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6「酷暑・猛暑の中欧大平原」

ハンガリー スロヴァキア チェコ オーストリア

2012.8.1〜8.8


もくじ

🟥 どこへ行こうか二転三転
🟥 横浜みなとみらいの夜景
🟥 ウィーンからブタペストまで・一日目
🟥 ドナウの真珠ブタペスト・二日目
🟥 大道芸人盛ん、ブラチスラバ・三日目
🟥 願いごとがかなう橋プラハ・四日目
🟥 山あいの街クルムロフ・五日目
🟥 白い町ウィーン・六日目
🟥 ウィーンの通勤電車・七日目
🟥 日本も暑い・八日目


どこへ行こうか二転三転


長年努めた仕事を、3月に定年退職。同じ年に生まれたのに、遅生まれの夫は、もう一年勤務を残す。その間、私も再任用勤務をすることにした。しかし退職は退職、人生の一つの区切りとして、夏休みになったら退職記念の旅行をしようと張り切った。海外旅行に行こうと思い立つと、どこへ行こうかという話で盛り上がるのだが、今回はドイツと行き先は決まっていた。そして、ドイツでも外せないのがライプツィヒ。バッハ(ヨハン・セバスチャン・バッハ 1685-1750作曲家)の暮らしたところ、演奏した教会を見たいという夫の希望を最優先にしたから。

ところが、よく目にする旅行会社のパンフレットで、ライプツィヒに行くコースはほとんどない。私たちの夏休みも、いつでも大丈夫というわけではない。そんな中で候補を決めたが、夫の仕事の予定が入って、まず第1候補はだめになった。次のコースは、ツアーの日程ではライプツィヒに行かないのだが、ベルリンでの自由時間があるので、自由時間を使って電車でライプツィヒまで行ってこようと考えたもの、しかしこれもまたまた夫の仕事が入ってダメとなってしまった。

そこで、ドイツは諦めるしかなく、一時は旅行そのものを止めるかと、暗い気分になった。数週間、諦めモードの暗い顔をしている私に、ついに夫は音を上げた。

「ドイツは二人が退職してから真っ先に行こう」と。

妥協して、隣のオーストリアを中心に調べた。私の行きたい、チロル地方、ザルツブルクなどで山に登るコースも目に入る。日程も合うので旅行代理店と相談したが、このツアーは、今度は集客できないということで流れた。その後代理店の人がいろいろ調べてくれて、何とか中央ヨーロッパを巡る8日間の旅に参加することが決まった。


なぜヨーロッパなのだろう…と、ふと思う。子どもの頃からいつか行ってみたいと思っていたところは、イースター島、チチカカ湖、アマゾンの密林、ヒマラヤのふもと、モンゴルの平原、キリマンジャロ、オーロラの見えるツンドラ地帯…それから、かろうじてイギリスのヒースの丘、フランスの荘園…。ヨーロッパよりアジア、アフリカ、南アメリカの大自然にあこがれていた。

ところが、人生の後半にさしかかって、海外旅行が現実になったときに、私たちが選んだのは3回続けてヨーロッパだ。

文化が人の知恵の輝きだとしたら、長い人類の歴史の中で様々な色模様を織り出してきた、ヨーロッパというところに何か惹かれるものがあるのかもしれない。

しかし一方で、独自の文化の輝きを放つ様々な民族などの姿に、大きな魅力を感じることもまた確かなのだが…。

自分たちが旅の日程を組んですべてフリーで旅をするのが、旅の醍醐味だとは思うが、唯一学習したはずの英語も自由に話せない私たち夫婦にとって、旅を楽しむゆとりもなくなりそうな個人旅行は、まだまだハードルが高い。適当な旅費でコンパクトに案内してもらえるツアーは、安心できてありがたい。ツアーにも様々な会社の商品があるから、自分たちに合いそうなところを選べばよい。

まずは旅の初心者としてツアー商品が取り揃えられているヨーロッパに行ってみたら、これがとても面白かったというのが、正直なところかも知れない。


横浜みなとみらいの夜景


ようやく決まった中欧を巡るコース、8日間というものの最終日はほとんど飛行機の中で、朝のうちに成田に着くというゆとりの旅程。だが、出発の日は成田に朝早い集合となる。私たちは、成田エクスプレスの停車する駅に行くには不便なところに住んでいるので、前泊することを考えた。

北欧に行くときは、前日の夜に用があったので前泊を計画したが、今回はただ朝を楽に過ごすため。そのためには、前日に成田に行ってしまうのが一般的なのだろうな、きっと。でも、私たちは横浜からの成田エクスプレスの席を予約して、前日は横浜みなとみらいにホテルを取った。仕事の関係でたびたび訪れるみなとみらいだが、私用でホテルに泊まることは初めて。

荷物をホテルに置いて、ゆっくり歩く。みなとみらいの夜景はなかなか美しい。大観覧車がライトアップされていて、日本の平和を象徴しているようだ。

きらめく夜景を眺めながら、ランドマークタワー5階のイタリアンレストランで食事。しばらく食べられない日本食をと考えたのに、選んだのはパスタとワイン。日本で食べるイタリアンは、今では日本の味と言える?かもしれない。

話は横道にそれるが、我が家の定番パスタは桜海老と長ネギのペペロンチーノ。唐辛子を利かせてパスタはアルデンテ、シャンペンは高価なので発泡ワインで、休日前夜のお楽しみとしている。時々辛子明太子やホタテのペペロンチーノに変わるが、イタリア人が食べたらきっとジャパニーズフーズ!と言うだろうな…と思う。

さて、この夜も赤ワインで乾杯して、旅の無事を祈った。

連日忙しかったので、ホテルで初めてパンフレットや、買い込んだ旅先の案内書を眺めた(地図)。

地図・中欧4国
中欧 4カ国


ウィーンからブタペストまで・一日目


横浜から成田へは、成田エクスプレスでのんびり行く。成田でツアーの添乗員さんに初めて会う。第1ターミナルの4階で説明を受けたあと、機械を使って自分で搭乗券を発券する。機械操作が分かりにくく、係員に聞いて何とか手に入れた。あとは搭乗まで自由時間となる。

この間に、旅行先の通貨に両替もする。今回は、オーストリア、ハンガリー、スロヴァキア、チェコの4ヶ国を回る。オーストリアとスロヴァキアはユーロ、ハンガリーはフォリント、そしてチェコのコルナを両替する。一番に飛行機が到着する、オーストリアがユーロ圏でうれしい。前の旅行の残りのコインを忘れずに持っていく。成田では紙幣にしか両替できないので、すぐ使えるコインはありがたい。

チェコは2004年にEUに加盟したので、ユーロが使えるところが増えているという。しかしまだ、地方や小さな店ではコルナのみというところもあるとのことだった。近いうちには、全国的にユーロになるのかもしれない。

同じく2004年にEUに加盟したハンガリーも、まだフォリントを使用している。


最初にアメリカに行ったときは個人旅行だったが、その後、ヨーロッパアルプス、北欧、そして今回の中欧と、旅行会社のツアーに参加してきた。いつも、家から近いということで同じ旅行代理店に行くのだが、結果はなぜか3回とも違う旅行会社の商品になった。私たちが特定の会社にこだわっていないということと、仕事がらみで日程の調整が難しいということが理由だ。

成田からはオーストリア航空で、ウィーン国際空港まで直行する。飛行時間は12時間弱、長い。(写真)


写真・成田で、オーストリア航空機

オーストリア航空機は、カラフルな座席シートが迎えてくれる。ランダムに配置された赤、緑、黄色のシートが華やかで、旅の気分が盛り上がる。毛布は少し暗い竹色。

長い飛行なので、機内食は2回出る。1回目はポークとチキンからの選択。メインはバターライスで、チキンまたはポークの選択したものがついている。そして蕎麦も添えてあるのに、パンのおかわりも自由、豪華。2回目は軽食ということで、肉の煮込みとパンにチョコカステラつき。飲み物も食事中と食後のコーヒーなど何度も回ってくる。ワインを頼むと、ビンではなく、コップになみなみ注いでくれる。

私たちは通路に挟まれた真ん中の席だったので、窓の外を眺めるのは立ち上がったときだけ。横浜のホテルでぱらぱら見ていたパンフレットなどをゆっくり見て、自由時間の過ごし方をどうしようか話し合った。

長い飛行時間、北欧に旅したときは機内のゲームで随分時間をつぶすことができたので、今回も期待していた。ところが、オーストリア航空機には、私のできるゲームがなかった。説明もドイツ語らしいので、難しいゲームはできず、簡単なカードゲームや、にょろにょろ蛇が歩くゲームなどをいくつか発見して少しだけやってみた。

いよいよとなったら映画を見るという方法もあると思ってはいる。しかし私は、映画はできればもう少し大きい画面でゆったり見たいのだ。

写真・シベリア上空

朝の出発だったので眠くならず、パンフレットを見たり、本を読んだり、立って下に広がるロシアの大地をぼんやり眺めたりして過ごした。機はウィーンに着くまで、安定飛行を続けた。(写真)


ウィーンに着いて、すぐバスの駐車場に向かったが、強い日差しにびっくり。ヨーロッパは空気が乾燥していて、世界の色が違うような気がするが、到着したウィーンは一段とコントラストが激しい。

今回はツアー客と添乗員合わせて13人、空港で私たちを待っていたのは、座席の空間が広く足のせ台も完備しているラグジュアリーバス。座席数は少ないのだが、それでもゆったり座れた。

ウィーンからハンガリーのブダペストまで約3時間のバスの旅。A4号線というのを通る、途中事故渋滞が2回あったが、それほど長く待たされずに済んだように思う。

道は延々と農地の真ん中を進む。広い耕作地はとうもろこし畑、ひまわり畑、そして牧草地のみ。行けども、行けども夏の疲れた緑色が続く。こんなに畑が続いているのに、耕している人はいない。添乗員さんが「何回訪ねても、耕している農民を見たことがない」と、バスの中を笑いで満たす。中欧が、ひまわり畑で有名と聞いたことはなかったが、どこまでも広いひまわり畑(写真)。 写真・どこまでもヒマワリ 花はみんな下を向いて重そうにしていて、花びらの黄色はふちにわずかしかない。私はひまわりの品種が違うのだろうかと思った。これが日本のひまわりのように大輪で、上を向いて咲いたら、もう世界はひまわりだけ、という空間になる。そうなったらすごいだろうなぁ、と思いながら、違う品種だから、そうはならないのだと思い込んでいた。

ところが、時おり畑の端のあたりや森と接している所などには今を盛りと咲き誇っている花々が見えた。私は車窓に盛りのひまわりを見つけると、その後ろに延々と続くひまわりはまるで別のものだったかのように、「あ、ひまわり」と小さく叫んだのだった。私たちが見たときは時期がずれていただけで、実際花時には真黄色になるのだろうか。スペインなどのひまわりは聞くが、中欧のひまわりって日本ではあまり宣伝していないよなぁと思ったが、自分たちが夏以外の時期に旅の計画をすることができないために、仕入れる情報の偏りがあっただけなのかもしれない。

しかし考えてみれば、ハンガリーの農作物として有名なのは、麦、とうもろこし、牧草、そしてひまわりの種なのだった。ひまわりというとすぐ花を見るものと思い込んでいた、私の浅はかさを思い知ったのだった。


長いドライブを終えて、ブダペストのホテルに着いた。部屋に入って一息つく。

ここ、中欧は、チップの習慣があるところ。私たちがこれまで旅してきたところでは、チップの心配はしなくてよかったが、早速、明日の朝はベッドにチップを置くのだ。そのためのコインを用意して、少しドキドキしていた。



ドナウの真珠ブタペスト・二日目


ブダペストはハンガリーの首都、ドナウ川をはさんで美しい旧市街が広がっている。西側がブダ地区、東側がペスト地区として別の町だったが、19世紀に合併して一つの町となったそうだ。驚いたのだが、ブダペストはロンドン、イスタンブールに次いで、世界で3番目に地下鉄が走った都市なのだそうだ。こういうことは、特別鉄道に興味が無い私など調べようともしないので、行ってみなければ知らないで過ごしてしまうことだと思った。

目が覚めると、一番に英雄広場に行くことになっている。ミューチャルノクという現代美術館の前でバスを降りる。ここは現代アートがたくさん展示されているというが、まずは英雄広場へ。美術館の前を抜けると、目の前が一気に開ける。奥の方を見ると中央に太い柱が見える。柱の上にはハンガリーの初代国王、聖イシュトバーン1世(975−1038)の王冠と大主教十字を握っている、大天使ガブリエルが立っていて、高いところから見下ろしている。

天使というと、かわいい幼児の背中に羽が生えている姿をつい思ってしまうが、大天使は立派な大人だ。性を超越しているらしい。ヨーロッパの歴史や神話に詳しい人なら、この天使像はすんなりうなずけるのだろうが、私には天使と呼ぶことに違和感が残ってしまう。

大きな立派な柱のずっと後ろに、扇状に左右7人ずつ歴代の英雄の像が建っている。ガブリエルの柱の台座部分には、マジャル族の部族長たちの騎馬像が並んでいる。マジャル族というのは、10世紀頃にはチェコの方まで広く支配していたフン族の中の一部族で、アジア系の民族だ。ハンガリー国民の95%がマジャル人だそう。このハンガリー国民がフン族の末裔ということを誇りにしているところが、夫と私の気持ちを引く。

