暮れから正月にかけて息子の家族がやってきた。恒例の長野訪問だけれど、何かと慌ただしく、孫の好きなスキーに出かける余裕がない。何気なく夫が言った「裏山に行ってこようか」に反応した小学生の孫と一緒に、大晦日の山歩きに出かけることになった。
年末に降った雪はまだ庭にも積もっている。山道にも残っているだろうから、雪に慣れていない孫が行けるところまで行ってみようと話しながら出かけた。
少し気温が上がって雪が溶け始めてからにしようと、10時半頃に家を出た。雪に慣れていない孫連れなので、冬季閉鎖している地附山公園の脇から入らせてもらってなだらかな登山道に出る。暮れに雪が降ってからも何人もの人が歩いたらしく、登山道には足跡がたくさん残っている。一度17cmほど(気象台発表)積もってからはあまり降らない。
日の当たるところはまだらに溶けているが、吹き溜まりや、木の影になっているところは凍っていてツルツル滑る。
登山靴も持っていない孫はスニーカー履きだから案じていたが、びっくりするほどうまく雪の上を歩いていく。陸上のトレーニングをしていて体にバネがあるのだろう、まるで鹿のように雪の上を跳ねていく。
雪面をよく見ていて、「これは何の足跡」と、見慣れない動物の跡を見つけると指差す。足跡は雪が溶けて鮮明ではないものが多いが、ウサギやイノシシ、シカなど、特徴がわかりやすいものはその動きが窺える。孫はすぐ覚えて、「あ、これはイノシシ。ここにいないかなぁ」などと呟きながら、足跡が消えていった谷の斜面を覗き込む。ウサギや、シカの足跡を見つけるとその特徴をちゃんと区別しながら、足跡を追ってどんどん先へ行く。
吹き溜まりもあるのだが、時々ドボンと沈み込んでも何のその。『子供は風の子』とはよく言ったもので、寒さも冷たさも吹っ飛ばして走るように歩いていく。
山頂に着くと、飯縄山が見えている。残念ながら妙高、黒姫は雲に隠れ、飯縄山も山頂稜線は雲に覆われて見えない。「あれは雪雲?」と指差す孫。
「ヤッホーポイント」と書いてあるのを見て大きな声で「ヤッホー!!」。じっとしていないのがおかしい。
松ぼっくりやドングリをいっぱい拾い、楽しくて仕方がないという感じだ。雪の中に残る草の実や木の実にも目を向け「何?何?」と聞く。名前がわからないものでも綺麗な形や色や匂いを確かめながら歩くのは都会生活では味わえない豊かさかもしれない。
朴の葉を拾うと、何も言わなくても穴を開けてお面を作る。長い年月、山の子供たちは同じ遊びをしてきただろうと思うと何だか微笑ましくなる。
山頂からスキー場跡を周り、ポカポカ陽だまりでおやつを食べてから再び公園へ戻った。パワーポイントから眺める志賀高原や菅平の山々、そして浅間山、雄大な雪を被った山々に向かって「ヤッホー」と叫ぶ孫の顔は輝いていた。
開けて元日。昨日山から降りてスノーブーツを買ってきた孫はもう一度山へ行こうと張り切っている。昨日の足取りを見た夫は、駒弓神社からの少し急なコースでも大丈夫だろうと、こちらもまた張り切っている。
日陰ではまだ凍っているところがあるかもしれないので、私はリュックに軽アイゼンを忍ばせて出かける。
駒弓神社に初詣に訪れる人たちが階段を登っている。山道に入ると森の中の道は凍っている。人の足型に凍りついているところは滑るので要注意だ。しかし、踏まれていない雪は滑らないから、うまく足場を見つけながら登っていく。溶けて落ち葉や小石が出ている部分も多いので、アイゼンを履くのには躊躇いがある。
しかしそんなこちらの心配をよそに、孫はスイスイと登っていく。「わぁ〜」とか「ヒュー、滑るぞ」とか叫びながらも、楽しんでいるようだ。
急坂を避けて金刀比羅宮を回る。いくらかなだらかな道だ。ぐるりと回ってもとの道に合流する。そこからもまだ急な坂は続いている。麓に近い方が雪の量が多いのは日当たりのせいだろうか。登るに連れて雪の量は少なくなるが、今度はツルツルに凍りついている。
ネズミサシの実を探そうと話したら、小さな木に近づいて足を刺されたと、何だか楽しそうだ。ネズミサシの葉は棘のようになっているので触ると痛い。街の中では経験できないことだろう。大小の木が道の両側にあるので、一生懸命見ながら登るが、実が少ない年だったのか道の脇には見つけることができなくて残念。しかし、赤く輝くガマズミの実を発見して喜ぶ。
雪を被っている倒木の影を覗くと小さなキノコがたくさんある。水たまりの氷も、小さな枝のキノコも、松ぼっくりやドングリも、道の上にあるものは何でも面白いのだ。見つけたものの一つ一つに歓声をあげる孫の姿を見ていると、自分たちも同じだと思ってしまう。
いくつになっても、目の前に広がる新しい世界に目を見張り、感動し、さらに次の感動を求めて進もうとする。『死ぬまで勉強』ってこのことか・・・。
さて、山頂はすぐそこ。元日の山頂は青空の下。飯縄山、黒姫山、妙高山が見える。
もちろん「ヤッホー」と叫ぶのは忘れない。狭い谷筋ではないからこだまは帰ってこないが、叫んだ声は残響を残してちょっと太くなる。そして大きな声で叫ぶのは気持ちが良いのだろう。大きいのと小さいのと男たちは楽しそうに「ヤッホー」を並べている。
山頂には私たちだけ、木のベンチに腰掛けておやつを食べよう。今日は昼までに帰る予定で、早めに出てきた。山頂では10時半のおやつだ。
おやつを食べたり、遠くの山を眺めたり、足元の動物の足跡を観察したり、しばらく山頂で遊んでから、降る。
陸上をやっている孫は、駅伝のテレビ中継を見たいそうだ。朝走り始めたレースのゴールを見るために昼過ぎには家に帰り着きたい。 旧道を一気に降りよう。道道、やはり色々なものに目がとまる。ツノハシバミの冬芽は面白い形だ。氷柱は屋根の上から下がっているのかと思っていたらしいが、地面の近くに、大きな木の根からも下がっているのを見てびっくりする。松葉の数の違いにもすぐ気がつく。
感受性が豊かな小さい頃に自然の中で遊ぶことが子供の世界を広げるということを目の当たりに感じた。
レイチェル・カーソン(1907-1964海洋生物学者、作家)の著書『センス・オブ・ワンダー』は私の大好きな本。この中で描かれるような、日々自然の中で暮らすことは難しくても、時折孫たちと共に過ごす時間を自然にどっぷり浸かって楽しめることをありがたいと思う。