長野県の北部、新潟県と境を接する斑尾高原には夏冬と訪ねた。夏は斑尾登山だけでなく、高原や湿原散策も気持ちいい。初めて訪れたのは小学生だった娘と一緒に、25年以上前のことになる。昨年、百合の花が一面に開花する頃には孫も一緒に訪れた。冬はもちろんスキー。
どこか日本離れした広々とした空間が心地よい。また、鍋倉高原の方まで続く稜線や森の中をめぐるトレースが整備されているようで、回数を重ねて訪ねてみたいと思っていた。
長野からだと、袴岳は斑尾高原の一番奥になる。数年前に登った斑尾山を横目に見て進み、赤池の駐車場に着く。日差しが痛い。カエルの鳴き声が賑やかだ。
ゆっくり歩くと、袴池に出る。道は左に大きくカーブして行く。手前の右斜面にはイワナシの株があるが、もう花は終わって実になっている。そしてたくさんのオオイワカガミの葉がキラキラ光っている。花は終わり、穂だけが伸びている。がっかりして、なおも奥の方に目を凝らすとかろうじて2株ほどまだ花をつけていた。
3月に痛めた膝の靭帯が治りきらず、歳を重ねるとなかなか治らないということを実感している。体重を支えるスティックを両手に持って歩く。普段はあまり使わないスティックだが、なかなかあなどれないと知る。わずかバランスを崩すだけでカクンと力が抜け、自分の体重を支えられない情けない右膝を、2本のスティックが助けてくれる。
私が、イワナシやオオイワカガミのあたりで写真を撮っているうちに夫は池の方に回り込み、「おお」と叫んでいる。慌てて行ってみると、サンショウウオの卵塊がたくさん見える。奥の方にはミツガシワが盛りだ。鶏卵を並べたようなサンショウウオの卵塊は、クロサンショウウオだろう。神奈川に住んでいたとき、近隣の山を歩いていてハコネサンショウウオの卵をよく見つけたが、小さい頃息子はお味噌汁の具を「サンショウウオの卵のような・・・」と言って笑わせた。正体は半透明になった三日月形のタマネギ!
話を戻そう。池の向こうに咲き誇るミツガシワが水面に映る様を見ていると、別天地。小さな池だが、周囲を森に囲まれ、私たち以外誰もいない。聞こえるのはカエルの鳴き声と鳥のさえずり。
袴池を後にして袴岳山頂を目指す。道はていねいに整備され歩きやすい。小さな春の花たちが両脇に咲き続く。白、黄、紫。白はオククルマムグラ、チゴユリ。黄色はヘビイチゴだろうか、ナガハシスミレ、スミレ、フデリンドウは薄紫だ。
花々を楽しんで歩いていると、大きな葉が目に入る。『葵のご紋』、葉の下を覗いてみると咲いている、小さな壷形の花。カンアオイは地域によって様々に進化したそうで、種類も多いそうだ。袴岳のカンアオイは緑がかった親指の頭大で、壷の先に開く3枚の萼裂片が小さく波打っていた。いままで見たカンアオイの中ではもっともかわいい形。夫はこの地味な花はどうやって交配するのだろうと首を傾げている。
さらに進むと、急に周りがブナの海になった。ブナの新緑は本当に美しい。知らず知らず深呼吸をしている。空間そのものが生きているような気がする。私たちは足取りも軽くなった。そして、小さなピークを下った沢沿いにサンカヨウを見つけた。周囲にはまだユキツバキの赤い花も残っている。残念ながらサンカヨウはかなり散ってしまっていたが、いくつかの株にはまだ白い花が残っている。透き通るような花びらが特徴の花、大きな葉の上に咲く。夏には群青の実になるが、この青はうっすらと粉を吹いたような優しい色だ。
サンカヨウのある沢を奥に踏み込み、巨大化したミズバショウの葉を見つけたりした後、再び山頂を目指す。ブナの森を歩く気持ち良さに疲れも忘れて、あっという間に山頂に着いた。山頂は私たち二人だけ。
目の前に妙高山がどっしりそびえている。三角点を横目に、おにぎりをほおばっていると、「着いた、着いた」という子どもの声が聞こえてきた。急に動き始めた山頂の空気に、ちょっと残念な気持ちと、このくらい人が来なくては寂しいかななどという気持ちが交差する。私たちは二人だけの山頂を十分楽しんだので、来た道を戻ることにする。
ブナの美しい森を楽しみながら、袴池まで戻り、さらに奥にある袴湿原に立ち寄ることにした。沢沿いに進むとサンカヨウの群落が続いている。花は終わってしまったが、大きな優しげな緑の葉が道案内をするように続いている。来年は咲いている時にここに来よう、二人で頷きあって湿原巡りを楽しんだ。