写真・英雄広場

英雄広場は、マジャル人のハンガリー建国1000年を記念して作られた広場なのだそうだ。広場に向かって左にブダペスト西洋美術館、右には現代美術館がある。どちらも立派な大きな建物でそれぞれ雰囲気が違うのだが、英雄広場があまりにも広いので、その両端の建物が小さく見えるほど。そして二つの建物も含めて、全体が落ち着いた一つの風景となっている。

私たちは広場を一回りしたが、ブダペスト一広いという広場は、炎天の下で静かだった。(写真)


広場からドナウ川まで伸びる、アンドラーシ通りはメインストリートだが、そこの散策は午後に回して、バスでブダ地区の王宮の丘に向かう。有名な鎖橋を右に見ながら一つ下流のエルジェーベト橋を渡る。鎖橋の入り口を守るライオンの像を見て坂を上っていくと、王宮の丘に着く。バスを下りて、さらに坂道を歩いて登る。トチ、ボダイジュ、ポプラ、アカシア、そして赤い葉のブナなどの木々が茂っている。石のトンネルの中の階段を登ると、小さな広場に像が立っている。ハンガリーの初代国王、聖イシュトバーン1世の像だそう。イシュトバーン1世は、マジャル人内部の異教徒の部族長との戦いに勝ち、1000年キリスト教を国教とする国王となった人。ハンガリーではいろいろなところでこの名前を耳にした。

写真・マーチャーシュ教会


その奥に、マーチャーシュ教会が美しい姿を見せている。中世の空気を残す王宮の丘一帯だが、マーチャーシュ教会の屋根の独特な色使いに、まずびっくりする。13世紀半ばにロマネスク様式で建てられたのが基本だが、後にバロック様式に改築されたのだそうだ。音響もよいので、今はコンサートホールとして利用されることも多いという。裏に回って見ると、ドナウ川沿いに立つ白い回廊の漁夫の砦を前景にした姿は、すっくとして美しい。トルコなど中近東の風景をイメージさせる、独特な色合いの幾何学模様になっている屋根が、周りの白い建物に映える(写真)。

写真・漁夫の砦

教会の裏側を巡っている漁夫の砦からは、ドナウ川を見おろせる。真っ白い回廊の所々には三角にとんがった塔が立ち、ドナウ川の向こうにペスト地区を広く見下ろすことができる。(写真)


再びバスに乗って、坂を下りる。もう一度鎖橋の一つ下流の橋を渡ってペスト地区に入り、聖イシュトバーン大聖堂の近くでバスを下りる。大聖堂の見学は後に回して、カロチャ刺繍の工房に寄る。店の中は一面にカロチャ刺繍が飾られていて、とても華やか。縦に長い店だったが、入り口付近にはハンガリーのお土産品が並べられていて、奥に入るとそれはもう色の氾濫というようなにぎやかさ(写真)。 写真・カロチャ刺繍 大きなクロスから、小さなコースターまで、様々な布が天井までいっぱいだ。ブラウスもたくさんあったが、民族衣装なのか、フリルの多いかわいらしいデザインが多かったので、日本で大人の女性が着る機会はあまりなさそうだ。孫の女の子にだけ、お土産として買った。

さらに奥に進むと、年配の婦人がカロチャ刺繍を実演している。丸い枠に張った布に一針一針刺していく。その実演を見学する私たちに、トカイワインとフォアグラが、すこ~しふるまわれた。ハンガリーのドナウ川西岸はフォアグラの生産が盛んな地区として知られているそうだ。宣伝効果があってか、私たちも、日本に持ち帰るトカイワインを一本買ってしまった。トカイワインはハンガリーの名物だが、甘いので、食事には合わないと思う。どちらかと言えば、食前酒かな。


このトカイワイン、フランスのルイ14世(1638−1715)をして、「王様のワインにして、ワインの王様」と言わせたと知られている。ハンガリーの北部のトカイ村という山麓地方で作られている。この地に初めてブドウが植えられ、ワインを作ったのは、紀元前270年ほどのローマ人なのだそうだ。その後17世紀になって、甘口のすぐれたワインができるようになった。

トカイ地方は火山灰質で夏は暑く、秋が長く、冬は厳寒で、ブドウ栽培にはあまり適していないのだが、晩秋まで木に放置されたブドウに、貴腐菌が繁殖するのだ。だからここで貴腐ワインができる。最初に発見した人はすごいなぁと思う。

この貴腐ブドウで作られると金色で薫り高く、甘くて濃厚な味のワインができる。トカイワインには普通のブドウと貴腐ブドウの比率を変えて、何段階かの甘さを変えたワインがある。この中で貴腐ブドウのみの最高級ワインはトカイ・アスーと呼ばれ、ドイツのトロッケンベーレンアウスレーゼン、フランスのソーテルヌと並んで世界三大貴腐ワインと言われている。


もうずいぶん前のことだが、私たちは長野を旅していて、あるワイン醸造所に立ち寄ったことがある。その時、たまたま今年はできましたという、貴腐ワインが数本残っていた。私はそのとき初めて貴腐ワインという種類を知った。他のワインと比べると高価だったが、あまり味わえないワインだということなので買ってみた。このときの口の中で弾けてさわやかに消えていく甘さは、それまでのワインのイメージを変えた。極上のワインの甘さを知った。

期待をこめてトカイワインを買ってきたが、日本で最初に味わった貴腐ワインほどには、感動的でなかった。

トカイワインの名誉のために言っておくが、旅をしているときはいくつかの段階の貴腐ワインがあるということを知らなかった。

貴腐ブドウを入れる籠(プトニヨシュと呼ぶらしい)の数で、その段階を示すらしい。

私たちは吟味をせず、並んでいる手頃な値段の瓶を選んだから、貴腐ブドウが少ない物だったのだろう。しかし知っていても、最高級のものは高価で買えなかったかもしれない。


カロチャ刺繍の工房を見学した後は、聖イシュトバーン大聖堂に行く。1851年に建築が開始され、1906年に完成した、ネオ・ルネッサンス様式の教会で、ペスト地区の中心部にある。ハンガリー王国の初代国王にちなんで名づけられた、カトリック教会だ。

正面から見ると中央に大きなドームがそびえ、その左右に高い鐘楼がある。南の鐘楼にある鐘は重さ9トンもあり、ハンガリーで最も大きな鐘だそうだ。

また、ここにはイシュトバーン1世の右手のミイラが聖遺物として保管されているという。遺体から失われていたものが、1771年マリア・テレジア(1717−1780)によってブダに戻されたのだという。

宗教的な話には疎いので、説明を聞いても、時間の流れなどを彷彿として感慨に浸るというようなことにはならず、どうも馬の耳に念仏となってしまっているようだ。


昼食は英雄広場の近くのレストラン。ハンガリーの名物グヤーシュをいただく。ビーフシチューのようなもので、パプリカがたっぷりのスープはおいしかった。

ハンガリーはスペインと並んで、パプリカの産地として有名だ。日本では「甘唐辛子」とも言うらしい。乾燥して粉にした着色香辛料で、甘酸っぱい香りと、ほろ苦い味で、白っぽい料理などの彩りに振りかけたりもするもの。独占を守るために、種のついたものの輸出を禁止しているのだそうで、お土産売り場にはかわいらしい布袋に入ったものがたくさん置いてあった。


私たちは添乗員さんを入れて13人の小さなツアー、ここで、自己紹介タイムが入った。高校生の女子とおばあさんの二人連れの他、私たち夫婦を含めて5組の夫婦。ツアー旅行三回目にして初めての自己紹介タイム。でも、まだまだおしゃべりに花を咲かすというほどにはほぐれない。ぽつぽつとやりとりしながら、昼からの赤ワインを楽しんだ。


食後は自由時間。あまり事前学習をしてこなかった私たちも、国立歌劇場の場内を見学するコースは楽しみにしていた。アンドラーシ通りをぶらぶら歩く。寒い国というイメージだったのに、暑い。とても暑い。幸い、メイン通りは歩道脇に並木が続いている。私たちは木陰を選んで歩いていくが、それでもとにかく暑い。

2区画ほど歩くと、道の向こう側にリスト(フランツ・リスト1811—1886ピアニスト・作曲家)の記念館が見える。淡い黄色の壁の建物で、現在は音楽院になっている。リストと言えば、超絶技巧のピアノ曲と言うイメージ。そのリストは当時人気者で長く外国で活躍していたが、自分はハンガリー人だと言って、晩年ここで生活し、ここで指導もしていたそうだ。

気持ちが惹かれるのだが、とにかくオペラ座の館内ガイドツアーの時間が何時か、どうやって申し込むかが気になる。先を急ぐ。

劇場の脇のお土産売り場でチケットを買う。絵葉書も買う。案内コースの言語には日本語はない。しかたなく、英語の案内を選ぶ。館内の撮影にもチケットが必要ということなので、それも買う。撮影用のチケットは腕に巻くようになっている。


写真・オペラ座の脇で

オペラ座のガイドツアーが始まるまでに時間があったので、近くのカフェで休むか少し戻ってリストの記念館に行くか迷ったが、暑さに負けて、オペラ座の北側の日陰になっている階段に座って休むことにした(写真)。

振り返ってみれば深く反省するのだが、このとき暑さに気持ちが負けたことが、このあと数日間の夫の体調不良につながってしまったのではないか。近くには涼しいカフェもあったし、そこで水分を取って身体を休めれば元気も出たのではないかと思う。カフェに入ることを億劫がるというより、暑さの底で動くのがいやという風に、気持ちの方向が負に向かっていたのだと思う。


写真・バス1

オペラ座は正面にリスト像があり、左右に階段があって、段上には獅子の像がそびえている。その獅子の足元に休んでいる人々がいる。私たちもその仲間になった。そして、買ってきた絵葉書を書くことにした。海外旅行に出ると、旅行先の各国から自分たちと、息子、娘の両家に絵葉書を送る。息子と娘はそれぞれ自立して3人と2人の孫がいる。日本に帰ったら、彼らと世界地図を見ながら話ができればいいと思う。見知らぬ国の郵便やさんたちの手を経て日本へ運ばれる絵葉書、1枚の紙だけれど、そこに夢が乗っている気がする。

写真・バス2

日陰に座って通りを見ていると、赤い大きなバスが走っていく。バスの窓のところに、たくさんの人が座っている足が描かれていて面白い。市内を走る路線らしく、何台も行ったり来たりしていた。(写真)


ようやく時間になって、劇場内のガイドツアーが始まった。英語グループは、わりと人数が多い。どうせ分からないのだから、イタリア語あたりの人数の少ないツアーについていけばよかったかも…と、苦笑い。

早口のガイドは、単語を頼りにところどころ理解できたが、ワッと笑い声が起きてもついていけず、悲しい。

言葉の説明は理解できなかったが、オペラ座の内部はとても美しく、丸天井にも絵が描かれ、細かい部分の造形もとても重厚な雰囲気だった。座席に座ってホール内を見回し、2階に上がったとき、突然夫が耳元で「トイレ」と言う。
「トイレあるかな」
「わたし、聞いてくるよ」
日本語で話しているのだから聞こえても分からないと思うが、やはりヒソヒソ声になる。

写真・オペラ座

私は走って、1階の入り口のところに戻り、そこにいたお兄さんに館内にトイレはありますか?と聞いた。片言の英語で。彼はイエスと言って、先にたって案内してくれる。階段のところにいた夫と一緒にトイレに連れて行ってもらって、OK。

しかし、この間に英語ツアーはどこかへ消えた。私たちが2階の桟敷席のようなボックス席から1階ホールを眺めおろしていると、奥から英語ガイドさんの声が聞こえてきて、無事合流。スリルのある見学ツアーだった。(写真)


日本では渉外役は主に夫が請け負っている。山に関することと、バレエに関すること以外は、生活上必要になる外との交渉などは夫に任せているのだ。しかし、なぜか外国に出ると、私が渉外役になることが多い。最初にアメリカに行った時に、私の友人のところに居候をしたのが前例になったのだろうか。


さて、オペラ座のツアーが終わった後、午前に行った聖イシュトバーン教会の近くの、郵便局を探して歩いた。もらったブダペストの地図に郵便局のマークが描いてあったので、きょろきょろしながら歩いた。聖イシュトバーン教会に曲がる角の建物が郵便局、入り口に太ったおじさんが座っていて、「Stamp for Japan」と言ったら、腕全体で切符売り場を指し示して教えてくれた。(写真)

写真・ポストオフィス


後日談になるが、この郵便局で切手を貼って投函した絵葉書、郵便局で投函したから一番確実だと思っていたら、なんと最後に届いた。しかも、この後訪れた国々から1枚ずつ絵葉書を投函したのだが、楽しいことに日本に届いたのはちょうど逆、遅く出したものから先に届いた。

絵葉書を投函した後は、町をぶらぶら歩きながらホテルに戻ることにした。

バスで市内を巡ったときに車窓から見えていた、大きなシナゴーグの前を通った。中にはユダヤ博物館があって、ローマ時代からのユダヤ教徒の生活、芸術などに関する展示があるそうだ。このあたりはドハーニ通りというユダヤ教徒街で、ユダヤ教徒の衣装を着た人たちにも会えるそうだが、私たちはあまりの暑さに、シナゴーグも外から眺めて素通りしてしまった。近くの中央市場もわき目で見ながら素通りし、日本のコンビニのような小さなスーパーで飲み物だけを買った。あまりに暑くて、飲み物を飲みながら歩いても、ぐったり疲れてしまった。

