2019年8月、長野の最高気温は連日30度を超えた。いや、30度どころか、35度を超えた日も続いた。そして、最低気温が25度以下にならない熱帯夜が7日も続くという、過去最長記録となった。
夏休みで長野に来ていた子どもや孫達は、休日の一日、涼を求めて志賀高原に出かけた。横手山の山頂で涼しい風に吹かれて大喜び。渋峠で、群馬県と長野県の県境のラインを発見、両県にまたがったと遊んだ。それから、草津方面に足を伸ばして国道最高地点まで行ってきた。
渋峠を出るところで、係員が通る車を停めて1枚の紙を渡していた。『草津白根山周辺通行規制のお知らせ』、白根山の湯釜あたりは日中の通行が可能だけれど、駐停車は禁じられている。自転車やオープンカーは通行禁止とある。火山の噴火警戒レベルが2なのだ。
到着した日本国道最高地点の群馬県側からは濃い霧が湧き上がり、真っ白。珍しい白一色の世界に、両手を差し出して喜ぶ孫たちの向こうには霧が厚くたち込めている。しばらく眺めていると、白い霧はふわりふわりと揺れている。山肌をなでるように登っているかと思ったら、一瞬にして、芳ケ平の美しい緑がひらけた。その向こうには草津白根山の赤茶色の山肌がそびえている。
草津白根山の交通規制は2014年(あるいは2013年の秋か)に始まったと記憶している。2014年の夏に、孫に湯釜を見せてあげようと思い、出かけたら、白根レストハウスの駐車場は駐停車禁止になっていた。あの時は途中で紙を渡されなかったから、うかつにも現場に行くまで知らなかった。白根山は不気味に白く、昔観光客で賑わっていた草津白根の広い駐車場は寒々しかった。しばらく走ったが、停まることができないので、係員にお願いしてUターンさせてもらったことを思い出す。
走った道を戻りながら間近に白根山を眺めた。日本国道最高地点で停車し、芳ヶ原の向こうにそびえる白根山を眺めて、「去年はあそこに行けたんだよ」「日本は火山の国、噴火警戒レベルが上がると危険だからね」などと話した。あの頃は自転車の通行は可能だったので、何人もの自転車野郎が最高地点で休んでいた。あれ以来、草津は通行規制が敷かれている。
3000年ぶりという、本白根山の噴火が鏡池付近で起き、犠牲者が出たのは2018年1月のことだった。それから1年半、白根山は今も活発に活動しているのだろうか。
孫を連れて行った前の夏、2013年に、私たちは久しぶりに白根山を訪ねた。レストハウスで買ったソーセージをおかずに、横手山山頂で買い込んできたパンを、広々とした屋外テーブルで食べた。湯釜を眺めようと少し山道を登ったが、昔、初めて訪れた時の右から行く道は立ち入り禁止になっていて、左の高台を登り、遠くから見下ろすようになっていた。少しずつ危険値が上がっていたのだろうか。それでもまだ自由に歩けたので、私たちは弓池周辺の湿原を歩いて、高山植物に挨拶することもできた。
私たちが初めて湯釜を見たのは20年以上前になる。忙しい仕事に忙殺されて疲れていた気分を盛り上げようと、6月の休日、志賀高原に向かった。当時住んでいた関東から長野への道は遠かった。まだ上信越自動車道は開通していなかったので、軽井沢から万座ハイウェイを登った。その時初めて白根山に立ち寄り、湯釜を見た。白根山は見るからに火山の様相だったが、比較的安定していて、有名な草津や志賀高原の隣に位置するせいか、訪れる人の多いところという印象だった。火山の雰囲気が濃い湯釜には観光客が遊んでいた。火山岩の積もった赤茶色の山をしばらく登ると目の前に広がるライトブルー。当時は水辺が近かった。白く青く空を映している湯釜は、古代の鏡のようで神秘的だった。関東では暑いほどの日々なのに、白根山にはまだ雪がたくさん残っていた。
