もう20年も前のことだ。
息子の結婚式が終わり、ポケッとした。彼らは新婚旅行に出かけたが、こちらはお祝い山行としようか。というほどの意味合いを持たせたわけではないけれど、早春の山の空気を味わいに出かけることにした。八ヶ岳は神奈川から行ってくるにはちょうど良い距離にある。ただ、忙しくてバタバタとしていたから、あまり難度の高い山登りはやめて北八ヶ岳の美しい森の中を歩いてこよう。
国道299の最高点、麦草峠は標高2127m、かつては国道最高地点だった(現在の国道最高地点は1992年まで有料道路だった国道292の渋峠2172m)。途中、白樺湖や八千穂レイクへの道を越えていく何度も走った気持ち良い道だ。
人生にはいくつもの波があるとはよく言われる。仕事のこと、人間関係のこと、金銭的なこと・・・何が起こるかわからない明日へ向かってただ歩いていくだけだ。問題の只中にいる時には、家族でも友人でも何も知らず、何もできないことだって多いだろう。ただ、そんな時に自然の中に身を置くことが癒しになることは、確かにあると思う。
夫が何か課題を抱えていた時に、自然の中を一緒に歩き気分転換を図った。その時に訪れたのが、奥志賀や北八ヶ岳だった。
北八ヶ岳に点在する湖は、冬の厳しい寒さで氷に覆われる。八千穂レイクや松原湖には何度か訪れた。
松原湖は、湖面が凍る冬のワカサギ釣りで知られている。一度、凍った氷の上を歩いて湖の中ほどまで行ってみたことがある。氷に穴を開けて糸を垂らしている男性たちの周りを子どもたちが楽しそうに歩いていたが、慣れない私は足元が不安で落ち着かなかった。
八千穂高原のスキー場にも何回か行ったが、行き帰りに八千穂レイクの氷の上を歩いてみたことがある。誰もいない白樺林はちょっと寂しい風景だった。
夏の白樺林は緑と白のコントラストが美しく見飽きない光景だ。爽やかな風の中に立っていると時間を忘れたものだ。
さて、朝8時に神奈川の家を出発して、麦草峠に車を停めたときは午後1時になっていた。中央道を走り、須玉ICから野辺山を越えて松原湖に降り、山道を走って国道299に入った。何回か訪れた八千穂スキー場への入り口、白駒池の入り口を横目で見ながら登り、麦草峠に車を停めた。
車はほとんど停まっていなかった。連休が過ぎ、夏山には遠く、ちょっとした隙間だったのかもしれない。午後1時20分、足元を整えて歩き始めた。
茶水の池のほとりに敷いてある木道を歩いていく。水芭蕉がポツポツと顔を出しているのが嬉しい。ここ、北八ヶ岳にも春が来たのだと感じる。
木道を歩き、深い針葉樹、シラビソだろうか…の森の中を歩いていく。針葉樹の深い森だが、広葉樹も混ざっている。幹が光るようにツヤツヤしている木があった、神奈川で見たヒメシャラに似ているが、何本もの幹が寄り集まって生えている姿はリョウブにも似ている。リョウブにしては幹がくにゃくにゃしているようにも思える。なんの木かはわからないが、目を惹く姿だった。
20分ちょっと、せっせと歩いて中小場山頂に到着。13時45分、さすがにお腹が空いたので、ここでお昼を食べよう。
見晴らしが良い。目指す茶臼山がすぐそこに、そしてその右奥に縞枯山が盛り上がっている。南には天狗岳がくっきりと見えている。天狗岳の向こうにボコボコと連なるのは南八ヶ岳の主峰赤岳と横岳、阿弥陀岳などの山だ。
5月の高山には花は少ないけれど、木々の葉が光を帯びてきて美しい。森の中に見える花はセリバオウレン、ヒメイチゲなど、小さく可憐だ。まだ寒さが残る山の森の中に光っている純白の花びらに出会うとなんとも嬉しい。ヒメイチゲはアズマイチゲやキクザキイチゲなどと同じキンポウゲ科の仲間だが、最も小さい。茎葉が3輪生し、小葉が3全裂している姿は緑の袴をはいた幼い姫みたいだ。
森の中の道はそれほど勾配がキツくないので楽しみながら歩ける。溶岩が流れてできたでこぼこの地面に生えたシラビソなどの針葉樹の森は、鬱蒼として暗いイメージがある。地面には苔が一面に広がっているが、明るい緑の絨毯ではなく、それもまたどちらかというと湿っぽくて暗い感じがある。
しかし、春から夏へ日差しが次第に伸びていくこの頃は空が明るく感じられて、木の間から遠くの山や、下の町などが見えるとその明るさが際立って感じられるから面白い。所々に残雪があり、高山の趣を強くしている。
中小場から稜線を歩く。時々立ち枯れの白い木の中を通る。お隣の縞枯山に顕著な縞枯現象だが、この茶臼山の斜面には小規模の立ち枯れが見られる。
縞枯現象の原因はまだ明確に分かってはいないそうだが、亜高山帯に自生するシラビソ、オオシラビソの優占林に限って見られる現象なのだそうだ。樹木の世代交代や天然の更新かもしれない。しかし、山肌全体にポツポツと枯れたり倒れたりするのではなく、横縞状にその現象が起きるのが不思議だ。北八ヶ岳はその規模が大きい縞枯現象が見られることで知られている。
中小場からのんびり風景を楽しみながら1時間、茶臼山の頂上に到着。誰もいない山頂で、自動シャッターの記念撮影、慌てた証拠に山頂表示の上部が映っていなかった。ちょっと笑える記念写真だ。
山頂からほんのちょっと歩くと展望が開ける。南八ヶ岳の雄大な斜面の下に広がっている町は茅野市か富士見町あたりだろうか。
見渡す限りの大展望、しかもここにいるのは私たちだけ。なんだか独り(二人)占めするのが申し訳ないような清々しい展望だ。
北には蓼科山、北横岳が重なって見えている。私たちはそれほど広くはない展望台を、あっちへ行ったりこっちへきたりしながら思いっきり楽しんだ。
二人だけなのに賑やかに山の名前を呼んだり岩の形を楽しんだりしながら遊んでいるうちに3時を過ぎている。そろそろ帰ろうか。もう一度別れを惜しんで、3時10分、道を降り始めた。
途中、綺麗な青色の小鳥が登山道の岩の上にとまっている。シャッターを押してみるが、望遠レンズではないので、小さくブレブレだ。私たちがそっと近づくと、小鳥は少し先の岩にとまる。もう一度、また少し先へ。なんだか道を教えてくれているみたいだ。私のメモには「オオルリか」と書いてあるが、コルリだったかもしれない。いずれにしても綺麗な青色の小鳥だった。
展望台を出発してから1時間ほどで、麦草峠に帰り着いた。