写真・シナゴーグ

このドハーニ街のシナゴーグは二つの塔がそびえる、ヨーロッパで最も大きいシナゴーグだという。しかも、世界でもエルサレムとニューヨークに次いで、3番目に大きいものだそうだ。塔の上は独特な円形をしていて、遠くから見てもわかる。豪華な建物だ。(写真)


写真・ブタペストを見おろす

夕食は王宮と並ぶ丘の上、ドナウの両岸に広がる街を一望できる、チタデラ・パノラマ・レストラン。チタデラという言葉は崖とか要塞という意味らしい。レストランは崖の上にあり、昔の要塞をそのまま使っているそうだ。私たちはレストランの前からドナウ川をはさんで広がるブダペストの街を見おろした。緩やかに曲線を描いているドナウの川面が夕日を受けて揺れさざめく。夕景に浮かぶように、大きな国会議事堂などの建物が静かに目の下に広がる。その優雅な姿が異国情緒を盛り上げる。(写真)

しばらく丘の上に立って、空の色が変わっていくのを眺めたあと、レストランに入った。崖を掘ったトンネルのような入り口を入っていく。


このレストランにはピアノを弾くフロアマンがいて、まだ空席が多かったからか、私たちの食事の間ずっと生演奏をしてくれていた。日本のメロディーを弾いてくれたり、リクエストは?と聞いてくれたりして、人懐っこい。自分もピアノを弾く夫は、「ハンガリーの曲を」と、リクエストしたり、曲が終わるたびに盛大に拍手をしたりしていたものだから、店を出るときにはピアニストに握手を求められていた。

このように、豊かなディナーの雰囲気は抜群だったのだが、食事はすべて塩味が強くて、みんな「しょっぱい!」「高血圧になってしまう」と、ぶつぶつ言っていた。

トマトスープは味が濃くて、塩さえ少なければ美味しいのに、と思う。サーモンは巨大な皿に盛り上げられていてすごい豪華。でもやっぱりしょっぱくて残してしまう。周りを見ると、ツアーの仲間も料理を残しがち(もともと量も多いのだが)になっている。ついに添乗員さんも、料理が残っている皿を下げにきたフロアマンに、「塩が多い」と伝えた。でも彼は首をかしげ、解せないなぁという顔をする。「いや、しょっぱくないよ」というようなことを言っていた。


食後はドナウ川のクルーズ。ドナウの真珠と呼ばれるブダペストの、美しい建物はドナウ川沿いに建てられていて、それらがライトアップされる。

船に乗るのは、ドナウ川中洲の細長い島、マルギット島近くにある船着き場。食後はバスで、今度はくさり橋の一つ上流にある橋を渡る。この橋は中州のマルギット島を経由しているので、中央でマルギット島に出入りできるようになっている。バスから島を見下ろせた。遊歩道があり、緑に包まれた島、全体が公園になっているそうだが、散歩したら気持ちよいだろうと思わせられる。


写真・ドナウの夜景(国会議事堂)

船が走り出したときはまだ薄明るかったが、次第に暗くなり、夜空に浮かび上がる町の風景が美しい。昼にたずねた王宮や教会などが、ほのかなライトに照らされて輝いている。対岸の、川に接するように見える国会議事堂が素晴らしい(写真)。そして、満月が東の空に姿を現し、高い塔の向こうに輝きだすと、世界はさらに幻想的になった。(写真)

写真・ドナウクルーズ

いくつもの橋の下をくぐって船は進む。約1時間の船旅だが、前半はガイドさんの話。じつは録音されているのだそうだが、とてもそうは思えないほど周囲の風景にマッチした展開、そしてジョークも交えての日本語だった。

しばらく流れにのって下ったあと、Uターンした。船着場に到着するまでの後半は、音楽をかけてのクルージングとなった。後半の音楽は、ヨハン・シュトラウス(1825-1899作曲家)の『美しき青きドナウ』、選曲はよかったが、音の響きが悪く、ここでは音楽はないほうがよかったなと思った。

ドナウ川には、美しい夜景を見るための大小の船がたくさん浮かび、いく度かすれ違った。日中の猛暑を忘れさせてくれる、気持ちよい川風に吹かれて、思っていたより満足できたクルーズだった。

私たちは、満足の口数の少なさに包まれて、ホテルに戻った。



大道芸人盛ん、ブラチスラバ・三日目


写真・朝食

翌日はスロヴァキアの首都ブラチスラバに向かってバスで移動。ホテルでの朝食をすますと、バスに乗り込む(写真)。少し長い旅ということは分かっていた。前夜のクルーズの余韻もあってか、しばらく走るとバスの中は静かにうたたねする人が増えた。

そんな旅の中ほどのところで、夫が「お腹が痛い」と言う。下痢っぽい、苦しそうな顔。添乗員さんに、できればすぐトイレ休憩をしてほしいと話す。添乗員さんは運転手のイシュトバーンさんと話していたが、バスの中のトイレを使ってよいということになった。

運転手さんは、途中でバスを止めたくないようだった。というのは、かなり厳しい決まりがあって、一度バスを止めると30分間は休まなければいけないとか、1日に何キロ以上走ってはいけないとか、もちろんスピード違反もご法度。それで、彼の予定していた走行計画を乱すよりは、トイレ掃除の方を選んだのだと思う。

夫も切羽詰っていたので、とてもありがたい配慮だった。

これで、一件落着かと思ったのだが、そううまくはいかない。用を済ませた夫がなかなか出てこない。入るときも電気がつかないと言っていたが、暗くても用は足せるでしょなどと、私は乱暴なことを言ったのだった。どうやら、水が流れないらしい。またまた、添乗員さんのところに行き相談する。バスに積んでいるペットボトルの栓を開けて、これで流しなさいと言う。さすがベテランの添乗員さん、動じない。しかし、水を流しても溜まってしまって流れないという。しょうがないので、次に停まるまで、そのまま行くことにした。

ようやく、バスは停まった。ガソリンスタンドのようなところでトイレ休憩、私もトイレに行って戻ったとき、バスのトイレについて聞いたら、OKとのこと。ほっとして再び、高速道路の流れに飛び込んだ。

あとで知ったが、バスのトイレは運転手さんが、管理掃除をするのだそうだ。考えたら、きちんとお礼を言ったかどうか不安になった。もちろんお礼は言ったが、添乗員さんを通してで、直接には言葉の壁もあり丁寧に伝えられたか自信がない。こういうときにこそチップも渡すのだろうに、それもしなかった。添乗員さんがいいと言ってくれるままに・・・、ベテランの添乗員さんに、安心しきっていた。 やはり、自分たちで、きちんと丁寧に伝えられるといいなあと思った。反省、反省。


さて、その後は順調に走り、国境を越える。ヨーロッパのシェンゲン協定のおかげで国境はフリー。シェンゲン協定とはどういうものか調べてみた。ルクセンブルクにシェンゲンという地域があって、そこに由来する話。1985年に当時10カ国の欧州経済共同体に加盟していた国のうち、5カ国が署名した文書のことで、その場所がルクセンブルクのシェンゲン付近。そこを流れる川に浮かぶ船の上で署名したのだそうだ。5カ国というのは、ベルギー、フランス、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツ(当時)だそうで、地域的に何となくうなずける。そして、5年後にはさらに補足する内容が加えられた文書が署名され、この2つの文書をあわせてシェンゲン協定というらしい。

写真・かつての国境ゲート

その後1997年のアムステルダム条約で、シェンゲン協定は欧州連合の法として取り入れられた。そのおかげで、今私たちは国境を止まらずに走り抜けられる。

このあたり、共産主義諸国だった頃は、国境を越えるのが大変だったという。ここがかつての国境のゲートという場所を、バスの窓から眺めながら通り過ぎる(写真)。添乗員さんが過去の苦労を話してくれる。その話を聞けば、今自分たちがいかに楽に旅をしているかがわかるのだが、いくつの国を訪問しても、最初と最後の空港でしかパスポートに印が押されないのが寂しいと思ったりする。贅沢なことをと、一蹴されそうだが…。

写真・パーキングの看板


ちょっぴり複雑な私の思いも乗せながら、軽快にバスは進み、ついにスロヴァキアの首都ブラチスラバに着いた。

写真・ポリスカー

まず、ブラチスラバの王宮に登る。坂道を歩いていくとパトカーが止まっている(写真)。王家の紋なのか、豪華な金の絵が描かれている。孫の土産に写真を撮る。坂を登り切ると門があり、城の前庭に入る。城の前庭からはドナウ川が見下ろせる。向こう岸に小高い山が見えている。手を伸ばせば届きそうな距離、実際は2キロほどで、そこはもうウィーンの山なのだそうだ。私たちがオーストリア旅行のツアーを検討していたとき、ウィーンに滞在している間のオプショナルツアーとして隣国スロヴァキアの首都ブラチスラバを訪ねるというコースがいくつか紹介されていたが、なるほどと納得。

王宮は真っ白な四角の建物で、赤い屋根と、四隅のかわいい塔が特徴的。その四隅の塔を脚に見立てて、ひっくり返ったテーブルという愛称があるらしい。(写真)

写真・ブラチスラバ城

18世紀マリア・テレジアの時代に最も栄えたところで、マリア・テレジア本人は1760年~1780年の間、居城としていたのだという。

中庭に入ってみたが、何もない四角い地面だった。王宮の中は歴史博物館、音楽博物館が設置され一般公開もされていたそうだが、私たちが訪れたときは改修工事が行なわれていて、中に入れなかった。

城の入り口の門のところで、お土産を買い、スロヴァキアの絵葉書も買った。

バスに乗る前に私はトイレに寄った。王宮の左壁にそって一番奥に、トイレの入り口があるのが見える。近づくと、そこにはお姉さんが一人いて、煙草をすっていたが、私がトイレに行こうとしていることを察知して先に入り口に消えた。トイレは、階段を下りて地下2階へ、そこにカウンターがあり、先に行ったお姉さんが料金を受け取ってくれた。

今回の旅行では、トイレはどこも有料だった。細かいコインを用意しておかなければいけない。このトイレのように人がいてお皿にコインを入れるようなところはよいが、コインを入れるとガチャンと、遊園地やテーマパークの入退場ゲートのような、一人分のゲートが開くところもいくつかあった。

トイレに行く途中の、地下1階のフロアーがガラス越しに見えた。そこは、博物館の展示品を置いてあるのか、奥の方までキャンバスなどが並んでいた。


ブラチスラバ城を出ると、次はミハエル門 に向かった。ミハエル門は旧市街を囲む城壁に付いていた4つの門のうち、現存する唯一の門だ。マリア・テレジアがこの町の発展を考えて、18世紀後半にこのミハエル門を残して、残りの門を撤去したという。外門に通じる石橋は、昔お堀の上を渡していたはね橋の代わりに、18世紀に造られたもので、ヤン・ネポムツキー(チェコの聖人、橋と川の守護聖人でもある)と、大天使ミハエルをあしらったバロック式の銅像がある。塔は、もともとゴシック様式だったが、18世紀に玉葱型の屋根を持つ、バロック様式に改築されたという。先端にはミハエルが竜と戦う姿を表した銅像が飾られている。武器庫としての役目も果たしていたため、現在内部には武器博物館が置かれ、スロヴァキアだけでなく東洋の刀なども展示されているそうだ。私たちは時間が足りず、塔の中には入らなかった。

ミハエル門に通じるミハルスカ通りは歩行者天国となっていて、カフェやレストラ ンが並び、道路がオープンカフェで占領されている。ミハルスカ通りにある現在の大学図書館は18世紀ハンガリー議会が置かれていた由緒ある建物だ。


通りのカフェの脇には各国の大使館らしい建物があり、いろいろな国の国旗がはためいている。私と夫は、グルジアの国旗を発見して嬉しくなった。私の大好きなバレエダンサー、ニーナ・アナニアシヴィリさん(1963-)の祖国で、昨年の春には来日公演を見に行った。今は祖国グルジアの国立バレエ団で芸術監督をしながら、現役としても踊っている。私は、いつかグルジアに行ってみたいと思っている。日本からは遠い国だが、ここスロヴァキアからは近い国と言えるのだな・・・と感慨深かった。

写真・空中に浮いている人

通りには大道芸人がたくさんいる。じっと置物のように動かない人が空中に浮いている。不思議だ。子どもたちも後ろに回って見ていたが、私も、同じことをしてしまった。(写真)また、有名なマンホールから顔を出している像の近くには、同じ格好をして動かない人もいる。どちらが本物の彫刻というクイズ?

写真・どっちが彫刻?
どっちが彫刻?

