朝の用を済ませて一息つく。夫も地域の用で出かけていたので、帰ってきて一息というところだ。外は明るい日差しで眩しくなってきた。「今日は良い天気だね」と言うと、「散歩に行ってこようか」と夫。
散歩と言うから近くの公園あたりを歩いてくるのかと思ったら、どこの山にしようかと言う。まだ行ったことがない井上山に行ってみようか。長野市と須坂市の境にある井上山は、そのふもとを何度も通っているけれど、登るチャンスがなかった。標高は裏山くらいだからちょっと遅くなった今からでものんびり行ってくることができるだろうと気軽に出発。さすがに遅い出発の今日はお昼の準備が必要だろうと、おにぎりを購入していくことにした。
長野から須坂に入ると、孫と一緒に行ったトレインギャラリーの前を通る。今は閉館しているが、敷地に電車が展示してある。夫が「カメラの用意」と言う。展示車両の写真を撮って欲しいということらしい。展示してある旧長野電鉄の車両は、元々は東急電鉄で走っていたもので、今度故郷の横浜に帰って保存されることになったと新聞に載っていたのだそうだ。走る車窓からの撮影、なんとか写せたかな。
井上山の登山口の駐車スペースに車を停める。4台程度の駐車可能という場所にすでに2台停まっている。ここは県の天然記念物井上の枕状溶岩が見られる場所。ここになぜか『ゴミ無し地蔵』という木像が立っている。あまり聞かない名前だけれど、お地蔵様に行ってきますと挨拶して出発。 井上山への稜線上には城跡がある。平安時代から戦国時代まで栄えた井上氏という氏族の跡、小城、大城と続いてさらに東方の竹ノ城というところも併せて馬蹄形に広がっていたようだ。
そしてもう一つあなどれない情報がある。明治中期、日本に15ヶ所設定された基線の一つがこの井上山を基点とするもので、須坂基線。北アルプスの2千3千メートルの高峰に登って三角点を見つけて喜んだことは何度もあるが、その起点がこの知られざる里山だったのだ。稜線に取り付くとすぐ基準の4等三角点がある。
始めから階段が続く急な道を登る。狭い尾根にはカシワの枯れ葉が積もっている。周りの木を見ると、赤く小さいカシワの赤ちゃんのような芽吹きがある。枯れ葉の下を探すと昨年の実も転がっている。
小城(こじょう)跡を越えるとすぐ大城(おおじょう)跡、間には何本かの堀の跡もある。大城を越えて、深い堀を越えると左に浄運寺へ降る道を分け、いよいよ急な登りになってきた。
狭い尾根の両脇はきれ落ちていて、その間を直登する道は息を入れる間も無く続いている。「ゆっくり行こう」と声を掛け合い、疲れやすくなった体を持ち上げていく。木々の間からは善光寺平を流れる千曲川と犀川の合流点、その向こうに北信五岳と呼ばれる山々(戸隠山、飯縄山、黒姫山、妙高山、斑尾山)の姿が見える。妙高山の奥にはまだ真っ白な火打山も見えている。やせ尾根からは北アルプスも見えるのだが、霞んでいる。
花の写真を撮ったり、風景を眺めたりしてゆっくり登っていたら、「山頂まであと20分」の標識があるところでお昼になってしまった。山頂でお昼もいいが、疲れた足を休めてから登ろうかと、ここでおにぎりを食べる。木々が茂っているので広い展望はないが、隙間から遠くの山々が見える。しばらく休んで一気に山頂へ。なかなかの急登だ。それでも休んだ効果か、15分で登頂。やっぱり展望はなかった。山頂表示板は割れて文字が半分消えているが、『三角測量の起点の山』という文字はしっかり残っている。記念撮影をして、残りのおにぎりを食べようかと周囲を見回すが、木が茂っていて見晴らしがきかないので、もう一度さっきの場所まで戻ろう。
城跡まではロープが張ってあったり足元に階段が作ってあったり、歩きやすくなる工夫がしてあるが、その先の井上山までは急な山道で、両側も切れ落ちているので、降りは特に注意が必要だ。山頂直下に1ヶ所ロープが張ってあるが、雨の跡などにはありがたいところだろう。私たちは「ゆっくりね」「一歩一歩しっかり」などと声を掛け合いながら降った。
展望がちょっと開けるとカメラを構え、花が綺麗だと立ち止まり、急がず慌てずの山歩き。急坂には少し気を張ったけれど、時間をかけて歩いたせいか、一段と深く山を楽しむことができた気がする。
駐車場に戻って枕状溶岩を観察。この辺りは海底にあって、海底火山が噴火して流れた溶岩が冷えて固まったのが枕状溶岩なのだそう。2千万年という気の遠くなるような昔のことだが、海の底で作られたものが隆起してここにあるというのが信じられない。絶対不動と錯覚している大地も、実はゆっくり隆起したり沈んだりしているところがあるそうだ。人間の小さな物差しでは感じることができないものが自然界にはたくさんあることを教えてもらった。