その日は午後仕事を終わらせてから出発した。もう二昔も前の話だ。夏のお休み最後のチャンス。夜、佐久のホテルに到着、翌朝は志賀に向かって走る。もっと志賀に近い所に投宿すれば良いものをと思うが、当時は上信越自動車道が小諸ICまでだった。
翌日は軽井沢を抜けて北上、鬼押ハイウェイから浅間白根火山ルートを走り、渋峠を越えて登山口の奥志賀まで走った。渋峠の崖の上にカモシカが顔を出し、「物好きな奴らが行くなぁ」などと言っているかのようにじっとこちらを眺めていた。ただただ、山へ向かって走る、そのことが無性に嬉しかった。
横手山の下を通って志賀高原の中心部まで下り、蓮池を右に入る。あとは奥志賀方面へまっすぐ進めば聖平の登山口だ。
登山口近くの聖平はどこか寂しくただ広かった。夫がお盆の帰省時に下見と称して訪れた時にはヤナギランが満開だったそうだが、すでに最盛期は過ぎていた。
登り始めたのは10時過ぎ。武右エ門沢を越え、アライタ沢までは沢沿いの平らな道が延々続く。30分以上続く道は準備運動には良いかもしれないが、ちょっと飽きてくる。ただ、残暑が残る沢沿いにダイモンジソウが開いている姿には涼を誘われる。
そして沢を離れて斜面になると、今度は森の中をのっきりまでぐんぐん登っていく。秋の気配を感じさせる残暑の森は木の葉が重なって影を作り、強い日差しを遮ってくれている。
途中には丁寧にも「岩菅山中間点」の看板がある。登山道からは広い笹原の向こうに目指す岩菅山が立ち上がってくるはずなのだが、ガスが濃くなり。木の間越しに白い空間が見えるだけ。たまにガスのカーテンが揺れて、山頂部がふわりと見えることがある。「あ、見えた」と喜ぶが、あっという間に再び隠れてしまう。喜んだり、がっかりしたりしながら足を運ぶうちに、いつの間にか標高は上がっている。
8月も後半になると、山はもう秋色になってくる。ウツボグサ、ツルリンドウ、アマニュウなどの花も揺れている。標高が上がるにつれ、赤や白の実が目を引くようになる。シラタマノキのちょっぴり歪んだような丸い実がばら撒かれているかと思えば、濃い赤のアカモノ、透明感のある赤のタケシマラン、そしてところどころに綺麗なブルーのツバメオモトの実もある。草や木の実に混ざるように秋の花が咲いている。ウメバチソウ、コバノコゴメグサ、リンドウなどの花を愛でながら道を進む。
アキノキリンソウが鮮やかな黄色に咲きみだれている。樹林の中を1時間ちょっと登ると稜線に辿り着く。ここは「のっきり」という。面白い名前だ。乗り切るとかいう意味なのだろうか。急な坂を登って、ようやく辿り着く稜線だからか、なんとなく頷いている。
登山口や中間点にもあったが、登山道を図で示した看板が随所に立ててあるのは分かりやすい。
さて、ここからは楽しい稜線歩きだ。とは言うものの、まだまだ傾斜は急だ。ちょうど12時、お昼にしようと思うが、どうせならもう少し眺望の良い開けたところが良いと、30分ほど頑張って登る。
出た、お花畑だ。山頂も近いけれど、ここでお昼を食べてしまおう。お花畑の脇の登山道が広くなっている所に座り込んでおにぎりを食べる。
見上げると山頂は流れるガスと遊んでいるように現れては隠れ、隠れては見えてくる。
岩菅山は奥志賀の山並みの上に馬の背のような山容が目立つ山だ。志賀の山からはもちろん、長野盆地の西の山々からはよく見える。奥志賀のスキーに出かけたり、麓をぐるっと回ってカヤの平まで行ったり、岩菅山の近くまでは何回も行っている。志賀高原の北にある岩菅山、山頂まで行かなくても中腹の花を見ることを考えるだけでも心が騒ぐ。だが現実には「もう一度行きたいね」と話しながら、なかなか実現しない。
登った当時の写真は霞がかったように青っぽく褪色してしまっているから、残念だ。花の季節にもう一度登って、たっぷり花の写真を撮ってみたいものだ。山頂近くにはカール地形が見られるから、体力があれば裏岩菅山まで行って風景も堪能したいと思っていたが・・・いや、いるのだが。
若い時には仕事が忙しくて時間がなく、時間がたっぷりある今は体力が落ちている。多くの人が同じように感じることだろうけれど、歳を重ねるごとに実感が深くなる。
それにしても若い時は力があったんだ。ジーパンにスニーカーで岩菅山を登っている。大変だったという記憶もないから、こんな格好で易々と登ってきたようだ。
さて、登山道脇のお花畑を楽しみながらお昼を食べ、山頂へ向かった。山頂への最後の登りは右に大きく崩れる岩場を通る。岩場を歩くのが面白いと、夫はご機嫌。山頂到着は午後1時。祠に到着の挨拶をし、裏岩菅への道をちょっとばかり探索し、ガスが充満しているカール状地形を見下ろしと、なんとなくウロウロして過ごす。
岩菅山の稜線東側に見られるカール状地形は積雪によるものらしいが、巨大なスプーンでカットしたような様相はまさしくカール状と言える。岩菅山の標高は高山(本州の高山帯は標高2500m以上)と呼ぶには少し足りないのだが、強風や多雪の故か、高山帯のような景観が見られる所だ。初夏に登ればハクサンコザクラなども咲くそうだ。
森林限界を越えた山頂からは360度の展望が望める筈だが、ガスが面白いように湧き出してくるこんな日は、遠望は望めない。30分ほど山頂で遊んでから降ることにした。
来た道を戻るのは、面白みに欠けるとも言えるけれど、安心感はある。1時半に山頂を出発、のっきりを過ぎて1時間で中間点の看板についた。下に降りると岩菅山の山腹は深い森になる。沢の流れを楽しみながら、下りは気分が軽い。
聖平に着いたのはまだ4時前だったから、名残を惜しむように草原を散策した。ヤナギランはポツリポツリと赤い花を見せてくれているがどこか物寂しい気配も漂っている。冬に向かっている風景だ。この風景をたっぷり目にも心にも焼き付けて、暗くなる前に車に乗った。