったかな。先入観のせいかもしれない。
結果はあっけなく全員通過。通り過ぎてしばらくしてから、「税関はまだ?」と言っている人もいるほどで、案ずるより産むが易しとはこのこと。
バスに乗り込んで、さっそくドイツのアウトバーンを突っ走る。通り過ぎて行く道路の標識を見ていると3の文字が見える。アウトバーン3号という訳。トイレ休憩なし(希望がなかった)でガンガン走った。
余談だが、ドイツへ行く前にアウトバーンの噂は聞いていた。制限速度が無いところもあるので、みんなぶっ飛ばすとか…。これは本当だった。窓の景色が飛び去るように流れて行く、私たちのバスを、あっという間に追い越してゆく車、車、車。バスは、右端車線で、一応守る速度もあると言うが、それでも速い。
午後6時前にケルンのホテルに着いた。まだ明るい。バスの窓から見えたケルンの大聖堂の塔が、ホテルの窓からも見えている。
時間が早いので、私と夫は街を散策することにした。機内食が2回出ているので、この日の夕食はなし。街で、探すのはもちろんケルシュ、ドイツに来たのだから、やっぱりビールでしょう。
ヨーロッパに来ると、いつもどこか体の中から空気が抜けるように感じるのだが、一歩出てみれば空間が広いこと!建物と建物の間だけでなく、道路と広い歩道と、広場。縮こまっていた自分が、ふわーっと伸びて行く感じがする。開放感。
時間は同じように流れているはずだが、時間までゆったりしているような錯覚をしてしまう。
少し歩くと、トラムの駅がある。駅の前には大きな現代的な建物があり、広場には腰掛けて休めるオブジェもある。私たちはオブジェに腰掛けて、しばらくトラムの往来を眺めた。
少し座っている間に次から次へとトラムが来る。一つとして同じ色彩のものはない。とっても古風なデザインのものや、思いっきりサイケデリックなデザインのものもある。勢い余って、トラムから飛び出しそうな色のラインの車両もある。見ているだけで楽しくなってくる。コマーシャルらしきものもあるが、いかにもという感じで商品を宣伝しているものはない。訴えるのはイメージ。
そういえばパトカーも停まっていたが、トラムに比べると地味に見える。(写真5)
私と夫は、楽しいトラムにカメラを向けて何枚も写真を撮ったが、利用客も手を振ったりしてくれ、やっぱり開放的だなと思う。
しばらく楽しんだ後、線路を越えて古い通りに向かった。そこには小さな広場があり、地下鉄の入り口がある。そして、趣の感じられる古い門が、木漏れ日を浴びている。その脇を、地下鉄から降りてきたのだろうか、無造作に人々が歩いて行く。
私たちは、二人だけの幸福感に包まれて、ケルンの街をゆっくり歩いた。目指すビールは、発見したキオスクでゲットできた。何種類も並んでいるビールの中から、ケルシュを選ぶ。たった2本だけれど、満足のケルシュを抱いて、最初のドイツの空気を満喫しながら歩き、ホテルの周囲を大きく回って、ホテルに戻った。(写真6)
時差疲れもあるかと、夜遊び気分は控え、ビールを楽しんだあと、9時過ぎには眠りについた。
翌日は5時起床。窓の向こうにうす明るいブルーを背景にした、ケルン大聖堂の塔が二つそびえて見える。今日は、あの大聖堂に行く予定だ。
現地ガイドの大塩さんという人が同乗、バスでケルンの見学に向かう。
大聖堂や、旧市街を歩くことになっているが、その前に川向こうに渡り、ライン川を手前に配したケルンの町を望む(写真7)。大聖堂はもちろん、また異なる趣のロマネスク様式の聖マルティン教会も見える。ライン川に架かる大きな橋はホーエンツォルン橋といい、ケルン駅から出てくる線路と、その脇に人や自転車用の道もある。
夫は次から次に通って行く列車に大喜び、カメラを向けて撮りまくっている。ICE特急や、ドイツ国内だけではなくフランスまで行くタリスもおしゃれな姿を見ることができた。(写真8)
予定では、再びバスに乗って対岸に行くことになっていたそうだが、歩いて橋を渡る方法もあると提案され、ツアーの仲間は全員一致で歩くことを希望、私たちはケルン大聖堂を正面に見ながら橋を渡ることになった。
この橋は歩道ではあるが、自転車も通る。自転車はかなりのスピードで走ってくるから、危ない。しかし、ライン川を渡る船、ケルンの町のスカイライン、時折走る列車…様々なものに目と心を奪われて、つい真ん中をぼんやり歩いてしまう。私たちは何回もガイドさんに「ハシ(橋ではなく端)を歩いてください」と注意されながら歩いた。
そしてもう一つ、この橋には楽しいことが隠されていた。列車の線路と、人の歩く橋の間には私たちの肩あたりまで金網が張ってある。遠くから見たとき、なんてカラフルな欄干だろうと思った。
実はこの金網の色は、無数に取り付けられた錠の色だった。恋人たちがこの網に錠を取り付け、鍵をラインに投げ込むと、恋が実ると言うのだそうだ。
大小様々な錠に、名前を書き込んだり、ハートを描き込んだりして、自分たちの恋を実らせようと願う想いの現れ、延々と続く想いの迫力(写真9)。
私たちは、錠の重さで橋が落ちるんじゃないだろうかなどと、口々に軽口をたたき、一日目のぎこちなさを少しずつほぐしながら、橋を渡って行った。
橋を渡り切ると、そこはケルン大聖堂の裏側。目の前に大聖堂の2本の塔がそびえ立ち、左には波形の屋根が面白いフィルハーモニーの建物がある。ライン川沿いにケルンの古い町並みが続く。私たちは大聖堂へ行く前に、川沿いに少し歩いた。細い道にもテーブルを並べたレストランが並び、ランチの準備をしている。道に立てかけた自転車がそのまま店の看板になっているところもある。ファッショナブルだ。(写真10)
ホテルを出てからだいぶ時間が経ったので、トイレ休憩をしようと、ガイドさんが準備中のレストランのおじさんに頼んでくれた。トイレを借りる時の相場は50セントだったかな、まだ細かいお金がなかったので、ガイドさんから借りて、店の奥のトイレに向かった。おじさんにお金を渡そうとすると、いいよ、いいよと手を振る。それより、あとで食べに来てくれよと、言っているのかな。笑顔が太っ腹だ。私はダンケシェーンと、お辞儀をして、おじさんの笑顔に応えた。
ライン川の岸辺から一つ奥に向かうと、小さな広場がある。広場の周りの古い建物には、当時の政治などの面影が残る。間口がとても狭いビルがある。奥には長く続いている。京都にも残る建て方と同じだ。昔、間口の幅で税金が決められたそうで、やはりそうなのだ。庶民はいつも苦しい中、なんとか工夫して生きて行こうとする。
この広場の一角に観光客らしい人たちが集まっている。人々の奥に、二つの像がほぼ等身大に立っているのが見える。二人とも、鼻の頭が金色に輝いている。そう言えば、集まっている人たちは、順番に鼻の頭をなでたり、二人と一緒に写真に収まったりしているようだ。この二人はトウネスとシェールという人形劇の主人公で、とても仲良しなのだそうだ。ケルンでは有名人。この二人の鼻に触ると、友達ができるのだそうだ。私たちが横を通るときも、とても人気で人だかりがしていたので、添乗員さんは「皆さんはもうお友達がいっぱいいらっしゃるから、触らなくていいですよね」と笑いながら、先へ進むことにした。
それから、建物の3、4階の角に向こうをむいて座っている人形があった。座っているにしてはお尻が突き出しているなぁと思ったら、当時の支配者に対して「いやだよ〜」とお尻を向けているのだそうだ(写真11)。庶民の心意気らしい。この人形を作った人は、無事だったのだろうか…。
歴史に残る遺産は、今私たちをそこに向かわせ、目を奪い、守ってきた人々には多少の糧をも与えてくれる。しかし、そのまさに当事者たちはどうだったろうか。想像するしかないが、過去から手渡されてきた文学、芝居、歴史書などを見れば、言葉にしたくない苦しさが胸を突く。
たとえば町の一角には大きな柱があり、1メートルほどの高さまで、昔の洪水の跡を記してある(写真12)。つい数週間前の洪水も、百年に一回と言われているようだが、昔の人は記録を残して警鐘を鳴らしているのだった。その警鐘を、この国ではどのように聞き取ったのだろうか。長い年月の経過で色あせ、忘れ去られたことの中に大切なものが隠されているのかも知れない。
生きるということが学び続けるしかないことだとすれば、今の私たちが同じ轍を踏まないように、生き方を選んで行けるだろうか。もちろん私自身の課題として。
少しだけ複雑な気持ちを抱いたまま、私はみんなの後を追った。
真下から見たケルン大聖堂は、仰ぎ見るという言い方にふさわしい威圧感に包まれてそびえていた(写真13)。出来上がるのに600年を費やしたと言う。このような建物を建てなければ信仰が守られないとすれば、人の心はやはり悲しいものか。ノルウェイにあったような、素朴な木造の教会では、激しく文化の行き交う中心地、大きな都市では人心を集められないのだろうか。
大聖堂は内部も広い。床はきれいなモザイク模様で、中近東を思わせる。赤いガウンを来た司祭さんたちが何人か歩いていたり、奥の方でお祈りをする声が聞こえたりしている。中央祭壇の奥まで進み、東方三博士の聖遺物を納めたという、金ぴかの聖棺を見た。世界最大の黄金の聖棺で、頭蓋骨が入っているそうだ。
高い天井と、色鮮やかなステンドグラスと、ほのかに香るろうそくや香のぬくもりで、日常とは違う、異空間という気がした。
地下にも簡素なお祈りの部屋があって、静かな空気が落ち着く場だった。人もいなくていくらか寂しい感じもする。勝手な気持ちを言えば、教会という祈りの場はこれでいいのではないかと思う。しかし、この空間だけだったら、きっと私たちは観光でわざわざここへ来ないだろうとも思う。複雑。
大聖堂前で自由時間となり、パイプオルガンの曲が入ったCDを探して、聖堂脇のショップに入ってみた。さすがドイツ、夫のお目当てのバッハの曲がずらりと並ぶ。ケルン大聖堂で録音したというCDを、2枚購入。大聖堂には大きなパイプオルガンがあったが、この録音は小さいほうのオルガンらしい。音楽に関しては夫に全幅の信頼をおくので、帰ってから聴くのが楽しみだ。
また、ケルンはオーデコロンの発祥地ということなので、娘たちにお土産を買うことにした。ブルーの看板が美しい「4711」の本店に行く。店の中は見渡す限りコロン。様々な小瓶が並ぶが、すべて、ブルーと金の統一されたカラー。並べ方もなんとおしゃれだろう。自分のためには買う気もないのに、店の中の落ちついた華やぎに居心地の良さを感じる。
夫も同じ感想を持ったようで、娘と、息子の連れ合いにと、率先して品選びをしているのがおかしい。
無事買い物を済ませたあとは、集合時間までゆっくり散歩。大聖堂の隣はケルン中央駅で、人が行き交っている。ライン川を渡る橋から見ていた電車が、次から次へと出発して行く。活気がある。(写真14)
公共交通機関に活気があることは、生活の広がりを感じ、豊かなイメージに繋がる。
とは言え、日本の都心に向かう通勤電車の非人間的な混みようは、また別。行き交うのではなく、すべての流れが一つの方向に向かっていて、また一つの部分に集中していて不自然だ。幸い、私たちは比較的住まいに近い職場だったので、都心に向かう人の波とは逆方向に動くルートだった。「殺人的」と言われるラッシュは経験したことがないが、逆方向に向かう電車の窓から見える、押し付けられた人々の姿に悲しさを感じたものだ。
私たち日本人は何を目指しているのだろう!
話が横道にそれてしまった。
ケルン中央駅の人や電車の動きをしばらく眺めたあと、私たちも、バスに乗って出発。今日の二つ目の観光地に向かう。
ケルンからは13Kmほどの町、ブリュールにある、アウグストゥスブルク城に向かう。バスを降りると、森の中の駐車場にはお土産屋さんのような店もある。まっすぐ森の中を進んで行くと門が見えてくるが、閉まっている。正面の門が修復中ということで、私たちは、お堀にそって回っていく。カモが数羽泳いでいる。雨っぽい空気。18世紀に建てられたそうだから、比較的新しい。白とクリーム色が柔らかい印象の、窓が美しいお城、世界遺産なのだそう。庭園には色とりどりの花が咲いている(写真15)。
チケットをもらい、内部の見学に行こうというところで、夫のお腹が爆発した。トイレに駆け込む。
夫は食べ過ぎたり、緊張しすぎたりすると、すぐ胃腸にダメージがくる。一過性の下痢になってしまうのだ。海外旅行という、先の見通しが立ちにくい環境は、緊張を強いられることが多い。昨年中欧へ旅した時は、猛暑のせいか前半の数日、体調の悪さを引きずってしまった。今回は食事の時食べ過ぎないように、そして水分をきちんと摂るように、ずいぶん気をつけていたのだが…。今はまだ疲れがたまってきていないので、一過性のものであるよう祈りながら、一人、夫を待つ。
待っていてくれた添乗員さんと一緒に、みんなの後に続く。
ケルンの大司教だった人が建てたそうだが、そのためなのか、割合とこじんまりした建物だ。いや、個人の家だとしたら、それはすごく豪華で大きいのだが、ハプスブルク家の城などと比べるとかわいい感じがしてしまう。しかし淡い色彩と、ロココ調の絢爛なスタイルは華やかだ。
豪華な城の内部を見て回ると、一つ一つは美しくて息をのむのだが、ヨーロッパの城はみんな似たように感じてしまう。美しい部屋がどこの城だったのか、思い出せない。もったいない。勉強不足なのだろう、いや、興味がないのか。背景のように見てしまっているのだと、自分でも感じる。歴史の動きを実感できれば、それぞれの城が動き出すのかもしれない。私にはまだ、そのように感じる思いの深さがないようだ。写真を撮って良いところだと、その写真を見ながら記憶をさかのぼることができるのだが、内部は撮影禁止の城が多い。
このアウグストゥスブルク城も内部は撮影禁止だった。
内部見学が終わり、今日の宿泊地リューデスハイムまで、再びバスの旅となる。私たちがバスに乗り込んだ途端、激しい雨が降ってきた。ラッキー。
ここでお別れする、現地ガイド大塩さんが傘をさして見送ってくれる。彼女が最寄りの駅まで行く間、雨粒が落ちなければ良かったのにね…とは、ゆとりのみんなの感想なのだった。
いつ爆発するか分からない夫のお腹に手を当て、温めながらラインのほとりを登って行く。川面は道路のすぐ脇、洗うように茶色に濁った水が流れている。所々、冠水した中州が見える。
今回のツアーの日程では、明日3日目にライン下りをする予定だ。洪水のあと、ライン下りは中止となり、ツアーの出発前の話では実施できるかどうか未定だったが、数日前にようやく再開したそうだ。
途中カウブの税関という、中州に建つプファルツ城が見えるところでバスを降り、ラインの岸辺に立った。通行税を徴収するために建てられたというプファルツ城は中州に建っているのだが、今、城の周囲の中州は水の下。庭園だろう、数本の木々も水の中から立っている(写真16)。茶色く濁った水が城や庭園の木々を洗っている。車窓から眺めていてはわからない激しい流れ、水の威力に驚く。これでは、遊覧観光が中止になったのも無理はない。
ローレライの岸壁の下をバスで走り抜け、リューデスハイムに到着。小さなホテルに荷を降ろす。ライン川沿いのこのホテル、隣のホテルと姉妹ホテルなのだそうだが、どちらも小さな建物だ。エントランスを入ったところはこぎれいなレストラン。隅にバーもあるから、これはパブと呼ぶべきところなのかもしれない。小さいが、細かな装飾が落ちついた雰囲気のホテルだ。
部屋の鍵はブドウの葉を象ったデザインのキーホルダーがついていて重い。大きなホテルのカードキーは便利だが、どこか趣がない。このようなどっしりした鍵には、歴史を感じる(写真17)。
リューデスハイムはライン沿いの街として栄え、観光客も多い賑やかな街なのだそうだ。狭いながらも夜通し賑やかな酒宴が繰り広げられる、「ツグミ横町」という所もあると聞く。しかし、洪水の跡も生々しいこの時期、未だ観光客は少なかった。
私たちは隣の姉妹ホテルのレストランで夕食を食べた後、ぶらりと「ツグミ横町」を歩くことにした(写真18)。レストランでは、ようやく顔を見知ったツアー仲間の自己紹介タイムがあり、旅慣れた人たちとのこの後の日程も楽しみとなった。三々五々、仲間たちとおしゃべりをしながら歩いて、私と夫はホテルに戻ることにした。世界から集まるツグミたちがピーチクおしゃべりに花を咲かすには、もう少し日数が必要かもしれない。
リューデスハイムで予想外の静かな夜を過ごして、翌日はいよいよライン川クルーズ。船着き場までは歩いても10分以内なので、バスに大きな荷物を積み込んだ後、川面を眺めながら歩く。ライン川は両岸に線路が走っている。地下道で線路をくぐる所があったが、覗き込むとまだ水がたまっていて、通行止めになっていた(写真19)。
