「今日は1日晴れるそうだよ」夫が言う。「裏山を歩いてこようか」。少し足を伸ばして「三登山(みとやま)に行こうよ」と言ったのは私。
初めて三登山の懐に足を踏み入れたのは2016年の春、髻山に登ったあと行けるところまで行ってみようと足を伸ばした。その時、髻山のカタクリはほとんど終わっていたが、三登山へのコース途中、数輪のカタクリが咲いていた。
長野の北『吉』の駐車場に車を停める。この駐車場は10台ほどのスペースがあるが、今朝は我が家の1台だけ。8時半、足元を整えて歩き出す。リンゴ畑の脇を通って登り出す。すぐ深い森になるのだが、山は荒れている感じだ。害虫による松の被害が広がり、大きな木がたくさん伐採されたり倒れたりしている明るくなった斜面を道は登っていく。タチツボスミレらしい薄紫の花が塊になって揺れていて、荒れた道を行く目を楽しませてくれる。忘れ去られた昔の畑の脇を通り、ため池を越えていく。
晴れるという予報は外れたか、空はグレー一色、冷たい風が強い。
しばらく登ると上杉謙信由来の観音清水に着く。髻山はもともと城の跡、上杉謙信が井戸を掘らせたけれど、たくさんの兵を養うほどの水が湧かなかったので、守り本尊の黄金の千手観音を井戸に投じて祈願したら、こんこんと湧き出したという。日本全国このようなお話はたくさんあると思うが、ここ長野では謙信と信玄の戦いの跡らしい話がたくさん残っているようだ。
さて、そこを越えればすぐ八方峠への分岐。わずかな下りで林道に出る。林道を横切ると気持ちの良い森の中の道。しかし汗っかきの夫は、冷たい風に当てられて寒いと、ここでシャツを着替える。
林道から八方峠までの道は緩やかな歩きやすい道、途中には北側の展望も開けて気持ち良い場所がある。だが、今日は雲が低く、遠くの山は見えない。森を進んで、谷の向こうに目指す三登山が姿を表したが、これまた山頂は雲の中。おまけに「なんだか滴があたる」と、夫が言う。滴も選んでいるのか、私には当たらないなぁ。
八方峠に到着。峠とは言うけれど、急な沢まで降りて登り返す。沢のほとりにネコノメソウが咲き始めていた。小さな1〜2ミリの花の中を覗き込んで「おしべが4本だから、これはネコノメソウ」、やっと覚えた見分け法。まだ開いている花はほとんどないので、探し回って見つけた。小さな、小さなネコノメソウ属にはなぜか目を引かれる。見つけるとつい足を止めて花をのぞき込む私を、夫は諦め顔で待つ。
峠からの急な登りはわずかで、あとはとても丁寧に手入れされている歩きやすい登山道が続く。登ったり降りたりを繰り返すと、小広い鞍部に到着。どうやらカタクリの群生地らしく、葉がたくさん顔を出している。しかし、花はほとんど開いていない。よく見ると蕾がたくさん俯いているが、暗紅色で目立たない。ようやくピンク色の花を一輪見つけた。
途中古い林道に飛び出し、また山道に入り、緩やかな稜線をしばらく登ると三登山の三角点に出る。森の中の広い稜線だが、風が強い。雲も多いので、疲れている夫はここから引き返そうと言うかと思ったら、「せっかくだから山頂まで行こう」と言う。三角点からは5分ほどで、三登山山頂の看板がある広場に到着。ここで持参のアンドーナツを食べようと楽しみにしていたのだが、風が強い。記念写真だけ撮って、風を避けられるところまで下る。
ありがたいことに、だんだん雲が流れて青空が多くなってきた。少し下った森の中の倒木に腰掛けておやつタイム。アンドーナツやクッキーを食べて元気回復。森が広いので、晴れて暖かければ居心地が良いだろうねと話しながら下りにかかる。
