親海と書いて「およみ」と読む、珍しい名前の湿原が白馬方面にあると知って、いつか行ってみたいと思っていた。春一番にフクジュソウが群れ咲くというから、毎年のように「そろそろかなぁ」と言いながら、せわしなく過ごしているうちに時機を逃していた。
今年は、二人の頭のメモにしっかり『親海湿原』と留めておけたか、雨上がりの4月中旬に訪ねることができた。長野から、中条、小川、美麻を通って白馬まで一直線の山間の道を行く。雨上がりの朝だからか、遠くは霞んでいるが、過ぎて行く山々を彩る花が美しい。山桜、コブシなどの大木が花の季節だけ存在をアッピールしている。夏になれば、沢山の緑の中にまた隠れていくだろう。
地図によれば、国道148号線に出るとすぐに看板があって、大きな無料駐車場があるらしい。しかし、いつの間にか、道はカーブの多い青木湖の北側に接しているようだ。信号を左に入り、もう一度地図を見る。やはり通り過ぎてしまっているようだ。グルッと回って、もう一度。駐車場はあった。さのさかスキー場の広い無料駐車場。ここに車を停めて、国道を横切る。すぐ看板があり、私たちは親海湿原の方に進む。道の脇にフクジュソウ、すでに実をつけているものもあり、遅かったかな?
杉の落ち葉が積もった道をわずかに登ると、三方向を示す標識が立っている。右に進めば親海湿原、左は姫川源流、そしてまっすぐ行くとドウカク山と書いてある。
私たちは迷いも無く、まっすぐ歩き始めた。聞いたことも無いですけれど・・・ドウカク山。「どう書く?」、夫はニヤニヤしながら楽しそうだ。ゆるやかな山道は幅広く、並んで歩けそう。山はどこまでも針葉樹林に覆われていて、落ち葉が積もり積もって足に優しい。所々倒れた木の幹が道を塞いでいるが、またいだり、くぐったりして進む。
最近ネンキンに興味を持つ夫は、湿気のある針葉樹の森の苔やキノコをじっと見ながら楽しそうに歩く。枯れた木の枝にモコモコと膨らんだ生き物が取り付いていると、「ネンキンかな?」と、近寄っていく。
ネンキン(粘菌)というのは不思議な生物で、動物と植物の中間のようなものらしい。変形菌とも呼ばれ、胞子を飛ばして増える。体を変形させるから形も色も様々、なにより粘菌は植物を腐らせるカビやバクテリアを餌にしているというからビックリだ。
森の中だけではなく、公園や庭にも発見できるというが、なかなかこれっ!と言えるものを見つけることができない。そこが面白いのかもしれない。
さて、さほど歩くとも思わぬうちに山頂に着いた。『ドウ』とはトキの呼び名で、この辺りに昔トキが巣を作ったことが由来らしい。標高814mと言えば、我が家の裏山より高い。けれど、振り返れば北アルプスの峰峰が壁のように立ちはだかるこの地では、『佐野坂丘陵から北に張り出した尾根の先端にある孤立丘(山頂の案内板より)』と、丘呼ばわり。でも・・・確かに。のんびりとおしゃべりしながら登頂したここは・・・丘かも。
見上げると首が痛くなるような、まっすぐに伸びた針葉樹、散り敷いた落ち葉、所々に残る雪、苔むした倒木・・・私たちは立ち止まっては小さな苔の形に見とれ、見上げてはしばし佇み、ゆっくり山を降りた。
三つ角に戻ると、今度は親海湿原に向かう。登山道からも見おろせたが、フクジュソウらしき黄色は見えない。立派な木道が敷かれている湿原は新芽が真っ赤な植物の赤い広がりと、ネコノメソウの鮮やかな黄緑の他はまだ枯れ色。フクジュソウは無い。途中から思い出したように落ちてくる雨粒がこの辺りではちょっと多くなって来た。なんだか、がっかり。
ここは明治の頃には水田だったそうだが、今は湿原の植生が回復して来ているそうだ。親海湿原の東側の遊歩道はまだ雪に覆われていた。その雪の下から、わずかにカタクリやアズマイチゲなどが花をつけている。フクジュソウも数輪見つけた。
この時まで、私たちは『親海湿原にフクジュソウ』と思い込んでいた。裏切られたような気持ちで姫川源流に向かう。「姫川と言えば翡翠の産地だったよね」「それはもっと山の奥の方だろう?」などと、話しながら歩いていると落ち葉に埋もれた岩が緑色に見えてくる。この辺りの岩に含まれる成分の関係だろうか。濃いところは美しい緑色だ。
再び坂を登り、分かれ道を源流の方に進む。そして、そこに輝く黄金色の広がりを見つけた。フクジュソウの群落は姫川源流の方にあったのだ!
金色の花の広がりの間には純白のアズマイチゲ。この頃には雨粒が飛んで、太陽が輝いてきた。日の光を浴びて嬉しそうに花が開く。私たちは時間を忘れて見とれ、近くから遠くから写真を撮った。もちろん湿原の遊歩道から。
ほとんど人に会わなかったが、カメラを持ってフクジュソウの中をワシワシと歩く人を見て悲しくなった。夫が注意すると、『出ます』と言う。つまり、いけないと分かっているのだ。興味のない人ならいざ知らず、わざわざ足を運んで楽しもうとする人が自然を大切にしなくてどうするのだろう。湿原の生態系は特に敏感だ。きりがない問題をはらんでいるとは思うが、できる範囲で大切にしていきたい。
フクジュソウ群落からわずかに下ると、四阿があり、そこから木道が伸びている。足元には透き通った水が湧き出し、その湧き水は、思ったより勢いがある。ニリンソウ、リュウキンカの芽吹きの緑を洗うように流れていく。この水は糸魚川に続き、日本海に注ぐ。豊かな水辺にはミズバショウも咲いている。奥に広がる湿原にはフクジュソウ、アズマイチゲ、キクザキイチゲが今を盛りに咲いている。もう少し暖かくなるとこの水の流れの中にバイカモが咲くという。清流にしか咲かない水草だ。
夫が「もっと上からも流れて来ているのに、ここが源流なの?」と、首を傾げる。そうだよね、私もそう思う。あとで調べたら、白馬方面から流れ込む2本の長い川は支流ということだそうだ。
源流が流れ出る向こうに木道の橋が見えている。美しい風景、「あそこの橋の上に立って」と言う私に、遠回りして行く夫。
優雅な時間を楽しんで、私たちは源流をあとにした。
美麻の道の駅で遅い昼食を食べ、山々の彩りを眺めながら家に向かった。