踏切を越えると、そこは船乗り場になっていて、大きな船が出港を待っていた。作業員が何人か、窓を拭いたり甲板を掃除したりしている。乗船を待つ間に、踏切の遮断機が下りてきた。ドスーンという感じ。電車大好きの夫は、嬉しそうにカメラを向けて準備する。ツアーの仲間にも、何人かカメラを向ける人がいる。
ところが、なかなか電車が来ない。5、6分も待っただろうか、私は諦めて船の方に視線を戻した。何人かの女性たちも、同じように、線路に向けていたカメラを納めて船の方に向き直った。しばらくして誰かが「あ、向こうに電車が」と言うのを聞いて振り返る。ようやく遠くに電車が見えてきた(写真20)。これでは、待ちきれずに踏切を乗り越えようとする人が出るんじゃないかと話し合ったが、気の短いのは、日本人だけなのかな。船を待つ客には中国人らしい一団もいたが、彼らは全く無視。国民性というものか。
事前の情報や、雑誌などでちらちら見ていたラインクルーズは、すごい混雑と覚悟していたが、豪雨の影響で客は少ない。乗船を待っていたら、日本人の女性がチラシを持って近づいてきた。船内でワインの無料試飲サービスをしているとの紹介だ。無論、試飲は無料だが、販売が目的。日本向けの輸出をしている、ドイツのワインの紹介という。どこに行っても日本人が働いているんだねと、私たち夫婦は感心してしまう。ことさら驚くことではないのだろう、きっと。ただ単に、私たちの生きてきたエリアが、とても狭かったのかもしれないのに…。
いよいよ乗り込み、出港。クルーズ復活3日目とか、さすがに甲板に上がってもゆったり。好きなところにイスを出して、周囲は全て私の目の前に(写真21)。
クルーズの船は大きくて、快適な空間をデザインしている。甲板の中央にはイスが高く積まれていて、必要な人は自分で持っていくシステムらしい。事前にいくつか並べられてもいるので、客の少ない今日はそれで間に合う。引きずって向きを変えている人もいる。川とは言っても、何カ国をも渡っていく大河、行き交う船がみんな大きく、舳先にそれぞれの国旗をなびかせている。
ラインクルーズは日本でも有名な観光名所で、ローレライの歌は音楽で習うほど。そのような観光地をただ船で下るだけなら、街を歩いた方がいいという気がして、私たちは二人ともあまり期待していなかった。ところが、実際に船が動き出してみたら、両岸の葡萄畑の明るい広がり、次から次へと現れる高台の古城、川面に洗われるように続く古い町並み…ただ座って眺めているだけで幸せになる風景だ(写真22)。ライン川は両岸に線路が走っていて、電車もたくさん走っている。客車あり、貨物あり、これまた楽しい。
そして、私が一番感心したことは、ライン川自体が現在も交通の重要な役目を負っているらしいこと。とても大きな貨物船が、吃水ぎりぎりまで沈みながら貨物を運んでいく。石炭らしいものが多かったかな。舳先には国旗をはためかせて、いったい何艘すれちがったことだろう。私たちのような遊覧客船も、もちろん走っている。ライン川は交通再開したばかりとはいえ、にぎわっている。
ラインの川面に比べて船内は空いていた。まだ復活したばかりだからだろう。港も、まだ回復しないということで、いくつか飛ばしていく。初め、甲板に出て両岸の移り行く様や、走りゆく電車を眺めていた私たちだが、だんだん寒くなってきた。風が強いのだ。下に降りて、レストランで休むことにした。レストランは何も注文せずに休んでいてもよいと聞いていたが、豪華な雰囲気に囲まれて、赤ワインを一杯いただくことにした。赤ワイン一つの注文で、デキャンタにグラスを二つ持ってきてくれる。窓外には、目の高さに近くなった、河岸の風景がゆったり流れていく。
静かな空気の中で、夫とぽつりぽつりと話しながらワインを味わう。広いレストランも今日の客は少ない。それでも、遠く近くから楽しむ人の醸し出す声の波が漂ってくる。(写真23)
ローレライの手前の港辺りから船内も混んできた。ローレライが過ぎれば下船しなければいけない。私たちも、再び甲板に登った。船内アナウンスがローレライの歌を流す。前日バスで走ってきた道の上に、大きな岩山がそびえている。あれがローレライ。美女には見えない。(写真24)
このあたりで、ライン川は大きく右に曲がり混んでいる。川幅も狭い。このような流れの急なところだったので、昔は船の事故が多かったらしい。そこで、美女が船頭を惑わすという伝説が生まれたのだという。
余談だが、以前はこのローレライの岩の下にカタカナの看板があり、「ローレライ」と大きく書いてあったのだそうだ。添乗員さんは「恥ずかしかったけど、なくなりましたね」と話していた。
思ったより楽しんだラインクルーズ、1時間50分の旅も、ザンクト・ゴアールの船着き場でお別れ。私たちはなごり惜しみながら下船し、昼食の場目指してバスに乗った。
レストランはザンクト・ゴアールの町の上にある、ラインフェルス城を利用したホテルの中にある。河岸から山を登ればすぐ上にあるらしいが、バスは遠回りの道路をゆっくり登って行く。深い森の中を緩く登ると、見渡す限り畑が広がる丘の上に着く。何の花だろう、一面黄色に輝く畑や、牧草なのか柔らかい緑が美しい畑もある。とにかく広い。しばらく走って、レストランの駐車場に入る。
城壁がそのまま橋になったような通路を渡ってレストランの入り口広場に着く。オールド・カーが何台か展示してある。反対側には、古い馬車のような車も展示してあり、観光客が写真を撮っている。このレストランは、古城の一部を改装したホテルの中にあり、城の一部は古いままになっている。その古いままの、破壊された城跡の内部は、観光できるようになっているそうだ。レストランはライン川の河岸段丘の岸辺に建っているので、庭園から眼下にライン川を見おろすことができた。遠くまで続く輝く川面。行き交う船が何艘も見える(写真25)。
ついさっきまで自分たちがあそこにいたのも夢の中のよう。食事時間まで間があったのだが、ただただ風景を眺めているだけで幸せ、私たちはみんなお腹が空いたことも忘れていたのだった。
食後は今晩の宿となる、ハイデルベルクに向かう。ハイデルベルクは、ライン川の支流ネッカー川に沿って開けている町。ドイツ最古の大学がある。だから、中心街には学生酒場などがあって、にぎわうらしい。18世紀から、たくさんの詩人や芸術家が訪れた町とも聞いた。
町の外れのカールス門のあたりでバスを降りると、丘の上に羽を広げた鳥のように焦げ茶色の城がそびえている。このハイデルベルク城は、端の方を見ると崩れかけているのがわかる。一部は再建されていて、見学もできるのだが、多くの場所は破壊されたままになっているそうだ。いくつかの戦争や火災で破壊されたてしまったこの城は、プファルツ公の居城として、拡張してきて、今見るように大きくなってきた。13世紀頃から時代を経てきたので、ゴシック、ルネッサンス、バロックなどの、様々な様式の建物が見られるそうだ。
私たちはケーブルに乗って丘に登った。廃墟となっているハイデルベルク城は、丘の上とは思えないくらい、とても広々としている(写真26)。丘の崖の上に立つフリードリヒ館のバルコニーに立つと、ハイデルベルクの町並みが見おろせる。ネッカー川の向こうには、緑の山の間に、哲学者の小道と呼ばれる道が見えている。ゲーテ(詩人1749—1832)やヘルダーリン(詩人1770−1843)など、たくさんの詩人や芸術家が愛した町らしい名前だ。ネッカー川沿いに、暖かい赤茶色の屋根の家々が建ち並んでいる旧市街は、現在の生活の場とは思えないくらい美しい(写真27)。
この展望台のような石畳のバルコニーに、一つだけ足形が残っている。現地ガイドさんが、ツアーの男性たちに足を合わせてご覧なさいと、勧める。右足、夫もやってみる。
あ、ぴったり!
この足型、城の窓から飛び降りて逃げた色男の足跡なんですって。なぜかみんな結構はまってしまうので、賑やかに笑い声が響いていた(写真28)。
城の地下には、巨大なワインの樽が保存されている。横においてあるその樽の丸い蓋の径が、私たちの身長の3倍もあろうかというほど。こんなに大きな樽でワインを作っていたのだと、ただもうびっくり(写真29)。昔から人間は、うまいものには惜しみなく労力を注いできたんだ。ただ、ワインはもしかすると、ただの嗜好品ではなく、安心して飲める飲料だったのかもしれない。
もう一度ケーブルに乗って丘を下る。ネッカー川にかかるカール・テオドール橋に行く。この橋を渡って細い道を登ると、哲学者の小道に続いている。しかし、私たちは橋から川を見おろし、川越しに古い町並みを眺めた後、ホテルのある旧市街の方に引き返した。
ホテルに行く前に、町中をぶらぶら歩く。小さなお土産屋さんでくるみ割り人形を買う。この後訪れるローテンブルクなどでも、木彫り人形は買えそうだと思ったのだが、私たちには苦い経験がある。
北欧に行ったときに、ダーラナ・ホースという木彫りの馬を買ってこようと思っていたが、一カ所で買いそびれたら、その後どこにも見つからなかった。後悔先に立たずと言うが、結局その後見つからず、旅行中に買うことができなかった。
今回も同じ轍を踏むまいと、発見した所で買うことにした。ドイツの本場で気に入ったくるみ割り人形が買えたので嬉しかったが、かなり大きい物なので、スーツケースの荷造りが大変だった。
ハイデルベルクのホテルは、ネッカー川に乗り出すように建てられていて、部屋の窓からは絶え間ない流れが見おろせる。ネッカー川は、これまでに見たドナウ川やブルタヴァ川やライン川などに比べれば川幅は狭いのだが、なかなか堂々とした川だ。夕日が川面に反射してキラキラ美しい。(写真30)
今日はバスに揺られて古城街道を走り、ローテンブルクに向かう。古城街道は、ドイツのマンハイムからハイデルベルクを通って、ローテンブルク、ニュルンベルクなどの有名な都市を通り、その先チェコのプラハまで続く、観光街道なのだそうだ。私たちが走るのは、ハイデルベルクからローテンブルクまでの、ネッカー渓谷沿いの道。
古城と言うと、私などは趣のある古い石でできた、少し崩れかけた建物を思い浮かべる。それは、間違いではない(多くはそのような形なので)のだろうが、実は「古城」と呼ぶためには条件があるのだそうだ。ただ古いと言うのはダメ。15世紀以前に建てられたものがいわゆる「古城」。だから、中世の城でも、時々見えるお城の中には、厳密にいえば「古城」とは言えないものも多いのだそう。
所々でバスを止めて、うっそうとした森の奥の丘に建つ城を眺めたり、撮影したりして古城街道を進んだ。ネッカー渓谷は緑が濃く、どこか日本の山を思わせる。添乗員さんは、時間もあったので、もっとたくさん停車して古城を見せてくれようと思ったらしいが、その度に運転手さんとの交渉に失敗。ドイツ人は融通が利かないと、怒っていた。それでもエーベルバッハの町や、ツヴィンゲンベルク城を見て、私が名前を控えるのを忘れた、いくつもの城が、森の奥の小高いところに現れるのを、歓声を上げながら見ることができた。
そして、ローテンブルクに到着。狭い門を入ってバスは進むのだが、建物がぎりぎりの所にある。よくこんな細い道を走れるねぇと、妙な所で感心してしまう。
まず、ホテルに荷を置いて、城壁内を散策。ローテンブルクは小高い丘の上にあり、町全体が城壁で囲まれている、団扇のような形の町だ。城壁には5つの門があり、城壁の上を自由に歩けるようになっている。
まず、ツアーの仲間とブルク公園に行く。足元には小さな花が一面に咲いている(写真31)。公園からはタウバー川が見おろせる。タウバー川は谷の下を流れていて、両岸には緑一面の世界が遠くまで続いている。川沿いに赤い屋根の家が一軒覗いている(写真32)。谷の向こう側は、ローテンブルクの町の団扇の柄に当たる部分が高台となっていて、中世の町にタイムスリップしたかのような遠景となっている。
ここローテンブルクは愛媛県の内子町と姉妹町になっているそうで、ブルク公園にその記念プレートがあった。内子は和ろうそくを手作りしている魅力的な町だ。友人の故郷の近くなので、素敵な和ろうそくをお土産にもらったことがあるが、とても暖かい炎だった。いつか行ってみたいと思っている町。なるほど…となぜかうなずいている。
ブルク門を通って町の中心部マルクト広場に向かう。この広場には仕掛け時計マイスタートゥルンクがあるのだが、修復中だった。足場が組んであって、全体が幕で覆われている。そして、この幕に実物大の建物の絵が描かれている。絵に描いた餅ではもちろん不満足なのだが、その心意気は嬉しい(写真33)。
一通り町をめぐって、昼食のレストランに行く。ドイツの人たちに愛されているという、シュパーゲルを食べることになっている。シュパーゲルとは、白アスパラのこと。白アスパラは春の訪れを知らせる野菜としてドイツの人たちは待ち望んでいるそうだ。出回るのは4月末から6月中旬までということで、とても人気があり、その間毎日でも食べるというからすごい。
日本で言うと何だろう?珍しいから走りの物を食べることはある。春ならフキノトウやタラノメかな。でも、毎日食べる物ではない。総じて日本では目先の変わった物に飛びつくが、それを、ずーっと大切に抱き続けるということがないような気がする。食べ物なら、味わい続けると言うべきか。もちろん好きな食材やメニューを、我が家の味として大切にしているということはあるだろうが。
私は缶詰の白アスパラはあまり好きではないので、期待していなかった。クニャッとした食感があまり嬉しくない。
ではドイツのシュパーゲルはどうかと言うと、まずはその天衣無縫な姿に度肝を抜かれた。ニョキッと大地から生えてきたアスパラを茹でて、そのまま無造作に大きな皿にのせてある。本数は…数えたら10本を越えていた。お皿一杯の長さである。これをナイフで切っていただくのだ。付け合わせはハム、そしてパンの代わりにポテトがたっぷり回ってくる(写真34)。
目には驚きの一皿だったが、思っていたより自然の味が口の中に広がって、楽しめた。
食後は自由時間、この日は夕食もフリー。私と夫はさっそく町の探索に出かけた。(写真35、36)ローテンブルクの名物ドーナツというシュネーバルもおいしそうだが、お昼を食べたばかりなので後回し。
聖ヤコブ教会に行ってみた。13世紀に建てられたそうでリーメンシュナイダー(ティルマン・リーメンシュナイダー彫刻家1460頃−1531)という人の傑作と言われる『聖血の祭壇』を見てきた。狭い教会だが、厳かな感じ。教会の脇には老人が座って、静かにリュートを演奏していた。その音も、姿も、教会の壁にとても似合っていた。
教会を後にして、クリスマスグッズの店に入ってみた。木製のぬくもりの感じられる物がたくさんあったので、子どもたちへのお土産を探すことにした。愛らしい物がたくさんあって、楽しく迷った末に、小さなオーナメントを買った。
ローテンブルクは有名な観光地だから、他にも様々な店がたくさんあったが、私たちはあまり買い物には興味がないので、城壁を歩いてみることにした。城壁の上には通路があり、門の脇から階段で上ることができる。
上には、細い通路が延々と続く。この城壁が町を囲んで、外敵から守っていたのだ。通路の外側の壁には、銃の覗き穴が定期的に続いている。内側は木製の柱があるだけ、町が遠くまで見通せる(写真37)。赤い屋根が美しく続いている。ローテンブルクには時代祭という祭りがあって、当時の衣装を着てお祝いするとのことだが、どんな暮らしだったのだろうか。不便だったのだろう。しかし、不便が不幸せとは言えないことに、私たちは気づき始めている。
城壁の上の散歩をゆっくり楽しんだ後、私たちは今夜の夕食を調達しに、新市街の方へ出かけることにした。しばらく歩くと駅があり、その近くにスーパーマーケットがあるらしい。ローテンブルクの駅というのも気にかかっている。
駅舎は小さくて新しい建物だった。道路を挟むように大きなスーパー、モールというのだろうか、色々な店舗が入っている建物があった。スーパーでスパークリングワインと野菜を買った。野菜は、必要なだけを自分で量って買うことができるので嬉しい。真っ赤なトマトがおいしそうだったので、2個買った(写真38)。ソーセージも探したが、たくさんありすぎて決められない。うろうろしていたら、ツアーの二組の仲良しご夫婦に会った。どこかの旅行で知り合って以来気が合って、何回か一緒に旅をしているとのこと。今回の旅では最年長と、自己紹介されていた。このご夫婦たち、スーパーで白アスパラを買うと言う。「生の物は日本へ持ち帰れないでしょう」と聞くと、なんと鍋も持ってきているので、ホテルで茹でて食べるのだと言う。そして、スパークリングワインも探していた。すごいなぁ、どこからそのエネルギーが湧いてくるのだろう。八十代という彼らに脱帽!
