カヤの平へは四季折々に訪れていた。樹齢200年〜300年ものブナが育つ原生林が1,450haも広がっているという知識はずっと後になって知った。
まだ雪が残る早春のブナの森を歩くうち、道を見失ってドキドキしたこともある。空を黄金色に染める黄葉の中をのんびり歩いたこともある。
太平洋の海辺の町に済んでいたころは、大きな出来事が終わってふっと一息ついたときなど、思い出せば折にふれ遠く車を飛ばして来たものだ。
観光パンフレットに名前を見るようになってからしばらく足が遠のいていた。訪れる人が増えたというニュースを見たから。久しぶりに行ってみようと言い出した夫は、夏場に体調を崩し、涼しい風が吹く頃になって元気を取り戻していた。やはりカヤの平へ行くのは一区切りのときか。
カヤの平へは奥志賀からさらに北へ山道を越えて行くか、中野市から飯山市へ延びる国道403号線から山道を一気に駆け上るかだが、長野市からなら後者が近い。それでも我が家からは1時間半ほどかかる。
山道を登って、カヤの平総合案内所前の駐車場に車を停めたのは10時過ぎだった。家を出る時は青空が広がって暑いくらいだったのに、山道の途中では小雨がぱらついた。傘をリュックに入れて出発。
一歩森へ入ると人工物は何も無い。木と木と木と木・・・。入り口のあたりはダケカンバがつやつやとした肌色に光っていたが、ほんの少し歩くともう辺りはブナの精に囲まれている。振り返るとブナとカンバの混淆林、シラカバの太い幹が白く光を跳ね返して森が光に包まれているようだ。
標高1,450mの高原は、すでに冬支度を始めているようだ。ブナの葉はまだほのかに黄色がかっているだけだが、ウルシやナナカマドは紅葉している。ガマズミの実も赤い。マイズルソウや、ツクバネソウ、ユキザサなどの草の実も色づいたり、もうすでに落ちたりしている。動物のエサになったのだろうか。
ブナの森にいると、何故か自然に足運びがゆっくりになる。気持ちよくて、なにげない一呼吸一呼吸が深呼吸をしているかのように、体が開いてくるのを感じる。ゆっくり、のんびり写真を撮ったりしながら歩いて、奥の北ドブ湿原まで行く。サラシナショウマやタムラソウが満開。いや、見頃は過ぎているけれど、まだまだ残っていた。濃い紫の花をつけているヤマトリカブトも、毒草とは思えない魅力的な形だ。一面草紅葉の湿原にはミズギクがなごりの黄色を残していて、イワショウブ、ウメバチソウが光を散りばめたように点々と白く輝いていた。
北ドブ湿原を横切り、湿原のふちを回るように登ると、八剣山(はっけんざん)1675.8mに至る。カヤの平には何度か訪れていたが、八剣山には一度だけしか登っていない。6月の、まだ雪が残る頃に登って、キヌガサソウやサンカヨウの花に大喜びした。
今は9月も下旬、もう花は無いけれど、久しぶりに登ることにした。山道にはツバメオモトの実がたくさんあって、私は大喜び。群青色に光っている。
ちょっと急な坂をひと登りすると山頂だ。残念ながら展望は無い。森に囲まれた狭い山頂には立派な木の標識が立っていた。前に登った時には山頂名も無く、持っていた紙に山名を書いて記念写真を撮ったのだった。今日は立派な木の標識の前で記念撮影をした。
標識は新しい分厚い木の板で出来ているが、両下部がくだけたようになって落ちている。夫は落ちていた木片を拾って欠けたところに当ててみながら首を傾げている。どうしてこんな風に欠けてしまったのだろう、と。板に流れた水分が下部で凍り、そこに風などの力が加わって欠けたのだろう、数日前に台風も通ったところだしと、推理の結論は出たのだが、果たして事実はどうだったのか・・・。
下りは北ドブ湿原に戻らず、湿原を見おろすように尾根を歩いていく。森のフカフカ道には色々な顔をしたキノコや苔が生えている。10月の半ば頃には森は黄金色に染まるだろう。
ブナの葉は空が見えなくなるほど豊かで、大木になると50〜60万枚もの葉をつけるらしい。それが抜群の保水力となるのだが、それほどの葉をつけているブナの森の中だが、歩いていても暗く感じない。森の雰囲気は明るい。ブナの太い幹が灰白色でいつも光を発しているような感じだからだろうか。
数えてみたら、17年ぶりのカヤの平だった。ブナはヒトの文化の歴史と平行するように生きて来たそうだ。6千年以上前から続く森の歴史は、人間の歴史と同じように波があるそうだ。それは当たり前と言えば当たり前の話だが、ブナの森の中にいると、ここだけは変わらないのではないかという幻想にしばし酔っていられるような気がする。