1日交代で雪と青空、また明日から雪かもしれない。散歩してこよう。久しぶりに高台にある往生寺まで上がってこようかと話しながら歩き始めた。朝9時半、まだ気温は氷点下。我が家の北の道はうっすらと被った雪が凍っているのですべる。「ここが一番の難所かもしれない」と笑いながら、けれど慎重に歩き始める。善光寺の三鎮守(武井神社、妻科神社)の一つ、湯福神社の前を通ってのぼる。車道だけれど、かなり急な道だ。雪が残っていると滑るので気をつけて歩く。狭い道だけれど、車の往来は多い。
しばらく登ると左に公園が見えてくる。高台にある往生地公園は配水池移転の跡地を利用した公園だそうで、広い。
周囲を囲む桜やトチノキは歴史を感じさせる大木で美しい。この公園に落ちていたトチノキの実を拾って帰って、栃餅を作ったこともある。
公園を突っ切って奥の道から登っていく。急傾斜の細い道だが、車の通りはほとんどない。戸隠バードラインに続く展望道路に上がり、そこから往生寺への参道に入る。一段と急になった道を登っていくと、往生寺に到着。
この道を秋に訪れた時、風車のようにくるくると綿毛を巻いたツル草の実がたくさんあって、何の実だろうと気にかかっていた。写真を見るとカザグルマの実に似ているがはっきりしない。花の季節に訪れてみようと思っているうちに、その辺りの草藪がみんな刈られてしまった。
往生寺に到着。境内にはまだ足跡がない。奥の階段を登ってみようか。まっすぐ上がる階段は急なので、左の緩やかな階段を登って上に出る。ここは観音山への遊歩道入り口だ、菅平や志賀高原の山が見えている。観音山への道には雪が積もっているが、凍りついていない様子。しかも雪の量は思ったより少ないので、行けるところまで行ってみようかと山道を進む。雪の上には猪の群れが通ったらしい足跡が入り乱れている。野うさぎもたくさんいるらしい。頭上のヤマコウバシの茶色いヴェールを見上げながらジグザグの坂東道を登る。道はしっかりついている筈だが、倒木で塞がれたり、倒れた木の根とともに土が深く抉られたりしていて、荒れている。夫が道に倒れている木を片付けようとしているが、雪が積もっているので細くても結構重いらしく、苦労している。山頂近くになると笹が茂ってきて道を塞いでいるようだ。観音山にはしばらく訪れていなかったが、この荒れようは雪のせいばかりではない。私たちばかりでなく、あまり人が訪れなかったのだろうか。
笹藪を越えると山頂だ。善光寺を見下ろす。我が家は松の影になって見えない。山頂のアカマツが光っている。善光寺平周辺の山にアカマツは多いのだが、今日の幹は陽の光を受けて一段と赤く光っている。私たちは山頂で記念撮影をして、景色を楽しむ。夫が菅平や志賀の山々の写真を撮っている間に私は峰の先の三角点にタッチしてこよう。雪を被ってはいるが、数cmの雪なので、三角点は埋もれていない。
三角点にタッチして山頂肩に戻る。「今日は午後に用があるから、散歩をしてこよう」と言って出掛けてきたけれど、久しぶりに観音山に上がることができた。山頂肩から道は坂東三十三観音道と西国三十三観音道の二つに分かれる。どちらもほぼ同じ距離だが、西国の方が急斜面で、以前通った時は道がぐちゃぐちゃしていた。今日はスパッツなどの山の用意をしてきていないので、来た道を戻ることにしよう。石の観音様は倒れそうになって縄で支えられているものもある。それでも倒れているのはなく、手入れされているのかなと思う。
森の景色を楽しみながら往生寺に降りる。この寺は善光寺の奥の院になるそうだ。
「かるかや堂」とも呼ばれる往生寺は、九州博多の城主加藤重氏が出家(刈萱上人)して開山した寺。関西で修行中に息子の石堂丸が訪ねてきたが、父はもうこの世にいないと伝え、弟子入りを許した。しかし親子の情により修行がおろそかになるのを恐れ、息子を残して善光寺にやってきた。善光寺で修行の後、高台にこの地を授かり、往生寺を開山、ここで生涯を閉じた。のちに刈萱上人を慕って息子もやってきて、ここで父と同じ地蔵尊を彫ったそうだ。
往生寺の鐘は童謡「夕焼け小焼け」のモデルになった鐘としても知られている。作曲した草川信は長野の出身だ。宗教とは無縁の私だが、ここには長い年月を生きてきた一人ひとりの人間が残しただろう小さな足跡が感じられる。