大道芸人もたくさんいて、面白かったのはカメラを向けると顔を隠してコイン入れを指差す人がいた。写真を撮っても近づいても全く動かず、本物の像のような人もいる。やはり礼儀としてコインを入れなくてはね。でも人間って(私が?)天邪鬼なもので、要求した人より、じっと動かない人の方にコインを入れたくなってしまうのが面白い。


中央広場は、中世から市の中心広場として使われた広場だ。様々な市の催しや集会などが行われ、また市場が立ったところ。広場の中心にある噴水は「ロランド噴水」と呼ばれ、 1572年、当時のオーストリア皇帝マクシミリアン2世(1527−1576)の命を受けて作られたブラチスラバ最古の公共水汲み場らしい。その中心に立つ騎士像は皇帝マクシミリアンだが、中世都市の保護騎士ロランドであるとの説もあるそうだ。騎士像は年に1度大晦日の夜に回れ右をし、6番地の屋敷に向かい、その屋敷の持ち主で、ブラチスラバを守って亡くなった議員に敬意を表して、お辞儀をするという伝説があるそうだ。

写真・ナポレオンと

噴水を眺める位置にベンチがあり、そこに腰かけているのはナポレオン、後ろに回ってナポレオンとツーショットの記念写真を撮ってきた。(写真)

広場はカフェや土産物の屋台で賑わっているが、クリスマスの時期には飾りや民芸品、ホットワインや軽食を売る市が立つそうだ。また、現在は博物館となっている旧市庁舎があり、日本、フランス、ギリシャの大使館や、政府迎賓館もあった。

オリンピックのときや、海外で見るときには国旗に親しみを覚えるようだ。広場の向こうに日の丸が翻っているのを見つけ、あそこが日本大使館と、どこかほっとした空気が流れる。


写真・ガイドさんと

ブラチスラバを案内してくれたのは、年配の女性ルーバさん、日本に行ったことがあると話していたが、自分の国をとても大切に思っていることが伝わってくる。笑顔がひまわりのような、周囲をも明るくするような空気をまとっていたためか、ツアーの仲間は一緒に写真に写ってもらう人が多かった。そういう私たち夫婦も、ミハエル門をバックに彼女と並んで写真を撮った(写真)。そして親切に甘えて、スロヴァキアからの絵葉書を投函してもらうようお願いしてきた。


写真・ブラチスラバの町風景

広場から、中央通りに回り、ガイドさん推薦のアイス屋さんでアイスを食べる。夫はおなかの具合を心配して食べなかったので、私一人で食べる。バニラのアイスだが、茶色に近い濃い色で味も濃くて、とてもおいしかった。

通りは広く、通りというより長い広場と言ったほうが似合うようだ。この通りはオペラ座に続いている(写真)。通りの中央には様々な彫刻が飾られていて、美術学校の生徒の作品だそうだ。しかし、またさりげなく、アンデルセンの像が建っていたりもする。等身大だとしたらとても大きな人、握手してきたが、手が大きかった。

広い車道に接した広場にはペスト記念塔(記念碑)が建っている。ヨーロッパのいくつかの町で、広場にこの塔が建っているのを見た。中世ヨーロッパで大流行してたくさんの人が死んだということは歴史でも習った。恐ろしい伝染病、当時の医学ではどうしようもなく、猛威をふるった。そのペストが収まったときの人々の喜びはひとしおだったのだろう。記念碑を建てて、ふたたび恐ろしい病気が流行らないよう祈ったのだろうか。

写真・壁の落書き

車道とぶつかるところに長い壁があったが、ここには素晴らしい壁画が描かれていた。実はこれは落書きらしいが、カラフルで大胆なデザインはなかなか迫力があった。(写真)

通りを進むと、突き当たりは国立劇場、ヨーロッパの町は、どこも美しい劇場が中心に位置しているようだ。美しい劇場の建物を眺めながら、ミハルスカ通りの方に戻り、昼食とする。

道に展開するオープンカフェの真ん中を通って奥の席に着く。メニューはコンソメスープ、魚と冷じゃがマリネ、バナナのケーキだった。


昼食後はまたまたバスの長旅。町と町の間は広大な畑。牧草地が多い。牛と馬が見える。行けども、行けども畑や牧草地が続くのに、牛と馬は少しだけ見える。牧草は刈って円形の束にしてある。相変わらず働いている人は見えない。

一回だけ、耕運機に乗って畑を耕している人を見た。バスの中では、いた、いたと大騒ぎ。畑は確かに手入れされているのだから、人がいるのは当たり前、でもその姿はいずこ?本当に見ることができない。いったいいつ耕しているのだろうという感じだ。

写真・プラハへ高速道路の標識


プラハに近づくにつれて、遠く丘の上に集合住宅らしきビル群が見えてくる。大地のうねりの緩やかな曲線、そしてその頂上に、同じくらいの高さの高層ビルが建ち並ぶ。これらのビル群が淡いピンクやクリーム、ブルー、グリーン、パープル…やさしいパステルカラーの集まりで、おとぎの国のように見えた。

いよいよプラハに着くと、幾何学的なシャープなビルが見えてくる。え?ここがプラハと驚いたのは新市街地で、さらに進むと落ち着いた中世のたたずまいとなる。ほぼ一定の高さで赤茶色の屋根のビルが続く、プラハ旧市街地にバスは進んだ。


長いバスの旅が終わって、チェコの首都プラハに到着。ホテルの部屋は少し広い。室内サービスには、お湯が沸かせるポットもある。私たちツアーの部屋は2階と3階に分かれていて、私たち夫婦の部屋のある2階の部屋には、お湯を沸かすサービスがつかないとアナウンスされていたので、ポットの発見は嬉しかった。どうやら、サービスを同じにしてくれたらしい。そして、ヨーロッパに多い、ガス入りの水が一人に1本サービスで置いてあった。

ホテルに荷物を置くと、夕食はホテルから少し歩いたところ、「ウ・フレクー」というビア・ホールに行く。このビア・ホール、広い。内装が豪華でお城のようなところだが、市民の憩いの場だという。迷子になりそうないくつかの部屋や中庭を通るが、どこも楽しそうな笑い声に充ちていて、とてもにぎやかだ。メニューはポテトのスープ、選べるメインのポークまたはビーフに、ザワークラウトとチェコの郷土料理のクネドリーニが添えられている大皿、そしてデザートはチーズケーキにコーヒー付き。(写真)

写真・大鍋のスープ

スープはなんと大きなお鍋で出てきて、よそってくれる。4人で囲むテーブルだが、ビア・ホールという言葉からは思い描けない豊かさに充ちている。

豊かさついでに、夫の話。この店を出るときに奥の厨房が少し見えた。私は他の建物の装飾に気をとられていて気づかなかったのだが、厨房には日本人なら3人分くらいの横に膨らんだコックさんたちが並んでとても楽しそうにしていたそうだ。夫は帰ってからも折りにふれ、その愉快なコックさんたちの話をする。中欧での食事の量が話題になるたび、そりゃぁ、あの太さだもの…と、嬉しそうに笑う。


さて、この日の食事、私と夫はポークを選び、同席になった高校生のケイコさんもポーク。ケイコさんのおばあさんはビーフを選んで、ケイコさんと少し交換をしていた。そして、彼女は私たちにもビーフの味見をしなさいと進めてくれた。せっかくチェコにきたんだから、いろいろな味を楽しみなさいと言う。少しだけいただいてみた。オーブンで焼きこんだものらしく、うまみがしみこんでいるが、やはりしょっぱい!

今回の旅行、どこへ行っても味がしょっぱい。塩が多いという味。うまみなどの味付けはよくておいしいと感じるのだが、塩辛くて全部食べられないことが多かった。盛り付けの量もとても多いので、とても全部食べきれないのだが。これは、私たち夫婦だけの感想ではなく、ツアーの仲間全員の一致した意見だった。それでも、若者は全量食べて、すごいねぇと感心されていた。

チェコの民族料理クネドリーニという蒸しパンのようなものは、一口食べて「しょっぱくない」と、思わず叫んでしまった。クネドリーニには2種類あって、プレーンのものはしょっぱくなくて食べられたのだが、フルーツかチョコなどの味がついている方は、やはり塩味がきつくて、残してしまった。

写真・ウ・フレーク

ここでは一種類しかないというビールは黒ビールで、これはとても濃厚でおいしかった。チェコビール気に入りました。(写真)

ここで同席になったケイコさんとおばあさんとは、その後もよく近くでお話をしたが、そのおばあさんが面白い人生訓を話してくれた。

孫と一緒に旅をしているから、おばあさんと呼ぶしかないのだが、彼女はとても若々しい。見かけはもちろんだが、元気に動き、声も大きい。「血圧が高いから、こんなにしょっぱいものを食べていたら倒れる」と言いながら、薬を飲んでいた。

料理の写真を撮る私たちに向かって、写真も残る者にとっては大変なのよと言う。家族を見送った後、遺品の整理で大変だったことがあるそうで、何も残さないのが一番よと、笑う。旅行のお土産は形で残すのではなく、心に焼き付けておくのと、潔い。

とは言うものの、お孫さんには弱いようで、写真を撮ってあげたり、素敵なガーネットなどを買ってあげたりしていて、私はそんな婦人の姿に、よけい好感を持ったのだが。

帰国してから、私たちの会話に時々登場するのが、このおばあさんと孫のケイコさん。最初の頃は親子だと思っていたのに、ケイコさんがお母さんへのお土産を選んでいるところに隣り合って、「お母さんじゃないのですか?」と不躾に聞く私(内心、おばさんかな?と思いながら)に「これは孫です。私、若く見えるけど、すごい年なのよ」と答えられたのが印象的。

自分たちの生活スタイルを考えるときには、必ず、このおばあさんの言葉が頭をよぎる。潔さを見習いたいものだと思って…。


「ウ・フレクー」から、みんなで歩いて帰り、私たちはホテルの9階に上がった。8階まではエレベーターで昇るが、あとは階段。ビア・ホールで同じ席だった縁か、ケイコさんたちも一緒に上がる。添乗員さんがプラハの町を見渡せる展望台としてすすめてくれたところだったから。プラハは別名百塔の街と呼ばれるところだそうで、遠くまで赤い屋根と塔が続く。

夫は、フロントで大きな籠に入っていたリンゴを2個いただいてきたが、これも、ケイコさんのおばあさんが教えてくれたこと。

両手にリンゴを持って、9階屋上に出てみたが、屋上の一角には建物があったので、360度の大展望とはいかなかった。旧市街から、ヴルタヴァ川にかけての方向に広がる赤い屋根を眺めて、私たちはそれぞれ部屋に戻ることにした。



願いごとがかなう橋プラハ・四日目


写真・プラハの町

プラハの街は、赤い屋根はもちろんだが、壁がパステルトーンの豊かな色に統一されていて美しい。(写真)

翌日の観光はまず、丘の上のプラハ城から。ホテルを出て、ヴルタヴァ川を渡り、川沿いの丘を登る。王宮の歴史は9世紀に始まるという。王宮の門の左右には一人ずつ衛兵が立っている。青と白の夏らしい制服で、ライフルなのか銃身の長い銃を持って立っている。門をくぐって中庭に入ると、3人の衛兵がザッザッザッと歩いてきて、中庭の中央でパッと立ち止まり、敬礼をしてまたザッザッザッと歩いていく。交替の時間なのだろう。それを見ているときに夫がまたお腹の具合が悪くなってしまった。朝も、気をつけてほとんど食べなかったのに、ヨーグルトならよいだろうと、食べたのがいけなかったようだ。

聖ヴィート教会は今の形になるまで600年もかかっているという。砂岩でできているので初めの頃に立てたところは黒ずんでいて重々しい。新しい部分は少し明るいグレーだ。600年という時間の流れを感じさせられる。

隣の聖イジー教会はかわいらしい建物で、少し崩れてきているがフレスコ画が描かれている。

教会の右側にある広い中庭をはさんで立てられている旧王宮に入ると、60メートルの長いヴラジスラフ・ホールがある。あまり派手な装飾のない広いホールで、ここでダンスパーティができるのかなと思った。奥に進むと、王冠などが飾られている小さな部屋に出る。私たちはそこを見て、黄金の小路へ進んだ。

この小路は有料で、入り口でチケットを見せた。小路の1階はお土産売り場などが続き、2階は廊下のような細長い空間で、鎧などの博物館になっている。黄金の小路にはカフカの家があるので、私は楽しみにしていた。カフカの家は明るいブルーの壁で、パステルカラーの壁が続く中で、そこだけ際立っている。

ここで、ゆっくり中に入ってみようと思っていたが、夫のお腹は治っていなかった。小路を急ぎ通り抜け、出口の門のところでみんなを待ちながら長いトイレ休憩をした。夫を待ちながら、私は人間観察。私たちツアーのほかにも、東洋人らしい人数の少ないツアーの人たちがいた。あとはほとんど西欧人、こう言うと夫は西欧人にもいろいろな民族がいると言うのだが、私には区別がつけられない。黄金の小路の出口に当たるところなので、待ち合わせの場所にもなっているらしく、いろいろな人たちが言葉を交わして歩いていく。なんと、旅人の私がトイレを教えてあげた一幕もあって、おかしい。


夫も何とか復活、ツアーの仲間も集合して、カレル橋に向かう。坂道を歩いて下り、カレル橋のたもとに着く。大きなバームクーヘンを巻きながら焼いているお店が橋のたもとにある。お菓子の匂いにつられて見ていると、突然橋のたもとの門の上からラッパの音が響いてきた。11時。正時にはラッパを吹くのだそうで、赤と白の中世のような服装の女性が高い窓から乗り出すようにして吹いている。観光客は拍手したり、手を振ったりして楽しんでいる。(ビデオ)


■ Video:門の上で時報のラッパを吹く女性 ■

写真・ぴかぴかに輝いている聖人の像

ここからカレル橋を渡る間は自由、橋の上はたくさんの人でにぎわっている。橋は全長500メートルほど、歩行者専用になっている。橋の両サイド、欄干に当たる部分にはチェコの聖人などの像が立っている。旧市街に向かって何番目かの像の足元には銅版があって、そこに触りながら願い事をするとかなうという。そこだけぴかぴかに輝いているのが、なんだか人間の小ささ、かわいさを思わせて楽しい。(写真)


写真・グラスハーモニカの演奏

橋の上にはあちらこちらに大道芸人が店を広げている。グラスハーモニカの透き通った音色におもわず立ち止まってしまったが、後でガイドブックをもう一度見てみると、この芸人さん、どうやらカレル橋の名物らしく、写真入で紹介されていた。(写真)