白根山から渋峠を通り、志賀高原へ向かった。志賀草津道路はまだ有料道路となっていたので、国道の最高地点ではなかった(当時は八ヶ岳の麦草峠付近が最高地点だった)。
私たちは、何箇所か志賀高原の寄り道を楽しんだ。信州大学自然教育園をたずね、前山リフトに乗り、小さな池めぐりをして、中央道を通って帰った。ひょうたん池の水芭蕉が満開だったことを覚えている。
孫たちと行った志賀高原の写真を見ながら、「本白根山に登ったのはいつだったかな」「あの頃はこんなに長く交通規制されるなんて考えてもいなかったね」「レストハウスで働いている人たちはどうしているのかな」と、昔を懐かしむ会話になった。
本白根山に登ってみようと、草津白根駐車場に車を停めたのは2000年の夏。激しい降りではなかったけれど、覆いかかる雲の雫が落ちてくるようにこやみなく雨が降っていた。
「雨が降っていたけど、コマクサが満開だったね」
「あんまり写真が残っていないけれど、どうしてかな」「雨だったからかな」。
昔のアルバムを紐解くと、雨に煙る本白根の草原に、どこまでもコマクサが続いている様子があった。2165メートルの三角点があるが、そのあたりは硫化水素が発生する危険があるということで立ち入り禁止になっていた。本白根山を訪ねる人は、木道が敷かれた道を辿り、探勝歩道最高地点を山頂としていた。
私たちは前日までに新潟県の火打山、妙高山を登り、その日は中野市の宿から出てきたのだった。本白根山に登って、万座、軽井沢を通って帰ったことを思い出す。
2日間天気に恵まれ、山の花をたっぷり楽しんできた私たちは、最初はまっすぐ帰るつもりだった。しかし中野の宿を出る頃、雲は重かったけれどまだ雨は落ちていなかったので、コマクサを見て帰ろうという話になった。
「ちょうどコマクサの季節だね」
「草津白根山はコマクサの群落があるらしいよ」
「駐車場から1時間半くらいだって、行ってみようか」
今思えばずいぶん若かったんだ。中野の宿のチェックアウトを済ませると、帰り道の高速道路とは反対の志賀方面に向かった。スキーで時々訪れていた奥志賀方面を左に分け、渋峠に向かってぐんぐん登っていく。渋峠ではカモシカさんも見たねと、窓の外に目をこらすが、いつも会えるわけではない。寄り道をせず、まっしぐらに草津白根の駐車場に向かう。
駐車場から弓池を通り、道を登っていくと灌木の森に入る。この頃から雫が落ちてきた。重い雲が水を支えきれなくなったように、ぽとぽとと落ちてくる。
雨の中を歩くのはもちろん好きとは言えないが、土砂降りでなければ息がしやすいような面白さもある。森の木の枝がしなって揺れていたり、葉が光を放つように見えるのも、雨の日のプレゼントだ。足元のゴゼンタチバナが満開で、歩いても、歩いても白い星を散らばせている。水を吸って、しっとり輝いている。
しばらく森の中を歩くと急に目の前が真っ白になった。晴れていれば火山特有の岩の斜面なのだろうけれど、雨と霧で遠くは見えない。ただ一面に小さな花が咲いている。オヤマソバか、イタドリの仲間の白、コキンレイカの黄色、そしてピンクはコマクサ。進むにつれて周りは広々とした高原のようになり、コマクサがどこまでも続いている。と言っても、霧の中なので、見えるのは数メートルの範囲だけなのだけれど。そしてもちろん、こんな雨の日にやってくる物好きは私たちだけ。
二人でコマクサを堪能し、シロバナコマクサを見つけて喜び、雨の日の山歩きも悪くないねと、つぶやく。ちょっぴり負け惜しみも入っているのは否定しないけれど。
木道を進んで、わずかに登ると、本白根探勝歩道最高地点の標識が立っていた。交代で記念撮影をして、私たちは再び、雨とコマクサの中を帰った。