「不思議という言葉は安易に使わないほうがいいよ」と、私の尊敬する先達が言ったそうだ。又聞きなので正確な言葉はわからないが、不思議と言ってしまうとそこで思考がストップするからのようだ。けれど、思わぬ出来事に不思議を感じることはある。
「明日は晴れるみたいだよ」と夫。「山へ行こう」。前日にこんな会話をして、ようやく晴れた日曜日、おにぎりを作って、朝7時に家を出た。
破風(はふ)岳という名前を知ったのは、最近だ。レンゲツツジが美しいという五味池破風高原自然公園の記事を見つけ、その奥に破風岳の印の▲があった。標高1999m。
長野から千曲川の橋を渡り須坂市に入る。豊丘地区の山道をただひたすら登る。登り始めるところに『80号カーブ』という標識があった。まさか80ものカーブ?恐れながら進む。カーブ番号は一つずつ減り、結局目的地の駐車場前が1号カーブ。
曲がっては登り、登っては曲がる、なかなかの山道だ。下に豊丘ダムのダム湖を見下ろして、少し進むと道に何か動いている。「あ、サル」「木の上にもいる」。サルたちは道路に広がって何か食べているようだ。ゆっくり進むと、サルたちもゆっくり道を空ける。まるで仕方がないなぁと言っているみたいでおかしい。ずいぶんたくさんのサルたちが食事をしていた。
サルたちを後に、また登る。しばらく登ると、道はかなり緩やかになってくる。高原の一角に出たのだろうか。しかし、緩やかな勾配になってからもずいぶん走って、ようやく自然園の駐車場に着いた。誰もいない、静かだ。たった一つの道案内の地図(須坂市観光協会発行)を見ながら駐車場の先のゲートまで進む。ゲートは開いている。ゲートを越えて行くと建物が見えてきた。軽トラックに乗った男性が今にも発車しようとしていた。
「駐車場はどこですか?」と聞くと、奥を指して教えてくれた。そして午後4時にゲートを閉めるけれど、開けて出てまた閉めておいてくれればいいよと笑いながら言う。多分4時まではかからないと思いますと挨拶して、車を駐車場に停める。広い駐車場に我が家の1台だけ。
しばらくは自然公園の車道を歩く。シラカバやダケカンバの森が気持ち良い。道の脇には小さなネジバナや真っ白なヤマハハコ。しばらく歩くと、華やかな黄色のマルバダケブキが群落になっている。今年初めて見る高原の花に、私は大喜び。道は緩やかに登って行き、周囲はいよいよ高原らしく広々してくる。振り返るとはるか下に善光寺平が少し霞んでいる。どこまでもただ広いその自然の造形は、人間の小ささを感じさせる。下手な小細工は無用!と言われているみたい。
さらに進むと大平という名前通りの広い草原。ノハラアザミが一面に広がっている。残念ながら花はかなり終わって、茶色になっている。咲いていたら、紫の広がりが綺麗だろうねと話す。トンボがぶつかるくらいにたくさん飛んでいるが、足元に近いところには黒っぽい小型の蝶がヒラヒラと遊んでいる。なかなか素早い。面白い飛び方をするので、無意識に目が追ってしまう。これは長野県の天然記念物に指定されているベニヒカゲだろう。
車道が終わるといよいよ山道、右に根子岳、四阿山を見ながらの道は深い笹の中に続いている。緑に光る笹原に、ウラジロモミなどの針葉樹が濃い輪郭で立っている。笹は幅広く刈り込まれ、ゆっくり話しながら歩けるのは嬉しいが、笹の背が高くなると、見晴らしはなくなる。黙々と歩く。ほとんど傾斜がないかと思える道はしかし、意外に凸凹していて水たまりがたくさんある。コケや、シラタマノキ、イワナシ、マイヅルソウなどが一面に生えていて「ごめんなさい」と言いながら踏んで歩く。シラタマノキは絨毯のように道の縁を飾っていて驚く。コケモモの木も多いが、実は少ないようだ。アカモノとコケモモが、赤いアクセントになっている。
笹の中を1時間も歩いたかと思う頃にようやく土鍋山分岐に出た。時計を見ると、30分しか歩いていない。「長く感じたね」、「狐に騙されているかと思ったよ」などと笑いながら、私たちは左の破風岳に向かう。ここまでは誰にも会わなかった、二人だけの世界。ところが、ここからは人声がする。しばらく行くと、右に降りる道がある。一気に視界が開ける。目の前に大きな御飯(おめし)山、右下には赤茶色い、いかにも火山地という光景が広がっている。そして、なんとすぐ下には何台も車が停まっている、毛無峠。こちら側から登ってくる人が多いんだね。なんだか本当に狐に騙されたような気分だ。
気を取り直して一気に山頂へ。破風岳は長野と群馬の県境にあるが、群馬側は切れ落ちている崖だ。片側は切れ落ちているが、細長い山頂には小広いところもある。ここでおにぎりを食べようねと話していると、女性二人連れが登ってきた。母娘のように見える二人は、わぁ〜と、気持ち良さそうに歓声をあげている。つい二人の写真を撮ってあげましょうかと声をかけてしまうのは私の悪い癖。人と一緒に歩くのは苦手なのに、感じの良い人との出会いは嬉しい。
写真撮影のあとは我が家のおにぎりにパクつく。美味しい匂いにつられたか、トンボが周りに飛び交っている。道々のオヤマリンドウはまだ蕾だったけれど、山頂には美しい紫の一株が歓迎してくれている。ホツツジも満開だ。そして、低い針葉樹はハイマツだろうか。実の形が面白い。雲が多いけれど、群馬側はよく見える。草津方面の山々を眺めながら、山頂のひと時を楽しむ。
さて、どうしようか。土鍋(どなべ)山2000mに行こうか、このまま直進して別のルートで高原へ戻るか・・・。まだ時間が早かったので、土鍋山に行ってみることにした。
山頂からの道を歩き始めると、陽だまりにさっきの母娘らしい二人連れが休んでいた。「気をつけて」と挨拶し、私たちは来た道を戻る。
ここからは一回下る。思いの外急な下り、もしかすると今日一番の勾配だねと声を掛け合いながら行く。鞍部に下りると、今度は登り。緩やかな道に安心して、草津方面の山や今登ってきた破風岳の姿を見ながら進んでいたら、突然急な登りになった。岩や木の根がゴツゴツしている道をしばらく登ると、笹原に飛び出す。
ここが土鍋山の山頂。看板の足元に誰が置いたか小さな土鍋があるのは楽しいが、1999mと書いてある。2000mの三角点があるはずと探してみたら、笹原の中を100メートルほど歩いた先の、広い大地の真ん中にある。しばらく二人の山頂を楽しみ、三角点に挨拶をしてから下ることにした。
私たちが下り始めてすぐ、急な岩場のところで登ってくる人影が見えた。破風岳の山頂であった二人連れ。「またまた会いましたね」、「山頂はすぐそこですよ」などと道を譲りながら話をしていたら、突然若い女性が「オコジョ!」と叫んだ。岩に小さなオコジョが歩いている。「かわいい」3人の女性が同じ声を上げる。オコジョは岩の上をちょこちょこと歩いて向こうに消えた。
思わぬオコジョの登場に、私たちは旧知の仲間のように笑い合った。
三角点の場所を伝え、二人と別れた後は登ってきた道を戻る。長い笹の道はやっぱり長かったけれど、意外が一杯だった幸福感を味わいながら歩いた。