志賀高原と言えば、広大なスキーエリアというイメージが強い。私たちも神奈川に住んでいる頃、休日の早朝に家を出て、渋滞の都心エリアを越えて訪れた。北は奥志賀高原から、南は横手山まで、度々訪れては楽しんだ。
長野に引っ越してから、近くなったのに何故かスキーシーズンに訪ねたことはないのだが、ハイキングを楽しみに訪れるようになった。
志賀高原はユネスコエコパーク(生物圏保存地域)に指定されている。私が尊敬していたコンサベーショニスト柴田敏隆氏(1929−2014)が提唱されていた『自然と人間の共生』、エコパークの目指すものはまさしくそれだ。山ノ内町のホームページには『生態系の保全と持続可能な利活用の調和(自然と人間社会の共生)を目的』にしているとある。
私たちが今回歩いた焼額山は、保護を目的とする核心地域(志賀山周辺)ではなく、それを取り囲む緩衝地域、保護と活用の両立を目指す地域の中にある。
スキー場を懐に持つ山はゲレンデを歩いて登る部分が多いことがあり、私はゲレンデ歩きがあまり好きではないので、少し敬遠気味。けれど、焼額山の山頂には湿原が広がっているというので、いつか登ってみたいと思っていた。
信州中野を過ぎ、志賀高原に入っていくと、緑が明るい。木々の織りなす緑が様々な光を返して、どこまでも奥が深い。緑のシャワーとか、森林浴とか、最近よく耳にする言葉だが車で走っていても実感できる。
国道292号線から奥志賀方面に向かう県道471号線に入り、懐かしいいくつかのゲレンデの下を通って進んだ。
焼額山の駐車場には先客がいて、7、8人の男女がリュックを背負ったままラジオ体操をしている。私と夫は靴を履き替え、登山口を目指して林道を歩き始めた。
5分も歩かないうちに登山道の標識がある。ここから深い森の中を登り始めるのだが、地味な標識だったからか、ラジオ体操をしていたパーティの数人は見逃して通り過ぎてしまったようだ。仲間に呼ばれて引き返してきた人たちの声を後ろに聞きながら、私たちは一足先に行く。しばらくは越したり越されたりしながら歩くことになった。
登り始めてしばらくのところで、大きな木の根もと近くに小さな花を発見した。緑色で、目立たないが、クリーム色の唇弁にアクセントのような深紅色がかわいらしいランの花。10㎝ほどの茎の根元に1枚の葉がついていて、イチヨウランという。
ランの仲間は自然の中で群落になっていることは少なく、孤高の花というイメージなので、出会えると嬉しさがひとしおだ。夫と二人であっちからこっちから写真を撮ったが、小さいのでなかなかうまく撮れない。花を見つけると写真を撮り、見晴らしが良いと写真を撮り、私たちはのんびり登山だ。
カラマツの森かと思うとカンバの明るい森になり、林床にはマイズルソウがびっしり生えている。傾斜もきつくなく、落ち葉の厚さは一体どれくらいだろうと思わせられるフカフカの登山道はとても気持ちがよい。歩くにつれて、森にはブナも見えてきた。ブナの森はどうしてこれほど気持ちが良いのだろう。空気が洗われているのだろうか。役に立たないと言って沢山伐採してしまったという過去を悔やんでいても仕方がないから、せめてこれからは大切にしていきたいものだ。最近は保水力にも注目されている。
足元にはゴゼンタチバナが咲いている。雪が残っている窪みもある。
一回ゲレンデに飛び出したが、すぐまた山道に入る。高度が上がるにつれ、針葉樹の森に変わっていく。オオシラビソだろうか、下に流れるような枝振りには物の怪の存在を感じさせられる。しばらく森歩きを楽しむと再びゲレンデに出た。
残念ながら遠くは霞んでいて、せっかく見晴らしの良いところに立っているのに、展望はあまりない。すぐ近くに昔登った岩菅山、最近孫と歩いた東館山が見える。さらに少し霞んで横手山、そしてポッコリと盛り上がる志賀山も訪ねたのはもう数年前だ。いくつもの歩いてきた山が見えるのはなんだか嬉しい。
見おろすと志賀のホテル群が見える。濃い緑の中に落ちついた色合いで、妙な言い方だが、ヨーロッパの美しい村々を彷彿とさせる。
ゲレンデの淵にはネマガリタケが茂っているが、その根元にはツマトリソウが純白の花を開いている。ツマトリソウを見ると、目を見開いている少女を思い浮かべてしまう。私の中では清楚でありながらカッチリとしたイメージが定着してしまっている。
ゲレンデの右に左に、山道が整備されている。標識はないが、登山道以外はネマガリダケがびっしり覆っているから、開けているところに入ればよい。もう山頂近く、針葉樹が増えてきた。数日前の強風の影響だろうか、枝が沢山折れて落ちている。倒木も何カ所かあった。針葉樹林に咲くというイチヨウランが一カ所に群れて咲いているのを発見、大喜び。そして、森の妖精ミツバオウレンもびっしり咲いている。タケシマランも小さくて見落としてしまいそうな地味な花を沢山ぶら下げている。雪解け後の水が残っているところにはイワナシがピンクの花をつけて、これまたどこまでも登山道の淵を飾っている。
木道が出てきた頃には、ショウジョウバカマ、ミズバショウもまだ咲いていて、目を喜ばせながら広くなった空の下を行くと、もう山頂湿原に飛び出した。思っていたより広い稚児池からはカエルの合唱が聞こえる。晴れていれば北アルプスも見えるという湿原を行くと、ワタスゲが揺れ、ヒメシャクナゲがポツポツとピンクの玉を掲げている。イワカガミはようやく少し花を広げ始めている。
枝を垂れて立つ、濃い緑のオオシラビソに囲まれて湿原は静かだ。乾燥してきているのだろうか、木々の下には笹が茂っている。これもネマガリダケだろうか。2000メートルを越すところにもびっしり茂っている生命力の強さに驚く。
目を上げると、きれいなピンク色の塊が誘うようにあちこちに点々としている。ムラサキヤシオの花だ。蕾もたくさんあるから、これからみごとだろう。横に伸びた枝に純白の花を乗せているのはオオカメノキ。この花も大きくて目立つ。
気持ちのよい湿原を一巡りしてみよう。湿原を一周する木道を歩いていたら、ゲレンデに出た。ここは奥志賀高原スキー場、懐かしい。最上部のリフトによく乗った。なだらかなコースだが、見晴らしが良いので、このゲレンデで時間をつぶしていたことも多い。私たちがスキーに通っていた頃はスキー人口が多く、リフト待ちの時間も長かったことを思い出す。
さて、稚児池のほとりでお昼にしようか。我が家の茗荷みそ漬けを混ぜ込んだおにぎりをほおばる。美味しい。昨年採れた茗荷の漬け物だ。もう少しで今年の茗荷が顔を出すだろう。
おしゃべりをしながらおにぎりを食べ、後はゆっくり来た道を引き返すことにした。ゲレンデ歩きを覚悟していたけれど、思ったより自然の森の中を楽しめた山歩きだった。