他にも、大きな手回しのオルガンを回しているおじさんの周りも、人だかりがしていた。それから、ちょうど橋の中間あたりに来たときに20人くらいの集団がアカペラで歌いだした。とてもリズミカルな曲で、見ていた周りの観光客の中には歌にあわせて踊り出す人もいた。私はその男女、年齢も10代からおそらく40代までの幅広い人たちが、まるで一人ひとり別のパートを歌うかのような、複雑なハーモニーで歌っていることにびっくりした。

夫が、これはポリフォニーという歌唱法で、ヨーロッパには古くから伝わるのだと教えてくれた。日本の民謡のように一つのメロディーで歌うのはモノフォニー、なるほど。

私と夫も立ち止まってずっと聴いていた。 とにかく気持ちいい。みんな、歌っている人も、見ている人もみんな、にっこにこで、はじける笑顔ってこういう顔のことを言うんだと思った。(ビデオ)


■ Video:カレル橋の上で「グラスハーモニカ」「アカペラ」「手回しのオルガン」■

カレル橋を渡って、旧市街の方の橋のたもとで集まった後、天文時計のある旧市街広場に行く。この時計は、空の太陽や月の位置などの天文図を示すための文字盤、「使徒の行進」と呼ばれるキリストの使徒などが時間ごとに動く人形仕掛け、それから月々を表す浮き彫りの暦版の3つの部分からできているものだ。上下に二つの円があり、上は天文図の文字盤、下の暦表は後に追加されたものだそうだ。最初にできたのは1410年というからすごい。時計職人と、数学・天文学者が協力して作ったという。(写真)

写真・時計台

このあたりはスリも多い地域なので、くれぐれも注意するようにと言われてはいたが、人で埋まるとはこのこと。橋のたもとから、ボヘミアングラスや、チェコの特産ガーネットの宝飾品などを見ながら歩く道は、まさに人で埋まっている。添乗員さんを見失わないようにしながらついて行くのがやっと。広場に着いたら、ここがもっとすごい。今までのは、人がたくさんという言葉で表わす様子、広場こそ人で埋まるという状態。みんな天文時計を見上げている。時計塔は旧市庁舎に作られている。

日向は焼けるように暑いので、少しずつずり下がって、少しでも陰になるところへ移動しようとするが、動けない。それでも、この人の塊を分けてさらにどんどん人が増えていく。誰か倒れるのではないかと思う頃、12時の時報が始まった。古いので、仕掛けそのものはそれほど複雑に凝ってはいないが、この大集団の視線がみんなそこへ集中する瞬間だ。そして、最後にはやはり人が吹くラッパ。塔の上で赤と白の制服の女性がラッパを吹いて、時報はおしまい。(ビデオ)


■ Video:12時の時報を告げる天文時計 ■

少しずつ散らばっていく人の波に押されるように、広場の中央部に移動、そこから少し歩いたボヘミアングラスの店で、ガラス製作の実演を見る。

奥の工房に通されると、太ったおじさんが出てきて、小さな塊を棒の先に付け、火の燃えるかまどに入れて、やわらかくなったところで取り出して吹き回しながら形を造っていく。時々ピチッと切ったり、違う色のガラスをくっつけたりして、あっという間に小鳥の置物ができた。それを冷やすから、写真を撮るなら、その前にどうぞ、と言われてなんだかみんな身を乗り出してしまう。こういうのを何とか心理というのかな?すごく手際のよい職人仕事だと思うが、このような作業は日本のガラス職人さんの仕事も見たことがある。どこが違うのか、私には良く分からなかった。

とはいえ、あっという間のその仕事ぶりには拍手。説明してくれたお姉さんも慣れている。日本語だった!

この店で、買い物をする人は割引がありますよと、割引券をくれたが、ボヘミアングラスも、ガーネットのネックレスも、あまりに高価で、私たちには手が出ない。

それでも、疲れていたこともあって、店内をゆっくり回り、ふと、一角にある超特価のワイングラスを見つけた。それ1セットのみというもの。デザインが古かったのか、おしゃれなのに安い。自分たちの今回の記念にそれを買うことにした。


実演の後はもう自由時間になっていたので、昼食に出かける人も、お店に残る人もそれぞれ。私たちも、買い物のあと、プラハの町をぶらぶら歩いてみることにした。夫の腹具合はだいぶよくなっていたが、珍しく何回か繰り返してしまったので、朝ごはんはわずか、そして、昼食も止めておくことにした。ただ、暑さの中で休むことの必要も感じていたし、水分も取った方がよいので、コーヒーショップをみつけて座ることにした。

プラハの人たちが普通にちょっと立ち寄るようなオープンカフェで、私はコーヒー、彼は紅茶を飲んで、しばらく町を眺めた。

写真・ティータイム

ここで飲んだ紅茶がとてもおいしかったと彼は言う。そして、それからお腹の調子もよくなったと言う。私はカレル橋の聖人に、「夫のお腹が治って元気に旅を楽しんで日本に帰れますように」と、お願いしたからだと思う。(写真)

どっちでもいいか…。

いずれにしてもこのあと、調子は上向いて、旅を楽しむことができた。が、これは後の話。


カフェを出てから、火薬塔に行ってみることにした。すると、向こうからウエディングドレスの女性が歩いてくる。隣にはエスコートの男性を従えていたが、普通の道路を、普通に二人で歩いている姿に驚いた(写真)。旧市街広場に向かう道だから、広場で何か催しでもするのだろうか…。さっそうとすれ違って行った二人の姿が気になり、時々後ろを振り返りながら火薬塔の門のところについた。

写真・火薬塔、スワンレイクのポスター

火薬塔は、高さ65メートル、1475年にゴシック様式で建てられ、旧市街を守っていた城壁の門のひとつだが、17世紀に火薬倉庫として利用されたため、火薬塔と呼ばれるようになった。現在の建物は、18世紀の半ばに戦災で大きな被害を受けた後、19世紀末になって修復されたもの。

この火薬塔は、「王の道」の起点である。「王の道」というのは、火薬塔からカレル橋を渡って対岸のプラハ城まで続く、約2.5kmにおよぶ歴史的な道。1458年~1836年の約4世紀に渡り、時代が変わるたびに歴代の王が戴冠パレードを行ってきた道なのだそうだ。


火薬塔を抜けると、「SWAN LAKE」のポスターを見つけた。全く、笑えるのだが、思わず、そのポスターをバックに写真を撮ってしまった。バレエが好きなので、つい嬉しくなって撮ってしまったが、ポスターのデザインが特別素晴らしいという訳ではない。バレエファン心理というものかもしれない。

ここは市民会館、優美なアールヌーヴォー様式の建物。この場所には、かつて歴代の王の宮廷があったそうだが、17世紀後半の大火事で焼け、その後1911年に現在の市民会館が完成した。コンサートホールや展示会場、レストランやカフェがある文化施設らしいので、バレエの公演も行うのだろう。

残念ながら、公演を見ることはできないので、ポスターだけ見て、そこから右に曲がり、しばらく大通りの散策を楽しんだ後、今度は小さな通りをたどりながら、国立劇場の方へ歩いた。大通りは歩道も広く、一定の間隔で、小さな店が出ている。同じようなものを売っているように見える。私たちも、適当に足を止めて、絵葉書と切手を買った。

写真・プラハの裏通り

写真・国立劇場

地図で見た裏通りのようなところは工事をしていて通行止めかと思ったが、歩行者は大丈夫なので、そこを通りまっすぐ国立劇場に向かう道を進んだ(写真)。この劇場の裏には駅もあるようだ。いつもの私たちなら、近いところに駅があれば必ず見に行くのだが、この日はさすがに昼食抜き、夫は朝食もほとんど食べていないので、ふらふら。しかも連日の暑さに気持ちもちょっと参っていたので、駅は諦めた。国立劇場(写真上)から国民博物館(写真下)の前を通り、ヴァーツラフ広場に向かう。国民博物館は見事な建物、外から見るだけでも素晴らしい。

写真・国民博物館


ヴァーツラフ広場は縦約700メートル、横約60メートルの細長い公園で、左右にはホテルやデパート、高級レストランが並ぶ繁華街。真っ白なリムジンが優雅に通っていく。ここがプラハのシャンゼリゼと呼ばれる場所だということは、帰ってから知った。

1918年チェコスロヴァキアの独立宣言が読み上げられ、1968年プラハの春として知られる歴史的悲劇の舞台となり、1989年ビロード革命の際にも人々が集まったという広場。聖ヴァーツラフ(907−935)の騎馬像は黙って平和の衣をまとった人々を見下ろしている。

人間の欺瞞と、猜疑の長い歴史を覆い隠す衣を笑っているかも知れない。


このヴァーツラフ広場は私の好きな米原万里さん(1950-2006:ロシア語通訳者、作家)の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に出てくる。米原さんがチェコで少女時代の数年を過ごしたことは知っていたが、この小説は日本に帰ってから読んだ。アーニャが走ってくる姿が、私の脳裏に残るヴァーツラフの風景に重なる。

「行く前に読んでおけばよかったなぁ」と言う私に、

「行ってきたから作品の中の描写が立体的に描けるんじゃないの?」と、夫。

確かに…。でも、そう、行く前に一読して、帰ってきてからもう一度読むというのが理想的なのかな。


私は平均的な日本人だと思う。小学校、中学校、高校、大学は教養課程のときだけといっても2年、合わせて14年間もいろいろ形を変えて歴史の学習をしてきたはず。でも、チェコやユーゴを舞台にした民族の戦い、大きなうねりのような近代の流れについて、あまりにも知らない。田舎暮らしだったとか、テレビなどのマスメディアが嫌いだったとか、それで言い訳ができるはずがないほど、無知な自分が恥ずかしいと思った。

写真・ヴァーツラフ広場

何年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したとか、ローマ帝国がどこまで国土を広げたとか、オスマントルコの世界は何年に一番広くなったとか、ナポレオンも、レーニンも、脈絡なく、その活躍した年数も、時代という流れの中ではなくただの数字として自分の頭の隅に引っかかっている。様々な関係や、時の流れの中で動いて行くものとして、歴史上のできごとが見えてくると、視野も広がるのだろうと思った。


今は、にぎやかな広場の民衆の一人になって、ヴァーツラフ広場を歩く。振り返ると国民博物館の壮麗な建物が大きく美しい。(写真)

とても青く澄んだ空と、気持ちのいい町並みで心は浮き立つが、疲れもたまってきたので、細い裏道を通ってホテルに帰ることにした。


途中のミニショップで、お土産にビールと、チョコを買う。カラフルな缶が何種類か置いてあるが、文字が読めないのではたしてビール?清涼飲料水?途中のガソリンスタンドのショップでも売られていたから、酒類じゃないかもしれない。お店には大柄なおじさんが二人いて、レジのカウンターに寄りかかっておしゃべりしている。ちょっと怖そうな顔をしているけれど、勇気を出してビール?と聞くとイエスと答えてくれた。棚にはチョコレートがたくさん並んでいたが、スイスのものやイタリアのものもある。チェコオリジナル?と聞くと、指差して教えてくれた。


ホテルに帰る。午後いっぱいの自由時間をみんな楽しんでいるのだろう、私たちは一番にホテルに着いたようだ。後に添乗員さんがホテルのロビーで待機していたが、会わなかったのは私たち二人だけだったと話していた。添乗員さんが待機する前に帰ってきたことになる。プラハは治安の点では不安があるので、誰かがスリにあってしまうなどという不測の事態に備えて、ロビーにいたとのこと、何事もなかったので却ってびっくりしたと笑わせていた。

せっかくお湯が使えるホテルだったが、お腹の調子が悪いので、日本から持ってきたカップ麺は食べない。

ホテルに備え付けの紅茶と、コーヒーを飲む。珍しく砂糖を入れて少しずついただいた。身体が中からほぐされていくよう。

夕食の時間まで休んで、おしゃべりしていた。この日の夕食はヴルタヴァ川の川岸にある、おしゃれなレストラン、「ヘルゲトヴァーチヘルナ」。一番端のテーブルに案内されて、カレル橋を眺めながらの食事。塀の上にはゆらゆらとろうそくが燃えている(写真)。そろそろ日暮れ色になってきたヴルタヴァ川と、橋と、行き交う船が異国情緒をかもし出す。

そう言えば、ブダペストでも丘の上からドナウ川を見ていて、遠い地に来たなぁと感じたのだったが、歴史のある川には水の流れだけではない、時の流れもそのうねりの中にあって、人の気持ちを誘うのだろうか。

写真・ヴルタヴァ川のレストラン


隣のテーブルではたくさんの人たちがとてもにぎやかで、誕生パーティの様子。私たちが食べ終わる頃、おしゃべりが一段落して、ようやく料理の注文を始めていた。その時間の使い方は、大きなヴルタヴァ川の流れのように優雅であっぱれという感じだ。

最初に飲み物と一緒に、突き出しのような小皿が出てきた。脂っこいがまずまずのお味。サケのマリネ、セロリつき。夫はセロリが嫌いだということになっている、でも、料理次第で食べられる。鶏肉の照り焼きがブロッコリーと一緒に出てくる。そして、ヨーグルトアイス、ナッツケーキ、最後にコーヒー。ヨーロッパのレストランではコーヒー、紅茶は別メニューなのだが、今回のツアーでは毎回ついていた。

ここでの料理の大きさ多さはまた一段とすごかった。若いご夫婦の男性も、全部食べられないと残したほど。ところが、高校生のケイコさん、きれいに食べていた。おばあさんの方は、こんなに塩気が多いのは病気になるとこぼしながら、ほとんど残していたのと対照的。