私たちは、スーパーの外にあるソーセージのお店に行ってみた。近くの住民らしい人たちが、次々と買い物をしている。真似をして、ソーセージをパンに挟んでもらった。2個。
ずっしりと重くて、ほかほかと暖かい包みを抱えて、私たちはホテルに戻ることにした。帰りは違う道を歩いてみようと、少し遠回り。大きな家のガレージに白黒の猫がゴロンと寝そべっていた。そう言えば猫を見かけない。どうやら猫にも税金がかかるとか、みんな家で大事に育てている模様。しかも、寒い土地なので、猫も野良では生活しにくいのだろう。私は猫が好きなので、思わず声をかけるが、ゴロン猫は顔をこちらに向けただけ。写真を撮らせてもらって、触るのは諦めた(写真39)。
ホテルに帰っておいしい夕食を食べ、満足、満足。そう言えばこの小さなホテルの鍵も、ずっしり重いプレートが付いている。おしゃれ(写真40)。
後日談になるが、あのシュネーバル、そうおいしそうな丸いドーナツ、後で食べてみようと思っていたのだったが、この日はソーセージパンで満足してしまった。そして、有名な物だから他でも買えるだろうと思ったのが、間違い。ローテンブルクの名物はローテンブルクで売っている物だった。一回だけ、ニュルンベルクの町を歩いているときに、小さなパン屋さんにちょっと並んでいるのをガラス越しに見つけたが、ツアーの移動中だったので、個人行動はできず、結局今回の旅で味わうことができなかった。
ツアーの仲間のご夫婦が食べてみたそうだ。「思ったより大きかったけど、普通のドーナツの味ですよ…」と感想を聞かせてくれたけど、やっぱり自分で食べてみたかったなぁ。(写真41)
多分今回の旅のハイライトになるのだろう、今日はロマンチック街道を南下し、有名なノイシュヴァンシュタイン城を見学、そして一気に再び北上しミュンヘンに戻る予定。
ロマンチック街道は、古都ヴェルツブルクから始まり、ローテンブルク、ディンケルスビュール、アウグスブルクを通り、フュッセンに続く、約350Kmの、とても有名な観光道路。途中のいくつかの小さな都市がそれぞれ美しいらしいが、私たちの旅は、往復してミュンヘンに戻るという強行軍のため、ガンガン街道を突っ走る。それでも、最後には『ロマンチック街道通過証』をくれるというからこそばゆい。(写真42)
明るい大きな空間を、ドイツのハイウェイは超スピードで飛ばせるから、私たちは雲の上を飛ぶように走った。次第に国境に近づくと、そこはドイツアルプスの世界、遠くに険しい山並みが見えてくる。(写真43)
途中のロマンチック街道では、茶色のおしゃれな道路標識が一定の間隔で建てられているが、そのうちのいくつかにはカタカナで「ロマンチック街道」と書かれているのが見えた。すべてに書かれている訳ではないので、見えたら写真を撮ろうとカメラを構えるが、見えたときには過ぎてしまって、なかなか写すのは難しかった。
ツアーの予定の中では一番長い距離の移動だったが、美しい景色の中の旅だったせいか、あまり長く感じないうちに、山の麓シュヴァンガゥの村に着いた。ドイツアルプスの険しい白い峰々の麓の大草原、その花畑の中にぽつんと建つ教会。私たちは教会の脇にバスを停めて、しばし休憩(写真44)。 山の中腹に美しいノイシュヴァンシュタイン城が見えている。これからあの城を訪ねることになっている。小さな花が咲き乱れる草原を少し歩いて、足の血行を良くしてから、再びバスでホウエンシュヴァンガウの村まで上る。目の前に黄色い可愛い、ホウエンシュヴァンガウの城が見える(写真45)。
昼食まで時間があったので、村の中を少し散策することにした。村の中には分かりやすい案内板(写真46)があり、嬉しい。私たちは森の中を歩いてみた。道路に水たまりがあって、日本に似た、湿気のある森の空気だった。城までは馬車も走っていて、広い道路には馬の落とし物もたくさんある。細い森の中の道をしばらく進み、時間を見計らって、今度は広い道路を馬の落とし物をよけながら戻った。
散策の後は昼食。大きな肉団子かと思ったら、中に野菜が入っている、ロールキャベツの逆のお料理だった(写真47)。ポテトはもちろんだが、ニンジンやブロッコリーなどの野菜も豊富に付け合わせられていて、豊かな食事だった。デザートはやっぱりビッグなチーズパイ、生クリームがたっぷり。
お腹がいっぱいになったところで、ノイシュヴァンシュタイン城への公共バスに乗り込む。炎天下に、かなり並んで待つことになった。しばらく並んで、ようやくバスに乗る。私たちは、マリエン橋のたもとでバスを降り、橋から渓谷越しに城を見ることになっている。バスを降りて歩き出したときには、それほどとは思わなかったが、橋の上は人で埋まっていた。細い橋だから仕方がないのだろう、マリエン橋の下は深い渓谷で、覗き込むと怖い(写真48)。おそるおそる人の間をすり抜けて狭い橋を進むと、いきなり世界が広がった。渓谷の向こうに端正な城がそびえ、背景にはさっき走り抜けてきたシュヴァンガゥの村と、横に大きく広がるフォルクゲン湖。そしてその向こうにはドイツの大平原が続く。
ノイシュヴァンシュタイン城は、バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845−1886)が、17年の歳月と巨額の費用をつぎ込んで作ったという。ルートヴィヒ2世は、お城ができる様子をこの橋の上から毎日眺めて、楽しみにしていたそうだが、出来上がったお城には百数十日しか住むことができずに、謎の死を遂げたという。狂気の王として知られている。しかし、彼が作ったお城の美しさに、今も世界中から観光客が訪れている。
あまりにも有名なこの城だが、私たちはこれまで、この比較的新しいお城にはあまり興味がなく、今回のツアーでも期待していなかった。しかし、青空のもと、山間にありながら大平原を背景にすっくと建つ、白い城の美しさに感動した。これは、たくさんの観光客が押し寄せる訳だと、納得したのだった。山の緑も豊かになってきた季節が、一段と美しさを際立たせたのかもしれない(写真49)。
混み合う橋にたたずみ、しばらく眺めを堪能して、城に向かった。山道をしばらく下るように歩くと城に着く。回り込むようにして、先ほどは見えなかった城の入り口に行く。入り口は赤い装飾がされていて、東京ディズニーランドのお城はこれが見本とか、華やかだ。でも私は、マリエン橋から望むノイシュヴァンシュタイン城の遠景が好きだ。モノトーンですっきりとした姿が、自然の中にあるのがいい。造られた庭園ではなく、自然の森の中に立つ姿が、一段と美しさを際立たせているように思う。
入場チケットは時間が決められていて、その時間になるとアナウンスがあり、ゲートが開く。華やかな入り口から階段を上って中庭に入り、ここで自分たちの時間のゲートが開くのを待つ。15分おきくらいにチケットに記入された時間がアナウンスされて、ゲートが開く。中庭は、アーチ型の可愛い窓が並ぶ城の建物に囲まれていて、狭いけれど美しい眺めなのだが、あまりに暑いので、門の影にある休憩所に入って待っていた。
時間になって、ゲートが開く。私たちはゾロゾロと歩いて城に入る。城内は全体的にうす暗かった。ルートヴィヒ2世はワーグナー(リヒャルト・ワーグナー:作曲家1813−1883)のパトロンだったそうで、オペラに取り憑かれていたと言われている。城内には『ローエングリン(1850初演:白鳥の騎士が活躍するオペラ)』などの壁画があった。城の内部は、これまで見た中世の城に比べると、シンプルだと思った。最後に出口近くで見た調理室は、現代的な感じで珍しく、面白かった。
帰りは山道を歩いて、ホウエンシュヴァンガウの村に下った。(写真50)
この日が一番長い移動となる。私たちはシュヴァンガゥを後に、一路ミュンヘン目指して走った。今日から運転手さんは、親日感情あふれるトルコ人、陽気に挨拶してガンガン飛ばす。ミュンヘンまでは、バイエルン洲の小さな町や村をいくつも通って行く。そのいくつかの町の公園だろうか、大きな木が枝を広げている広場に、面白い物を見た。木々の枝から巨大な野菜がぶら下がっているのだ。きっと直径50センチ以上はありそうだ。ニンジン、パプリカ、シシトウなどカラフルな色で、バスの車窓からでは素材は分からないが、ヒモ状の糸でぶら下がっているところを見れば、軽い物なのだろう。
一つの広場に5〜6個あっただろうか、このような広場がいくつかあったので、何か意味がありそうだと思ったが、パンフレットなどに説明はなく、添乗員さんに聞いても分からないとのことだった。意味は分からないが、なんだか楽しい物だった。
また、バイエルン州の町にはマイバウム(5月柱)という、これまた巨大な柱が立っている(写真51)。これは町の中央の広場に建つ物だそうで、町によってデザインは異なるが、基本は青と白で、様々なデザインの彫刻や旗で飾られている。
通り過ぎてゆく車窓に異国の風景を楽しみながら、ミュンヘンに着いた時は夕方だった。ホテルは現代的なマリオット、豪華な内装で部屋も広い。この日のホテルでの夕食は、もちろんヴァイツェンビールがお供。モツァレラチーズのサラダや、シタビラメのソテーも、野菜が豊富に添えられていて、おいしかった(写真52)。部屋に戻ると、満腹と長道中の心地よい疲れとで、あっという間に夢の世界に入ってしまった。
ミュンヘンでの一日、連泊なので大きな荷物は部屋に残して出発。午前はツアーで、レジデンツなどを見る予定。昼食からは自由行動となっている。ホテルからレジデンツまでバスで送ってもらう。レジデンツは中に博物館と宝物館があり、バイエルン州立歌劇場と隣り合って、大きな広場を囲んでいる。バイエルン州は、ドイツの南にある一番大きい州で、ミュンヘンはそのバイエルン州の中心都市。ドイツ国内でも、ベルリン、ハンブルクに次いで大きい都市だそうだ。
レジデンツ博物館は、バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の本宮殿の一部なのだそう。絵画、彫刻、様々な家具も見事だが、壁や天井のフレスコ画や、柱などに施された意匠、部屋ごとに異なっている内装…全てがあまりに豪華絢爛で、あっけにとられる。大きなストーブや、古い楽器も面白い。(写真53、54)
そして圧巻は、アンティクヴァリウムホール、丸天井いっぱいのフレスコ画を装飾する金ぴか、ずらーっと並ぶ歴代の像。赤と白とクリーム色の大理石の床が、このホールをゆったりと落ちつかせている。ここで、ダンスをしたのか…ふっと気持ちがタイムスリップした(写真55)。
しかし、ここで驚いたのも、次の宝物館に入って吹き飛んでしまった。宝石を散りばめたという言い方では間違い、宝石で描いたような冠、ティアラ、ネックレスなどの装飾品、置物などが並んでいる(写真56)。写真撮影も可能だったので、初めは歓声を上げてはカメラを向けていたが、次第にどうでも良くなってしまった。この宝物の山を、一つ一つカメラに写して持ち帰ってみても、この感動は表せないような気がして。最後の部屋にあった、王妃が娘の結婚に際して用意したという、金色に輝く裁縫道具には心が動いて、カメラを向けた。姫も裁縫をしたのだろうか。お道具箱に細かい鋏などがきれいにセットされていて、眺めるためには美しかった(写真57)。
ドイツって質素なのかと思っていたら、実は華やかで豊かな国なんだと、思わぬところでイメージの修正をし、外に出た。もう一度、歌劇場とレジデンツの建物の全体を眺めてから、ガイドさんの先導で、町をぶらぶら歩いた。裏道や、賑やかな市場ヴィクトアーリエンマルクトを通りぬけ、有名なサッカーチームのファンショップなどを眺めて、細い通りを行く。「ホーフブロイハウス」というビアホールの中にも入ってみた。モーツァルト(1756−1791)や、オーストリアの皇妃エリザーベト(シシィ1837−1898)も訪れたそうで、ドイツで最も有名なビアホールという。確かにビアホールのイメージを変える、フレスコ画の美しい店内だ。
私たちは昨年チェコに旅した時、プラハの「ウ・フレクー」というビアホールで食事をしたが、その店内も広く、装飾が施されていて素晴らしかった。
ここ「ホーフブロイハウス」は色彩が豊かで明るいイメージだ。
ミュンヘンの中心街を回って、私たちは新市庁舎前の広場に立っていた。新市庁舎というものの、どっしりとしたネオ・ゴシック様式の重厚な建物で、中央に高い塔がある。この新市庁舎の塔には、グロッケンシュピールという仕掛け時計があり、12時になるとからくりが動くので、それを見ようという訳なのだ。正午、周りは人でいっぱい、みんな時計台を見上げている。小さく見えるが、実は等身大という人形が動き始める(写真58)。1568年のバイエルン公の結婚式を祝うものとか。馬に乗った騎士が試合をしたり、ビール樽を作る職人が踊ったりする。馬上の騎士の試合は、青と赤の騎士だったが、青の騎士はバイエルンの騎士なのだそうで、当然この騎士が相手を倒す。踊る人形は、自分も回りながら、ぐるぐる行進して行って、止まる。そして、しばらくお休み。もう終わりかと思うが、最後に上の鶏が鳴いておしまいという情報があるので、私たちは待つ。この間が長かった。でも本当に鶏は鳴いた。そしておしまい。全部で10分はあっただろう、少し長い気がした。
ここで、ツアーの仲間は解散、後は自由行動となる。私と夫は、お昼をどこで食べようかと話しながら歩いた。新市庁舎の中にもレストランがあると、ガイドブックに書いてあったので入ってみる。中庭は広く、奥には簡単なセルフサービスのレストランがある(写真59)。どこか学生食堂を思わせられる空間だ。メニューを眺めて迷い、出たり入ったり、結局気持ちが向かず、止めることにした。
市長舎の隣には有名なフラウエン教会がそびえている。教会を眺めながら狭い道に入ると、道路にテーブルを並べたレストランがいくつかあった。
まだテーブルは空いている。私たちはそのうちの一つのレストランで昼食を食べることにした。食べ過ぎには注意したいので、どうしようかとあれこれ悩みながらテーブルに着く。お兄さんがメニューを持ってきてくれたのを見ると、日本語も書いてある。ガイドブックにも載っていないレストランなのに、びっくりした。でもやはり文字が読めるのは嬉しい。夫はほうれん草のソテー、私はオーガニック野菜のグリルを頼んだ。そして、ミュンヘンビール。ビールは日本で言えば大ジョッキ、中ジョッキという感じの種類がある。お昼なので…というか、とても大きいグラスなので、大はなかなか飲みこなせない。二人で中を頼んだ。
まずパンが来る。私たちはパンを頼んでいないと思ったが、お料理にはパンがつくことになっているらしい。大きな皿にたっぷりの料理とパンで、十分お腹がいっぱいになる。ほうれん草のソテーは、とても柔らかい。ソテーというよりペーストに近いくらい。でも、あまり塩気が強くなく、おいしい。オーガニック野菜はびっくりするくらい多く、これがホントに一人分かと驚く。
お料理を1品に押さえたので、デザートにシャーベットとコーヒーを頂いた。コーヒーにはなんと、ウインナーソーセージが1本付いていた。これがホントのウィンナーコーヒー!?(写真60)
お腹がいっぱいになったので、ノイエ・ピナコテーク目指してゆっくり歩くことにした。ノイエ・ピナコテークは、カールス広場から北へ1kmほど行った所にある美術館。近くにはモダン・ピナコテーク、アルテ・ピナコテークなど、大きな美術館や博物館がある。
私たちは地図を見ながらカールス門に向かった。広いノイハウザー通りは賑やかに人が行き来していて、いくつか出店も出ていた。中でもガラスの窓枠が立てかけてある一角には人だかりがしていたので、なんだろうと思ったら、そこはガラス磨きの掃除用具を売っている所だった。ガラスを磨く実演をしながら、洗剤などを売っている。ここに、主婦だけでなく、男性も若者も集まって、じっと見ているのがおかしかった。
考えてみれば、特におかしい訳ではないのだが、日本ではこのような風景にはならないだろうと思う。主婦が集まるくらいかな。さすが、ピカピカに磨くのが好きという、ドイツらしいと思った。
添乗員さんも、現地に住む日本人のガイドさんも、口をそろえてドイツの家はピカピカと言う。確かにレストランはどこも、グラスがピカピカに磨かれていた。ホテルの窓ガラスも。家庭の窓ガラスが磨いてないと、手抜きをしていると思われるとか…。料理をすると汚れるから、家ではあまり手のこんだ料理をしないなどと、まことしやかな話だったが、それは冗談としても、どこへ行っても磨き抜かれたグラスは気持ちよかった。
