燕岳山頂から北燕岳方面・クリックで拡大
のちに聞いたのだが、長野市で子供時代を過ごした夫は、なんと中学2年の時にこの合戦尾根を歩いているそうだ。いわゆる「学校登山」というもの。前日に有明荘に泊まって、早朝に合戦尾根を歩き始めたという。確かに中学生くらいの時は体が軽くて、全身の筋肉がバネのようだから、長い急登も苦にはならなかったのかもしれない。
「苦しくなかった?」と聞くと、「すごく苦しかった」と言う。「終わりが来ないのではないかと思ったよ」と苦笑い。
それでもピンボケの古い写真を見ると山の上とは思えない姿で仲間と映っている。遠くの槍ヶ岳をバックにした写真、燕の山頂での記念写真、学生帽をかぶってみんな嬉しそうだ。
さて、社会人になったばかりの私はというと、ヒーヒー言いながらこの尾根を登った。山に入るといつも最初の1時間が苦しい。とにかくゆっくりゆっくり歩いて体の調子を整える。1時間くらい経つとようやく体内エンジンが活発になって、あとはあまり苦しくなくなるのだ。この日もそうだったと思う。初めはビリを歩いているのだが、合戦の頭に着く頃にはかなりの人を追い越していた。
単独行なので、あまり写真は残っていない。互いにカメラを渡して写真を取り合っているのが普通の光景だった。フィルムなので、今のように出来栄えを確認することはできない。現像してからのお楽しみだ。ちなみに私の燕岳山頂写真は見るたびに吹き出しそうになる「チャップリン(チャールズ・チャップリン:映画監督、俳優1889-1977」スタイルなのだ。
稜線からは槍がすぐ近くに見え、あの頂に立つのだと期待が膨らむ。夏に来ればコマクサが咲く山頂稜線で槍をバックに写真を撮ったが、フィルムの最後で巻きが甘く、次の写真と重なってしまった。データ撮影の今では考えられないことだが、当時はよく起こった。
さて、山頂を踏んで・・・。燕山荘に泊まればゆっくりできると分かってはいたが、時間の余裕がないので先へ進んだ。途中崖の上に喜作(※)のレリーフを見つけたり、尾根を登ったり降りたりしてようやく大天井岳に到着。その日は大天井ヒュッテに泊まった。
ヒュッテの中はあまり覚えていないのだが、二人の人との思い出がある。一人は前日の途中から一緒に歩いた男性(父と同い年だった)。餓鬼岳が好きでよく登るそうで、槍ヶ岳ももちろん何度も登っているそうだ。経験豊富なその男性に色々教えてもらいながら歩いた数時間は楽しかった。彼は、さらにひとつ先の小屋に行くと言って歩いて行ったが、その姿が忘れられない。赤いリュックが遠ざかっていくのをしばらく見送っていた。
この人はその後亡くなるまで長い年月、登山旅行の色々な写真や情報を送ってくれた。国内だけでなく、海外へも出かけては、その山の写真を送ってくれた。たった数時間山道を一緒に歩いただけの係わりがその後の長い年月の交流につながった、思い出深い人。
そしてもう一人、ここで同室だった女性と意気投合。同世代のこの人も単独行が多いと言うことだったが、この時はなぜか気が合い、帰りの上高地までずっと一緒に歩くことになった。例えば、大きな山小屋の槍ヶ岳山荘には泊まらず、小さな槍沢ロッジに泊まろうかというようなところが妙に気が合うのだった。
さて、うっすら白くなった大天井岳からいよいよ槍ヶ岳に向かう。道連れになった女性と話しながら歩くので、あっという間に槍ヶ岳の肩についた。途中の垂直に思える長い鉄はしごの登りなど、下を見ればどこまでも続く崖だから怖くないと言えば嘘になるかもしれないが、すごい!と思いながら楽しんでいた。
槍の穂は今では登山路、下山路に分かれていると聞くが、当時は同じところをよじ登った。途中上から降りる人が怖くなって動けず、端に避けながら降るのを待っていたので、ちょっと時間がかかったけれど、無事槍の穂のてっぺんに飛び出した。360度本当にぐるりと目の前には何もない。足元の岩の下に世界が広がる。小さな祠があったのでお参りし、そこで写真を撮ることにした。祠の隣にしゃがんでいたら、いきなり足元から頭がにゅっと出てきたので、飛び上がりそうになった。険しい北鎌尾根を越えてきた人が最後の崖を攀じて、山頂に到着したのだった。その男性とちょっと話をしたが、すごいとしか思えなくて内容をほとんど忘れてしまっている。
山頂からは360度の大展望なのだが、西の空には雲が厚く、双六岳へ続く稜線もあまりよく見えなかった。常念岳はうっすらと雲を被りながらもその独特な三角の稜線が見えていた。穂高連峰も隠れたりうっすらと姿を現したりだったが、槍の穂先に立てた喜びが大きく、展望が霞んでいるのもあまり苦にならなかった。
一緒に登った女性と写真を取り合ったり、たまたま一緒になった人にシャッターを押してもらってツーショットの記念撮影をしたりしてしばらく山頂を楽しんでから降った。槍沢は岩だらけ、私たちは走るように降りて、槍沢ロッジに泊まった。
翌日はのんびり梓川のほとりを降り、上高地からバスの客になった。楽しい山旅の終了だ。その後夫と穂高岳に登った時、涸沢岳から目の前に見える槍ヶ岳を指さし、かつて歩いた道を懐かしく思い出した。
(※小林喜作1875-1923:漁師、山案内人、1920年に喜作新道を開削)
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