私たちはというと、添乗員さんに呆れられながら、これが薬なのですと、赤ワインをいただき、お料理も、全部とは言えないけれど、一通り味わうことができた。



山あいの街クルムロフ・五日目


さて、再びバスの旅がはじまる。夫はこの日は長いバスの旅を思って、朝食を完全に抜くことにした。ホテルの食堂には私一人で行く。おなかが空いたときのために、パンを少しだけもらっていくことにする。添乗員さんがジッパーつきの小さな袋を分けてくれて、そこに小さなパンを入れて持ち帰る。パンの種類はどこもとても多い。切って食べるものや、小さなロールになっているものなど様々だ。できるだけ、刺激の少ないプレーンなものを選んだ。


写真・ムラサキの花

今までもバス移動はあったが、この日が一番たくさんバスに乗っている予定だった。そのため、朝ごはんを抜いた夫だった。プラハからチェスキー・クルムロフへ向かう。2時間半。そこで観光、食事をして今度は国境を越えてウィーンまで5時間ほどの予定だった。不安はあったが、万全の準備をして、後は運任せで、出発。


写真・チェスキークルムロフ地図

窓外の景色を楽しみながら、まずは無事にチェスキー・クルムロフに着く。広々とした平原に何の花だろうか、紫の群落があったが、あっという間に過ぎ去った。(写真)

写真・チェスキークルムロフ城ガイド

チェスキー・クルムロフはチェコのボヘミア地方南部、オーストリアとドイツの国境近くにある小さな町なので、町外れにバスを止めて歩く(写真)。現地ガイドはとても元気なお兄さん。日本のテレビに出たこがあると、嬉しそうに話す(写真)。日本のテレビ局が取材に来た時も案内したよと、指を折りながら思い出し、話していた。建築の勉強をしているとかで、ロココ、バロック、ルネッサンスの各様式が混ざっているチェスキー・クルムロフ城を案内しながら、最後にテストをしますと、笑わせる。ルネッサンスが四角、ロココは貝、バロックはうずまき曲線、さてさて見つけられるでしょうか?

チェスキー・クルムロフ城は崖の上に築かれていて、山道を登るような急坂、そして緑の木々が覆い茂るようにかぶさっている。山が好きな私は、山道らしくになってきたので嬉しくなった。

城内の庭園は入場自由。最初に坂を登って行って、一番上の広場から旧市街、歴史地区と言われる町を見下ろす(写真)。U字に湾曲しているヴルタヴァ川に沿って、赤い屋根の町並みが続き、その向こうに広がる山の斜面には畑や濃い緑が続いている。

写真・エゴン・シーレ文化センター


右手下を見てみると、ヴルタヴァ川の向こう岸にエゴン・シーレ文化センターが見おろせる。チェスキー・クルムロフは、エゴン・シーレ(画家1890-1918)の母親の故郷なのだという。

城の内部はチケットが必要なので、ツアーでまとまって入場する。この入場ガイドに関してだけ、大阪から来たという同じ会社のツアーの人たちと合流、同じ現地ガイドさんの案内で歩くことになった。入場前の中庭で、小さなお土産売り場をのぞく。かわいい鉛筆や、マグネットなど小物を買ってしまった。街が中世にタイムスリップしたような空気をかもしていて、いつか心が伸びやかになってしまっている。ついでに財布の紐ものびやかになってしまったかも…しれない?

写真・城からの旧市街

城の内部は撮影禁止。高い窓から、町を見下ろしてはワァーと歓声が上がる。とにかく美しい町だ(写真)。この城の回廊はとても長いそうで、塔を下りても、いくらか下り坂になって次の建物へと続いていく。(写真下)

長い回廊を渡って、最後に建物を出る。門を出るところには石橋があり、その下の掘割には熊が飼われているそうで、覗いてみたが、会えなかった。

写真・チェスキークルムロフ城
チェスキークルムロフ城


写真・ツリフネソウ

さらに坂を下りて、ヴルタヴァ川を渡り、旧市街へ行く。さっき、城の上から見えていた美しい町だ。川の渕にはツリフネソウが満開だ。日本のツリフネソウより色が淡い(写真)。川を渡ると道は緩やかに登っていく。細い道から振り仰ぐと、城の塔が青空にくっきりと浮かびあがる(写真下)。旧市街は、山に向かって緩い斜面に広がっている。私たちはその道を、ゆっくり登る。坂の両側には、中世に迷い込んだような小さな店が続いている。

写真・50旧市街から塔

いくつかお土産売り場をのぞいて、孫にTシャツを選ぶ。どこも、とても間口は狭いが、入ってみると奥が広い。私たちがいくつかの店を覗きながらそぞろ歩き、ワインを売っている店に入ったところに添乗員さんが来て、この店は地下にも広いワイン売り場があると教えてくれた。ちょうどワインを求めて入ってきた、ツアーの仲間数人で地下に案内してもらい、残り少ないお勧めチェコワインなどという言葉に惹かれて、自分たちのお土産に赤ワインを買った。


写真・顔出し君

買い物のあとは昼食。まるで、お城のようなレストラン、中世の大きな建物をそのまま利用したエレガントな店内。でも、門を入ったところに広がる前庭には、中世の衣装を着た男女と子どもの顔出しが置いてあった。観光地に行くとよく見かける、看板の顔のところだけ丸く穴が開いている、写真用のあれ!日本だけじゃないんだと、ちょっとびっくり。そして、夫とそれぞれ中世の人になったふりをしてしまった。こういうことをすぐやりたがるのは私、夫は「いいよ、いいよ」と言いながらも、私にひきづられてやらされてしまう。(写真)

写真・カテドラリー、メニュー

テーブルも広く優雅だったが、ここのスプーン、フォークの作りがシンプルでおしゃれ。柄の部分は、平らに延ばした金属をぐるっと丸めてそのままという風になっている。歴史を感じる作り。レタス、トマト、モッツァレラチーズにオリーブのサラダ、川ますの塩焼きは、ポテトと野菜スティックがついている。そしてデザートは、フルーツたっぷりチョコシャーベット入りのパフェという、これまた豪華メニュー。夫は、このあとのバス旅を気にしてパフェは食べないというので、私が二人分食べてしまった。とてもおいしかった。(写真)


食事がすんで、再びバスの客になる。ウィーンに向かう長い道中、チェコの田舎の村をいくつも通る。高速道路に乗ったかなと思うと、いつのまにかまた森の中の道などを走っている。運転手のイシュトバーンさんは、道を熟知しているらしく、森や村の中の道をがんがん飛ばし、思ったより早く、「ここがウィーンの森と言われるところです」というあたりに着いていた。結局予定より1時間も早くウィーンへ到着。

チェコからオーストリアへの国境を越える道だったが、田舎道のようなところを通ったので、少しずつ風景が変わっていくのが実感できた。オーストリアに近づくにつれ、道の脇の畑が細やかに手入れされている。小さな村の家々がきれい。こんなところに住んでみたいなと思わせられる農村風景、いや日本で言えば高原風景かな。

バスの窓から見ると、小さく見える、赤い屋根のかわいらしい木造の2階建てが続く。庭には遊具があったり、花壇があったり…それぞれの好みのアイテムが置いてある。このような集落をいくつも通り過ぎた。集落とはいえ、家々の間にはゆったりとした空気がある。

密集度が薄いからだろうか。家の裏手の物干し竿に洗濯物を干している女性が見えたり、庭のテーブルでお茶を楽しんでいる人々が見えたり、過ぎ行く車窓には、様々な生活模様が映し出されていくようだ。


早めに到着したウィーンのホテルは、これまでで一番広い部屋だった。だが、お湯が沸かせる設備はなかった。今回の旅でお湯が使えたのは、唯一プラハのホテルのみだった。ようやくお腹の具合もよくなった夫だが、日本から持ってきたカップラーメンを作ることはできず、持ち帰りということになった。


ウィーンの町は、何かの記念行事に合わせて掃除をしたとかで、建物の白い壁が美しい。街の周りを道路と市電が走っていて、その一周する道路をリンクと呼ぶ。バスはリンクを一周して、ウィーンの町を紹介してくれた。

プラハの建物は壁の色が様々な色合いのパステルカラーで、赤い屋根との調和が美しく、時の流れを感じさせられるたたずまいだった。ウィーンは白い壁、ちょっときどった感じのおしゃれなイメージだ。


この日の夕食はオペラ座の隣の建物の中。2階テラスから目の前にオペラ座が見える。重厚なたくさんの窓が美しい建物に、緑の屋根が映えて、みんな思わず立ち止まって眺めてしまう。

最終日は自由夕食だったので、この日が今回の旅のツアー仲間との最後の夕食となる。プライベートディナーをお楽しみくださいとパンフレットに書いてあった、おしゃれなレストラン。たしかに二人用のおしゃれなテーブルに案内されて、プライベートスタイルなのだが、隣のテーブルのおじさんが、何かと私に話しかけてくる。私は向かい合った夫と話したいのだが、隣のおじさんは奥さんとは話さず、隣の私の方にばかり…。さすがに後半は少し静かになったのだが、せっかくの気分が台無しになってしまうところだった。

奥さんとは毎日話せるのだから、出会った人と交流を深めるという姿勢は、私には薄いので見習うところもあるのだろうが…。それは、プライベートをうたった場所ではなくてもいいよね。

写真・ウィーンの夕食

チーズ入りコンソメ団子、舌平目の塩焼きにポテトとアスパラ添え、パンもおいしく、デザートはアイスとチョコブラウニーだ。(写真)

昼の川マスといい、舌平目といい、塩味はやはり強いが、魚が大好きな私たち夫婦にはとても嬉しいメニューだったので、薬と言いながらいただく赤ワインとの相互作用で、夫のお腹もすっかりよくなったようだ。それとも、カレル橋のお願いのおかげかな。


写真・ウィーンオペラ座夜景

食後、レストランを出ると、目の前のオペラ座がライトアップされていて、ウィーンの町の落ち着いた雰囲気の中に浮かび、その幻想的な風景にみんな思わず立ち止まってしまった(写真)。


バレエが好きな私にとって、ウィーンのオペラ座は特別親しみを感じるところだ。パリ・オペラ座のエトワールとして長く活躍していたマニュエル・ルグリさん(1964−:エトワール1986-2009)が、現在芸術監督をしている。春に来日公演を行ったので、私も観に行った。芸術監督のルグリさんは、パリ・オペラ座を引退したとは言え、まだまだ舞台に立って衰えは見せない。表現力のある踊りを観ることができて、感動した。

オペラ座の建物だけではなく、もちろんバレエも観たいのだが、夏はシーズンオフらしい。バレエを観に行くツアーというのもあるらしいが、短い期間にバレエだけ、劇場のはしごをして観て回るというもの。せっかく10時間も空を飛んで異国の地に降りるのだから、バレエだけでなく、その国の空気を伸び伸びと感じてきたいと思う。10日間くらいの旅の中で、一回ゆっくりバレエを観るというツアーはないかな。バレエかオペラを…というのではなく、バレエ『◯◯』を見に行くツアー。どこか企画してほしいのだが…。



白い町ウィーン・六日目


写真・ホテルで朝食

朝、久しぶりに二人そろってホテルのレストランで朝食(写真)。それから、活動時間まで散歩することにした。

朝早いので歩いている人は少ない。道の向こうに、オレンジ色の目立つ服装の人たちが数人動いている。ゴミ収集の仕事をしている人たちだった。朝早くから働いて、観光客が動き出す前にきれいにしているのか…と、感心した。けれど、この後の午後の自由時間にオペラ座の裏を歩いていたら、オレンジ色の服装の男の人たちが、何人かでおしゃべりしながら歩いていくのを見つけた。たまたまこの地区の清掃が早かっただけなのかもしれない。

車道の向こうの建物を見ると、赤と白の旗が4本、白い看板の上に掲げられているのが見える。看板には大きなWの文字の下に建物の名前らしい文字も見える。気がつくと、いくつかの建物に旗が見える。その時は旗の意味が分からず、観光用かねと話していたのだが、まんざら間違ってはいなかった?この旗は、ウィーン市観光局が歴史的に意義のあると決めたところに、掲げられているのだそうだ。


写真・ベルベデーレ宮殿の散策

きりっとした朝の空気の中を、市の中心街に向かって少し歩くと、ベルベデーレ宮殿の門がある。今日のツアーの予定に入っているので、あとで訪問するのだが、広い庭を自由に散策できるのが嬉しい。独り占め、いや二人占め?誰もいない。とにかく広い。ずっと向こうに、木々や彫刻などで飾られた庭のさらに奥に、写真で見たことのあるベルベデーレ宮殿の薄緑のお城が見える。入った門のところにも、とても立派な建物があるが、向かい合うような位置に建っている、小さくすら見えるあちらの建物が、よく知られる宮殿の本館だろう。(写真)

あまりの広さに、私たちは下の庭園だけ歩いてホテルに戻った。そろそろ時間、みんなで今度はバスに乗って、ベルベデーレ宮殿に向かう。私たちが本館と思った方に大きな正門があり、そこから入ることになる(写真)。 写真・ベルベデーレ宮殿の門 バスはぐるっと回って、正門近くの公園に停まった。正門前には中央駅が建築中で、様々な工事車が止まっているため。公園の中を歩いて宮殿に向かう。どこの都市に行っても思うが、建物の美しさはもちろんだが、歩道の広さ、木々の豊かさ、そして地面の、芝の?多さが、とても心地よい。

写真・ベルベデーレ宮殿の上宮

ベルベデーレ宮殿は上宮、下宮があり、私たちが朝行ったところは下宮で、遠くに見えて、私たちが本館と思った建物が上宮なのだそうだ(写真)。バロック様式の総合芸術だが、18世紀初めオイゲン公という将軍の夏の離宮として建設されたものらしい。その後オーストリア大公マリア・テレジアのものになったというが、当時の支配者層の権力の強さを思った。


ベルベデーレ宮殿の中はオーストリアギャラリーとなっていて、エゴン・シーレと、グスタフ・クリムト(1862-1918画家)の絵がたくさんある。2012年はクリムトの生誕150周年ということで、盛り上がっていた。私たちツアーは、本来の開館時間前のプライベートタイムを1時間もらって、ゆっくり見ることができた。ガイドつきで、広い会場を12人で回る。美しい絵を独り占め。なんという贅沢!