カールス門の前は広場になっている。かなり暑いが、たくさんの人々がここでも楽しそうに歩いている。私たちは少しでも木陰になりそうな所を探しながら右へ曲り、北へ向かう細い道を進んだ。途中の円形交差点にはオベリスクが建っているが、日差しを遮る物が無い。さらに進んで、今日は休館というアルテ・ピナコテークまできた。美術館は休館だったが、庭園の芝生で横になっている人もいる。私たちが歩いてきた道路沿いには木々の影もできていたので、座って休むことにした。暑いが、気持ちのいい広さだ。
座ってぽつぽつ話していたら、道路の向こう側をツアーの仲間が何人か歩いてくる。添乗員さんもいる。確か、彼らもノイエ・ピナコテークに行くと言っていたが、今彼らは私たちとは反対の方向に進んでいる。車道越しに大きな声で、「もう行ってきたの?」と聞く。「これから行くのよ」と返事。車道は広く、あまりよく聞こえない、なんだか、間違えたので教えてもらったというような話、地図の場所と変わったのだろうか、「一緒に行こう」と言われて、車道を渡った。
これが間違い。私たちはそれから、別の建物の入り口を覗き、お掃除をしていた元気なおじいさんに聞き、大きな建物を一回りしてようやくもとの道に戻り、ノイエ・ピナコテークにたどり着いた。
私と夫がめざしていた所に、ノイエ・ピナコテークはあったのだ。みんな口々にあなたたちが正しかったのね…と言いながら、入り口の階段を上った。ノイエというのは新しいという意味、英語でいえばニューか。近い言語だなぁという気がする。新しいとは言っても、ここは19〜20世紀初めの作品を展示している。クリムト(1862−1918)、ピカソ(1881−1973)もあり、ゴッホ(1853−1890)、ゴーギャン(1848−1903)、セザンヌ(1839−1906)、ルノワール(1841−1919)、モネ(1840−1926)など、フランス印象派の作品もたくさんあった。
とにかく広い、たくさん展示されている。そして嬉しいのは、写真を撮っても良いこと。
もちろん絵は絵で良いのだから、下手な写真でその絵を写し取れる訳ではないのだが、自分たちがその好きな絵と並んでいる姿が何故か嬉しいのだ。しかし、とてもたくさんの絵が展示されているので、どれを写そうかな…と、楽しい迷い。ふと見ると、まるで画集を作るかのように一枚一枚、絵とその説明板を撮っている人がいる。その人の動きを見ていると、せっかく美術館にいるのに絵を楽しめないように思えた。詮索する訳ではないけれど、私たちと同じ観光客のように見えたから、頻繁に見に来ることができる人ではないようだなぁ、などと思いながら見ていた。でもまぁ、人は人、私たちもピカソ、ゴッホなど気になる画家の作品の前では、つい絵と並んで写真を撮ってしまった(写真61、62)。
絵を見た後は、また二人でのんびり歩いた。来た道とは違う道を東に向かって歩き、市の中心へ向かう道を右に曲がって行くと、オデオン広場がある。その向こうには大きなライオン像が並ぶ将軍堂があり、レジデンツの建物に続く(写真63)。私たちはレジデンツの前を通り、マクシミリアン通りの途中から細い道をたどった。サッカーが好きな孫にミュンヘンのチームのユニフォームを、お土産にしようと思ったので、午前に前を通ったファンショップを探したのだ。細い道を行ったり来たり、二人の記憶を便りに歩く。午前に歩いた路地は屋根があったのだが、ガイドさんに案内されてさっと通ったので、そうとは気づかず通り過ぎていた。建物の中の通路のような道だが、そこを抜けると、ショップはすぐ見つかった。買物を済ませ、ヴィクトアーリエンマルクトに向かう。
話は横道にそれるが、私は地図を見るのが好きだ。地図を見ながら、まだ行ったことが無いところに思いをはせることが楽しい。山を歩くときも、もちろん地図が便りだが、町を歩くときも地図があれば初めての土地でも安心する。特にヨーロッパの町を歩くときは、地図が頼りになる。町の通りに名前がついていて、地図にはもちろん、それぞれの通りには必ずその通りの名前が明示されている。残念ながら、発音はできないことが多いが、地図上の文字と実際のプレートの文字を見比べることはできるので、とても分かりやすい。通りに名前があって、みんなが意識しているというのは素敵だ。(写真64)
さて、ヴィクトアーリエンマルクトに着いた。朝も通った広場、全体が市場になっている。大きな市場は何度通っても楽しい。中央の木陰に広いビアテラスがあり、たくさん並んだテーブルには、様々な料理やビールが並び、空席が無いほど人で埋まっている。開けっぴろげで動作も表情も大きく豊かな人たち、賑やかで楽しそうだ。私たちは今夜の夕食をここで買って、ホテルで食べようという計画。これだけ人がいれば雑踏という感じになりそうなのに、何故か伸びやかに感じる。ただ異国だからという訳ではないと思う。空間が大きいのだ。様々な店が並び合っているが、屋根の高いテントや建物で平屋建て、だから迫ってこない。そして何より、商品の並べ方が洒落ている。色使いがとてもうまい。眺めているだけで楽しくなってくるのだ。(写真65)
肉、魚、チーズ、ジャムや蜂蜜、ビールなどはもちろん、手作り小物、花なども並んでいる。何を買おうか迷っていると、私の目の前を、杖をついた老婦人が歩いて行く。ふと見ると、彼女はもう片方の手に大きなソーセージパンを持ち、歩きながら食べているのだ。日本ではお行儀が悪いと言われそうだけど、その婦人は身なりもきちんとしていて、杖をついていても姿勢は良い。当たり前の顔をして、パンを食べながら歩いて行く。
つられたという訳ではないが、私たちもソーセージパンを買うことにした。ドイツに来たらやっぱりソーセージは食べたいし、ホテルでは調理できないし…とあれこれ思いながら市場を回ってみた結果、食べたいソーセージを選んで食べたいパンを指差せば、ぽんと挟んでくれる屋台で買うことにした。バイエルンの名物ソーセージのヴァイスヴルスト、つまり白ソーセージを食べてみたかった。並んでいるたくさんのソーセージの中から、選んで指さす。元気なお姉さんが、ハイヨッという感じでパッパッとトングでつかみ、パンはどれ?と聞く。コッペパンのような細長い形のパンや、丸いパンが並んでいる。私たちは丸い白いパンに挟んでもらった。パンの両側からはみ出ている長いソーセージ、まさしくドイツのソーセージパン!ここは言葉の分からない私たちにも、買いやすかった。ケチャップやマスタードも好みを言って小袋をもらい、暖かい紙包みを抱えて帰ることにした。
ミュンヘンの市庁舎前マリエン広場から地下鉄Uバーンに乗って、ホテルの駅まで帰る(写真66)。市庁舎前には人だかりがしている。仕掛け時計が夕方の5時にも動くので、それを見ようと集まってきた人たちだ。私たちは人々の間を抜けて、地下鉄の駅に降りる。ちょうど退勤時間だったのか、地下鉄はずいぶん混んでいた。これは日本と同じ。立っている人も多い。私たちの目の前で、杖をついた老婦人が座っている若者に、「席を譲りなさい(ドイツ語だけど、多分そう言ったと思う)」と交渉して座った。そこは私の席よという感じで、ごく自然に交代劇が行われていて、周りの人も特に見もしない。そんなことに驚いている、自分の方が恥ずかしいのかもしれない。
マリエン広場駅から六つめの「Nordfried−hof」駅で降りる。この辺りまで来ると、混んでいた車内も空いてくる。駅を出ると広い道路が走っている。ほかほかソーセージを抱えているので、あとはやっぱりビール。広い通りと平行するように歩行者専用の通りもあるので、ビールを買って帰ろうと歩いてみるが、それらしい店が見当たらない。この辺りは新開発地区なのか、おしゃれなショーウィンドウのビルはあるが、スーパーのような店は見当たらない。少しうろうろしたあげく駅に引き返し、小さなキオスクのような売店を覗くと、奥にビールが見えた。ほっとして冷たいビールを買い、ホテルに戻る。
まだ暖かいソーセージ挟みパンと、冷たいビールで夕食。両手で持つほど大きいパンなのに、そのパンの両側からはみ出しているソーセージ。これぞドイツと、妙な満足感。
今日のミュンヘンでの出来事を話しながら、のんびり食べた夕食はとてもおいしかった。ドイツのパンは、さっぱりしているが麦のうまみが濃い。ソーセージは2種類買ったが、どちらもジューシーで満足、満足。ビールはもちろんヴァイツェン、これまたおいしい。(写真67)
品数は少ないが、とても幸せ気分の食事となった。
ミュンヘンでの長い一日の後、今日はニュルンベルク、バンベルクと、中世の面影を残す町を歩く予定だ。バンベルクに一泊した後、旧東ドイツに向かう予定。
ニュルンベルクまでバスに揺られて行く。あまりオペラを観たことがない私でも、『ニュルンベルクのマイスタージンガー(ワーグナー)』という歌劇があるとは聞いたことがある。そして、第2次世界大戦の後、ナチ戦犯に対しての「ニュルンベルク裁判」がこの地で行われたということも、どこかで習った。1933年に第1回のナチ党大会が、ここで開かれたことがその理由らしい。私のイメージでは、もっと小さい町かと思っていたら、ここはバイエルン州ではミュンヘンに次いで大きな都市なのだそうだ。第2次世界大戦で90%破壊されたが、昔の姿を再現して復興されているとのこと。
私たちはカイザーブルク城でバスを降りた(写真68、69、70)。12世紀に基礎が築かれ、15〜16世紀に現在の形になったという、神聖ローマ皇帝の城。高台にあるので、ニュルンベルクの町が見おろせる。赤い屋根がどこまでも続く、町の景色は素晴らしい。(写真71)
町並みを眺めてぼーっとしていたら、背の高い男性三人組が近寄ってきた。すみませんが、写真を撮ってください…と、言ったと思う。イエスとか言って、カメラを受け取り、隣の夫に渡す。夫の方がうまいと思っているから。三人の男性たちは、並んでこちらを向いて、まじめな顔。夫はカメラを構えて右に左に動き、もう1枚、と言いながらシャッターを押す。この三人組、とても背が高かったので、彼らと背景の町並みを写すのが難しかったと、夫は言っていた。ほんとにとても背の高い人たちだった。どこの国の人だろう、北欧かな、聞いてみれば良かったと思ったのは、もうサンキューと言いながら彼らが去った後。
高台から町を見下ろした後、バスを停めた裏手に回り、庭園の中に入った。裏のバラ園はそれほど広くはないが、見事に今を盛りとバラが咲き誇っていた(写真72)。庭園を一周し、大きな門から内側に入る。お城の重い扉の鍵穴は、指1本通る位の穴(写真73)、この穴からソーセージを入れて囚人の食事としたので、ニュルンベルクのソーセージは細いと言う。花々で飾られた美しい建物(写真74)や、60mもの高さがあるという古い井戸の建物(写真75)を見ながら、坂を下る。木組みの美しい家を眺めて下ると、デューラーの家に着く。
デューラー(1471−1528)はルネッサンス時代の画家、彼が16世紀に暮らしていた家が残っている。大画家だったらしく、優雅な生活の様子が分かる。ガラス窓の装飾も、当時贅沢だったろうと思わせられる。顔料(写真76)や、印刷機器などの展示の他、大きな当時の世界地図が展示されていたが、日本はなかった(写真77)。また、当時の技術としては最先端だったのだろう、部屋いっぱいの大きな印刷機があって、実演してみせてくれた。大柄な女性が白い紙を機械に挟んで、力一杯押して行く、そして蓋をはずすと、きれいに印画された紙ができ上がる。A4くらいの大きさの紙。ぼんやり見ていたが、ふと私たちの日常を思い、コンビニのどこにもあるコピー機を思い出した。機械文明は大きく進歩したのだなぁと思った。
もう一つ驚いたのは、当時建物にトイレを作ってはいけなかったそうで、隠しトイレがあったが、それがなんと台所の一角にあって、面白い。台所なら、見つかりにくいと考えたのだろうか。(写真78)
デューラーの家を出ると、そろそろ正午になるので、私たちは中央広場のハウプト広場に向かった。広場の東に建つフラウエン教会の、高い塔にある仕掛け時計が12時に動くので、それを見ようと言う訳。
中央広場にはたくさんのテントがあり、青空市場になっている(写真79)。雲一つない青空の下、痛いほどの暑さに、つい私たちは日陰を求めてしまう。幸い市場はテントになっているので、12時までの間テントを回ってみた。テントの下には色とりどりの野菜、果物、花、そして香料などが並んでいた。
12時に仕掛け時計は動き出し、カール4世(1316−1378)も時を越えて動く(写真80)。
さて、時計を見た後は聖セバルドゥス教会を見て、昼食のレストランに行くことになっているが、その前に中央広場の一角にある「美しの泉」について一言。この泉の柵に金の輪がはまっているのだが、どのようにしてその輪をはめることができたか不思議。それで、この輪を回しながら願い事をするとかなうという言い伝えがあるそう。
私たちも願いをしようと、近くに行ってみたが、話を良く聞いていないので、金の輪がどれか分からない。泉の淵に長く飛び出している金色の棒を触って満足げにしていたら、近くにいたおじさんが、その奥の小さな輪を触って「これだよ」と教えてくれた。よく見れば、確かにそこだけ金色に輝いている。長い時間の、人々の思いで磨かれてきたのだろう。(写真81)
1日一回、正午に動く仕掛け時計を見るために通り過ぎてきた、聖セバルドゥス教会まで引き返す。教会には大きなパイプオルガンがあり、荘厳な雰囲気(写真82)。ここは『カノン(1680頃)』で有名なパッヘルベル(1653−1706)が、オルガン奏者として活躍していたところだそう。長い窓の下の方にはめ込まれたステンドガラスはとても装飾的な文様のデザインで、カラフルな色が日に映えて美しいものだった。素晴らしい今日の晴天だから、より美しかったかもしれない(写真83)。
私たちは教会を出て、レストランに向かう。ドイツは冬の寒さが厳しいため土木工事は春から秋にかけて集中するらしく、どこへ行っても工事が多かった。ニュルンベルクでも赤い工事車が教会の脇の道に停まっていて、その大きなカニのような形が面白くて、脇を通りながら写真を撮ってしまった(写真84)。至る所で工事中だったが、旧市街の中でも、工事の周囲が興ざめになるようなことはなく、さっぱりしていることが多かった。整頓されているからだろうか。それとも、工事従業者のその場に対する愛情?
昼食は広場の奥のレストラン。南ドイツの名物だという、細く切ったクレープが入ったコンソメスープに、ラビオリまで入っていた。
そしてパン屋さんで眺めるだけだった、プレッツェルが添えられている。ドイツのパン屋さんの看板になっているほど、有名なプレッツェル。とても期待して食べたが、塩が強かった。この粒々の塩をとりながら、ビールを飲むのが通というのだが…。これまでの旅の間、レストランやホテルの朝食で、色々なタイプのパンを食べたが、どれも麦の味がしっかりして、とてもおいしかった。プレッツェルは、パンというよりお菓子という感じかな。いや、おつまみなの?食感も固めで、どちらかと言うとぱさぱさに近く、私はあまりおいしいと思わなかった。
メインは、もちろんニュルンベルガーソーセージ。大きな皿に細いソーセージが6本のっている。たっぷりのポテトと、たっぷりのザワークラウトが付け合わせ。さっき見てきた城の鍵穴に入るかな?話題はそのこと、確かに今まで見てきたソーセージに比べれば、ずっと細いけど…。ニュルンベルクのソーセージは6本が最小単位、後は好みで何本でも追加できるそうだ。しかし、細いとは言え、しっかりした噛みごたえのあるソーセージ、6本すら食べきることができなかった。(写真85)
食事の後はバスに乗り、バンベルクに向かう。バンベルクには一つ楽しみがあった。
私たち夫婦が定年後の生活を送ることにした長野県には、オラホビールという地ビールがある。スキーなどで訪問して発見したのだが、この地ビール、なかなか味わい深いものがある。しかし、値段が少し高めなので、あまりふんだんには飲めない。オラホというネーミングが面白いので、方言の「おら(自分たち)」と「こっち」を合わせた「自分たちの方」という意味かと、勝手に想像していた。(写真86)
今回ドイツへの旅のガイドブックを見て、私たちが今日行くバンベルクには、ラオホビールという有名なビールがあることを知った。もしかして、オラホはラオホを意識したネーミング?
