家にいてゴロゴロしているとどこか調子が悪くなってくる。山道を歩き、森の空気を吸うと途端に元気になる。こういうのをなんと呼ぶのか知らないが、私たち夫婦は、まさしくそれだった。
5月の連休になると色々なところが混雑するから、その前に湿原の花を見に行ってこようと出かけた。斑尾高原のふところにある沼の原湿原には昔行ったことがある(当時は斑尾高原原生花園といっていた)。小学生の娘との二人旅で、ペンションに泊まり、沼の原湿原、希望湖(のぞみこ、別名沼池)辺りを一日ゆっくり歩いた。真夏だったので、巨大に育ったおばけ水芭蕉(水芭蕉の葉)が風に揺れていたのを覚えている。
斑尾高原は、何度訪れてものどかな広々した空間が爽やかに迎えてくれる。長野から北上し、牟礼駅の前で国道18号を突っ切ってさらに北上、上信越自動車道の下をくぐって行くと、いよいよ斑尾山のふところに入っていく。
『まだらおの湯』に向かって登り始めると、道の両側にはまだ雪が積もっている。日影に残る程度だろうという予想は大きく外れ、かなりの量の雪だ。期待と不安を抱きながら斑尾山への道を登り、ホテルの前を右折、希望湖方面に向かう道に入った途端一気に雪が増えた。道の両側は雪の壁。
「立山黒部アルペンルートまで行かなくても、雪の壁の中を走れたね」とは夫。私が行ってみたいと日ごろ言っているので。
「でも、ちょっと壁が低いんじゃない?」と、私。それに、汚れているし。
とは言っても、ずっと続く雪の壁は圧巻だ。高さは場所によって異なるが、高いところは2メートルを越えている。左に折れ、沼の原湿原への道に入る。雪の中の恐いような道をしばらく走ると、行き止まりになってしまった。そこから先は道路が雪に埋まったまま。
仕方ないので、引き返し、希望湖をめざす。確か、希望湖から歩いてもそれほど遠くはないはずと、予習してきた夫は言う。
雪はどんどん多くなり、道の周囲は雪の原。希望湖の駐車場は数台分だけ雪かきがしてあったので、ホッとしてそこに停める。停まっているのは、わが家の車だけ。
車道を歩き始めると、道の右下に広い沢が見え、水の流れの中にはたくさんの水芭蕉が顔をのぞかせている。私たちは大喜びで、一気に元気が出た。遠くに見える水芭蕉を撮影しながら、のんびり歩き始める。
希望湖のほとりに出ると、湖面はまだ凍っていた。真っ青な空と広い冴え渡った空気を反映しているのか、湖面は神秘的な淡いブルー。氷が厚いのか、積もった雪がまだ残っているのか、中央部は白いが、その緩やかな白とブルーの重なりが対面にそびえる斑尾山の下まで続いている。しばらく、希望湖のほとりで写真を撮ったり、眺めを楽しんだりした後、いよいよ沼の原湿原をめざして行くことにする。
希望湖のボート小屋の手前から雪に覆われた道が見え隠れしている。残雪期の山は、雪の性質を知っていれば、夏山よりむしろ歩きやすい。ただし、天気が良くないと、素人には危険が大きい。幸いに今日は絶好のお山日和。真っ青な空がとても高い。
私は雪山には登らない(一応、身の程をわきまえて)が、新潟の豪雪地帯で育ったので、雪とは様々なやりとりをしてきた。雪が溶けたいときどんな顔をするか、まだまだここで固まっていたいときどんなふりをするか・・・、言葉にするのは難しいけれど、雪に聞くと分かることも多い。
私たちは、雪の道を進んだ。少し行くとすぐ下に沢が見え、一面の水芭蕉だ。周囲は雪に囲まれているが、水はもうぬるんできているのだろうか。けれど、雪の中の水芭蕉は、まだ白い花穂を開いていないものも多い。
青い空に白樺がそびえて美しい森の中をさらに奥へ進むと、もっと大きな沢が開けていて、ここも緑と白のコントラストが輝いている。沢べりが広くなっていて近づけそうなので、ゆっくり下りていく。水芭蕉はさっきの沢より大きく育っている。とても見事な水芭蕉群なので、大満足。
この、名も無き沢筋でもこれほどきれいなのだから、沼の原湿原はいったいどんななのだろうと、私たちの気持ちは先へ引っ張られる。
一旦下りたので、このまま沢筋を行くことにして歩き出したら、いきなり目の前の木の枝がポンッとはじけた。枝の先が雪の重みで埋まっていたのだけれど、今日の暖かさで溶けて、開放された枝が持ち上がったのだ。びっくりしたけれど、自然の中では当たり前のこと。その後も何度か木に驚かされた。
沢筋をしばらく行くが、だんだん狭まってきたので、岸の方にあがる。夫が急いでブッシュの近くを通ったら、ズボッと雪に足が取られた。大きな穴があく。一面の雪のようでも、大地は春の準備をしているのだ。南斜面で日当たりのよいところは、木の周りが溶けて地面が見えてくる根開けが進んでいる。
少し開けた雪の斜面を横切っていくことにするが、気温が上がってくるにつれて雪がくさってきて、滑りやすくなってきた。こんなことと分かっていたら、アイゼンも持ってきたのに・・・と言いながら気をつけて進む。
地図で見ていた沼の原湿原への車道らしい道が見えてきた。深い沢を覆っている雪溜まりを越えて、車道に出た。まだまだ雪に覆われているが、南側の道路の縁は溶けて、フキノトウがたくさん芽を出している。少し進んだ斜面にはアズマイチゲやキクザキイチゲの花もちらほら咲いている。そして一面コゴミが丸い芽を出していて、「ここはコゴミ畑みたいだね」と笑った。
広い雪面では見られなかったが、道路に残る雪面には鹿の足跡が続いていた。ウサギの糞はコロコロと色々なところに転がっていたけれど、足跡は気がつかなかった。可愛いのは小さな穴があいている胡桃、たくさん落ちていた。リスかネズミの食痕だろう。
道路の近くの森に初めて標識を見つけた。沼の原湿原まで1.3キロとある。しばらく歩いてみたが先は長い。潔く引き返すことにした。気温が上がったので、さっき越えた沢の雪が緩くなって渡れなくなってしまうのが恐かった。そろりそろりと沢を越えて、ホッとした。
帰り道は気が楽だ。自分たちの足跡が残っているから、そこをたどっていけば良い。それでも往きには気づかなかった発見がある。ぽっかり空いた雪の穴をのぞき込むと、勢いよく雪解け水を集めている小さな滝がある。近づき過ぎると、雪を踏み抜いて沢に落ちそうだ。少し遠くからのぞき込んでみる。私たちの目に見えないところで動いている自然というものを強く感じる。
イチゲの花の写真を撮ったり、青い空の写真を撮ったりしながら帰り道を行く。もちろん再び水芭蕉の咲く沢で、しばしの時を楽しんだのは言うまでもない。
希望湖のほとりの高台に登ると、目の前に妙高山が大きくそびえていた。後ろにはまだ真っ白い火打山も見えている。高山植物の美しい、かの山々にまたいつ登れるだろう。
山々にしばしのお別れを言って、私たちは車に戻った。
余談だが、その夜の食卓はコゴミのおひたしと、蕗味噌で舌鼓。