2019年10月12日夜、台風19号が日本列島の真ん中に上陸した。この台風は日本中央部から東北にかけて歴史に残る大雨を降らし、たくさんの河川が氾濫した。
長野市も千曲川の堤防が決壊したために多くの家屋が浸水被害にあってしまった。気持ちはすぐにも駆けつけて土砂を片付ける手伝いをしたいところだが、我が家の草取りですら1時間以上も続けていれば体のあちらこちらが痛くなる始末。のっそり出かけていっても邪魔になるだけと思うと、遠くから祈るしかない。
あちらこちらの道も被害を受けて通行止めになっているとか・・・、山の様子を見てこようと山靴を履いて歩き出す。いつもは乾燥している山道が湿り気を帯びている。裏山の神社への道を登り、山腹のお寺の脇の道を登っていく。水が流れたらしい落ち葉の跡は見られたが、折れた枝は少ない。誰かが片付けてくれたのだろうか。しかし登るにつれ、小さい枝がたくさん見られるようになってきた。
物見岩から長野市を見下ろす。周囲の色づいた木々の中で、ネズミサシの緑の葉は空に映える。ここで一服して、再び大峰山目指して登り始める。このあたりの道は峰と峰の間になるので、風の通りが幾らか弱かったのだろうか・・・などと話しながら行く。秋の気配を濃くしている木の葉の中に緑濃い枝が目立つ。ソヨゴだ。赤い小さな実をぶら下げている。秋深くなると、赤色の実が目立つような気がするが、木の実の名前はわからないものが多い。足元にはツルリンドウの赤紫の実が輝いている。雨も降らないのに露を宿している。今年はツルリンドウの実が多いような気がするが・・・。花の季節にも登っているけれど、地味なツルリンドウの花は他の草に隠れていて目立たず、赤紫の実には目を奪われる。
さらに進んで地附山との分岐辺りまで行くと、泥んこ道が出てきた。道の脇の切り株には苔や小さなキノコがたくさんくっついている。そんな中にどこか正体のしれぬ生き物が見える。粘菌だろう。最近夫が興味をもって山歩きのたびに探している。木が育つためには菌根菌の働きが大切だそうだし、様々な場所で生きている粘菌の働きも、見えにくい大切なものという。なんだか気が遠くなるようなミクロの世界だが、形になっていると面白い。湿り気が多いところの方に粘菌が見つけやすいようだ。
地附山との分岐を左に進んで、沢が近くなってくると、道に水が流れるようになった。何度も大峰山に登っているけれど、雨の後に登ってもこんなことはない。今回の雨はよほど大量だったのだろう。沢を流れる水音もする。下を見ると、白い波が見えるところもある。びっくりだ。
数カ所、登山道が小さな川になっていた。
高度を上げていくと、広葉樹が黄色く染まっている。以前は赤松が多かった森だけれど、松くい虫の被害にあって、ずいぶん切り倒されてしまった。森がスカスカしている感じだ。左からの沢が細くなって近づいてくると、山道は左に曲がる。この辺りで沢は自然に消えるようだ。この小さな沢の源流にあたるところかもしれない。越えた右側あたりが少し湿り気を帯びた平らな土地になっているから、雪が多いとか、年間の平均雨量が多ければこの辺りは小さな湿原になる地形かもしれない。周りは杉林。杉の木もこの頃は勢いがないようだ。今日は台風の風の影響か、緑鮮やかな葉もたくさん落ちている。茶色く枯れた葉、黄色い葉、緑鮮やかな葉と彩り豊かな道になった。この辺りの斜面になると風の影響が強かったのか、大きな枝もたくさん落ちている。
ここまでくればあとはジグザグに一息で山頂だ。道の周りは明るい黄色に染まった森が続いている。空も近くなる。日本人は『紅葉刈り』などという言葉に表されるように、紅葉を愛でる民族なのだと思う。私自身は新緑の少し前くらいの山が一番いいかな〜などと思っているが、紅葉シーズンになるとどっと観光地へ繰り出す人が増える。
こうして静かな黄色に染まった空気の中に立っていると、そういう人たちの気持ちもわかる気がする。本当に綺麗だ。
混乱の世の中だからこそ、自然の営みに耳を傾け、人間が大切にしてきた芸術や文化の力を信じて、小さな自分の行き方を見つけていくしかないのかと心の奥で小さく、小さくうなずいている。
誰にも会わないかと思っていたら、山頂に佇む私たちを追うように一人の男性が登ってきた。私たちよりさらに年配らしい男性も、じっとしていられなかったのだろうか・・・などと勝手な思いで会釈した。
秋が深まり、冬の足音も近づいている。動物たちの息づかいを感じるほどの深山ではないけれど、自然の大きさ、人間の小ささを感じるには十分な山歩きだった。