ドイツはビールで有名だが、ドイツ全体をカバーする大手のビール会社があるのではないそうだ。地方地方で独特の製法を守って伝えてきたので、それぞれの味や香りや色を楽しめる。
ケルンで飲んだケルシュは黄金色のフルーティな味、ミュンヘンのヴァイスは修道院のマークの、フランツィスカーナーという14世紀創業の老舗の、さわやかな味…、私たちもすでにいくつか味わってみている。
そしてバンベルクのラオホビールは、煙でいぶした麦芽で作る珍しいビールというので、楽しみにしていた。
バンベルクに着くとまずホテルに荷を降ろした。このホテルはお城だったそうで、レグニッツ川のほとりに、優雅にたたずんでいる。広い敷地はいかにも庭園という風情で、ホテルのエントランスもそこに立つだけでため息が出そうだ。
部屋に荷を置くと、みんなでバンベルクの町の観光に出発。ホテルの裏庭からレグニッツ川沿いに、町の中心部に向かって歩く。対岸に川に張り出すようにして建ち並ぶ、小さな家々が見えてくる。ここは漁師たちが住んでいた所で、小ヴェネツィアと呼ぶ地域。緑豊かな水辺に並ぶ白い壁と赤い屋根、狭い区間だが、確かに美しい家並みだ。(写真87)
ここを通り過ぎてレグニッツ川を後にする。犬のための水飲み場(写真88)などがある、面白い坂道を登っていくと、大聖堂と宮殿があるドーム広場に出る。初めに新宮殿に入り、奥のバラ庭園(写真89)からバンベルクの町を見おろす。ドイツは、いやヨーロッパの古い町は、高台に城があって、そこから町を見下ろすことができる所が多いと思う。日本の天守閣もそうかもしれないが、元々高い位置に城を築いたのは攻撃に強い地の利を得るためと、領民の生活を見おろすことができるためだったろうか。(写真90)
歴史はあまり得意ではないが、ヨーロッパの長い歴史は戦いの歴史と言ってもいいくらいだろう。ヨーロッパ大陸の中にいくつもの国や民族が隣り合い、アジア、中近東の国々とも陸路でつながっていた。シルクロードのように、文化の交流という利点はもちろんあっただろうが、いつも敵から身を守ることを考えてきたのだと思う。
美しい町並みを眺めていると、左側の山手に見える城らしき建物について、ガイドさんが「昔のお城だけれど、現在は老人ホームとして使われていますよ」と、教えてくれた(写真91)。私は来るときに飛行機の中で見た映画『カルテット』を思い出し、優雅な生活を思い浮かべてしまった。しかし、城は現代の生活には向かない、暮らしにくい建物、どんな工夫をしているのだろうか。でも、老後城に暮らすって言うとなんだか豪華な気もする。
しばらく周囲の景色を眺めてから引き返し、4隅に塔のあるDOM大聖堂に入った。13世紀に完成したという、ドイツでも屈指の文化遺産とのことだが、キリスト教徒ではない私にとって、教会としてみればどこもあまり変わらない。
ここでは「バンベルクの騎士」という像と、この大聖堂を健立したというハインリヒ2世(973−1024)と、皇后クニグンデ(975頃—1040)の眠る、大きな墓石の周りの彫刻が記憶に残っている。ハインリヒ2世と皇后の生前の生活が描かれている彫刻は、リーメンシュナイダー(1460−1531)という人の作品。
大聖堂を出ると、広い坂道を下って旧市庁舎に向かう。道の両側にはおしゃれな木組みの家があり、古いが丁寧に使われていることがわかる。
旧市庁舎は、レグニッツ川の中の島に建っている(写真92)。市庁舎が立つといっぱいになる、幅の狭い島なので、建物の入り口から両側の川にかかる二本の橋が、まるで一つの橋が左右に続いているように見える。旧市庁舎は、木組みが一段と美しい建物だったので、みんなで見上げてしばしぼんやりしながら、ガイドさんの話を聞いていた。その後この建物の前で解散、自由時間となった。
いよいよ、ラオホビールを買いに行こう。夜中に喉が渇いたときのための水も買おう。私たちは川を渡り、人々のにぎわう新市街の方へ進んだ。広い道には市のような店も出ていて、並べられたテーブルに着いて、ビールや軽食を楽しんでいる人たちもいる。賑やかだ。右の方へ行くとスーパーがあると聞いていたので、右方面に目を凝らしながら町歩きを楽しむ。しばらく歩いて右に折れると、広いバスターミナルがあったが、めざすスーパーはどこにも無い。ビールもだが、水が買えないとつらい。のんびり気分だった私たちは、少し気合いを入れて、周りを見ながら来た道を引き返した。旧市庁舎の橋が見えてきて諦めかけたとき、川に一番近い道を折れた所にスーパーはあった。はっきりとはわからなかったのだが、何かが目を引いたので、近づいてみたらスーパーだった。ドイツのスーパーは、入り口はあまり目立たず、店の外にいかにもという宣伝をしていないので、近づかないと分からないことが多いのだった。
ようやく見つけたスーパーの入り口は小さかったが、店内は結構広かった。私たちはビールがずらりと並ぶ棚の所に行き、ラオホビールを探した。しかし、無い。どう見ても無い。そんな筈はないと思いながらも、少し諦めモードの夫。私は近くに来た店員に聞いてみた。すると、棚の近くの足元にどんどんと積んである段ボールの、すべてがラオホビールだった。(写真93)
私たちは、ようやく手に入れたビールと水を抱えて、ホテルに向かった。ドイツではビールはほとんど瓶ビールだ、だから重い。でもきっと、うまい。
この日の夕食はホテルで、旅行社のメニューにラオホビールが付いていたので、最初のラオホの味わいは、大きなグラスでみんなとの乾杯となった(写真94)。買ったビールは後の楽しみ。ラオホビールは香りが独特でコクがある。癖があると言えるのかもしれない、私にはその深みがとてもおいしいものと感じられた。
ホテルでの夕食は、すぐに横になれるという気楽さがある。のんびりと食事を楽しんで、私たちはそれぞれの部屋に引き上げた。(写真95)
目が覚めると、いよいよ今日は東ドイツエリアに向かう。まずホテルで朝食だが、昨夜も入ったレストランでのブッフェ、びっくりしたことにシャンパンが氷で冷やしてある(写真96)。朝からシャンパン、飲んでいいのかな?ツアーの客たちは、みんなシャンパンに目を留めたが、さすがに朝から開けようとする人はいなかった。おしゃれなシャトーホテルにもお別れ、ホテルの前で記念写真を撮ってバスに乗り込んだ。(写真97)
今日は私たち夫婦の今回の旅のハイライト、ライプツィヒに向かう。夫の好きなバッハ(1685−1750)が暮らした所、そしてバッハが演奏していたトーマス教会を訪ねる予定だった。実はこの予定、二転三転した。3日ほど前に今年のバッハ音楽祭の会場となるため、トーマス教会への入場ができないかもしれないとアナウンスがあった。せっかくドイツまで来て、ライプツィヒに来て、トーマス教会に入れないなんて悲しい…と、暗い気分になっていた。ところが、昨日最終打ち合わせで、音楽祭のリハーサルは午後からなので、12時までは入場できると発表された。ツアーの出発時間を少し早めての対応で、私たちはトーマス教会をめざすことになった。(写真98)
トーマス教会の前でバスは停まった。ここは裏側になるのかな、大きなバッハ音楽祭の看板が立てかけてある。目の前に公園があり、色鮮やかに花が咲いている。そして何人かの若者たちが大きな楽器を搬入していた(写真99)。午後のバッハ音楽祭のリハーサルに備えているのだろう。
ガイドさんは公園の中に私たちを案内し、ここにもう一つのバッハ像がありますと紹介してくれた。よくガイドブックに載っているバッハ像は、教会正面の全身像だが、ここにあるのはバッハの胸像だ。まずここでバッハに挨拶をして、私たちは表に回る。
トーマス教会を背に、バッハがドーンと立っていた(写真100)。周りには観光客がたくさんいる。バッハは1723年〜1750年の間、トーマス教会のオルガン奏者と、合唱団の指揮者として働いていたそうだ。
中に入ってみると、ステンドグラスにもバッハが描かれている(写真101)。バッハの隣にはメンデルスゾーン(1809−1847)も描かれている。そして、祭壇の前にはバッハの墓もあり、花が供えられていた。自由時間は少しだったが、教会に附属している売店、道路を隔てて立っているバッハ博物館などを眺めて歩いた。売店は真四角のガラスの建物なので、中が見える。ここで夫は、CDとバッハの曲の楽譜がデザインされているTシャツを買った。
教会の中ではリハーサルのための楽器搬入が続いていて、人々が働いている。2階のパイプオルガンの周りに楽器を運び上げている。あそこがステージになるのだろうか。音合わせなのか、オルガン奏者が少しオルガンを響かせていた。私は、楽器搬入の人が調律みたいなことをしているのかと思ったが、夫は、あの人はオルガン奏者だと言う。ジャケットなどの写真で、見たことがある人だと言う。彼は、明日の演奏に備えて、パイプオルガンの音を確かめているのか、いくつかのメロディーラインを弾いていた。(写真102)
私と夫はトーマス教会のオルガンの音を聴きながら、しばしの豊かさに酔っていた。入れないかもしれないとドキドキしていたけれど、オルガンの音まで聴くことができてサプライズだったねと、話しながら…。
楽しい時間は早く過ぎる。トーマス教会を振り返りながら、ライプツィヒの旧市庁舎に向かって歩き始めた。ここにはゲーテの像がある。ゲーテは賢そうに大学の方を向いて立っているが、その足はよく通ったと言われる酒場「アウアー・バッハ・ケスラー」の方を向いているのだそうだ。その人間らしさを楽しみながら、彼の愛したという酒場で昼食をとるため細い道をたどった。
市庁舎から少し歩くとメードラーパッサージュというショッピングアーケードがある。このアーケードに入って行くと、通路の左にファウストと、メフィストフェレスの像がある。大きく腕をのばしている先、通路の反対側を見ると学生が3人たたずんでいる像があり、ゲーテの『ファウスト(戯曲1部:1808、2部:1833)』の場面を思わせる。「アウアー・バッハ・ケスラー」へはファウストたちの手前の階段を下って行く。いくつもの柱が立ち、少し薄暗い店内は広い。入り口には大きな酒樽にまたがった、ファウストとメフィストフェレスがいる。周囲を見回すと、壁にはファウストの場面の絵がたくさん描かれている。1525年創業のワイン酒場なのだそうで、ゲーテはもちろん、森鴎外も通ったとか。今もたくさんの客で混んでいる。白いシャツに赤いベストのウェイターが、かっこ良くサービスしている(写真103)。食事の後、店の奥まで行ってみると、そこには着物を着た鴎外の絵も描かれていて、漢字でも紹介されていた。
食事のあとは町の中をゆっくり歩いてゲヴァントハウスを見に行った(写真104)。ゲヴァントハウスとオペラハウスの間にはアウグストゥス広場があり、その中央には車もトラムも走っているが、人々は意に介さず、自由に道路を渡っている(写真105)。しかし、広い。ゲヴァントハウスはそれほどクラシックに詳しくない私すら聞いたことのあるホールだ。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの本拠地で、これは民間のオーケストラとしては世界最古なのだそうだ。メンデルスゾーン、チャイコフスキー(1840−1893)、ワーグナー(1813−1883)、シュトラウス(1864−1949)、フルトヴェングラー(1886−1954)などが、指揮者として活躍したところ。四角い大きな屋根が印象的な…しかし、角張った建物だ。
対するオペラハウスの前には、真黄色に塗られた、人の身体ほどもあるヒヨコちゃんなどがいて、これはまたどうしたことかと思う前庭だった(写真106)。そして、この広場の奥にはライプツィヒ中央駅の巨大な屋根の一角が覗いている。近くに行けなかったのが残念だが、後にバスでその脇を通ったので、ただただ広い駅の姿を見ることができた。
少し歩いて、ライプツィヒにお別れをする前に、ニコライ教会を覗いた。ここは東西ドイツの壁があっさり壊されるきっかけとなった教会という。この教会での集会がきっかけとなって、一気にドイツに機運が広がり、壁の破壊となったのだそうだ。白とやわらかなホワイトグリーンの、ヤシの木のようなデザインの柱、これは平和を象徴するのだそうだが、この柱が内部を上品な雰囲気にしていた。そして教会の外の、集会が行われた広場にも、そのシンボルの柱が立っていた。
世界中に争いが絶えないけれど、過ぎてみればなんと多くの命が消えて行ったことか…。ドイツも東西の壁が取り払われて、その大きなニュースには犠牲になった命が無いことが、歴史上降り返ってもまれな素晴らしいことだという解釈がされている。私もその通りだと思うが、既に過去に、たくさんの命が壁を挟んで失われていったことを思うと、それを忘れてはいけないと気が引き締まる。
再びトーマス教会の前に戻り、バスに乗る。ライプツィヒを後にして今日の宿ドレスデンに向かう。
ドレスデンは、やはり、第2次世界大戦の空襲で破壊された町だ。その後復興再建され、1985年にゼンパーオペラ、2005年にはフラウエン教会もよみがえった。
この復興された美しい都市ドレスデンは、一時世界遺産に指定されていた。しかし、エルベ川に新しい橋を架けることになり、その橋が景観を乱すということで、世界遺産からはずされたのだそうだ。私たちはドレスデンの旧市街に入る時、その橋を渡った。確かに現代的なシャープな橋だが、エルベ川とその周辺の風景に合っていると思った。そして、人々の生活に必要な橋となっている。世界遺産であるかどうかということが大切なのではなく、そこで暮らす人たちが自分たちの暮らしを大切にしているかということが、美しさの元になっているということを感じた。
後に聞いたところによると、この橋の建設は、最終的には市民投票で決定したとのこと。現代的なデザインではあるが、ドレスデンの旧市街の景観を壊すものではないと思う。
私たちの泊まるホテルは旧市街の中心にある。目の前にはフラウエン教会、脇の路地を行けば君主の行列、裏に回ればエルベ川の岸部ブリュールのテラスという、散歩にぴったりの立地。ホテルに着いて夕食まで時間があったので、さっそく散歩に出かけた。
二人だけの町歩きはどこで立ち止まっていても、どこへ向かって行っても勝手気ままが嬉しい。夕食はみんなで一緒にレストランに行くことになっているので、それまでの間の数時間だが、地図を見ながらドレスデン旧市街を歩く。(写真107)
君主の行列の前を通っていく。マイセン磁器のタイルに描かれた長さ101mの壁画だ。渋い芥子色の背景に統一された絵には、1123年から1904年までのザクセン君主の騎馬像や芸術家など93名が描かれている。最後尾に描かれている髭を生やした男の人は、この壁画制作者のW.ヴァルターさんだ。使われているマイセンタイルは2万5000枚にもなるという。ここは戦災を逃れたので、オリジナルが残る奇跡的な所だそうだ。(写真108)
行列を見上げながら歩き、フラウエン教会の前の広場から、アルベルティーヌム絵画館の脇の道に出る。自由時間に入ってみたいねと話しながらぶらぶら歩き、エルベ川のほとりに上がる。ここにはブリュールのテラスという名前がついていて、広々としたプロムナードになっている。私たちは川風に吹かれながら、ベンチで少し休んだ(写真109)。疲れたからではなく、この時間と空間を楽しむために。夕方のこの時間は人も少なく、ゆっくり歩く人や、ベンチにかけて風景の一コマになっているような人たちが、ちらほら見える。私たちはちょっとせっかちなので、風景にはなりきれず、また歩き出す。
市電も渡って行くアウグストゥス橋のたもとから、遠くにゼンパーオペラを見て左に折れた。ゼンパーオペラは地図上では橋のたもとにあるのだが、前庭がとてもとても広いので、遠くにあるように見えてしまう。
私たちはドレスデン城の脇を通って、スーパーの入っている建物をめざす。夜のための水を買うため。そして翌日はドレスデンで夕食も自由なので、何かおいしそうな物を売っていないかなと、その下見もかねている。
アルトマルクト広場の方に向かう。ドレスデン誕生の地という広場の前に大きな建物があり、その地下にスーパーマーケットがあると聞いてきた。建物の中は様々な店舗でにぎわっていた。地下にもスーパーだけでなく、チーズやソーセージなどの専門店が並んでいる。私たちは水のペットボトルを買おうと思っていたが、スーパーの壁際にずらりと並ぶ水は、2ダースくらいのボトルがビニールで梱包されていて、うずたかく積み上げられている(写真110)。ビニールを破って、1本2本取り出すのがためらわれるくらい。そこで、少し戻ってドラッグストアーに入った。そこにはペットボトルが一本ずつ並んでいる。でもよく見ると、普通の水ではなく、何かサプリメントのような物。のんびりあちこち歩いてきたので、もうあまり時間が無い。ここで買ってホテルに戻ろうかとも考えたが、ちょっと気が進まず、再びスーパーに行った。そしてうずたかい水の山から抜き出してレジに進んだ。
この日の夕食は、ホテルの地下にあるレストラン。同じ建物の地下なのだが、一回外に出て、道路を歩いて裏から回って入る。
キューリの冷製スープがさっぱりしていた。メインはポークステーキ、マッシュポテトのせで、マッシュルームソースがおいしかった。もちろんお供にはビール。そしてデザートのカシスのヨーグルトババロアには、ホオズキが添えてある(写真111)。北欧に旅した時、一度だけ食べたことがあるが、おっかなびっくりだったので、味の記憶は今一つ。私はその時までホオズキが食べられると思っていなかったので、驚いたのだ。ほろ苦く甘い味は、添えられている物としては、その姿と合わせて楽しめる物だった。
