瑞牆(みずがき)山は深田久弥の名著『日本百名山』に選ばれている。遠くから見える山容は巨大な岩が天へ向かって背伸びをしたような形で目を惹く。たくさんの岩が背比べをしているようにも見える。
ずっと昔、まだ独身の頃の冬に奥秩父の名峰、金峰山に一人で登った。その時はちょっとしたご縁で、信濃川上の奥、川端下(かわはけ)から西股沢をつめて登った。11月も末というのに、下の沢に熊が動いているのが見えた。高度を上げていくと、小川山のどっしりした姿と、瑞牆山の繊細な岩の造形が見えてきた。金峰山も瑞牆山も山梨の増富から登る人が多かったから、山頂の小屋に至るまで誰にも会わなかった。山頂は霧氷のお花畑だった。
夫と瑞牆山に登った季節は初夏。秩父の山にはシャクナゲが多い。金峰山に登った時、山小屋の主人に「今度はシャクナゲの季節に来なさいよ。それは綺麗だから」と何度も言われたのを思い出す。6月の週末、忙しさを頭の隅に追いやって、エイヤッと出かけた。
朝6時半に家を出る。仕事へ行く時とさほど変わらない。高速道路を走って山梨へ。須玉インターを降りると県道23号線を増富温泉へ向かって走る。温泉峡を通り、さらに登って瑞牆山荘まで約3時間の道中だった。身支度を整えて歩き出したのは9時45分。
歩き始めは深い森の中の道。緑が濃い。歩いていると汗が滲んでくるが、高原の木陰の空気は爽やかだ。思ったより遅くなってしまったので、森の中で朝ごはんを食べることにした。ゆっくりしたいところだったが、早く岩峰を見たいという思いに逸り、10分ほどで食べて、再び歩き出す。樹林の中の道を下っていくと天鳥川(あまとりがわ)の河床についた。
雨の後は怖いけれど、晴れていれば川の渡渉は楽しい。飛び石を渡って対岸に行く。対岸の森の中にいきなり現れたのは大きな丸い岩。桃太郎岩という名前の花崗岩の岩。如何にも桃太郎が飛び出したかのように、中央が真っ二つに割れている。どうしてこのように割れたのだろう。なかなか興味深い巨岩だ。
倒木をくぐったり、樹林の静けさを楽しんだりしながら高度を稼いでいく。
森の中の道は長く感じた。仕事の疲れが溜まっていたのかもしれない。黙々と登るが、なかなか景色が変わらない。針葉樹の原生林にはコケが密集している。高原には群生していることが多いマイヅルソウが苔の間にポツリポツリと咲いている。純白のかわいい花だ。 さらに歩くとだんだん岩が多くなってきた。そして木々の向こうに山頂が見えた。あそこだ、山頂が見えると急に元気になる。道端の岩の上に登って遊んだり、岩の上を散歩したりしながら登る。
山頂に近づくにつれ、待望のシャクナゲの花が見えてきた。大喜びの私たちは写真を撮っては足を止め、見事に開いていると言っては立ち止まり。なかなか前へ進まない。瑞牆山に登った頃はアズマシャクナゲとハクサンシャクナゲの区別が分かっていなかったけれど、この山に咲くのはアズマシャクナゲと聞いていたので、疑わずただそう思って見ていた。葉のつき方や花の中に緑色の斑点があるか無いかなどいくつかの見分け方があるとはその後学んだ。
見事なアズマシャクナゲのトンネルを登っていく。岩がゴロゴロしている急登が続くけれど、花の中の道は疲れを感じさせない。
周囲には岸壁がそそり立っている。ふと見ると、巨大な塔のような岩の垂直の岸壁を登っている人がいる。あれが大ヤスリ岩だろうか。
全く真っ直ぐ谷底へ切れ落ちている壁だ。すごいねと見ている方が唾を飲む。小さく見える人はゆっくり真っ直ぐ天に向かって登っていく。
私たちも行こう。岩を縫うように登り、北からの登山コースとの分岐を越えて一息頑張るとようやく山頂に飛び出す、午後1時。大展望が広がる瑞牆山山頂だ。花崗岩の岩が積み重なったような山頂はなんだか恐竜の背中みたいだ。その背中に立つと、隣の金峰山、小川山が左右に見える。振り返れば八ヶ岳、南アルプスと雄大な風景が広がっている。夏の霞が厚く、晴れているのに今ひとつクリアで無いのが残念だったが、どこまでも続く空と、その下の緑なす山並みを見ることができるのは頂に立つことができたからと感慨深い。
山頂標のところでシャッターを押してもらったが、人気の山らしく周囲には人が絶えない。ふと見ると、大きな丸い団子のような形の山頂標もあったので、そこでまた記念撮影をした。次にまたいつ来ることができるか分からない、撮っておこうと笑いながら。
それにしても沢山の人が登っている。良い季節なのだろう。シャクナゲの咲く秩父の山は魅力的ということだ。人で溢れる山頂だけれど、気持ち良い見晴らしの中で座ってゆっくりお昼を食べることにした。朝早く家を出たので、買ってきたおにぎりだけれど、山の上の気持ち良い空気が最高の調味料だ。私たちは岩の端に座って周囲の山々の山座同定をしながらおにぎりを食べた。
座っていたら、なんと足元の狭い岩の隙間を登ってきた人がいてびっくり。ここも垂直の岩登りのコースだったのか、谷底へ一直線に落ちていると思っているところから頭が出てきたからほんとに驚いた。
ずっと遊んでいたいとは思うが、そろそろ帰ろう。2時になる前に腰を上げる。下りは来た道を戻るだけだから気が楽だ。1時間ちょっとで天鳥川出会いに到着。沢の涼やかな空気に思わず深呼吸して、登り返す。瑞牆山荘に着いたのは午後4時。朝も昼も簡単に済ませたので、山荘で軽く蕎麦をいただき、コーヒーを楽しんだ。
1時間ほどゆっくり過ごして帰路に着く。秩父多摩甲斐国立公園と、立派な看板が立っている公園で、最後の名残を惜しみながら車に乗る。翌日は日曜日だから、気分はかなり楽だ。遅くなっても大丈夫。少し渋滞はあったが、夜9時には我が家に帰り着くことができた。