湿原、水辺、川のほとり・・・大地と水が戯れるような、仲良くなっているような風景になぜか心惹かれる。
私は信濃川の岸で子ども時代を過ごした。二階建ての瓦屋根のてっぺんに登ると(子どもの頃はよくこっそり登っていたものだ)、目の下に信濃川の川面が光り、川向こうには山々が迫っていた。けれど、生活空間は広い田んぼのまっただ中だったから、言ってみれば湿地に囲まれて暮らしていたみたいなものかもしれない。どこを歩いても小さな疎水が流れ、田には水がたたえられ、ヒルに喰われながら田仕事の手伝いをした。
一昨年だったろうか、夫が「近くにミズバショウの群生地があるらしいよ」と言うので、初めて出かけたのが『むれ水芭蕉苑』。我が家から車で20分も走れば入り口の駐車場に着く。駐車場には車がほとんど無く、木道を歩いていて聞こえるのは、水の流れる音と鳥の声ばかりだった。
静かな楽園という雰囲気が嬉しくて、その年はミズバショウが顔を出し始め、リュウキンカが黄金色に輝く4月下旬から、ニリンソウが一面に開く5月中旬まで数回訪れた。近いので、朝一番に行って、昼前に帰って来ることができる。朝早いと、長野市が晴れていても、山の上は前が見えないほどの霧に覆われる時もあり、その幻想的な風景も楽しめるのだった。
北信の観光案内パンフレットなどにも載るようになって、その存在が知られてきたのだろうか、今年は県外No.の車が何台も停まっていた。
冬には何回も通った飯綱高原にあるスキー場の脇に雪解け水が流れ、その流れの中にミズバショウが咲いている。今年は4月21日に行ってみたが、もう葉が育っているものが多かった。それでもまだ初々しい純白の苞を広げたばかりの花も沢山見られた。リュウキンカの黄色も鮮やかに光を反射している。ニリンソウが少しずつ蕾にピンクをのせ、開く準備をしている。
木道を歩いていると、水の表面が油を浮かせたように光っているところが多い。「山の清流に油が浮くというのは考えにくいし、なんだろう」と話していたが、最近夫が調べた。これは鉄バクテリアというものらしい。難しい言葉で化学合成栄養細菌なのだそうだ。世界中の大規模な鉄の酸化鉱物の鉄鉱床は、鉄バクテリアの活動によって作られたものが多いそうだ。気の遠くなるような時間がかかっていることだろう。
むれ水芭蕉苑からの水流がリゾートラインの下流に広がる湿原には『ニリンソウ園』と看板が出ている。途中からは木道の整備がされていないが、一面のニリンソウが森を白く染める様子は素晴らしい。しかし、奥の方はヨシが茂り始め、乾いてきていることを感じる。
そのまま帰るのがもったいないなくて「大谷地の方まで行ってみようか」と、夫。飯綱東山麓から戸隠に向かうリゾートラインは、行けども、行けども豊かな森の中を走る気持ちのよい道、春先には道路脇のいたるところにチラチラとミズバショウが見える。豊かな水をたたえる大座法師池を過ぎるとすぐ右側に開けてくるのが『大谷地(おおやち)湿原』。これまでに何回も訪れているが、今年の様子はどうだろう。
飯綱高原に広がる大谷地湿原だが、ヨシが茂るようになり、乾燥化が進んでいると思う。初めて訪ねたのは20年も前のことだから、人間の目にも少しは変化が分かるほどの時間を見てきたことになる。
目の前に大きな飯縄山がそびえる湿原は、沢山の人に愛されてきたことがうなずける雄大な風景だ。戸隠古道の森に近い、水の流れがあるところには水芭蕉がささやかに咲き出していた。
斑尾高原の北側に広がる『沼の原湿原』に出かけたのは4月26日。同じ頃に出かけた昨年は雪がいっぱいだった。今年は雪が少なく、ミズバショウとリュウキンカが流れに添って開き、青く晴れ上がった空とのコントラストが美しい風景。ちょうど、地域の人たちが立て看板などの手入れに訪れていて、あいさつしながら何度もすれ違った。周囲の山肌にはまだ雪が残っているけれど、水の瀬音も鳥の鳴き声も春そのものだ。
ていねいに敷かれた木道を奥の方まで歩いて行く。ロングコースと書かれているこの道は、まっすぐ行けば万坂峠に続く道。湿原を離れて少し傾斜を登るが、分岐点で峠への道と分かれて再び湿原の渕を引き返す。
森と湿原の間の歩きやすい道をしばらく歩いて再び木道の敷かれた湿原の中に入って行く。ウグイスがすぐ近くの枝で鳴いている。なかなか姿を見つけられないウグイスだが、まだ葉が茂る前の森だったので、見ることができた。目の前の枝でしばらくさえずっていた。
沼の原湿原は以前『斑尾高原原生花園』と呼ばれていたことがあり、小学生の娘と二人で訪ねたことがある。その後名前が変わったのかと思ったが、もともと沼の原と呼ばれていたところらしい。もとの名前に戻ったと言うことか・・・。
娘と訪れたのは夏の真っ盛り、暑い日差しの中を斑尾ペンション村からてくてく歩いた。今も高原の道を通ると、娘と泊まったペンションの看板を見ることができ、懐かしい。舗装された道を歩いていると、オニヤンマがス〜イスイ顔の横を飛んで行く。麦わら帽子をかぶった娘が「おっきい!」と、喜んでいたのを思い出す。湿原は背の高い緑に覆われ、ミズバショウの葉も化け物のように伸びて、娘と背比べができそうだった。
水芭蕉には申し訳ないが、私と夫は成長した水芭蕉の葉を「オバケ水芭蕉」と密かに呼んでいる。
「ああ、もうずいぶんオバケさんになっているね」「オバケ水芭蕉になっちゃたね」と言う具合だ。春のお化けはまだかわいいが、夏になるとツヤもなくなりみじめだ。けれど、大きくなってその存在をアピールしているので、私にはなぜか憎めない。親しみを込めて「オバケさん」と呼ぶのだ。
沼の原の中央を流れる水の中にも沢山のミズバショウが揺れている。積雪量が多いことを証明するように豊かな水の流れが幾筋も走り、キクザキイチゲやヤマエンゴサク、そしてボタンネコノメソウだろうか、小さな花々が水辺を彩っている。
ところどころ水が赤色に光っているのは鉄バクテリアが活動した跡だ。時々油をこぼした油膜のように見える時もあるが、山の中の水辺で七色に光るのは油膜ではなく鉄バクテリアが活動した後の水酸化第二鉄なのだ。
山際の道にはバッコヤナギの花が開き、ホワホワの毛色が暖かそうに見える。雌雄異株だが、隣り合って雌花、雄花をそれぞれ咲かせている。
青空の下、水芭蕉の白とリュウキンカの黄色が遠くまで広がっている風景に全身が伸びていくようだ。
豊かな気持ちをもらって帰り道、豊田の道の駅に寄ってみた。とても大きな原木椎茸があってびっくり。これは美味しそうと購入。夕食は巨大な原木椎茸のアヒージョにした。椎茸はもちろん、お伴の赤ワインがおいしい夕食だった。