食事の後は再びホテルの建物の外を回り、賑やかな酒場通りを通って帰る。たくさんの人たちが、道路に張り出したテーブルで食べたり話したりしていた。ふと見ると、夕日に照らされたフラウエン教会が、黄金色に染まっていた。(写真112)
再建されたドレスデンの建物の中では最近出来上がった建物で、できるだけオリジナルの石を使って建てたそうだ。建物を見ると、所々に黒ずんだ石がある。これが、破壊されて瓦礫となってしまった山の中から見つけてきた、オリジナルの石だという。コンピューターを駆使して、壮大なジグソーパズルをはめ込むように、以前あった場所に収められたのだそうだ。
そのすごいエネルギーはどこから来るのだろう。破壊される前と同じものを再び見たい…と願ったドレスデンの人たちは、すごいパワーを持っている。そして今、黄金色に輝く建物を見ていると、再建にかけた人々の気持ちが少しだけ、わかるような気がする。
しばらく教会の夕映えに見とれてから、ホテルに戻った。
ドレスデンに連泊で、この日の予定は郊外のマイセンと、ドレスデンの市内観光だけなので、出発はゆっくりだった。(写真113)
私と夫は朝の空気の中を散歩した。フラウエン教会の前に立つ、マルティン・ルター(宗教改革の創始者:1483−1546)に挨拶しようと、広場の方に行く。ルターがここに立っているということは、この教会はプロテスタントなんだねと、話しながら歩いて行くと、遠くで賑やかな声がする。北欧などでも見た、多人数乗りの自転車のような物が広場にあり、やはり早起きをしたらしい観光客がキャーキャー言いながら乗ってみていた。横向きにペダルをこぐので、ハンドルを握る人と、乗っている人たちのチームワークが要求されるらしい。楽しそうな歓声を背中に聞きながら、私たちはエルベ川に向かう。
ブリュールのテラスは昨夕も気持ちよかったが、朝はまた格別だった。まだ町は半分眠りの中、川は静かで、風を渡らせている。振り返れば、夜の喧噪の後を密かに隠している飲屋街。今まで、飲屋街の朝なんて見られたものじゃないほど汚れているという印象だったが、ここドレスデン旧市街の中心地は川風が淀んだ空気を洗って行くのだろうか、不潔感は無く、人のいない小道が面白かった。(写真114)
二人でゆっくり歩く、新市街と旧市街を結ぶアウグストゥス橋をトラムが行く。ゼンパーオペラの前を通って、ゆっくりカーブして橋を登って行く。一つ一つの建物の間が広く、電線も無いから、空が広く、とても開かれている感じがする。だから気持ちも伸びやかになってしまう。橋のたもとでのんびりした後、ホテルに戻ることにした。(写真115、116)
朝食の後はまずマイセンに向かう。マイセンもエルベ川のほとりに開かれた町、日本でも有名な陶磁器の町だ。そして、先日の豪雨の影響も避けられなかった。いくつかの道がまだ通行困難だそうで、私たちのバスは畑の中の道を迂回して走ったらしい。
苺畑で大きな籠にたくさんの苺が収穫されている。農家の人たちがたくさん働いている。かごに積み上げて収穫する人たちと、どこまでも広い苺畑は、珍しい風景だった。
マイセンには、陶磁器が有名になった歴史と共に、逸話の残るアルブレヒト城がある。丘の上に建つアルブレヒト城は眺めるだけにして、マイセン磁器工場に向かった。1864年までは城の中にあった磁器工場が、今はマイセンの町の外れに立っている。
私たちはバスを降りると、天井のとても高い入り口を入った。入り口の脇には白地に青い剣のマイセンマークのタイルが並んでいる。2、3階は博物館になっていて18世紀からのマイセンの作品が展示されているのだが、まずは1階の工房見学からスタート。
扉を開けると、職人が粘土で形を作っている。その周りを歩いて扉を開けると、そこでも職人が次の工程を実演している。色づけの過程など、実際にやってみせてくれるから、言葉の説明が分かりにくくても何とかなる。こうしてマイセン磁器ができるまでの工程を見て回ると、たくさんの磁器が並んでいる売り場に出る。
ヨーロッパで初めて作られた白色磁器の、最初の成功者が宮廷錬金術師だったというのはなんだか不思議な気がする。しかし、なんとか金を作り出そうと様々に実験していただろう彼らが、白色の釉を見つけたのもうなずけるような気がする。そして、白色磁器は「白い黄金」と呼ばれ、ヨーロッパ各地でもてはやされたそうだ。その製造秘密を守るために、アルブレヒト城の中に工場を造ったというのもうなずける。
せっかくマイセンに来たのだからと、気に入った磁器を探す人たちと別れて、私と夫は博物館に上った。わが家には、マイセンのコーヒーカップが二客ある。結婚祝いに友人からもらったものだ。ブルーの玉ねぎ模様はなく、白一色のマイセンの有名なデザインのものだ。これ以上マイセンはいらないと考えているので、ここでは買い物に気持ちが向かない。ただ私は、わが家のセットと同じものを発見して、これだ、これだと喜んでいた。
博物館には3000点ほどの作品が美しく展示されている。どれも歴史的な名品ぞろいというだけあって、その細かい造作や美しい色彩に見とれた。中でも、パイプオルガンの、パイプが磁器でできているものがあって、驚いた。どんな音がするのだろう(写真117)。また、バレリーナの置物も数種類あって、少し気持ちが魅かれた。
マイセンで作られるまでは東洋から運んできていた磁器だが、シルクロードを通って旅してきた、中国磁器なども展示してある。でもやはりここにあるのは「王様の宝物」で、私たち庶民には遠いものなのかなぁ。
工場の見学を終えると再びバスに乗り、ドレスデンに戻るのだが、途中のワイナリーで昼食の予定。
全体が美しいお城のような豪華なデザインで、入り口は天井が高いホールのようになっている、マイセンの工場にお別れをして外へ出る。その時、ツアーの一人が紙袋をトイレに忘れてきたことを思い出し、添乗員さんと現地ガイドさんが付き添って工場に戻った。残りのツアーの人たちは、道を聞き、少し離れた駐車場まで先に行っていることにする。穂咲きのシモツケソウが揺れる道をしばらく歩くと、駐車場に着く。広い駐車場の奥にぽつんと停まっているバスは、小さくさえ見える。待っていてくれた運転手さんと挨拶して乗り込み、後から来る仲間を待つ。待つほどもなくやってきた3人は、しかし暗い顔。もう紙袋はなかったのだそうだ。マイセンの工場内にはそれほどたくさんの観光客がいたわけでもないし、みんな優雅そうに歩いていたのに…と思う。添乗員さんは、最近ドイツでも置き引きとか多くなってきたので、気をつけてくださいとアナウンスする。
バスは再び畑の中を走り、ワイナリーへと向かう。私と夫は後ろの方の席に座って、窓外を眺めていた。
しばらく走ったところで、私の斜め前の席に座っていた女性が「あ、そうだ!」と、大きな声を出す。トイレに置いた紙袋が無くなったと言った女性。彼女の手はズボンのポケットに入り、その後「私、荷物をクロークに預けたんだった」と続けながら、私の前に座っていた連れのところへ立った。ポケットから出した手には、マイセン工場のクロークの鍵が握られている。
私は「え〜っ?」と呆れたが、口出しはしない方がいいと思い、聞こえてくる二人の会話を流していく。すぐ添乗員さんに伝えて、連絡してもらえばいいのかな…、ま、良かったじゃない、盗まれたのじゃなくて…などと思っている。しかし、二人は迷惑になると困るから、食事をするまでは控えましょうなどと話していた。連れの女性は、お金がかかっても送ってもらえばいいから…などとも話していた。
大きなバスに少人数のツアーだったから、彼女たちの話はすぐ後ろの私以外には聞こえなかったらしい。
何事もなかったかのようにバスはワイナリーに到着、見事な葡萄畑にすっかり心を奪われた私も、彼女たちの件は完全に忘れてしまった。
私たちが昼食をいただく「ヴァッカーバルトワイナリー」は、遠く丘の上まで続く葡萄畑の中にあった(写真118)。門を入り、葡萄畑の間を進むと、レストランとおしゃれな庭園がある。その庭園にいくつものライトや音響の設備が設置されるようで、太いコードが地面をはっている。夜のイベントの準備なのだろう。私たちはその脇を進み、レストランの建物に案内された。
建物に続く広い葡萄畑の脇には、簡単な日よけの下にたくさんのテーブル席があり、初めはそこに案内された。外は気持ちがいいと言っても、雲一つない青空の下ではかなり暑いので、みんなどことなく腰が引けている。しかし全員が席を決める前に、間違えましたと再び案内され、今度は建物の2階に通された。かなり大きな一部屋にテーブルセッティングがしてある。天井を見れば、とてもシンプルなデザインで、銀の円形ラインが美しいシャンデリア。冷房はないので、窓を開け放つ。涼しい風が入ってきて、外よりはやはり良かったねと話しながら、みんな席に着いた。もちろん窓の外には広々とした葡萄畑の緑が続いている。葡萄畑で働く女性の姿も見える。畝の間にしゃがみ込んで手を動かしている姿がゆっくりとしていて、絵を見ているようだ。(写真119)
ここでの食事はワインがついてくるというので、それも楽しみ。この広々としたワイナリーで作られるワインなら美味しいだろうなぁと、期待が膨らむ。前菜のスープには、涼しげな青い花びらの花が一輪浮かべてある。食べるのがもったいないねぇと言いながら、ゆっくりスープを口に運んでいると、メインのチキングリルが登場。大きなお皿に大きなチキン、そしてここにもクリーム色のかわいい花が乗っている。デザートのアイスには緑のミントの芽が飾られ、最後まで自然の色彩が添えられていた(写真120)。ワインはもちろん美味しかった。しかし、大きなお皿に大きな料理もみごとで、私は食べきれないのが申し訳ないくらいだった。
食事が済んで、楽しみのドレスデン観光に気持ちが向かう。私と夫はライプツィヒがハイライトだったのでそれほどではないが、かつての東ドイツで、なかなか尋ねることが難しかったドレスデンの美しい町や宮殿、絵画館などをめぐる、この日を楽しみにしているツアーの仲間たちが多いことを、会話の端々で感じていた。
私はバスに乗る前に、もう一度ぐる〜っと一回転して、360度の葡萄園を目に焼き付けた。そしてバスは出発した。ところが、出発と同時に添乗員さんのアナウンスがあり、私たちはドレスデンへ向かう前に、もう一度マイセンに戻るという。例の忘れ物を取りに行くらしい。運転手さんが言うには、近道があるからそれほど時間をロスせずに往復できるという。
だが、マイセンまでの往復はやはり遠かった。工場の前でバスに乗ったまま、くだんの女性が忘れ物を受け取って来るのを待ち、それからはひたすら山道を走ってドレスデンに向かう。たしかに往路でつまっていたところは通らなかったが、かなり遠回りをしたのではないだろうか、山あいの地平線を眺めながらのバスの旅だった。そして、ドレスデン近くになると渋滞があって、それはどの道でも変わらないようだった。
だがまあ何とか到着。2時間遅れだったが、日本人の現地ガイドさんは笑顔で迎えてくれた。君主の行列は昨日観た人も多いので、簡単な説明にして、ツヴィンガー宮殿に向かう。ツヴィンガー宮殿はゼンパーオペラの奥にあるので、私たちはカトリック旧宮廷教会の隣を歩き、ドレスデン城を左に見て、広いゼンパーオペラの前の広場をわたって行った。(写真121)
ツヴィンガー宮殿は修復しているところが多く、奥の王冠の門には行けなかった。しかし、水を高く吹き上げている噴水と、緑の芝が美しい中庭に入ると、落ちついた建物に囲まれた広い空間は、城というより一つの町のように感じる場所だった。
しばらく中庭から周囲の建物を眺め、私たちはさっき通って来た通路からアルテ・マイスター絵画館に入った。ツヴィンガー宮殿は18世紀の建築家ペッペルマン(ダニエル・ペッペルマン1662−1736)の最高傑作と言われているバロック建築だ。そして北側に増築された、イタリア・ルネッサンス様式のアルテ・マイスター絵画館は、ゼンパーオペラを設計した建築家ゼンパー(ゴットフリート・ゼンパー1803−1879)による19世紀のものなのだそうだ。大きな建物の中央部分が通路になっていて、そこから私たちは絵画館に入ったが、反対側には武器博物館がある。他にも陶磁器コレクションや数学物理学博物館が城の中に開設されているそうだ。
ここにある美術館はアルテ・マイスター絵画館というのだが、ミュンヘンにもアルテ・ピナコテークがあった。私たちがミュンヘンに滞在した時は休館で入れなかったが、このアルテというのは、オールド、つまり古典ということなのだ。ノイエはニューという意味だったから…。そう、ドレスデンにも、ノイエ・マイスター絵画館がちゃんとある。私たちが泊まったホテルのすぐ近くに。ドレスデンに着いた日の夕方の散歩でその前を通り、私と夫は、自由時間に来てみたいねと話した、アルベルティーヌム絵画館の中に。他の都市は知らないけれど、ミュンヘンとドレスデンでは、古典と近代を分けて展示しているのだ。
ここアルテ・マイスター絵画館は、ドレスデンでも特に有名なところだそうだが、それはラファエロ(画家1483−1520)の『システィーナのマドンナ』の存在が大きいと思う。ドレスデンの様々なグッズにプリントされている二人の天使は、いわばドレスデンのアイドル。このアイドルが、実は『システィーナのマドンナ』の下に描かれている天使たちなのだ。
確かにいた。結構目立つところに二人の天使がいた。でも、なんだか…それを見るためにマドンナの絵を見てしまうような気も、ちょっとしてしまう。しかし、ラファエロはやはり天才だと思う。
他にも、とても有名なフェルメール(画家1632—1675)の作品や、ニュルンベルクで家を見て来たデューラーさんの作品などもあり、レンブラント(1606−1669)、ブリューゲル(1525頃−1569)、ボッティチェリ(1445−1510)など、古典絵画が盛りだくさんだった。ジョルジョーヌ(画家1477頃−1510)の『まどろみのヴィーナス』は画集で見たことがあるが、ホントにおおらかな感じ。フェルメールは日本人にはとても人気のある寡作な画家だが、ここには『手紙を読む女』と『遣り手婆』の2作があった。手紙の方は画集などでも見ることがあり、美女が光の中に立つファルメールらしい絵だと思う。婆の方は動きのある画面が面白い絵だと思った。きれいという絵ではないかもしれないが、これもまたフェルマールらしい色使いだなと思った。
少し急ぎ足ながら、たくさんの絵を見た後、自由時間ということになった。美術館の急ぎ駆け抜けた部分を、解説付きで見たい人にはガイドさんが案内してくれるとのことだったが、私と夫は町の中を散策することにした。今日は夕食も自由だから、スーパーで買物もしようという計画。
昨日見て来た総合ショッピングセンターの建物に向かった。ツヴィンガー宮殿を出てドレスデン城を回り込む。
ドレスデン城に続く道は大きな門をくぐって行くのだが、この通りに若い女性が立ってアリアを歌っていた。立地的に声が響く所だからということもあるだろうし、雨風が避けられる所でもあるからだろうか。歌を勉強している学生なのだろうか、足元にはコイン入れがあり、私たちが見ている間にも、コインを入れて行く人がいた。
女性の歌声を後ろに聴きながら、アルトマルクト広場の方に向かう。
ここはエルベ川に架かるアウグストゥス橋と、ドレスデン中央駅を結ぶ線上にあり、駅方面に行くとプラーガー通りに続いている。私たちのめざすショッピングセンターはアルトマルクト広場に向かい合う大きなビル、その地下にいくつもの食品店が並んでいた。スーパーマーケットも入っている。昨日は急いでいたので、ゆっくり見ることができなかった。
店内に入ったところにお菓子屋さんがあった。日本でいえばケーキ屋さんになるのだろうか、しかし、生クリームのケーキは見当たらず、どちらかと言うと、焼き菓子系のお菓子がたくさん並んでいる。そのお菓子の端っこに、無造作に置かれたような円形のお菓子を見つけた。バームクーヘンだ。ドイツが本場というのに、なかなか見つけられないバームクーヘン。直径15センチくらいの気取らない姿に、つい財布のヒモが緩んで、買ってしまった。どっしり重い。(写真122)
持ち重りのするバームクーヘンを抱えて、私たちは地下に降り、スーパーマーケットをめざした。今日は食事も自由なので何時に帰ってもOKなのだが、おいしいソーセージを買って帰って、ホテルでゆっくりしたいと考えているので、そのメニューを探す。ところが、スーパーマーケットではハム、ソーセージコーナーがあまりにも豊富にあって、しかも加熱した方が良さそうなものや、大量にパックされたものがいっぱいに並んでいる。私たち二人の一食分と思って探すと難しい。
そこで、スーパーを出て歩いてみた。店内ところ狭しとチーズだけが並んでいる店、様々なアイス、ジェラートのお店…カラフルな店が、通路の両脇にず〜っと続いているのは、見ているだけで楽しい。しばらくふらふら歩いて目の保養をしていたが、1日の疲れも出て来たので、夕食を探すことにする。おいしそうなソーセージの屋台のような店が目に入った。いい匂いがしている。住民らしい人たちがカウンター越しにいくつか買って行くのを見て、私たちもそこで買うことにした。ソーセージとハンバーグを一つずつパンに挟んでもらう。熱々を紙袋に入れてくれるので、それを抱えて大急ぎでホテルに戻った。
帰り道はシュタールホーフを通った。ここはドレスデン城の北東部の中庭で、君主の行列壁画の内側になるところ。欧州最古の武芸競技場だった所で、中世オリジナルのままに再建されたそうだ。競技場というだけに広いが、特に何もない。100メートルも続く壁の白い柱が美しい。この外側にある君主の行列が戦災を免れたのは、本当に奇跡的かもしれない。