空は晴れてきたけれど、風はますます強くなる。東に向いて歩いているので、北風を受ける左の耳が痛い。この季節は、日替わりで体感温度が違う。ちょっと陽がさせば暑いくらいだし、今日のように風が強いと毛糸の帽子が欲しくなる。
それでも帰り道は気持ちにゆとりがある。周囲の景色はまだ冬真っ盛りと言いたくなるけれど、それは間違い。一見茶枯れた世界だけれど、足元には緑の芽吹きがある。面白い形のヤブレガサが土を割って顔を出している。目の高さにはミヤマウグイスカグラのつつましい赤が揺れ、ダンコウバイの鮮やかな黄色、キブシの淡いクリーム色も頭上に広がっている。
オオバクロモジの蕾は今にも開きそうに、小さな丸を膨らませている。枯れかけている枝の先を少し折って香りを楽しむ。爽やかな木の匂いだ。
春の訪れはゆっくりだけれど、暖かくなれば山の花は一斉に開きだすだろう。もちろんチョウやハチなどの昆虫も忙しくなる。珍しいサナギ(だと思う)を見つけたけれど、一体どんな昆虫だろう。網目の中にこげ茶の塊が眠っていて、長さは5、6センチもある。網目はゆりかごということだろうか。
この季節は花もキノコも少ないけれど、倒れた木の影をのぞき込んでいるのは夫。粘菌の姿を見つけると嬉しそうだ。太い木の幹を覆い尽くすような蝋状のものは粘菌だろうか、それとも樹液?
私は杉林の落ち葉を踏むとつい呟いてしまう言葉がある。毎度、毎度同じことをと思うが、つい言ってしまうのだ。それは「子どもの頃ここに来たら大喜びだったなぁ」という言葉。私は小さい頃、お風呂とご飯のお釜の火の番だった。杉っ葉はとてもよく燃えるので、焚き付けにすると楽だった。けれど、家の周辺には杉の木はなかったので、遠くまで拾いに歩いたものだ。
足元に積み重なるように落ちている茶色い杉の落ち葉を見ると、人間と自然の関わりを思ってしまう。里山を大切にして、そこからの恵みをありがたく受け取って暮らしていた頃、山はもっと豊かだったのだろうか。
幸い雲はどんどん流されていき、青空が広がってきた。しかし、八方峠を越えて明るい森を歩きだすといよいよ風の音が強くなった。突然頭のすぐ上で「ギャーッ」と大きな音がする。誰の叫び声か、一瞬身が縮んだ。「ギーッ」「ギィーー」などと続いて音が響く。
あ、木が泣いている。倒れかかった木を受け止めている木が風で揺れている。
荒れるに任せた森の木々は風の音と共に大きな声を響かせている。「ピー」「ピョー」、「ギギギッギー」、そして「タン、カン、コン」。笛の音も弦の音も、打楽器の音もちゃんとあるじゃない、森のシンフォニーだね。
髻山への分岐につくと「カタクリを見てこようか」と夫。一登りで斜面が薄紫に染まっているカタクリ群生地、満開だ。山頂までカタクリ群落は続く。広い山頂の四阿でゆっくりおやつタイム。
日差しが強くなってきたのはありがたいが、相変わらず風は強い。谷の木々が大きく揺れている。杉の梢は三角坊主みたいになって、それがくっついたり離れたり、楽しそう。
なんだか笑われているような気がしてきた。コロナウィウスの感染拡大で「2m以上近づいてはいけません」などという文字が踊っているけれど、医師も介護職もお母さんも、近づいてこそのお仕事、係りではないか。感謝の心を森に教えてもらっているようだ。
髻山からの下りは森の奏でるシンフォニーに耳をすませながら、あっという間だった。朝は開いていなかったセンボンヤリの小さな純白の花が、足元に散らばるように咲いていて、なんだか森が拍手しているような気がした。