毛無山という変わった名前の山は全国に40座もあるという。今回登った毛無山はその中でもあまり知られていない山かもしれない。斑尾高原の奥、希望(のぞみ)湖から歩き始めるなだらかな山だ。
『毛無山』とは、よくも名付けたものだ。その名を地図上に初めて見たとき、「え〜っ、どうしてこんな名前をつけたんだろう」と思い、登ってみたくなった。その山は山梨と静岡の境にある天子山塊の毛無山。最も高く、有名な毛無山だろう。登るチャンスがないままに長野に引っ越してきたが、長野の近くには毛無山が3座見つかった。全国には『木無(けなし)山』という所もあるそうで、やはり木の生えていない山頂なのだろうか。ところが北海道では、アイヌ語の『kenas』 という山林を表す語から来ている『毛無山』があるという。なんだか面白いが、今回登った斑尾高原の毛無山の名前の由来はわからない。
長野市内にある我が家からはその日の天気を見て、「今日は晴れた、行こう」と出かけることができる山の一つだ。斑尾山から新潟県境の山稜にはトレッキングコースが整備されていて、取り付きやすいのも魅力だ。
数日前に昼食を持たずに鍋倉山に登り、下山してから遅い昼食を食べることになってしまったので、今回はおにぎりを持って出かけた。
森は思ったより明るい。シラカバやカラマツ、カエデが混じりあっている。カラマツの落ち葉が降り積もって、道は厚い絨毯を敷いたようだ。体重を吸い取ってくれるようで気持ちがよい。足元には一面にコバノフユイチゴが広がっている。丸い葉にくっきりとした葉脈があって、特徴的だ。木々の下にはシダ類が大きく茂っている。ヒメアオキの実はまだ緑だ。赤く染まるのは春になってからだ。
3月に右足膝の靭帯を怪我して以来、なかなか思うように快復しない。歳を重ねて回復が遅いのか、重度の怪我だったのか・・・。周りの筋を鍛えるためにも歩いた方がよいと、杖を持っての山歩きをしているが、毛無山の山道は足に不安がある私にもとても気持ち良い。私たちは、のんびりと歩いた。空は青いし、おにぎりは持っているし、道は緩やかで、人っ子一人いない、これ以上ないくらいの気持ちよい山歩きだ。
私のリュックにぶら下げた熊よけの鈴がチリンチリンと、かすかに鳴る。少し登ると木々の下につややかな緑の葉のユキツバキが沢山見えてきた。緩やかな山道は木々に覆われ、展望はない。しかし、まだ枝の先に残った紅葉のなごりを楽しみながら歩いていると、日常の生活を忘れる。森林浴という言葉や、パワースポットという言葉が最近の流行言葉のようだが、枯れ葉の下の道をただただのんびり歩いているだけでも体の中の汚れた細胞が消えていくような気がするから、流行言葉の効用もまんざらでもないのだろう。
しばらくなだらかに登って行くと、あっけなく頂上に着いた。山頂の標識には『毛無山(大平峰)』と書いてある。なるほど、大平とはこのなだらかな山にはぴったりの名前だ。「今日は登山じゃないね」「山散歩と言うんだろうか」「おにぎりどうしようか、まだ10時にもならないよ」。
夫と二人で思わず笑ってしまう。必要な時には持って行かなくて、いらない時にはちゃんと持っている、私たちらしいね。
山道の続きのような山頂には展望はないが、南に少し歩くと、里の風景が広がる。刈り取られた田んぼの向こうの山々は、日本画のように伸びやかなラインが幾筋も重なっている。
少し奥まで歩いてみようかと話したが、今日は午後も予定があるので、楽しみのおにぎりは家に帰って食べることにしてゆっくり下り始めた。
歩き始めて直ぐ、薄紫色の大きなキノコを見つけた。とてもきれいな紫色だ。これはムラサキシメジ、小さい時にはもっと濃い紫色だけど、かさがきれいに開いているから、色は淡い。でもとてもきれいな色だ。
稜線を外れて下り始めると、登りには見つけられなかったコバノフユイチゴの大きな赤い実がいくつか葉の下に隠れているのを見つけた。一面の葉の海に、ぽつりとある実は光っていて宝石のようだけれど、あまりに少ない。動物に食べられてしまうのだろうか。山では色々な実を味見するのだが、今回はあまりに少ないので、止めることにした。
登りには気がつかなかったが、希望湖(正式には沼の池というらしい)には石を渡って行ける小さな島があった。湖面は青く澄んでいる。その向こうに妙高山が頭を出している。今は禁漁期だが、夏には釣りの人たちが訪れるようだ。渡り石の近くの浅瀬には10㎝あまりの小さな魚が群れをなして泳いでいる。時おり30㎝を越える魚も見える。敷き積もった落ち葉もきれいに見えている。澄んだ水底に影を映して泳ぐ魚たちを眺めながら、私たちは車に向かった。