昨夜から雨の音が続いていた。今日は戸隠森林植物園の自然観察会に行こうと楽しみにしていたが、止むかなぁ。おにぎりを作って準備をしている間も霧のような雨粒が落ちている。天気予報は次第に晴れてくるとのこと。我が家の気象予報士が「大丈夫」と言っている。
早めに行って一回りしてこようと、9時前には森林植物園の駐車場に到着。雲は多いが、時々青空が顔をのぞかせる。お天気は大丈夫みたいだ。ところが、駐車場はいっぱい。かろうじて隅の方に1台スペースを見つけて車を滑り込ませる。
みどりが池の中央広場の周辺にはたくさんの人がいる。いくつかのグループのようだ。鳥の観察、植物の観察(後で苔とわかった)などのグループがそれぞれ集まって挨拶をしている。さすが戸隠、何だかすごいね。私たちは集合時間まで散策してこよう。
まだ雪が積もっている時に来たけれど(※)、あの時作業していた木道がなくなっている。木道が取り払われて、コースには木製チップが敷かれている。所々にブロックが置いてあったり木の板が置いてあったり、何だか落ち着かない気もする。
みどりが池の周辺はカエルの鳴き声で賑やかだ。ウスバサイシンの花が地面にコロリところがっている。
しばらく歩いてから集合場所の『八十二 森のまなびや』前に行く。
ちょうど今日のガイドさんが準備を始めたところだ。挨拶をして、自然に関わる四方山話をしながら時間になるのを待つ。
10時、朝の雨模様が影響してか、参加者はいつもより少なめ。準備している方々には申し訳ないが正直な感想はあまり大勢でない方が嬉しい。
今日のメインのガイドさんは植物に詳しい人、もう一人は鳥に詳しいそうだ。敢えて言えばそうなのだろうけれど、私から見れば自然全てのことに詳しいと思う。
みどりが池のほとりから出発。早速満開のフッキソウについて教えてもらう。今までじっくり見たことがなかったが、花の下の方に雌しべがあるそうだ。たくさん出ている糸のようなものは雄しべなんだそうだ。花の仕組みがわかって見ると、何だか親しみが湧く。
水芭蕉はそろそろ終わりかけて、葉が巨大化し始めている。それでもまだ白い苞が綺麗だ。これが水芭蕉の人気のもと。緑濃い森の中の湿地に純白の水芭蕉が広がっている姿はとても美しい。そう言えばどうして水芭蕉の花穂を包んでいる白いのは苞(ほう)と呼ぶのだろう。萼(がく)と呼んでもいい気がするが・・・。今日教えてもらった二つ目はこの違い。一つの花につくのが萼で、たくさんの花につくのが苞なんだって。水芭蕉は実はたくさんの花の集合体、そこに一枚ついているから苞。「ほぉ〜」なんて言ってるのは誰でしょう。さて、いつまで覚えていられることやら不安はあるけれど、新鮮な知識に触れると元気が出る。
水芭蕉の花穂はたくさんの花の集合体だが、この花穂は肉穂花序と言い、雌性期から雄性期へ変化していくという、これもまた不思議な花だ。すでに花の終わりに近づいていたので、どの花も雄性期になっていた。中にはその時期も過ぎて、実になりつつあるものもあった。
森林植物園の一番高いところにある高台園地にはさまざまな花が植栽されている。ちょうどトリアシショウマが芽吹いていたので、今までしっかり見ることができなかった「鳥の脚」を見ることができた。この葉が展開する前のまっすぐな茎の形が鳥の脚に似ているからトリアシショウマ、確かにそう言われればそうかもしれない。
そして、今を盛りに咲いているシラネアオイとサンカヨウ。トガクシショウマは散り始めている。サンカヨウは朝の雨つゆを残して透き通っている。俯き加減に咲いている透明の花は今日のご褒美だ。雨の中を歩くのは嫌だけれど、こんな発見もあると思えば元気が出る。
自然は常に変化している。いや、私たちも同じ、刻一刻と全ては変化している。「変わらないものは何もないということだけが変わらない」と先達が呟いていた。その変化のさまざまをできうる限り感じていたいというのはただの欲張りか。
トガクシショウマはどんどん減って、今では山道で見かけることは無くなったそうだ。環境の変化か、乱獲か、悲しい話は他にもたくさんある。長い長い地球の歴史をヒモに喩えれば、最後の点のようなところに現れた私たち人類がものすごい勢いで自然破壊をしているようだ。地球は人間だけのものではないのに。
森の中をゆっくり歩いて、観察会は終わった。みどりが池のほとりでおにぎりを食べながら今日のメモを見る。森の中には不思議がいっぱい、だが、それは不思議ではなく、全てあるべきところにあるのだろう。