コロナのオミクロン株は感染者数が減らないけれど、世の中は春休み。孫たちが遊びに来るが、人が集まるところや屋内での活動は避けようと思うと、山歩きや街中散策をすることになる。
大好きな蕎麦を食べるのも、時間をずらして混み合う前の開店一番に飛び込んで食べることにする。
昨年は来ることができなかった孫たちが、今年は順番に顔を見せてくれた。最後にやって来た大学生は、じっとしていることが好きではないと言い、たった3日の間に長野駅まで往復したり、旧街道を歩いたり、裏山の麓めぐりをしたり毎日よく歩いた。
ようやく暖かくなったので、雪はかなり溶けている。蕎麦屋さんに一番で飛び込んで、早お昼を食べてから頼朝山方面へ向かって歩いてみた。暖かくなってきたとは言うものの遅くまで雪が残っていたからか、まだ緑の芽吹きは少ない。
雪が消える前にもう一人の孫とたくさん歩いていたので、さらに探索路を膨らませて森の中や、細い道にも踏み込んでみたりした。市立図書館の庭に毎年春一番に花開くロトウザクラを見に行ったけれど、残念ながらまだ開いてはいなかった。そのまま西に向かい県庁の近くにあるひまわり公園を通っていく。中央に大きな針葉樹が立っていて、夏には気持ち良い木陰を作ってくれることだろう。周りの地面にこの木の実らしい扇型の皮のようなものが散らばっている。これは何の木だろう。丸い形のまま落ちているものを拾って見ると薔薇の花のようだ。これはヒマラヤスギではないだろうか。
県庁通を横切ってさらに西へ行くと、ポツンと『信濃の国発祥の地』と書かれた柱が立っていた。長野県人にとっては心の故郷のようだと言われる歌だ。ここから少し歩くと妻科神社がある。
お寺と神社の関係は複雑でよくわからないことが多いというのが本音だが、妻科神社は湯福神社、武井神社と並んで善光寺三社鎮守なのだそうだ。明治時代に行われた神仏分離と、廃仏毀釈の歴史とが絡まり合って、研究者の文をちょっと齧ったくらいでは首をかしげるばかりだ。壊された仏像などを見るとその時は実感が強まるが、現在のようにさまざまな宗教が混在する社会では忘れて過ごしている。
人が長い年月をかけて築いて来た文明は、自然の力の前ではあまりにも脆いものだということを近年の災害を見るだけでも思い知らされるのに、輪をかけて人災を重ねようとするヒトとは何だろう。世界中で戦いが絶えない。その理由の一つに宗教もある。宗教は弱い人間を救うはずなのだが・・・。
難しいことを考えても解決できないことは苦しい。体を動かそう。一回家に戻ってから再び孫と小丸山を目指した。大峰沢の水は滝のように流れている。雪解けが進んだのだろう。もう大丈夫だろうと登っていくと、目の前に竹が壁を作っていた。今年の雪は竹を押し潰したらしい。しなった竹が折れて重なっている。その下にはまだ雪も少し残って凍りついている。ここをくぐり抜けるのはなかなか大変だが、何とか抜けた。
抜けてしまえば、すぐ小丸山公園だ。まずは中央に盛り上がった山頂に立つ。そして、切り払われて見晴らしが良くなった四阿に行ってみる。青空の下に善光寺平が広がっている。志賀高原から菅平の山々が眩しい。「あの山はみんな長野県?群馬県はどの辺?」と孫が聞く。山頂稜線は群馬との県境が多い。四阿山、根子岳、横手山などの峰々を指差す。「あの奥に真っ白に見える白根山は群馬県だよ」「群馬県、意外と近いんだね」。新幹線で通って来たから、実感が湧くのだろう。
しばらく見晴らしを楽しんでから、妙法寺にお参りする。お寺は開いているので二人で手を合わせる。
さて、帰ろうかと思ったが、まだ歩き足りないらしい孫と物見岩まで行ってみることにした。歌ヶ丘の歌碑などを見ながら登っていく。森の中はまだ芽吹きが少なく春は遠い感じだ。ホオノキの落ち葉が白く散らばっている。二つ穴を開けてお面にしてみる。3歳の孫と一緒に高尾山に登った時のことを思い出した。「ホオノキのお面を面白がっていたね」「え〜、覚えていないよ」「そりゃ3歳だもの」などと笑いながら歩く。
「猪出てこないかな」「いや、それは怖い」などと話しながら物見岩の下まで行く。ここでも普段はチョロチョロと流れているくらいの水路がしっかりした流れになっている。あちらこちらで水の流れが目に入るのは、今年の雪の多さを物語っている。
蜂の巣や乾燥したキノコを拾って見ていると、あまり虫が好きではない孫は「どうしてそんなものが面白いの?」という顔をして見ている。それでいて、木の幹にぼこぼこついている粘菌を見つけて「ここにあるよ」などと教えてくれる。
過ぎたことは忘れていくのが自然だけれど、どこかに過ごした時間の濃さが沈んでいくのかもしれない。
来た日は早朝バイトを済ませてから出発、帰る日は夜遅く着く新幹線と、孫は3日間をフルに活動して日常へ帰っていった。