夫が新聞を開いて「へぇ〜、仏果山か」と呟いている。後ろから覗いてみると、新聞の折り込み広告を見ているようだ。当地の旅行会社の広告だ。小さな文字でいくつかハイキングツアーの案内がある。仏果山をはじめとする関東の山が載っている。冬の長野の里山は雪があって寒さが厳しいから、南のポカポカ陽だまりハイクが人気になるのだろうか。それにしても仏果山がツアーの対象になるとは知らなかった。
私たちが高取山から仏果山(ぶっかさん)へ歩いたのは5月の連休だったから、山の季節としては花が咲き出して最高の時だったと思う。ただ、連休に限らず、休日は道路が渋滞するので、県内でも案外時間がかかる。当時住んでいた三浦半島から丹沢までは、神奈川県を端から端まで横断していくようだ。ゆっくり出発したとはいえ、歩き始めたのはもう正午だった。
緑が豊かになってきた斜面を登っていく。ジグザグに登っていく道はかなり急だ。道の脇にはクサイチゴが満開で迎えてくれる。ヒトリシズカ、ナツトウダイ、ミツバツチグリなどの花が咲いている。
ふと見ると、木の葉の真ん中にポツポツと花がついている。それまであまり見たことがなかったハナイカダだ。小さな淡いクリーム色の花が、ふわりと乗せたようにいくつか開いている、雄花だ。葉の真ん中から花が咲くというのはなんとも不思議な姿だ。もちろん実も、葉の真ん中にポツンと乗っかる。ハナイカダは雌雄異株なので、黒い実は雌花が咲く木にしかつかないけれど。
途中でちょっと休憩し、高取山の山頂についたのは1時50分。山頂にはしっかりした展望台が立っている。目の前に宮ヶ瀬湖を挟んで丹沢山地が広がっている。あいにくの曇り空なので、景色が霞んでいるのが残念だ。宮ヶ瀬湖の奥に虹の大橋が見下ろせる。
稜線に出ると、見晴らしが開けて歩くのが楽しくなるが、道の端にカンアオイの花を見つけた私は一段と嬉しさがます。カンアオイの仲間は地上に転がっているような形態からも想像がつくが、交配や種子の散布などの範囲がとても狭いそうだ。また1個体につく種子の数も少ないのだそうだ。そのせいもあって、狭い地域で進化していくという個性的な種が生まれてきた。アリが種子を運んでくれるようだが、それもまた極めて狭い範囲になってしまう。しかも文献(※)には種子の発芽率もとても低いとある。少しずつ種の命を繋いできたカンアオイも、なんらかの作用で生育地をつぶされると完全に種が絶えてしまう。地味な花だけれど、なぜか愛しいと思ってしまうのは、その地に合った工夫を凝らしてしぶとく生き延びてきた姿に惹かれるからだろうか。
ホウチャクソウは花盛り、マムシグサの仲間はもう実になっている。ウワバミソウは葉の付け根ごとに律儀に小さな花を開いている。
花を見たり、宮ヶ瀬湖を見下ろしたりしながら道を進み、宮ヶ瀬越の分岐を過ぎる。あとは一気に登って仏果山へ。
360度の見晴らしと聞いていたが、町の方は霞んでいる。近くの丹沢山地だけがそのシルエットを見せてくれている。
汗っかきの夫は登りで一汗かいて着替えている。さっぱりとして、しばしの山頂を楽しむ。苦労して紅葉の中を登った丹沢山と、つながる三峰の稜線も見えている。雪の中を登った石棚山は蛭ヶ岳のさらに向こうになるので、ここからは見えない。峰々を指差して眺めを楽しんでから降ることにしよう。もう一足伸ばせば経ヶ岳までのコースが魅力的だが、車まで戻ることを考えてここから下山コースを取る。午後3時。
降り始めるとびっくりするようなプレゼントが待っていた。歩いても、歩いてもチゴユリの花の大群落。このコースを歩く人は少ないらしく、道も緑になっている。チゴユリの花は山の中腹に多く、どこの山へ行っても早春の明るい森の中に見つけることができるが、その俯いた愛らしい姿が清楚でつい見惚れてしまう。当時のカメラでは小さい姿はなかなかピントぴったりに撮れなくて残念だった。
チゴユリは長野の裏山にもたくさん咲くので、今(2023年)でも毎年見つけると楽しんでいる。ピントもいくらか合わせられるようになった。
仏果山の山頂を3時に出て車に戻ったのは4時40分。やはり渋滞している道を2時間あまりかけて、夜7時ようやく家に着いた。