所用で秩父へ出かけることになった。秩父鉄道に乗る予定だ。新型コロナウィルスが蔓延してから県外へ出かけることはほとんどなくなった。まして公共交通機関を利用して出かけることはなかったから、ちょっぴりドキドキワクワク。
秩父といえば、岩山が多いねとすぐ山の話になる。奥秩父の瑞牆山も乾徳山も岩登りのスリルがあった。「瑞牆山は有名だけれど、私は乾徳山の方が好き」と言えば夫が「どっちも面白かったよ」と言う。
仕事で忙しかった頃はゴールデンウィークが嬉しかった。乾徳山へ登ったのは5月3日。ゴールデンウィークの真ん中だ。朝まだ暗い3時半過ぎに家を出る。八王子バイパスを通り、中央高速道路に入る。塩山勝沼線から国道140号線、乾徳山線を登って登山口に着いたのは6時20分。
徳和渓谷入り口から登り始める。森の中を少し歩いて7時頃、お腹も空いてきたので朝ごはんを食べることにした。幸いお天気は良さそうだ。冷えた山の空気が気持ち良い。
沢から登り始めた道にはコガネネコノメソウが控えめながら凛とした姿で迎えてくれた。森に入ると白い小さな花が林床を飾っている。
あまりに小さいので見落としそうだ。ヒメイチゲかと思ったが、葉が違う。ワダソウならば花びらが桜のように凹んでいるはず。これはワチガイソウだ。ナデシコ科の花、大きく括ればハコベやミミナグサの仲間だ、そういえばどこか似ている。春のひととき、陽の光を浴びて咲く花をスプリングエフェメラル、春の妖精と呼ぶ。その花に出会えるのは早春の幸せ。
あまりのんびりしていられないので、食べ終わると早速歩き出す。国師ヶ原を過ぎ、黙々と登っていくと広々とした草原に到着。ここが扇平。ここまで朝ごはん休憩を含めて2時間半だ。
まだ草が冬枯れの、広々とした空間の向こうに富士山が見える。そして南アルプスの峰々は白く雪を纏っている。5月の高山はまだ冬なのだろう。街ではもう春の終わり、夏の準備が始まろうかというほど暑い日もあるが、山の空気は清涼でいかにもまだ早春の気配だ。
ここでしばらく休んで気持ち良い風景を眺める、スケッチブックに山を写したりこれから行く道の地図を眺めたりして時を過ごす。それでも20分ほどで腰を上げる。まだまだ登りはこれからだ。
まだ芽吹きには時間が必要な森の中に入る。しばらく森の道を登るといよいよ岩が立ち上がってくる。岩の造形を楽しむかのように鎖場は続く。狭い岩の間を潜るように抜けたり、岩の橋のような上を歩いたりしながら進む。
乾徳山と言えば山頂直下の巨大な岩壁が有名だ。いくつかの鎖場を越えていくと、目の前に立ちはだかる。下から見上げると垂直に見える。どこに足掛かりがあるのかと思える巨大な岩、高さは20mとガイドブックに書いてあった。一枚岩のようだ。
これを登らなければ山頂には行けない。頑張ろう。まず夫が登る。下から見あげて、「足、右」とか「右手上、3点支持」とか大きな声をかける。登る方は必死だから聞こえているのかいないのか・・・。途中の大きな岩の出っ張りに腰をかけるようにして一息入れ、あとは一気に登った。ふう〜。夫の後を追うように私も登り、山頂へ。
飛び出した山頂はまさに絶壁の上、360度の展望が広がっている。
富士山、南アルプスは言うに及ばず、甲武信岳から埼玉県の最高峰三宝山へ続く稜線、遠く金峰山の五丈岩も小さく見えている。
汗を流して山頂に立つ、喜びはひとしおだが、どこまでも続く山並みを見ていると人間のちっぽけさを強く感じる。山々は寄せては引く波のように迫ってくる。
岩に座り、周囲の山を見渡す。空気の動きを感じる。言葉はいらない。ボソリと一言呟いてはまた遠くに目をやる。30分ほどそうしていただろうか。山を降りるときはいつもそうだが、もっといたいと思いながら腰を上げる。今日のうちに帰らなければならない。
違う道を歩いてみようと意見が一致。裏にまわると、梯子がかかっている下にまだ雪が積もっていた。私たちは雪国育ちだからか、雪を見ると嬉しくなる。足取りも軽くどんどん降りていく。
山頂の下をぐるりと回るように道は続いている。見上げるとさっき立っていた山頂がとんがった岩のように見える。鋭い岩峰という感じだ。あの上に立っていたんだねと顔を見合わせる。
ここからは深い森の中に続く道だ。バイカオウレンの白い花が点々と咲いている。オウレンの花は何種類かあるが、春を告げる花、純白の花が森の中に散らばっている様子は星が落っこちてきたような眩しさだ。苔むす森の中を歩いているとそこかしこに小人が遊んでいるような幻想的な気分になる。マムシグサが群生して芽を出している。空に向かって突き刺すようにのびる様子は勇ましい。
カラマツの新芽がポツリポツリと顔を出しているさまも面白い。
ぐるっと山の懐を回って、国師ヶ原に戻ったのは山頂を降りてから1時間40分。誰もいない森の道を歩くのは妖精と共にいるようで心躍る楽しさもあるが、朝早かったこともあり、少しずつ疲れが出てきた。まだ花は少ない。スプリングエフェメラル、春の妖精も眠りから覚めた早起きの花がポツリポツリと顔を出しているくらい。一斉に林床を彩るのはこれからだろうか。
沢筋の斜面には綺麗なグリーンの葉が芽吹いている。コバイケイソウかな。大型の花だから、咲けば見事だろう。しかし、この花が咲くのは初夏、まだまだ先だ。
森の中に落ちている松ぼっくりを拾いながら歩く。孫へのお土産だ。動物に食べられた痕がわかるエビのしっぽと呼ばれるものも面白いから拾っていく。町の中ではなかなか見られないが、これも松ぼっくりだ。
国師ヶ原からさらに歩くこと1時間20分、ヤマブキの黄色が森を彩るようになるとようやく徳和渓谷の林道に出る。入り口の草原に地元の男性が野草を並べていた。ワラビや木の芽を売っているらしい。年配の男性は、落ち葉を集めたり、森の山菜を取ったりしているようだ。あまり商売気がなく「まぁ、よかったら食べてみなよ」という雰囲気が気に入ったので、買ってみた。
あとは15分も歩けば駐車場だ。来た道を戻り、家に着いたのは夕方の5時になろうとする頃だった。
ワラビのおひたしと木の芽(コシアブラかな)の天ぷらは、翌日の夕食のテーブルに乗った。