『接吻』が壁いっぱいに展示してある細長い部屋では、しばらく足を止めて贅沢な時間に浸った。


夫はオーストリアで『接吻』の絵のネクタイを買うと、楽しみにしていた。お土産売り場でクリムトの「接吻」のネクタイを探すが、見つからない。売り切れとのこと、残念。クリムトのほかの絵がデザインされている、金ぴかのネクタイで我慢することにした。

平台にたくさんのパンフレットが並んでいたので、これは家に帰ってからゆっくり見ようと、手近な一冊を手に取ってレジに行った。レジのお姉さんが「イタリー?」というようなことを言いながら、私の顔を見る。よく見たら、平台には6、7カ国語のパンフレットが分けて並べてあるのだった。私たちは手近なものを持っていったので、それはイタリア語だったらしい。表紙のデザインが同じだったので、気がつかなかった。日本語はない。英語のパンフレットを持って、再びレジに行った。


写真・シェーンブルン宮殿

買い物は少し慌ただしく済ませてバスに乗り、次はシェーンブルン宮殿へ。ベルベデーレ宮殿を広いと思った私たちをあざ笑うかのような空間。

広い、広い。まず、門を入るとあの薄い黄色の建物がどーんと横たわっている。端から端まで見るには、これだけの距離が必要だなと納得させられる前庭のずーっと向こうに。砂利を踏んで近づいていく。庭は閑散としていたが、一歩建物の入り口に入ると、宮殿内の観光に集まってきた人々で、ごった返している。あれっと思って振り返ると、庭には人々が三々五々ゆらりという感じで歩いている。あまりに広いので、閑散としているようにしか見えなかったのだということに気づいた。


ここ、シェーンブルン宮殿は、ハプスブルク家の夏の離宮と言われている。650年も続いたと言われる、ハプスブルク家の栄華を感じられるところだ。(写真)

ヨーロッパを旅していると、ハプスブルク家の名前をよく耳にする。私は歴史にあまり興味がないので、両耳の間を通り過ぎていくことが多いのだが、どうしてハプスブルク家が栄華をほしいままにし、ヨーロッパの各地で耳にするかというと、王家を発展させるために戦いではなく、婚姻という方法をとったかららしい。

有名なマリア・テレジア(1740−1780)の名前や、その娘のマリー・アントワネット(1755—1793)がフランスのルイ16世(1754—1793)の妃となって、フランス革命で処刑された話は、私でも知っている。

フランスに嫁ぐまでの時を、マリー・アントワネットはここシェーンブルン宮殿で暮らしていた。宮殿には6歳のモーツァルトが演奏を披露し、マリー・アントワネットにプロポーズしたという逸話の残る部屋もあった。

第1次世界大戦に敗れ、崩壊したハプスブルク家の最後の有名な妃、エリーザベト(1837−1898)はシシィと呼ばれて、オーストリアの国民に今も愛されているようだ。どこへ行っても、スーパーの一角には、モーツァルトと、シシィの肖像入りのお土産が置いてある。

このシシィの子どもで、オ−ストリア皇太子のルドルフ(1858−1889)は、男爵令嬢マリー(1871−1889)と自殺をした。マイヤリング事件として知られるこの事件は、英国ロイヤルバレエ団のレパートリー『マイヤリング』にもなっている。ルドルフの苦悩の表現が難しい、重厚なバレエだ。


宮殿内には、部屋が1441もあるそうだ。公開されている2階の観光の前に、1階のベルグルの間という、王妃が私室にしていたというところを見る。4部屋程度の続きの間で、それぞれの部屋全体が一つのテーマで描かれている、薄い緑を貴重にした自然を描いた部屋が続いている。私室と言うからには、王妃はここで落ち着くことができたのだろうなと思うが、私は天井まで一面の、作り物の絵の世界に落ち着けなかった。しかし、王妃としての生活は、今の私たちから見れば不自由だったらしい。マリア・テレジアが南の国に憧れて、少しでもその雰囲気に浸ろうとしたのであれば、その気持ちは分からなくはない。

ベルグルの間は特別なツアーで、私たちだけ、鍵を開けてもらって入場した。そのあとの2階のツアーには、一般観光の波に混ざっていく。すごい人。

宮殿のガイドツアーは、一回りすると1時間。私たちは王家や客たちの住む表側から見るが、裏には使用人の使う通路がある。各部屋に付けられている巨大なストーブなども、表からは大きな陶器の飾りのようになっているだけで、一見してストーブとは分からないだろう。私と夫は、前年北欧の宮殿をいくつか見てきたので、すぐストーブと分かったが、これまで中近東などの旅を楽しんできたという旅慣れた人たちも、これは何?と尋ねていた。

このストーブは、使用人たちが裏から火を入れる。各部屋に1台から2台備えられているストーブだが、火を入れてから温まるのに3週間もかかるのだという。もともと建物が石でできていて、温まりにくいということもあるだろうが、常に火を絶やさないようにしておかないと、寒かっただろう。大きくて、壁や装飾に贅を凝らした宮殿だが、暮らしていくのは大変だったのだなぁと、自分たちの暮らしの贅沢さを噛みしめる。

写真・シェーンブルン宮殿(裏庭)


宮殿内のツアーが終わって、少し自由時間があったので、庭に出て歩く(写真)。この庭は奥の庭。夏のウィーンフィルのコンサートの会場になる所。例年、映像で楽しませてもらっていた。だが、何台ものカメラで追う映像では、全体像がつかめず、この庭はどうなっているのだろうかと思っていた。

写真・シェーンブルン宮殿(バルコニー)

それにしても広い。「広い」「広い」と、何度も言ってしまうが、ツアーの自由時間くらいでは、とてもとても歩けるものではない。2階のバルコニーに上がって遠く丘になっている方まで見渡すが、それがすべて宮殿の庭(写真)。中央の辺りは四角く区切られて、芝と小さな花が植えられている。途中の噴水、ネプチューンの泉まで行って引き返してこようと、夫と話しながら歩いたが、一区画歩いただけで疲れた(写真下)。時間がない。噴水まではもう2区画ほどだったろうか。とは言うものの、その噴水すら、まだまだ入り口になる程度。丘の上にも、大きな建物グロリエッテが横たわり、その向こうにも、木々の緑が広がっている。まいりました。

写真・シェーンブルン宮殿(庭園)

ああ、でも夏の夜のコンサートの時、私もここで時間を過ごしてみたいなぁと思う。みんな自由に座ったり、踊ったり、おつまみを食べたりしながら楽しんでいる。私も仲間になって、あの丘の上からウィーンの夜景を眺めながら、ウィーンフィルの音楽を聴いてみたいなぁと、強く思ったのだった。音楽を聴くというより、お祭り気分みたいだけど。

もちろん、自由な姿勢で楽しんでいるのは外野席の人たちだけ。私たちが歩いたあたりにイスを並べた席では、きちんと正装した人たちが、きちんと(?)、聴いているのだ。


広い、広い宮殿の、その広さの一部になって、その広さにため息をついて、私たちは集合場所の門に向かった。

門を出たところには女性の大道芸人さんがいて、マリア・テレジアの像になっていた。小さな女の子が周りを歩いて見上げているのがかわいらしい。


シェーンブルン宮殿が大きすぎて度肝を抜かれた感じの私たちも、再びウィーンの旧市街地に戻ってくるにつれて、自分の大きさに戻ってきた。オペラ座の近くの免税店で、バスを降り、この後は夜のコンサートまで自由時間。

ウィーンのオペラ座を見るのを楽しみにしていたので、ガイドツアーの時間を確認してから、食事に行くことにした。春、ウィーン国立バレエ団の公演を観て感動したので、できればバレエの公演を観たいが、夏はオフシーズンなのが残念だ。ウィーンのオペラ座には日本語のガイドツアーがあったので、その時間までに食事をしたり、町をぶらついたりしてくることにした。


ウィーンへ行ったら、肉の苦手な私も一口は食べて見たいと思っていたのが、ウインナー・シュニッツェル。ヨーロッパのレストランの、あの大きな皿からさらにはみ出すような大きさのシュニッツェルの写真が、旅行パンフレットなどに紹介されている。有名なレストランは「フィグルミュラー」、「モーツァルト・カフェ」、「ツム・ロイポルト」などらしいが、暑い中歩くのも嫌で、オペラ座のすぐ裏にある「モーツァルト・カフェ」に行くことにした。ヨーロッパでは当たり前の、歩道にはみ出して並ぶテーブルに、人がいっぱい。人気の店らしい賑わいだ。

私たちが入っていくと、店内の席に案内してくれた。店内の方が、少しゆとりがある。こちらの人は外の席を好むようだ。短い夏を思いっきり享受しようとしているのだろうか。

席に着いてみたら、隣には若いご夫婦、少し離れたところにはケイコさんとおばあさん…ツアーの顔見知りが座っている。日本人は店内がいいと判断されたのだろうな。

私たちはウインナー・シュニッツェルを一皿と、サラダを一皿注文した。もちろん赤ワインは忘れず。とても控えめにした気持ちで。ところが、運ばれてきた料理を見てやっぱり驚くのだった。とにかく多い、大きい!

ウインナー・シュニッツェルが大きいのは了解済み。でも、丸ごとポテトと、グリーンサラダがボールに入って一緒に皿に乗っているとは思わなかった。

そして、注文したサラダも大きい。サラダって?

シュニッツェルと同じ大皿に、炒めた野菜が大盛り、しかもその上には目玉焼きが覆いかぶさり、丸ごとゆでたポテトが3個、そして半分にカットしたトウモロコシがドーンと立っている。ご飯茶碗くらいありそうな入れ物には、くたくたにゆでたホウレンソウのソース。

ここで言う大皿とは、私の胴回りより大きい!ほんと。

写真・63ウィンナー・シュニッツェル

控えめのつもりが、すごい量。周りにいたツアーの仲間にも「すごい」と言われながら、夫も回復したお腹を楽しませた。

最後に、現地ではアイン・シュペナーと言う、ウィンナーコーヒーもしっかり味わってきた。(写真)これは、熱いモカの上にホイップした生クリームをたっぷり浮かべて、カップの上に細長いクッキーのようなものをのせてある。夫は、せっかく調子のいいお腹のために、生クリームたっぷりは止めて、ミネラルウォーターにした。日本ではサービスの水も、ヨーロッパでは買わなければいけない。

写真・オペラ座正面

のんびりカフェでの時間を過ごして、いよいよオペラ座のガイドツアーが始まる。日本語ツアーの時間帯は、同時にイタリア語とオランダ語のツアーがあった。日本語ツアーには、旅行ツアーの仲間も数組参加していた。既に正面の階段からして重厚、お洒落、雰囲気がある。ホールの内部も、装飾が施されていて美しい。このウィーンのオペラ座は、パリ・オペラ座(フランス)、ミラノ・オペラ座(イタリア)と並ぶ、ヨーロッパの3大オペラ座なのだそう。

写真・オペラ座内部

しかし、ここより狭かったが、ブダペストのオペラ座の方が細かい装飾、天井画など美しかったと、私は内心思った。

ガイドツアーはウィーンの方が楽しかった。日本語で意味が分かるからということはもちろん大きな理由だが、劇場だけでなくサロンのような部屋がいくつもあり、それぞれにテーマがあるので、楽しめるのだ。(写真)また、他ではなかなか見られない、バックステージも見ることができた。ステージを広いと思っているが、バックはさらに広い。何層にも用意されている幕やライト。見学していた時にも、まさにライトなどの取り付けをやっていた。見ていてあきない。(写真下)

写真・バックステージ

階上の通路に「トヨタ」と書いてある盤があった。日本の車の会社「トヨタ」だ。「トヨタ」はここウィーンオペラ座を支援しているのだそうだ。

テレビを見ない私たち、様々なコマーシャルも全く知らない。もしかして、周知のことなのかも知れないが、日本語ガイドツアーの方々からもオーっと驚いた声が上がっていたので、あまり知られていないのだろう。


ツアーが終わってから、オペラ座の裏にあるショップでお土産を買って外に出た。オペラ座の裏は、有名なケルントナー通りからシュテファン寺院に続いているが、私たちは賑やかな通りを少し歩いて回れ右をした。そして王宮に向かう斜めの道をぶらぶら歩いた。(写真)

写真・ウィーンの町

王宮の建物とつながっている、アウグスティナー教会の脇を通って歩く。教会には入らなかったが、ここはハプスブルク家の結婚式が多く行われた教会だという。マリア・テレジアから、マリー・アントワネット、シシィと呼ばれて人気のあるエリーザベトも。それだけでなく、マリー・ルイーズ(1791−1847)と、ナポレオン1世(フランス皇帝1769−1821)も、ここで結婚式を挙げたというから、驚いた。

