「花」と言えば春の季語、そしてその「花」は桜を指すらしい。「お花見」と言えば桜の花を愛でる行事のように思われている日本だ。ところが天邪鬼の私たちは、山の森の中に分け入って、足元の枯れ枝の間から芽を出すような花を探すのに忙しい。 かと言って、もちろん桜が嫌なわけではない、我が家の近くには城山公園、箱清水桜坂と、桜の名所が多いから、日々の生活の中で開花から満開、葉桜と目を楽しませてもらっている。今年は開花した花の数を数えて「ようやく」と喜んだら、たった2日くらい後には満開になってしまった。その勢いに驚く。
さて桜はともかく、今年は髻山の森に咲くという小さな花を探しに足を運んだ。そして目指す花の群落には会えなかったけれど、カタクリやアズマイチゲの芽吹きをたくさん見つけた。「そろそろ咲いたかな」と夫。森の中に広がっていたたくさんの芽吹き、あの株がみんな咲きだせば見事な群落になるだろう。やっぱり見に行きたいね。
午前中は用があったけれど、前線が近づいている。翌日からは雨の予報。行ってこよう。駐車場に着いたのは午後1時半だった。靴を履き替えて歩き出す。今春は何回も訪ねたところだ。車の通りが多い車道を避け、りんご畑の間の道を少し大回りしながら登っていく。いつ頃からあるのか、溜池が多い。りんご畑になる前は田んぼだったのか、小さな棚田もあるが、今は耕作されていないようだ。フキノトウがずんと伸びて風に揺れている。
りんご畑を後に山道に入ると、道端にピンク色が散らばっている。カタクリだ。「こんなところに咲いているね」「踏まれそうだよ」。そう、実際踏まれたような跡もある。花が開くと綺麗な赤紫のカタクリも、蕾の時はあまり目立たない。山道に顔を出している小さな株は、葉もなんだか小さくいじらしく目立たない。道の真ん中のぬかるみを避けようとして端に寄って歩くと踏んでしまうかもしれない。
右側に続く杉林は大きな木が何本も倒れている荒れた森だが、枯れ葉の下から芽を出したカタクリが咲き出している。そして黄色い簪のようなキブシの花も揺れている。この倒木や枯れ葉をもう少し片付けたら、一面のカタクリ群生地になるんじゃないかな。
人様の土地なので、できるのは感想を言うだけ、手出しはできない。太い枝もゴロゴロ転がっているから登った人が数本ずつ運び出したら少しは片付くかなぁなどと話しながら歩いていく。
さて、森の中へ入ってみよう。足を踏み出そうとすると、もう目の先に赤紫の群落が広がっている。カタクリの花の色は濃淡様々で、白に近い淡いピンク色、綺麗なベビーピンク、濃い赤紫と、本当に様々だ。まれに真っ白な花も咲く。
カタクリは実生が発芽してから花が咲くようになるまで7年くらいかかるそうだ。だから、今年はまだ葉だけの個体も多い。しかし、小さな葉を見て、まだ子供かなと思うとちゃんと蕾を持っていたりするから、見た目の大きさと育った年数は同じではないようだ。
花が大きく、花色も目立つからカタクリの群生地は人が集まる観光資源ともなっている。何と言っても昔から食用とされてきた山野草だ。「片栗粉」の語源はもちろんここから。元はカタクリの根からとっていたからだが、現在多くはじゃがいもの澱粉から作るようだ。カタクリは花も葉も食べられる。山里の道の駅などに行くと食用の山野草として束になって売られている。
そうそう、今は貴重なカタクリの根だから、そこから粉を取るのは難しいが、根そのものを食材として食べることができるようだ。季節になると市場にも出るというが、高級らしい。
里山が人間の生活と密接に関わっていた頃、森の中に春一番に咲き広がるカタクリ群落は食物採取の場所だったのかもしれない。カタクリは20年近く生きている多年草だが、根を採取してしまえばその株はなくなる。しかも根をきれいに掘り出すのには技術がいるようで、今ではなかなかできる人がいないのだそうだ。
カタクリ群落の間に白く輝く花はアズマイチゲだ。清楚で美しいこの花を見ると自然の妙に打たれる。自然の中には芸術的な造形がたくさんあるが、この花のおおらかな美しさはまさに息を呑む姿だ。
私たちは花の中に腰を下ろし、しばらく花見を決め込んだ。おにぎりを頬張りながら遠く近く舞う蝶を眺める。ギフチョウがいるのではないかと思ったが、見つけることができなかった。
小さい木がたくさん茂っているので、その木々が葉をつけて伸びてくるとこの藪にはおいそれと入れなくなるだろう。棘のある木も多い。今のこの空間をたっぷり味わっておこう。
さて、しばらく花見を楽しんだので、山頂へ挨拶に行ってくることにする。山頂の周囲にもカタクリの群生地が広がっている。山城があったという広い山頂の縁にはアブラチャンが霞のように花を広げている。青い色が多くなってきた志賀方面の山が春の太陽の下に霞んでいる。のどかな春の風景だ。