谷川岳といえば、山好きな人でなくても「ああ、あの・・・」と話が続くだろう。岸壁の山というイメージで。
私が初めて谷川岳に登ったのは、社会人一年生の夏だった。忙しい仕事の合間にやっととれた休み、勇んで出かけたら、急に進路が変わった台風が直撃、激しい雨嵐の中をなんとか這い上って山頂肩の小屋までたどり着いた。台風はまだ来ないと思いながら西黒尾根を登り始め、途中からは怖くて降るという選択ができなかった。岩にしがみつくようにして登ればとにかく上には小屋があると、夢中で登った。
翌日は仕事だったから帰らなくては・・・と言うと、誰かと組んで天神尾根を降るならば良いと言われた。同じように翌日用があった青年と二人で降ることにしたが、これは正解だった。10歩も歩けば姿が見えなくなるような霧の中で、一人は現在の場を確保し、もう一人が確認できる範囲で道を探すという、途方もなく原始的な方法で、なんとか森の中の登山道まで辿り着いた。単独では到底無理だっただろう。
森に入ってからは風も弱くなり、なんとかその日の夜には東京まで帰り着くことができた。雨が降り始めた頃に振り返って撮った西黒尾根と、濃霧の中の写真が1枚残っているだけだ。
谷川岳は天気が変わりやすいと聞く。それにしても全く視界のない状況での登山では残念だ。もう一度行きたいと言う私と、珍しい駅と評判の土合駅へ行ってみたいという夫の興味が重なり、電車で谷川岳を目指したのは2009年9月後半だった。
いろいろな山へ出かけたけれど、電車で行くことは少ない。乗り鉄山旅だ。9月20日家を出たのは朝6時。東京駅から新幹線Maxたにがわに乗車、越後湯沢駅に着いたのは9時半過ぎ、30分ほど待って上り電車に乗りかえ土合駅まで行く。
今回はロープウェイを利用する天神コースを行く。リフトに乗り継ぎ、天神峠に立ったのは11時20分。熊穴沢の頭で12時になったので、ここでのんびりお昼を食べよう。
天神尾根コースは、高度差は少ないけれど距離は長い。途中トラバース気味の鎖場もあるが、崖側には灌木が茂っているので、あまり怖くはない。気をつけて進む。
腹ごしらえをしたので、あとはひたすら登るだけ。
標高はそれほど高くはないが、険しい山容と、豪雪強風地帯に切り立つ山だから高木樹林はない。灌木や笹に覆われた山肌が秋の色に染まっている。岸壁の黒い岩肌と対照的だ。
熊穴沢の頭からは岩登りが続く。見上げる山頂のガスはなかなか晴れないが、遠くの山々は霞みながらも見えている。30数年前に、風雨の中を登った西黒尾根は目の前にキリッと立ち上がっている。
肩の小屋までは1時間半かかった。この辺りに来ると霧に覆われている。登る間、ずっと見えていた山頂にかかる霧だ。足を止めず稜線を進む。肩の小屋からは10分でトマの耳山頂到着、午後2時。
残念、下から見ても山頂にはガスがかかっていたが、やはり周囲は真っ白。何組かの登山者が、ちょっとでもガスが切れて視界が開かないかと期待を胸にそこここに待っている。立っているものあり、座っているものあり、それぞれだ。
私たちもしばらく様子を見ることにした。白いカーテンは風の動きに弄ばれるように濃くなったり薄くなったりしている。
時々薄くなった白いカーテンの裾模様のようにオキの耳に続く稜線が霞む。秋色に染まっている。しばらくそうしているとご褒美のように一瞬視界が開く。すぐそこに肩の小屋が見えている。樹木はないが、岩を覆う草花によって稜線は彩られている。
みんな待っていた時を迎えて、山頂は一斉に上がる歓声で賑やかになった。しかし、喜びは束の間、また白いカーテンに閉ざされてしまった。
谷川岳は双耳峰、標高はもう一つ奥のオキの耳がわずかに高い。だがここから引き返す人も多い。やはりこの深い霧の岩場を登り降りすることに不安を感じるのだろう。しばらく待ったが、霧は濃くなるばかりで晴れそうもないので、私たちも降ることにした。
降る前に肩の小屋に寄ってみる。あの台風の時はこの小屋に泊まる人もたくさんいた。この日はとりあえず山バッジと、谷川岳のロゴ入りのバンダナを買う。夫はハンカチを使わずバンダナを汗拭きに使うから重宝だ。我が家には山小屋で購入したバンダナが何枚もある。
小屋を出たら、あとは来た道を戻るだけ。最初は急な岩場もあるから気をつけて降ろう。緩やかな稜線の道になった頃から霞んでいた空気が爽やかになってきたようだ。
登りはリフトで天神山を越えて行った。降りは山を巻いて天神平へまっすぐ進み、ロープウェイに乗って帰ろう。
午後4時、秋の陽は早くも傾いてきた。広々した草原から振り返ると、双耳峰が姿を表してきた。ちょっとかしいだ独特なふたつの頂き。
さっきまで立っていたあたりに夕陽が当たっている。見上げれば彼方に遠い。あそこまで行ってきたんだねと顔を見合わせる。
さぁ、あとはロープウェイに乗って降ろう。土合駅近くで上越線の踏切を渡る。鉄ちゃんの夫は、清水トンネルの入り口を見て感慨深そうだ。土合駅には有名な五百階段が待っていた。話には聞いていたけれど、本当に地の底へ飲み込まれるような深さだ。
深い地底のホームで電車を待ち、越後湯沢まで行って新幹線に乗り換えた。帰りは18:30越後湯沢発とき342号、東京に着いたのは夜の8時。都会はまだ宵の口、人がたくさん流れるように歩いている。
昨日の土曜日から来週の水曜まで、敬老の日と秋分の日を重ねて秋の5連休となった。人々の心も浮き立っているのかもしれない。私たちは人の流れの中を縫うように地下鉄、東急と乗り換え、我が家に向かった。