金峰山に登ったのは40年以上前の11月下旬、信州川上村から、深い谷と小川山を右に見ながら登ったことを覚えている。頂上の山小屋に泊まって、翌日は朝日岳、国師ヶ岳を越えて笛吹川西沢渓谷に下りた。一面に輝く霧氷が忘れられない。
山梨県に住む友人から「大弛(おおだるみ)峠からなら日帰りで行けるそうよ。一緒に行かない?」と誘われて、一も二もなくOKした。前日の昼に長野を発ち、友人の家に泊めてもらう。
甲斐駒ヶ岳の麓を少し山に入った所にある、おしゃれな山小屋風の友人の家で、薪ストーブにあたりながら乾杯。地元産の新鮮な野菜をたっぷりごちそうになって寝た。
目が覚めると、雲が多い。山頂は雪かもしれない。友人の連れは山慣れているそうだが、私の旧知の友人は山にほとんど登ったことがない人、初挑戦なので、無理せず行ける所まで行ってみようと出発した。
韮崎から茅ヶ岳の懐に入り、昇仙峡奥の荒川ダムを右に見た。細い林道をいったいどれだけ曲がっただろうか。道幅は車1台がやっとだけれど、通る車はいないからすれ違いの心配はない。落ち葉を踏みながらどんどん進み、山に分け入って行く。少し登りが続くといくらか広い道に出た。ようやく乙女高原のエリア、もうひと登りで大弛峠だ。
峠が近づくと路肩に止めてある車が増えた。平日なのに峠の駐車場は満車なのだろうかと不安になったが、前方の道路に雪が積もっているのを見て納得。スノータイヤでなければ、ここで停めて行くしかないとの判断だろう。駐車している車は、都心エリアのナンバーをつけているものが多い。私たちの運転手はどんどん進んで峠に上がった。駐車場は思ったより広く、数台の車が停まっている。
家を出て2時間10分ほどの山道を車が登ってくれて、ここ大弛峠はもう標高2365m。峠の駐車場には雪は積もっていないが、一歩山道に入ると白い。寒さが厳しいが、幸い今日は風がない。私たちはゆっくりゆっくり歩き始めた。
丸太を敷いて作った階段を登ると、深い森の道が続いている。針葉樹はシラビソだろうか、ダケカンバの若木も伸びている。細い幹が互いにぶつかるように伸びていて、これで全部成長できるのだろうかと思っていたら、立ち枯れの木が増えてきた。倒れた幹にびっしり生えた苔と、その苔をベッドに小さな芽吹きの木が並んでいる。白い雪の中から芽をのぞかせていて、そこが一つの宇宙のように思える。
森の高い木々の下に、腰の辺りまで伸びた針葉樹が目立ってきた。トウヒと、小さな名札がついている。クリスマスツリーみたいだねと話しながら歩く。濃い緑が光っている。
森の匂いと、苔の匂いと、深呼吸しながら歩いていくと、立ち枯れの幹の間に突然富士山が見えた。前方の山々を裳裾のように広くなびかせて、濃い群青のスカイラインがくっきりと空に向かっている。縦に幾筋もの沢のラインを真っ白に雪が埋めている。
「素晴らしい風景がごちそう」とは、友人の弁だが、まさに。
気がつくと尾根の反対の木々の間からも美しい風景が見えている。近くのカラマツの紅葉と、その奥の青い山。遠くの雪山はどこだろう、少しかすんでいる。近くの青い山は浅間、足元には秩父の峰々。思わず立ち止まって見とれてしまう。
わずかばかりとはいえ、雪が積もっていると足元には注意が必要だ。山慣れた友人が先頭でゆっくりしたペースを作ってくれるので、2500mの高所にしては息が上がらない。風が無いのも幸いして、ポツポツとおしゃべりを楽しみながら歩くことができる。深い森と、厚みのある苔を、今は雪が覆っている。登山道の窪みには10㎝ほどにもなる霜柱が土を盛り上げている。コゲラが木をつついている音も聞こえる。
森の道を右に巻いてしばらく行くと、一気に目の前が開いた。南アルプスの大展望だ。真っ白な峰々が直ぐそこに見える。右から北岳、間ノ岳、農鳥岳。さらに南アルプスの山稜が続いている。ここからは大きな岩がゴロゴロしている急斜面(大ナギ)を登って行くが、みごとな景色を眺めるため岩の上に座って一息ついた。
いつまで見ていても見飽きないと思える。しかし、まだまだ先は長い。私たちはドッコイショと、大きな岩を登り始めた。ゴロゴロの岩を登りきると、北側が一気に開ける。森の中で見た時にはかすんでぼんやりしていた左の白い山は妙高だ。苗場も、谷川も白く見えている。すばらしい自然の大盤振る舞いだ。今日は雲が多く日差しは時おり差す程度だが、雲が高いのだろうか、山々はくっきり遠くまで見えている。
ひと登りすると、そこは朝日岳の山頂だった。今まで見えなかった金峰山の五丈岩が大きく目の前に見える。五丈岩のとなりに甲斐駒ヶ岳がどっしりとした山容を見せている。
最初の目標は金峰山だったけど、足が痛くなってきたと言う登山初めての友人と、景色のごちそうに十分満足した私たちとうなずきあって、今日の目標を朝日岳に変えて引き返すことにした。『無理をしない』という合い言葉だったが、朝日岳山頂まで無事到達できたのは立派と皆で自画自賛。11時半、下り始める。風も出てきた。
雪をかぶっている道は下りが恐い。滑りやすいからだが、今日は冷えているので雪が解けず、雪道にしては歩きやすい。それでも気を抜くとツルッとくる。慎重に、慎重に一歩を運ぶ。風が強くなってきたので寒さがきつくなってきた。
山に慣れている友人が、木々の間のポケットのようなところに場所を見つけてくれて、おにぎりをほおばる。富士を眺めながらの昼食。気分は最高だけど、とにかく寒い。コンロもあるからお湯を沸かそうかとの提案に、みな首を振る。いや、歩く方がいい。
富士にも雲が上がってきている。
おにぎりをぱくついたあとは大弛まで、一度歩いた道はなぜか近く感じる。あそこを下りれば朝日峠だね、少し登って下ると立ち枯れの森だね。さっき通っただけなのに旧知のようだ。私たちは、ときどきおしゃべりをしながら大弛に着いた。
大弛峠からの帰り道、今度は塩山に向かって走る。林道は、カラマツの明るい紅葉の間を切り分けるように下っていく。所々にカエデの赤やオレンジが輝いている。少し遅れて染まってきた木が、私たちの目を楽しませてくれる。日の当たり具合が違うのだろうか、薄い緑と、華やかな黄色と赤が混じりあった木もあって、見事というしかない。
かなり下ったところに、道が広がって駐車スペースができていた。道のすぐ脇に、ごつごつとしたこぶをたくさんつけた巨大な木がそびえている。トチノキらしい。見事だ。みんなで車を降りて見上げる。何という存在感だろう。ここは牧丘町の杣口という所、家に帰ってから調べたところ、この木は『姥の栃』と呼ばれて親しまれてきたそうだ。根元の直ぐ下には水が湧き出ている。夫は空になったペットボトルにこの水をつめてきた。自分の舌に自信はないのだが軽やかな気がした。
友人の家に着くと、遠くの家族から送られてきたという心づくしの『笹鮨』が待っていた。和歌山特産の長い、長い笹(と言うが、ササではないらしい)にくるまれたサバのなれ鮨は優しくて、疲れを吹き飛ばしてくれた。
笹鮨とお茶を一服いただいて、夫と私は長野の家に向かった。