ホテルに戻って夕食。バンベルクでやっと探したラオホビールと、スーパーで買ったフルーツ、そして、長〜いソーセージを挟んだパン。もう一つは厚いハンバーグを挟んだパン。ドイツのパンは麦そのものの味が濃くて、挟んだものを引き立てている。とてもおいしい夕食だった(写真123、124)。
食べていると、窓の外は一気に暗くなり、雷の音が近づく。あっという間に激しい雨が窓ガラスをたたく。稲光がドレスデンの広い空と美しい塔などのスカイラインを走る。部屋の中から眺めているのはいいけど、外にいるときじゃなくて良かったねと言いながら休むことにした。その後も雷は激しさを増し、ついに大音響で、どこかに落ちたようだ。
翌日聞いたところによると、レストランで食事をした何組かは豪雨に当たってしまったとのこと、雷が落ちるのも見たという。「いや〜すごかった」と言う人たちに、聞くだけの私たちは「大変でしたね〜」とうなずいたのだった。
一夜明けて、おしゃれな町ドレスデンとお別れだ。私たちが乗り込んだバスは、アウトバーンをひたすら走る。13日間のドイツ旅行の最後の町、ベルリンへと向かう。ベルリンでは2連泊の予定。
ベルリンと言えば、旧東ドイツの中心地、そしてあの「ベルリンの壁」が建っていた所なのだ。ドイツへ行くからには「ベルリンの壁(の痕跡)」を見なくては、というのが、ドイツ旅行のもう一つのメイン。
ベルリンまでのアウトバーンは長かった。途中トイレ休憩をした広いサーピスエリアのような所には、大きな(長〜い)トレーラーが何台か停まっていた。それぞれのトレーラーが積んでいるのは丸い柱のようなものや平べったい翼のようなもの、よくよく見ると、それは風力発電の柱だった。私たちは時間があったので、できるだけ近づいてみたが、とても大きかった。(写真125)
ベルリンまでの道沿いには太陽光発電のパネルが延々と並ぶところがあったが、風力発電の柱はそれほど多くなかった。これからまだまだ建てるのだろうか。なんだか、良いものを見た気分でバスに戻った。
ドイツは脱原子力発電に成功するのだろうか。目的としては定めたが、まだ原発は稼働しているみたいだ。再生可能エネルギー発電が推奨されているから、これからも増えて行くのだろう。
日本は東北を襲った大地震(2011.3.11)で、今も福島原発が大変な状況にある。にもかかわらず、まだ原発を進めようとしている。現在稼働している原子炉はないのだから、そして、それでも社会は真っ暗にならないのだから、もう原発止めようと決めてもいいのではないかと思う。地球上に膨大な危険な廃棄物を積み上げ、子孫にそのツケを負わせようとしているとしか思えないのに。原発は廃炉にしても、その後気が遠くなるほど長い時間管理して行かなければならないのだ。
原発の事故と言えば、チェルノヴィリの事故の悲劇(1986.4.26)が最初の警鐘だった。もうすぐ30年になろうとするが、まだ現在進行形なのだ。チェルノヴィリは現在ウクライナに位置するが、原発事故が起こった時はまだソ連だった。事故が起こる前は10万人ほどいたとされる住民も、今だに放射能が強く、退去させられたままだ。もちろん30年の年月は、新しい歴史を作るに充分だろうから、引っ越した先での生活が落ち着いてきている人もいるだろう。しかし、ニュースで聞くと、住み慣れた土地で、ふるさとで、暮らしたいと願う老人などが、数百人ほど危険地域内で暮らしているらしい。
私は知人との縁で、チェルノヴィリの子どもたちに海を見せてあげるツアーを手伝ったことがある。神奈川県三浦市の入り江で、20人ほどの子どもたちが、太陽と海と戯れた。大きな声ではしゃぎながら、水をはね飛ばす子どもたちを見ていると、住むところを追われたなどという影は感じない。あれは事故の翌年だったか…、彼らはしかし、夢でうなされたりしていたそうだ。
あの頃にも、様々な意見があって、選べる道も幾通りかあったと思うが、日本は結局福島原発事故に続く道を来てしまった。
最近再生可能エネルギーによる発電が見直されて、風力、太陽光などの発電が増えてきたことは嬉しい。少しずつ未来に夢を築いて行けるかも知れない。孫へ、子孫へ。
私には何ができるだろう。人は全て、自分の生きている時代の文化に、少しずつ責任を持たなければいけないから…。
話を戻そう。バスはアウトバーンを走る。窓の外には延々と続く大地。赤松の林がどこまでも続くかと思うと、突然目の前が開け、木のない草原が遠くまで続いている。緩やかな大地のうねりの向こうに小さな町が見え、また隠れて行く。窓外の移り変わる風景を眺めながら、私たちはベルリンへの思いを少しずつ膨らませていくのだった。
しかし今日はまず、隣の町ポツダムに寄ることになっている。ポツダムは日本人にはやはり重い言葉かもしれない。例の「ポツダム宣言」のポツダムだから…。
私たちはもうリタイアしたので、老人の仲間に入るのかもしれない、が、第2次世界大戦を知らない。戦後の悲惨な様子も、話に聞くだけで実感は無い。まして、子どもたちや孫たちならなおのこと、戦争の残像はないだろう。ポツダム宣言と言っても、首を傾げる人が増えたかもしれない。
若い人たちと言わず、私たちも、平和な時代に生を受けて、とてもとても幸せなのだと思う。自分たちが戦争の無い時代を生きていることを心底ありがたく大切なことだと思っていなければ、時代はすぐ逆行する。世界の歴史がそれを語っている。一人一人の生きる様が歴史を作るのだから。
もう一度心に言い聞かせて、さて、私たちはポツダムの町に着いた。まずバスは新庭園の駐車場に停まる。そこからは森の中を歩いてツェツィーリエンホーフ宮殿に向かう。
朝ドレスデンを発って来たが、もう昼になろうとしている。私たちはまず、ホテルになっている宮殿の一角のレストランで昼食をとった。広々とした明るいレストラン。階段を上って、廊下を奥に進んだところに個室があり、テーブルがセットされていた。白を基調としたインテリア、濃いグリーンの椅子、おしゃれな空間。
メニューは、野菜たっぷりのサラダ、ローズフィッシュという白身の魚のグリル、アイスが添えられたストロベリーのケーキと、見た目も味も素敵なランチだった。しかし、さらにサプライズがあって、オレンジのタルトがプラス。これはツアーの仲間に今日誕生日の人がいるのと、2日ほどずれて誕生日になる人がいるとのことで、そのお祝い。みんなで「おめでとう」を言い、2種類のケーキに舌鼓を打った。(写真126)
お腹がいっぱいになったところで宮殿内の見学。今まで見て来た大きな宮殿とは異なり、田舎のお屋敷のようだと思ったら、これは英国風の館のようなデザインらしい。ホーエンツォレルン家の最後の皇太子が住んでいたそうだ。ツェツィーリエンホーフという名前は、皇太子妃の名にちなんだものだと言う。
そしてやはりこの建物が有名なのは、1945年7月17日〜8月2日に開かれたポツダム会議の舞台となったからだろう。当時の英、米、ソ連の代表の、写真やサインなども展示してある。新聞記事などもたくさん展示してあるが、その会議の部屋がそのまま残されているのだ(写真127)。のどかそうな外見の宮殿、内部には赤いインテリアの部屋があり、そこで第2次世界大戦後のドイツや日本についての話し合いが行われたのだ。
この記念すべき建物の写真を撮るのは、申請すると許可になる。次に行く予定のサン・スー・シー宮殿とセットで料金を払うと、腕に巻くチケットをくれる。皇太子の住居というだけに、会議が行われた部屋以外も、こじんまりとした空間ながら、落ちついた美しいインテリアの部屋だった。高い天井、マイセンのタイルの暖炉、蔵書がたくさん並んだ書棚など、とても豪華だったが、木の柱や枠組みに親しみを感じさせられた。
外に出て見ると、幾何学的なデザインの木組み模様が施されたベージュの壁と、渋い赤茶色の瓦屋根が、手入れされたグリーンの中庭に映える。私たちが訪れた日はとても気持ち良く晴れていたので、青い空を背景に浮かぶ姿は、平和そのもので好ましかった(写真128)。戦争や戦いを感じさせるものはみじんも無く、どうかこのまま世界が平和に向かいますようにと、思わず念じてしまった。
再び森の中を歩いて、バスに乗り、次のサン・スー・シー宮殿に向かう。ここは有名なフリードリヒ大王(プロイセン王フリードリヒ2世1712−1786)が気に入って、人生の後半を過ごしたところだという。この大王はドイツにジャガイモ栽培を広めたことでも有名な人で、宮殿の庭にある彼の墓にはいつもジャガイモが供えられているのだそう。
サン・スー・シーとは「憂いのない」という意味の言葉で、日本語では「無憂宮」。大王が夏の居城として建てたものでロココ様式の美しい建物。自ら設計に加わって、亡くなるまでのほとんど40年を、ここで過ごしたそう。
内部のきらびやかな美しさはもちろんだが(写真129)、広い庭園もまた見事。宮殿を出て、大王の墓に詣で、一個だけのせてあるジャガイモを見てから葡萄棚に向かった。
ジャガイモと言えば、今ではヨーロッパやロシアの食卓に無くてはならないものと思える。これまで旅をしたスイス、フランス、北欧、中欧…どこのレストランでも、ポテトはたっぷりで、しかもおいしかった。しかし、ジャガイモが一般の食卓に上るまでは大変だったということを、どこかで読んだ。悪魔の食べ物とまで呼ばれていたらしい。しかし、ジャガイモが栽培されるようになって、確実に飢えから一歩遠ざかることができたのだと思う。
サン・スー・シーの、黄金色の左右対称に広がった建物は、何段もの葡萄畑の上に建っている。建物そのものは1階建てなのだが、緩くカーブを描いて、葡萄棚を抱えるように建てられている、白とクリーム色をベースにした宮殿(写真130)。葡萄畑の中央の階段を下りて行くと、大きな噴水が水を吹き上げていて、そこから眺める宮殿は殊に美しい。(写真131)
そして、噴水のある広場からさらに遠くに伸びている庭園内の道。幾筋もの道が、木立の間をどこまでも続いている。この広さがなんだかとても気持ち良くて、ドイツの現代人がうらやましくなった。
余談だが、私たちは先に訪ねたツェツィーリエンホーフ宮殿と、サン・スー・シー宮殿の両方を撮影できるチケットを買った。赤いチケットを腕に巻いて、サン・スー・シー宮殿の美しい内部装飾なども撮影した。ところが、ツアーの客でサン・スー・シー宮殿に入場するときに、カメラをバス内に置いて来てしまった人がいた。バスの駐車場からは歩いたし、現地ガイドさんが待っていて、入場時間が決められていたそうで、彼らは泣く泣くカメラなしで入場した。
私は自分もやりそうな失敗だし、その時の悔しさも想像がつくので、噴水のところで思い出に1枚と、彼らを撮影してあげることにした。添乗員さんも同じ思いと見えて、別のところで撮影していた。
後日このときの写真を、他のサン・スー・シー宮殿の写真と一緒に、データで送った。海外旅行先で、ツアー同行の人と住所を交換したのはこれが初めて。
さて、ポツダムの美しい宮殿をゆっくり見物した後は、一路ベルリンへ向かう。
まずホテルに荷を置き、歩いて夕食に向かう。今回の旅行での、ツアー仲間との食事は、この夕食が最後。明日の夜は自由行動となっているから。私たちは夕暮れの中をゆっくり歩いて行った。ホテルは旧西ドイツエリア、動物園の隣に建つ。このベルリン動物園にはパンダもいるそうで、前を通った入場門は金ぴかで中国的なデザインだった。
夕食はビアガーデンのようなカントリー風のレストラン。食事は、コールスローサラダに厚いポーク、ザワークラウトが添えてあって、ドイツらしいメニュー。私たちはもちろんビールも添えて。隣り合った最年長だという二組の夫婦と乾杯、私の隣の男性は80代だという(写真132)。私たち夫婦も、彼らの年齢になっても元気に仲良く旅をしたいものだと思う。最後の夕食はいつもより少し時間をかけて、おしゃべりを楽しんだ。
ホテルへの帰り道も、何となくおしゃべりの余韻を引きずりながら、のんびり歩く。途中の信号は可愛いアンペルマンなので、赤になっても楽しい。(写真133)
ベルリンは、スイスのベルンと同じく「ベアー(熊)」から転じた名前だ。市内には、色々なデザインの熊がバンザイをしている彫刻が、たくさんあるらしい。
朝食に行く時、ホテルのショーウィンドウを覗いたら、たくさんの熊のミニチュアがいた。とってもカラフルで楽しい熊なので、旅行中に何頭と出会えるか楽しみになった。前夜、レストランの前の広場に、きれいなブルーの熊が片手を上げているのを発見したし、ホテルの前には美人の絵のTシャツを着て嬉しそうにバンザイしている熊さんがいる。どれも、とても大きな熊さんで、これは熊の等身大と言うのかな?(写真134)
そんなちょっとした期待も含めて、ベルリンの旅に出発だ。私たちは新しい建物も多いポツダム広場でバスを降りた。歩道を斜めにラインが走っていて、中央には道行く人が読めるように、『BERLINER MAUER 1961-1989』と文字が刻まれている。ここが、ベルリンの壁が建っていたところ(写真135)。今は広い道路と近代的なビルが建ち並び、明るい。頭の上にはショッキングピンクの太い管が3本、水平に走っている。私の胴よりかなり太いその管は、何かのモニュメントかと思ったら、工事中の排水などを送るのだそうだ(写真136)。その後も市内の何ヶ所かで、グリーンやブルーの管を見たが、モニュメントのようで、堂々としていて、工事中の雑駁さを感じさせず、景観を壊さないところがすごいと思った。
ベルリン市内には、数カ所壁を残したところがあるそうだ。私たちも、今は全く面影のないポツダム広場でその痕跡だけを見た後、現在も残っている壁を見に行った。歩いて行って、遠くから見えて来たとき、思わず「えっ?」と声が出ていた。「あれがベルリンの壁なの?」。そう、その壁はあまりにも薄く低かった。もちろんあくまでも私のイメージの中で。暗い歴史の厚みがイメージの中で壁を膨らませていたのかもしれない。こんなに薄い壁が、たくさんの命を奪ってきたのかと思った。私は強大な城壁、上を人が歩いて見張れるほどの建造物だと思っていた。実際は20センチにも満たない厚さの壁。てっぺんには手がかりが無いように、円形のパイプがかぶさっていて、確かにこの壁を越えようと思えば、それは物理的にも簡単ではないと思う。しかし、この壁の恐ろしさは、そのような物理的なものではなく、その壁の存在を許した、人々の心のあり方だったのだろうと、今深く感じる(写真137)。
大きな犠牲を払わずに壁の崩壊ができたことを喜び、それは現代人に少しは知恵がついたのかもしれないと思うことにして、次の場所に向かった。
近くには切り取った壁をキャンバスにした、ポップアートが展示されていた。そして、当時の国境検問所、チェック・ポイント・チャーリーを西から東へ、そしてまた東から西へ歩いて来た。検問所の小さな建物の前には当時の軍人の写真が大きく掲示してあるが、今では観光用に軍服を着た人がいるだけだ。その軍人と、彼の持つ大きなアメリカの国旗と一緒に、どこの国の人か知らないが、何組かの観光客が写真を撮っていた。私は写真が趣味なので、どこへ行ってもすぐ写真を撮るのだが、何故かここではあまり撮りたいと思わなかった。ポイントのある場所、今の町の風景を撮ってその場を離れた。
次に行ったのは有名なブランデンブルク門。やっぱり広い。たくさんの観光客が広場を歩いている。多分国籍も年齢もバラバラの人たち。大道芸人もちらほらいた。ここに来て初めて、ブランデンブルク門は東ドイツエリアを向いて建っていることに気がついた(写真138)。この門の西側にぴったり壁が建っていたので、市民は近づくことができなかったそうだが、今は私のような観光客も門を通ることができる。夫が持っているレコードのジャケットに、門とその向こうの壁が写っている写真のものがある。こうだったのか…と感慨深い。
門の前の広場から、圧巻の勝利の女神を眺め上げて、この時は門をくぐらず、再びバスに乗った。世界遺産にもなっている博物館の島に向かう。シュプレー川の中州というここには、5つの博物館があるが、私たちはベルガモン博物館に入場する。古代ギリシャのベルガモン(現代はトルコのゲルガマというところ)で発掘された、「ゼウスの大神殿(紀元前180−159)」が再建されている。入場すると、見上げる高さの石の建築、9.66mという。たくさんの彫刻といい、古代の人々はどのようにしてこの巨大な建造物を構成したのだろう。「ミレトスの市場門」やバビロニアの「イシュタール門」も、やはり巨大。イシュタール門は、濃い青いレンガの壁だ。イシュタール門に続く「行列通り(紀元前560年頃)」は、青い壁を背景に、歩くライオンが延々と描かれていて、まさしく行列だ。
展示物は見切れないほどたくさんあり、壁などの模様の美しさや大きさに、古代の人のエネルギーを感じた(写真139)。壁の文様を描き出すために、様々な色に焼いたくさびのような石が使われたという。その小さなくさびと、巨大な壁画を見ると、ますます古代への畏敬の念が湧いてくる。
たくさんの展示物を見て回っていると、人類は進化しているのだろうか…という疑問を持ってしまう。(写真140)
ベルガモン博物館を出ると、その後今日は自由行動となる。他の博物館を見る人もいるし、バスでホテルまで帰る人もいる。私たちは古代に圧倒されていたので、博物館のはしごは止めることにした。時間はたっぷりあるので、ベルリンの町を自分たちの足で歩いてみることにした。