写真・ウィーンの町中スーパーで

おそるべしハプスブルク家、ナポレオンは最初の結婚で跡継ぎに恵まれなかったので、マリー・ルイーズと結婚し、嫡子をさずかったのだ。ナポレオンの結婚相手としては最初のジョセフィーヌ(1763—1814)が有名だが、マリー・ルイーズもナポレオンに愛されたということだ。

でも、結婚式はウィーンだったかなと、後で調べたら、ルイ16世や、ナポレオン1世は、代理人で行われたらしい。それにしてもすごい教会だ。

地下にはハプスブルク家の人々の心臓が54個も安置されていて、事前に予約すれば見ることができるらしいが、私は結構だ。


教会を過ぎると、広場にでた。中央に騎馬像がある。マリア・テレジアの子どもヨーゼフ2世(1765−1790)の像。王宮の建物に囲まれた四角い広場で、少し休もうかと思ったが、日差しが強い。地図で見ると、建物の向こうはブルク公園の筈。遠回りをせずにどこかに道はないかと、建物に添って歩いてみるが、門のように見えても大きな木の扉ががっしりと閉まっている。ときたま開くときがあるが、そこに用のある人が入って行くようで、私たちには縁がなさそうに見える。それでも、何となく、通れるのではないかなぁと、未練がましく横目で見ていた。すると、その木の大きな扉が、向こう側から開いた。買い物帰りのような感じの女性が、自転車を押して歩いてきた。そして、何事もなかったかのように広場を横切って去って行った。

写真・道路の扉

この王宮の上は国立図書館になっているところだが、地図で見ると、奥の大きな王宮の建物と、アルベルティーナ教会のある建物とを結ぶ通路のようになっている。ここを抜けると、新王宮と広い庭園方面に出られるようになっているのだ。

重い木の扉を開けて、恐る恐る入ってみた。(写真)ちゃんと道だ。しかも建物の内部で曲がっている。トンネルのような道。けれど、幅広く、天井も高く、決して抜け道のようではない。普通の道という感じだった。

この道を抜けると、左側には緑濃いブルク公園の森、目の前には新王宮が続いている。私たちは新王宮の大きな階段が日陰になっていたので、しばらくそこに座って人々の行き交う姿を眺めていた。

写真・モーツァルト像

しばらく休憩して、ゆっくりブルク公園の緑の中に踏み込んだ。ここにはモーツァルト(作曲家1756−1791)の像がある。モーツァルトは日本でも最もポピュラーに愛されている、作曲家の一人ではないだろうか。ウィーンと言えば、モーツァルトのチョコレートと、ここブルク公演にある像が紹介される。私たちも、旅立つ前に写真を見ていたので、実際はどのくらいの大きさなのだろうかと、楽しみにしていた。

モーツァルトは高い台座の上に立っていた。台座だけでも私の身長の2倍以上の高さ、かわいいたくさんの天使に見守られている。彼の前には大きな芝生の庭園があり、ベゴニアだろうか、ピンクの花でト音記号が描かれている。(写真)


写真・ベートーベン像

モーツァルトに別れを告げて、再び賑やかな通りに戻る。広い歩道にはいくつも屋台が並んでいるので、そこで飲み物を買い、ホテルに向かう。裏通りを通って、小さな公園に寄る。ここにはべートーヴェン(1770-1827作曲家)の像がある。たくさんの天使に囲まれた大きな像だが、私たち以外に訪れる人はいない。この静かな公園の木漏れ日の下で。ベートーヴェンとしばしの時を共有(?)した。(写真)そして、ぶらぶらとトラムの脇を歩いてホテルに戻った。この裏道歩きでコンツェルトハウス、アカデミー劇場を見つけた。たくさんの劇場があるウィーン、音楽の歴史を感じた。


この日の夜はモーツァルトコンサートを聴くことになっていたが、その会場がどこかは行ってみないとわからないと言われていた。私たちは毎年ウィーンフィルハーモニーのニューイヤーコンサートを、テレビ(録画)で見る(聴く)のを楽しみにしていたので、楽友協会に入ってみたかった。

当日、会場は楽友協会だと言われたときには、思わず「やったー」と、心の中で叫んでいた。

写真・学友協会(衣装)

そして、いよいよコンサート、1階の中央当たり、とてもいい席。よりきれいな音を聴くためには本当は2階のほうがいいらしいが、ホール全体を楽しむにはとてもいい席だった。演奏するのはモーツァルト楽団のメンバーで、当時の時代衣装をつけて演奏する。(写真)チケットを切る人も、パンフレットを販売する人も、みんなモーツァルトの時代衣装をつけ、かつらをつけて、雰囲気を盛り上げている。私と夫は嬉しくて、開演前に2階に上がったり、3階に上がったり、一番後ろから全体を見下ろしたりして楽しんだ。(写真)

写真・学友協会(3階から)

映像で見たとおり、内部は金ぴかで、天井には美女や天使の大きな絵が並んでいる。1本1本の柱はすべて美女が天井の梁を支えているという構造、カリアティードというらしいが、単に装飾として美しいだけでなく、音波が理想的に反響するのだそうだ。

この楽友協会(ムジークフェライン)を作った建築家は古典建築を学んだ人で、他にも国会議事堂などの有名な建物を作っているのだという。

写真・学友協会(内装)

ホール内部は音響的に最も良いとされる木造だが、さらに床を二重構造にして共鳴箱としての機能を持たせ、宙吊りの天井は響きの共振を考えて作られていて、徹底して美しい音を作り出そうとしているのだ。

また、楽友協会完成直後に、横を流れるウィーン川に蓋がされ、その大きな坑道が巨大な共鳴空として機能するようになったという、びっくりするような幸運の助けもあり、世界一美しい響きのホールとして知られている。

写真・赤い絨毯

金ぴかの内装、柱もすごいが、階段の赤い絨毯にも感動、これらを享受できたのはきっと貴族たちだけなのだろうなと思いながらも、つい一瞬の心地よさを満喫しているのだった。(写真)

観光用かなと思っていたので、演奏にはそれほど期待していなかったのだが、これが嬉しい誤算。歴史を感じさせられた。モーツァルトを愛し、大切に演奏し続けてきたこの町の空気そのものを感じたような気がした。

外に出ると風が強く、一気に冷たい空気に包まれたのだが、私たちは幸せに酔いながら帰りのバスに乗った。

写真・最後の夕食

旅の最後の夕食はホテルの部屋で。昼スーパーで買って来たフルーツやスパークリングワイン、そして残り物。質素ではあったけれど、モーツァルトの余韻に包まれてほのぼのと幸せなひとときだった。(写真)



ウィーンの通勤電車・七日目


写真・朝のウィーンの町歩き

朝、集合がゆっくりなので、6時半頃からホテルの近くの駅へ行ってみることにした。(写真)

ベルベデーレ宮殿への散歩道とは反対の方向へ少し歩くと駅の入り口が見えてくる。「Rennweg」というSバーンの駅、ホームは地下。ここもそうだが、ヨーロッパの駅はホームまではフリー。電車に乗るときはもちろんチケットが必要だが、駅構内には自由に入れる。私と夫はホームの真ん中で、前を見たり、後ろを見たり忙しい。ホームは1本なのだが、両サイドの線路にひっきりなしに電車が入ってくる。(写真)

写真・「Rennweg」というSバーンの駅1

主に近郊列車が走る路線らしい。様々なスタイルの電車が入っては出て行く。それなのに、うるさくないことに気づいた。アナウンスがほとんどないのだ。しかも、たぶん通勤時だと思われる時間なのに、電車はどれもゆったり座れる。ホームにも人はまばら。私と夫はカメラを持って右往左往していたが、電車の2階席に座ったおじさんなどが、ニコニコしながら手を振って行く。あまり有名な駅ではないのかも知れないリンク外の小さな駅で、カメラを持ってうろうろしている東洋人がおかしかったのかも知れない。

そんな私たちとは無関係に、電車は次から次へとやって来ては去って行く。空港へ向かう急行も来る。(ビデオ)

■ Video:ウィーン市内のトラムと通勤電車 ■

しばらく、電車を見送ったあと、ホテルに戻ることにした。駅の1階入り口の脇には喫茶があった。看板の「illy」は、プラハのホテルでサービスとして備えてあった、コーヒーセットのメーカーだった。赤地に白い文字が浮かんでいて、どこかで見たマークだと思い、このような何気ないことが嬉しくなったりする。旅っておかしなものだ。(写真)

写真・「Rennweg」というSバーンの駅2

「illy」はイタリアのメーカーとのことで、日本に帰ってみたら赤地に白の文字のカップが売られていた。どこかで見たような気がしたのはそのせいかもしれない。


いよいよ最後の時間。ロビーに集合して飛行場に向かう。6日間とちょっと一緒に過ごした仲間が、一見昔からの知り合いのように言葉をかけ合っている。しかしそこにはもう少しで他人に戻っていく者たちの間にある、ピンと張った、かすかな華やぎも感じられる。日常の会話にほんの少し、襟に手をかけて、背を伸ばしているような…
「ではごきげんよう」
言葉にはしないけど、気持ちの中にその思いを含めて…。


写真・ウィーンの空港

ウィーンの空港はやはり、乾いた青の空の下でぎらぎら光っている。(写真)前の空港ターミナルが狭くなったので、新しく立て替えられたのだそうだが、添乗員さんによると、評判が悪いのだそうだ。狭すぎたから立て直したはずなのに、やっぱり狭くて分かりにくい構造になっているらしい。それでも、ゲートの表示などを見ながら、空港内の待ち時間を過ごした。たくさんのお土産店が並んでいて、金ぴかの中にモーツァルトの顔が描いてあるチョコレートがたくさん並んでいた。また、オーストリアの人たちに愛されているシシィの、同じようなチョコレートもたくさんあった。(写真)

写真・空港にて

シシィは愛称で、エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエといい、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830−1916)の皇后。今回の旅ではシシィの話がいたるところで出てきた。とても美しかったということでも有名な王妃だ。ウィーンでは、自慢の長い髪を背中に垂らして、微笑んでいる肖像を何回か見た。


この空港で、残った現金をできるだけ使おうと考えたが、ザッハトルテのお土産を買わなかったことを、あとで後悔した。いつも、何かしら、こういうことで後悔するからと、念入りに見て回ったのに、その時は蒸し暑い日本に持ち帰ったら、傷んでしまうのじゃないかと思ったのだった。帰ってから、本などを見ると、大丈夫だったらしい。

お腹の調子も気になっていた今回の旅では、ザッハトルテを現地で食べられなかったので、この有名なお菓子をせめてお土産で買ってきて味わってみればよかったな…、後の祭りでした!


日本も暑い・八日目


写真・機内食

飛行機は帰りも安定飛行で、予定より少し早く7時15分、成田に着陸した。

機内食は今度も2回、1回目はパスタ(トマト味ペンネ)とポーク(カレー風)から選んだ(写真)。最後は軽食ということでスクランブルエッグのトマト添え、ポテトとパンが付いていた。最後のスクランブルエッグはまぁまぁのおいしさだった。

いねむりしたり、ゲームをいじったりして過ごすうちに成田だった。


私たちは成田エクスプレス、横浜線、田園都市線と乗り継ぎ、我が家に一番近いつきみ野駅で下車した。朝のうちに日本に着く旅程だったので、まだ十分明るいうちに我が家に到着することができた。

予定を見たときは、最後の日が早くてもったいないと思ったものだが、帰ってきてみれば、家のコーヒーを飲みながら、荷物を少しずつ出して楽しむゆとりもあるのだった。

今回の旅ではコーヒーはどこでもおいしかった。それで、最後の空港でおしゃれな四角い缶に入ったコーヒー豆を買ってきた。帰ってから調べてみたらユリウス・マインル社という、ウィーンのよく知られる高級デリカテッセンの会社のブランド品だった。

スイスを中心としたヨーロッパアルプスの旅でも、北欧めぐりの旅でもパンがとてもおいしかったので、今回も期待していたが、パンはあまりおいしくなかった。ただ、いつも付いている、ジャムとヨーグルトはおいしかった。

なによりも、食事は全体にしょっぱすぎたことが、残念だった。

北欧に行くと言ったときに、多くの人が食べ物は期待できないと注意してくれたものだが、北欧では魚と野菜が中心のメニューで、いただくもの、いただくものみんなおいしかった。これは嬉しい誤算だったので、食べ物はおいしいと聞く中欧には、さらに期待が高まっていた。確かに味の彩りはよいのだが、そこから塩だけ省けば…と思わせられた。

また、量は多い。特にデザートは大きくて、生クリームがたっぷり。生クリームは甘すぎることがないので、多めに食べられるものだったが…。デザートは、塩味がないのでおいしかったかな。でも、多すぎて食べ切れなかった。デザートに出るお菓子も、重々しくてお腹にずっしりこたえるようなものだった。


写真・お土産いっぱい

いやあ、それにしても毎日快晴、暑かった。1年間で1~2週間暑い日があると、後で聞いた。その一番暑いときにたずねたのが、私たちというわけ。空気は乾燥しているので、日本の暑さとは違うのだが、汗が出ても流れないので、自覚できない。水分を取らなければいけないのに、つい油断してしまったと思う。


カラフルなお土産を目の前に並べて、体調を快復して帰ってこられたことを喜んだが、戻った日本も、真夏の暑さの底なのだった。(写真)





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