5月も終わる頃になって、寒い朝だった。早起きの夫はストーブをつけたと苦笑い。ようやく太陽も登ってきてワクワクするような快晴。朝ごはんを食べ終わると「散歩に行ってこようか」と、夫。雲ひとつない青空に、私がウズウズしているのを感じたのかもしれない。
袴岳の中腹にある袴湿原あたりにはサンカヨウの花が咲くらしいが、毎年花の時期に合わせられないでいた。今年は戸隠高原で大好きなサンカヨウの花にもシラネアオイの花にも会うことができた。けれど、毎年期待しながら訪ねていた袴岳のサンカヨウにも会ってみたいものだ。
赤池は周囲の森を写してグリーンに染まっていた。カエルの大合唱の中を歩き出す。大きな声に惹かれ、姿を見たいと道の脇の湿った草原を覗き込むが、上手に隠れている。
フキの花穂が伸びて真っ白い綿毛が一面に揺れている。春の味覚、ほろ苦い蕗の薹の綺麗な若緑からは想像できない姿だけれど、ふわふわと光をばらまくように揺れていて可愛らしい。
袴池が近づいてくると道も湿ってきて、脇の小さな崖には一面つやつや光る丸い葉が重なっている。オオイワカガミだ。ちょっと遅かったか・・・、実になっている穂が多いがまだ咲いていた。淡いピンクの花をいくつもつけて下向きに咲くのだけれど、レースのような花びらが美しいので、人気の花だ。
池にはミツガシワも咲き始めていた。この感じは・・・大丈夫かな・・・咲いているかな、サンカヨウ。期待を込めて袴湿原への水辺の道を歩き始めると、向こうから男女二人連れがやってきた。「あっちにサンカヨウが咲いているわよ。とっても綺麗」女性がニコニコしながら言う。自慢しているみたいでおかしい。ありがとうと応えて少し歩くと、大きな株に真っ白い花がたくさん咲いているのが見えてきた。雪解けの時期の違いなのか、ほとんど花が散っているところもあれば、まだまだ小さな蕾をたくさん持ち上げているところもある。私たちの頬も緩み、さっきの女性と同じニコニコ顔になっている。
花を見ながら袴湿原まで歩き、引き返す。水辺のクロサンショウウオの卵は溶け出すように形が柔らかくなっていた。そして、アサギマダラが飛んでいた。「もう?」と驚いたが、一時暑かったからかなぁ。暑くなったり、寒さがぶり返したり、日々かき回されているようで季節感が消えていく。便利に傾く生活で、人間が地球を食いつぶしているのだろうか。自然の生き物こそいい迷惑だろう。
袴岳へは池の近くから登りに入る。袴湿原から一旦引き返して池の手前の杉林を登っていく。下ではほとんど散っていたユキツバキが高度を上げていくに従って真紅の花びらをたくさん見せてくれる。
北側に視界が開けた。頚城(くびき)平野の広がりと、日本海が見える。右奥には米山も見えている。すごい。気持ちがいい。空は真っ青で雲もないけれど、木々を渡る風が心地よく、なんだか足も軽いような気がする。
スミレがあちこちで群落になっている。タチツボスミレ、ツボスミレ、ナガハシスミレ、そしてスミレ・・・もう少し種類はあるのかもしれないが、勉強不足でなかなか同定できない。チゴユリ、フデリンドウもポツポツ見える。大好きなカンアオイの仲間もあった。ウスバサイシンのように双葉の間から花が咲いているのはなんだろう。花が全体にクリーム色で小さい。トウゴクサイシンが似ているようだが、はっきりしない。大好きなカンアオイの仲間だけれど、まだわからないことが多い。一つ知ればさらに知らない世界が広がる、尽きることのない道だ。近くにはエンレイソウや、ツクバネソウが大きな緑の葉の真ん中に小さな花を乗せている。花たちを楽しみながら登っていくといよいよ清涼な空気に包まれてくる。ブナの森だ。
ちょうど新芽が輝く季節、見上げると、トチノキ、ホオノキなどの大きな葉と、ダケカンバ、ブナなどの小さな葉の梢が空に模様を描いているようだ。森の中を登って降りる。何度訪れてもブナの森には心が震える。「気持ちいいね〜」「気持ちいいね〜」と、なんとかの一つ覚えのように同じことを言いかわしながら、いつの間にかゆったりと心を開いている。
そういえば、今日の散歩、夫は袴湿原あたりの花を見て帰る気分だったような?途中から気が変わって、つい山頂まで歩いてしまったのかもしれない。それもブナの森のなせる技?
まぁそれはどうでもいいが、気持ちよく登ってあっという間に山頂に着いた。目の前にドカンというように妙高山が立っていた。左に黒姫山、戸隠山、そしてさらにその向こうにはまだ真っ白い北アルプスの稜線が見えている。すごい。いつもここからの景色には大満足なのだが、今日はまた特別だ。
誰もいない山頂のベンチで、持ってきたおやつを食べる。キューリと生姜の即席漬けと、我が家のイチゴがお供。頭上のウワミズザクラはまだほとんど蕾。小さな白いつぶつぶをたくさんつけて枝を伸ばしている。でもよく見ると、一番乗りとばかりに白い細い花びらを開いている枝があった。
さて、いつまでもいたい山頂だけれど、ちょうど人が登ってきたのを潮に引き上げよう。今日初めてのコースを歩いてみようと、意見が一致。袴岳から北斜面を降り、東へ折り返して赤池まで戻るコース。前にちょっと降りてみたことはあったが、コース全部を歩くのは初めて。森が濃い感じで暗い。途中オオイワカガミの群落が続いたが、花はほとんど終わっていた。
なんだかあまり面白くないねぇと、お互い心の中でつぶやきながら急なジグザグ道を降りていく。
ところが東に折り返した途端、景色が変わった。広い草原、湿地帯か。道の脇にはスミレの大群落、そしてあちらにもこちらにもサンカヨウが咲いている。ミヤマキケマンの鮮やかな黄色が嬉しい。コゴミが大きくなって大群落、その真ん中に大きなホオノキ。遠くからでもホオノキの大きな白い花は見える。すごいすごいと、今日は何遍言っただろうか。
足の疲れも感じないまま水辺に出て、もうすぐ林道というあたりに小さな花が俯いて咲いていた、アズマシロカネソウ。日本の真ん中辺りの日本海側に咲くという花。近くにはネコノメ属。これはホクリクネコノメソウだろうか。じっくりとたっぷりと眺めてから、林道へ向かった。願わくは、どうかこの小さな花たちがいつまでもここに住み続けられますように。
林道は舗装してない緩やかな道。車には1台も合わない。頭上には純白のミズキやウワミズザクラ。道の脇にはタニウツギがどこまでも続く。薄いピンクに濃いピンク、漣が寄せるようにさまざまに咲き続いている。満開の花の中を歩く私たちの足もつい弾んでいる。長いはずの赤池までの道はあっという間だった。
山道にはみ出してきた小さな筍をいただいて、夕食が賑やかになったのは思わぬご褒美だった。