博物館の周りは、あちこち工事中のためかすごい混雑で、車があふれている。自分たちが乗って来たバスに手を振って、歩き出す。今日までお世話になったトルコ人の運転手さんともお別れ、明日は空港までなので別のバスになるらしい。
混雑の中、ゆっくり走り去るバスを見送って、森の中を歩く。すぐ広い芝生に出る。そこには堂々とそびえるベルリン大聖堂(写真141)。芝生の奥には旧博物館の柱がきれいに並んでいる。芝生で休んでいる人も見える。私たちも、腰を下ろし、これから歩くベルリンの地図を見ていた。
そこへ、赤ん坊を抱いた女性が近づいて来て何か話しかける。英語が話せるか?と聞いたらしい。夫は少しと答えたみたいで、彼女はさらに何か言いながら寄ってくる。言っている内容は分からないのだが、どこか押しつけがましく、しつこい感じがする。私は、ノーサンキューと言って、手を振った。彼女はつまらなそうに去って行き、見ていると、他の観光客にまた近寄っている。
どうやら、ジプシーの物乞いと言われる人らしい。本当のところ分からないが、そのような人が近づいてくることがあるから気をつけるように注意されていた。乱暴な訳でもなく、被害を受けた訳でもないが、何故か善意の隣り合う人たちとは空気が違う。まだ、私の中にも野生の勘のようなものが残っているのだろうか。
再び歩くことにして、シュプレー川に架かるシュロス橋を渡る。ここでは小学生のような男の子たちとすれ違った。彼らは片言だが「こんにちは」と大きな声で言って行く。こちらは気持ちよかった。中に一人、孫にそっくりな子がいて思わず見送ってしまった。小学生みたいね、同じくらいの歳だよねぇと、夫と話して、楽しそうに弾みながら去って行く子どもたちの背中を見ていた。
橋を渡ると、大きな通りに出る。ウンター・デン・リンデン、つまり菩提樹の下の道という名前の大通り。私たちは、この通りをまっすぐブランデンブルク門まで歩くことにした。途中工事が多かったが、ベルリン国立歌劇場も工事中で、残念だった。ここは、私の大好きなマラーホフさん(ウラジーミル・マラーホフ:バレエダンサー1968−)が芸術監督をしているバレエ団があり、覗いてみたかった。しかし工事中ではしょうがない。向かい合うフンボルト大学も重厚な建物だ。門の前には学生向けだろうか、本を売る出店がたくさん並んでいた。ドイツ語は分からないが冷やかしながら歩く。
途中アンペルマングッズの店があったので、ここでお土産を買うことにする。お腹と背中にそれぞれ赤と青(緑)のアンペルマンが印刷されているシンプルなTシャツが気に入ったので孫に買って帰ることにした。
アンペルマンというのは旧東ドイツの歩行者用信号のデザインで、日本の信号と似ている、人のデザインだ。青は歩いている絵、赤は立ち止まっている絵なのだが、この人の姿が頭でっかちの子どものようで、なかなか可愛い。東西ドイツが統合されたときに一時は無くなる運命かと思われたのだが、市民運動のおかげで、消えずに残すことになったそうだ。今では、旧西ドイツでも使用している都市もあり、ドイツのシンボルの一つになっている。
他にもベルリングッズを並べているお土産屋さんがあったので、そこで、壁を壊したときの石を買った。置物のようになっている。
色々な店を覗きながら歩いて、ブランデンブルク門に着いた。今度は門をくぐる。自分の足で歩いて(写真142)。壁があった頃のベルリン市民は、こんなに立派な美しい門を歩いて通ることができなかったんだと思うと、平和が今更のようにありがたい。
門を抜けると、そこからは広い、広い、とても広い森が広がっている。ティーアガルデンという公園だ。ウンター・デン・リンデンから続く、広い道路が中心を走っている。この広い公園は、かつて王家の狩猟場だったそうで、大きな木が茂っている森の中を、幾筋もの気持ちよい道が曲線を描いて、公園の中央通りと公園の外を結んでいるようだ。
ブランデンブルク門を抜けると、公園の入り口の広場には大きな舞台が設定されていて、賑やかな音響が流れている。何人もの人たちが、あれこれと働いている。今日はここで何かあるみたいだねと言って、思い出した。
ベルリンでのツアーを始めるにあたって、ガイドさんから「今日は1年に1度のゲイパレードの日に当たっているため、道路状況によっては、観光の時間が変化するかもしれません」とのアナウンスがあった。
そうだ、この公園も、ゲイパレードの舞台になると言っていたっけ。中央の広い通りは「6月17日通り」という名前らしい、その通りには様々な屋台が出ていた。お肉をジュウジュウ焼いている店や、カラフルなお菓子や飲み物、アイスクリームなどの店。もちろん食品だけではない。楽しそうな色見本みたいに、帽子を並べた店もあった(写真143)。これからまだまだ店が出るらしく、準備している人たちもいた。私たちは、ゲイパレードってどんなんだろうね、と話しながら遠くに見えている戦勝記念塔に向かってゆっくり歩いて行った。本当は昼ご飯を食べる時間を過ぎているのだが、それほど空腹感が無い。二人でアイスを買って食べながら歩いた。(写真144)
途中座って休んだり、お店を覗いたりしながらではあったが、歩いても、歩いても戦勝記念塔は遠い。でも、近づくにつれ、人が増えて行く。楽しそうなリズミカルな音楽も聞こえている。きっとパレードが近いんだ。私たちは今まで、ゲイというような生き方に必要以上に興味も嫌悪も感じていなかった筈なのに、楽しそうな音楽につられるように、次第に気持ちが引きつけられて行く。ちょうどお祭りのお囃子が聞こえてくると、御神輿が見たくなってキョロキョロするような感じ。
しばらく歩いて、やっと戦勝記念塔の円形広場に着いた。ここには何本かの車道が集まってきて、ロータリーになっている。高さ67mという塔の上には金色の勝利の女神ヴィクトリアが立っている。1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、1870〜71年の対フランス戦争の、勝利を記念して建てられたもの。ずいぶん戦争ばかりしていたんだ。島国日本と違って、周囲にいくつもの国と国境を接している大陸の国々は大変だなと思う。外交にたくさんのエネルギーを使うんだろう。
塔を囲むロータリーには、隙間が無いほどたくさんの人たちが座り込んで、食べたりおしゃべりしたりしている。これは「場所取り」だ。もうすぐパレードが来るのかな、ちょっと見たいねと話しながら、隅の方のベンチに座ってみたが、しばらく経っても周囲の空気は同じ。私たちは飽きて来て、森の中を通ってホテルに戻ることにした。
木々の間のぽっかりとした日だまりに、シートを敷いてピクニックをしている人や、所々にある彫刻の前のベンチで、自分たちも彫刻になったようにのんびり座っている人や、犬の散歩に付き合っている人…、たくさんの人たちとすれ違いながら、ベルリン動物園の裏の川を渡って、ホテルに戻った。
しかし、夕食を買ってこなかったので、今度はツォー駅前から伸びている商店街のある通りに出かけることにした。そこには老舗のデパート「カーデーヴェー」もあるとのことだから、何かしら買って来ることができるだろう。
ホテルを出て、大通りに向かう路地に入ったとたん、弾むようなロックの響きが前方から波になって押し寄せて来た。もしかして?私たちは急ぎ足で進む。
旅をしていると、日常世界とは全く異質な出来事に出会うことや、これまた日常の自分とは違う人間になってしまったような時間を過ごすことがある。
まさにこの瞬間、私たちは異次元空間に飛び込んだ。目の前の道を巨大なトラックが塞いでいる。大音量のリズムに、空気がすべて揺れている。道路、歩道いっぱいに人があふれ、みんなが弾んでいる。トラックは2階建てになっていて、荷台を埋めるカラフルな人たちが、歌ったり叫んだり手を振ったりしている。大きな旗を振っている人もいる。虹のような旗は、ゲイパレードのシンボルのようだ。(写真145)
ズンジャカ、ズンジャカ、笑顔満載のトラックは停まっているかのようだが、実はゆっくり進んでいて、前にも後ろにも同じように大きなトラックが見える。見物者も、警備員もみんな身体が揺れている。トラックの前で警備員さんと並んで記念撮影している人もいる。おかしい。つい笑ってしまう。
ここにいる人たちは、善悪の感情を越えて、みんなが今を楽しんでいる。その空気がすごい。なだれるように自分の中に入って来て、つい自分も楽しんでしまう。この感覚、やっぱりお祭りだぁ。(写真146)
私と夫は、たくさんの人たちと混ざってふらふら歩きながら、ゲイパレードを楽しんだ。見ていればきりがなく、パレードについて歩いて進んで行く人もたくさんいるが、私たちはちょうどデパートの入り口に来たので、そこでパレードとお別れした。
「カーデーヴェー」デパートに入り、全館ガイドを見る。表示は7階まであった。でも、ヨーロッパでは1階を0階というので、実際は8階まであるというわけ。食品フロアは6階(日本では7階)にあった。日本の食品売り場は1階か地下にあることが多いが、やはりお国柄か。しかし、行ってみて分かった、ここ6階の食品売り場はイートインとセットになっている店も多い。日本のレストラン街はだいたい上の方にあるから、そんな感じ。
デパートと言っても、気取っていない、天井まで壁いっぱいに様々な商品が並んでいる。ただ、並べ方はおしゃれだ。色合いが考えられている。小さな瓶に入ったジャムや漬け物、調味料、何ものかちっとも分からないけど、きれい。チーズや蜂蜜も、よりどりみどり。
私たちは今日の夕食と、お供のワインを買おうと思っている。お酒売り場に行ってみたが…あるある、いくつもの棚にびっしりと並べられた酒の瓶。お酒のデザインはおしゃれなものが多いので、見ていると楽しくなるが、ここから一つを選ぶのは大変。しかも文字が読めない。しばらく見て回った後、売り場の女性に聞くことにした。ちょうど持っていた案内書に載っていたので、そこを指差して聞く。買いたいのはドイツのスパークリングワイン「ゼクト」、女性は小さな文字に顔をしかめながらも目を近づけ、にっこりした。「オー、ゼクト」と言いながら、目の前のレジ横に山と積み上げてあるスパークリングを指差す。灯台下暗しとはこのこと?私と夫は今日の分と、日本に持ち帰る分と2本のゼクトを買った。
それから、次は食べ物。見ている前で作ってくれるソーセージパンなどもおいしそうだし、たくさんの人がそこで座って食べている店もいっぱいあったが、せっかくデパートに来たので、ソーセージパンじゃないものも見ることにした。そして見つけたのが、日本でいえば総菜売り場なのかなぁ、きれいなガラスのショーケースの中に何種類ものサラダやオードブルが盛りつけられている。
おいしいソーセージは何度も食べたので、今回は魚を食べようと言うことになった。サーモンなどの魚介が乗ったサラダが大きな皿に盛りつけられているので、それと、野菜を少し買った。驚いたことに、それぞれにパンがついて来た。ドイツのパンはおいしいので、別に買おうと思っていたが、これでOK。
買物を済ませたので、ホテルに戻ることにする。デパートを出ると、ゲイパレードの痕跡は跡形も無い。いや、ゴミの山があるのだが、オレンジ色の清掃車が何台も来て、オレンジ色の服に身を包んだ作業員が何人もいて、どんどん片付けて行く(写真147)。パトカーが斜めに駐車して道路をとめ、清掃車がゆっくり進んで行く。そして後には何も残らない。
見ている間にきれいになって行く道路。すごいパワーだ。つまり、ゲイパレードのズンジャカとその後の清掃車軍団は、一つの行列になって進んで行く訳、去った後はもとの道路、なるほどねぇ〜。それを知っているから、みんなお菓子のゴミなどを道路に平気で捨てていたのかなぁ?よく分からない世界。
ホテルでドイツ最後の夜をゆっくり過ごした。窓のカーテンを開けると、ツォー駅からポツダム広場に続く道路を見おろすことができる。街灯に照らされて散策している人たちが見える。少し離れたビルの屋上にはベンツのマークが見えている。この巨大なマークはとてもゆっくり回転している。ビルが高いので、かなり遠くからでも見える。ベンツって、ドイツの車だったんだと、改めて納得している。
買って来た夕食はとてもおいしかった。海鮮サラダは野菜もたっぷり、味付けも濃厚ながらしょっぱくなく、スパークリング「ゼクト」によく合った。私たちはちょうど上がって来た満月に近い月を見ながら乾杯した。(写真148)
とうとう帰る日が来てしまった。ホテルの朝食が終わると、バスに乗って、ベルリンのテーゲル空港に向かう。空港のエントランスに、古い電車が展示してある。ゴッツイ四角の電車。この空港でまず、ハイデルベルクで買った木彫りのくるみ割り人形の、税金還付の手続きをしてから、フランクフルトに向かう。私たちはフランクフルトから国際便で成田空港まで直行することになっている。
フランクフルト空港と言えば、あの税関チェックが厳しいとドキドキしたところ、あれからもう12日も経っているなんて、楽しい時間は過ぎるのが早い。搭乗を待つ間、私たちは空港内にあるタックスフリーのお店を眺めて歩いた。お土産としてはビール、ゼクト、そしてバームクーヘンが既にスーツケースの中にある。
ユーロは余っているが、ヨーロッパの色々な国で使えるので、持って帰っても大丈夫、無理に使い切ってしまう必要は無い。ドルやユーロのように、使える幅の広い通貨は気楽でいい。
それでも眺めているうちに、いくつかのおしゃれなパッケージのチョコレートと、ザワークラウトと、ピクルスの瓶詰めなどを買い込んだ。それから、パンをいくつか買い込んだ。ドイツのパンはどこで食べてもおいしかった。ただ、有名なプレッツェルだけはしょっぱすぎて今ひとつだった。
ベルリンからの空路も、フランクフルトからの出発も、晴れていて下の景色がよく見えた。しかし、フランクフルトからの席は、通路に挟まれた4人席だったので、下を見るためには立って窓に近づかなくてはならない。ドイツ上空を飛んでいる間に、しっかり見た。「さよなら、ドイツ」。(写真149)
機内では、通路に挟まれた4人がけの席の端に夫、隣に私、そして一つ空けて、反対の端には可愛い男の子が座っていた。男の子と言うのは失礼になるくらいの青年なのだが、邪気のない笑顔が子どものように見えて、つい可愛いと思ってしまう。隣が空席というのは、狭い機内ではとてもありがたい。しかも、私たちの後ろはトイレの通路だったので、後ろには客がいない。なかなか気楽な席だ。
隣の男の子は、ニコニコして時々こちらを見る。会釈して横目で見ていると、よく食べる。大きなドーナツの袋を出して、ぼりぼり食べている。びっくりして見ていたので、目が合ってしまった。彼は袋をこちらに差し出して、「どうぞ」というようなことを言う。私は笑いながらノーサンキューと言った。そこで知らない同士の間の垣根が少し揺れ、お互いちょっぴりブロークンの英語で、会話をした。
彼はフランスのリヨンに住む。家族はもう少し田舎にいると言っていた。学生かと思ったら、23歳で、働いているそう。働いてお金を貯めたんだよと、笑いながら言う。そのお金で、日本へ一人で旅行するのだそうだ。20日間で、京都や東京に行くのをとても楽しみにしているんだって。若い人が20日間も海外旅行できるなんて、フランスは豊かな国なんだ〜などと、たった一つの情報で思ってしまう自分に呆れながら、おしゃべりを楽しんだ。
しばらく話した後、彼はお菓子いっぱいの袋の中からチョコレートを取り出して食べ始めた。そして、またもやどうぞと差し出してくる。おしゃれなパッケージだったので、思わず手が出てしまった。ありがとうと、もらったチョコを見る。フランスのチョコだった、当たり前か(写真150)。彼はいつもの町のいつもの店で、旅行用にこのお菓子を買って来たのだろう。それにしても細い体なのによく食べる。周りにはドイツ語系の人たちが多いので、フランス語を話す彼にはつまらないのかもしれない。
でもしばらくしてふと見ると、その男の子はちょっと離れた席にいる女性と笑いながら話していた。フランス語だ。私にはヨーロッパの人たちはどこの文化圏か分かりにくいのだけれど、彼らにはちゃんと分かるんだ。楽しそうに話す彼らの姿を見ながら、日本人同士だったら、きっとそこにいることが分かっても、なかなか「はじめまして」と話しかけないだろうなと、思ってしまった。
機内食は野菜もあり、酢の物もあり、のり巻きなども添えて工夫してあるが、どうしてもパックされた味になってしまう(写真151)。機内食のサービスが終わると、機内は眠りに入る。目が覚めれば、もう日本だ。
機内ではなかなか眠れないけれど、なるべく静かに目を閉じて時間を過ごす。11時間の空の旅。ビジネスクラスに乗っている人はそれほどでもないのだろうか、機内の時間がもう少し短縮できれば、もっともっと海外へ行きたくなるだろうと思ってしまう。飛行機に乗る前に、私がそんな呟きを声にしてしまったら、添乗員さんが「ビジネスクラスも、乗っている時間は同じですから」と慰めてくれた。そう、早く着く訳ではない。
と、あれこれ言っている間にもう成田の上空だ。到着2時間ちょっと前には朝の機内食が出て、機内も目覚める。
成田から東京までは、成田エクスプレスに乗る。東京駅から長野新幹線に乗り換える。成田に、朝着いたので、その日のうちに長野の自宅に帰り着く。スーツケースの中はほとんど洗い物でいっぱいなのだけど、その隙間にたくさんの目に見えない空気がつめ込まれている。13日間の色やにおいや、乾燥した肌触りの全てが荷物の間から顔を出す。それを思い出と言うのかもしれない。(写真152)
いつもの旅行のように、家に着いてからもしばらく心地よい興奮の渦の中にいた。