赤城山と聞けば「赤城の山も今宵かぎりか」という名文句が浮かぶ。国定忠治のセリフというところまではすぐ思い浮かぶが、元々任侠話に興味がないので、詳しい話は知らない。国定忠治とは江戸時代に活動した赤城あたり出身の侠客で、たくさんの逸話がある。その逸話をもとにした講談、映画、演劇などが知られているようだ。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として人気があるらしい。
その国定忠治の墓が長野市内、それも私たちの散歩エリアにあるのを見つけた時はびっくりした。権堂の秋葉神社の境内にそれはあった。小学生の孫と歩いていて見つけたが、孫は「これ誰?」。国定忠治は権堂近くの友人を訪れていたそうで、ここには群馬から分骨した忠治の骨が収められているという。
赤城山に登ったのはもう20年も前のことになる。
7時に神奈川を出発したが、登山道を歩き始めたのは10時40分。高速道路も混んでいたし、登山口まで車でかなり登った。駒ヶ岳の登山口に車を停め、体を慣らしながらゆっくり歩き始めてほぼ1時間で駒ヶ岳に到着した。登り始めの鉄階段は急で、山道に入ると足が喜んだ。途中の稜線からは街が見下ろせた。クサタチバナが良い香りで咲いているのが嬉しくて、思わず顔を近づけながら歩いていた。草の緑の中に濃い紫の花が立ち上がっていて、ヒオウギアヤメかと思ったが、あやめ色(あやめの外花被片にある黄色と紫色の虎斑模様)がないからこれはノハナショウブだろうか、紫の外花被片に白い筋が綺麗だ。
稜線に上がると、遠くに大沼が見える。大沼は『おの』と呼ぶのだそうだ。大沼は赤城山の山頂部に残るカルデラ湖で、東岸にある小さな岬には赤城神社が祀られている。
もう随分の昔、子どもたちと地蔵岳まで上がったことがある。夏の赤城山は気持ち良い草原だった。かつてはロープウェイで地蔵岳山頂まで登ることができたから、子どもたちは高原散策という気楽な出で立ちで山の空気を楽しんだ。高原にはクガイソウの紫、チダケサシの白、ワレモコウの暗紅色、オトギリソウの黄色が色とりどりに揺れていた。そしてウスユキソウの純白の塊があちこちに光っていた。
山を降りて大沼のほとりをのんびり歩いた。赤城神社にお参りしたのも、今となっては遠い思い出だ。当時中1になったばかりの息子と小3になった娘、ご機嫌で歩いたあの高原の空気を覚えているだろうか。
駒ヶ岳に登った私たちは、わずかに降って最高峰の黒檜山を目指す。7月と言えば夏の花が満開と思うのだが、花の写真が少ない。ニッコウキスゲやシモツケソウ、ヤマブキショウマ(蕾)などのメモはあるのだが。
山は緑濃い夏姿になっていたのだろうか。見上げる黒檜山はぽっこりとお椀を伏せたような優しい姿だ。右に遠く町を見下ろし、左に大沼を見下ろしながら進み、黒檜山に到着したのは12時半頃だ。お腹も空いたことだし、見晴らしを楽しみながらお昼にしよう。
山頂には腰を下ろして休んでいる人が何人もいる。みんな風景を楽しみながら心地よい風に吹かれている。さほど広くもない山頂周辺を、何か花が見つからないかとウロウロ歩くのは私。めぼしいものは見つからず、登山道にシャクナゲが咲いていたからいいか・・などと呟いている。
山頂で1時間ほどのんびり過ごし、大沼の岸辺まで降る。呑気に構えていたら、この道は思ったより急だった。大きな岩が転がり合っているような道を垂直に落ちながら降った。そう言えば山頂から見える大沼は真下にあるように見えていた。
気をつけて木につかまりながら転がり降りて、大沼に着く。
もう花が終わったサラサドウダンがたくさん散らばり落ちているのを拾いながらの道は、急だけれどなかなか面白かった。
帰り道は小沼(この)の脇を走る道路で、山を一気に降るのだが、途中の覚満淵をちょっとだけ散策。思ったより花の姿が少なかったような記憶があるが、やはり写真はない。
神奈川の家に着いたのは夜9時少し前、長い山の一日だった。