若い頃は、単独登山が好きだった。槍ヶ岳も北岳も一人で登った。「花を見るために山へわざわざ登るの?」などと言っていた夫が一緒に登るようになって、昔一人で登った山に二人で再び訪ねることも増えた。夏休みを利用して東北を回ってこようと、その第一歩に早池峰山に登ったのが、始まりだったかと思う。
私たちはなぜか東北の山に心惹かれる。標高こそ、アルプスほど高くはないけれど、それぞれの山が独立峰の風格を持ち個性的だ。ただ、麓までのアクセスが不便だったり、住んでいた首都圏から遠かったりして、おいそれとは近寄れないというところでもあった。
夏休みの1週間を利用して、晴れますようにと願いながら出かけた。計画段階では早池峰登山は予定に入っていなかったが、往きの道程にゆとりができたので「登ってこようか」ということになった。
早池峰山 1917m 8月5日 | |
乳頭山(烏帽子岳)1478mと千沼ガ原 1379m 8月6日 | |
秋田駒ケ岳(女目岳 1637m、横岳 1583m) 8月7日 | |
八幡平 1613m、源太森 1595m 8月8日 |
深田久弥の『日本百名山』にも選ばれている名山、早池峰山は、ハヤチネウスユキソウが咲くことでも知られている。
私はその花を見たくて一回登っている。その時は仕事の都合がつかなくて、8月後半になってしまったのでもう遅いかと思ったが、数輪咲いているハヤチネウスユキソウに会うことができた。人気の山かと思っていたのに、誰にも会わなかった。たった一人で河原の坊登山道を登り、スリルある岩場、さまざまな形に突き出した巨岩にワクワクしながら山頂に着いた(平成28年の豪雨で登山道の一部が崩壊し、河原の坊コースは現在通行禁止になっているそうだ)。その日は山頂の避難小屋に泊まるつもりだったので、小屋に荷物を置き、山頂付近を散策していたが、山頂に林立する像や剣などが不気味で、一人きりの山小屋が不安になってきた。しかも天気が下り坂になっていたので、暗くなる前に小田越まで降りることにした。そしてその日は小田越山荘(避難小屋)に泊まった。小屋は広く、数組の登山者と共に夜を過ごした。
今回は車で一気に小田越まで入ってそこから往復することにした。前日は午前中仕事があり昼過ぎに神奈川を出発、福島のホテルで泊まった。しっかり眠って6時半頃出発、登山口に着いたのは10時半だった。
途中の川原でゆっくり休み、風景を堪能して山頂へ。しばらく登ると大きな岩がゴロゴロしている岩塊斜面になる。急な梯子場もあり、スリルとワクワク感を楽しみながら登る。この辺りはもう森林限界を超えているが、早池峰山の森林限界はこの山の位置や気候から考えられるより700メートルほども低いところになるらしい。だから、高山帯の植物、湿原などを楽しむことができる。途中の、岩が重なり合ってできたような岩の割れ目は胎内くぐりと言うが、その岩の穴を覗いたり、御田植場の湿原で花を探したり、楽しむところはたくさんあった。
もちろん楽しみにしていたハヤチネウスユキソウにも会い、タカネシオガマやハクサンチドリなど花々の見事さに歓喜。
この山には他の山では見られない植物が多いが、それはカンラン岩という特殊な岩で構成されているから。超塩基性のカンラン岩は蛇紋岩の仲間で、この特殊な地に育つ珍しい植物を総称して『蛇紋岩植物』と呼ぶそうだ。ハヤチネウスユキソウ、ナンブトウウチソウ、カトウハコベなど。
花々を楽しみながら、1時半に山頂に着いた。それにしても登る人が少ないのはやはりアクセスの不便な東北の山だからだろうか。
1時間近く山頂でのんびり過ごし、再び来た道を引きかえす。小田越に帰り着いたのは4時半、そこから盛岡のホテルまでは1時間10分ほどかかった。
翌日は県境を超えて秋田へ。田沢湖の淵を通って奥へ進み、秘湯として人気の高い乳頭温泉に向かう。ここに宿を取りたかったのだけれど、満員でダメだった。秘湯ブームとかで、かなり前から予約をしなければ無理とのことだ。せめて雰囲気を味わおうと、鄙びた温泉宿の前の駐車場に車を停める。盛岡から1時間半、乳頭温泉の宿の前から歩き出したのは8時20分だった。
鬱蒼とした森の中を2時間も歩いて田代平の湿原に飛び出す。三角屋根の田代平山荘(避難小屋)が建っている。木道が敷かれた広々とした湿原は、それまでの鬱蒼とした森から来ると別天地だ。雲は動いていたが、下に田沢湖、その隣に大きく秋田駒ヶ岳が聳えているのが見える。遠く雲の上に三角の岩手山が見えている。
どこまでも広々とした緩やかな山並みが続く。緑の大地は果てるところがないような気さえする。しばらく頑張って歩くと、狭い乳頭山の山頂に到着、11時20分。名前を見ればわかるように、乳頭山の頂は緩やかな盛り上がりの真ん中にぽっつりと小さな出っ張りが飛び出している。山頂で少し腹ごしらえ、一息つく。
しかし、ここで終わりではない。私たちの目的はさらに奥の千沼ガ原。荷物を背負い直して乳頭山を下っていく。一面のお花畑の中の道はなんだか現実ではないような心地よさだ。ニッコウキスゲの群落は明るいオレンジ色に輝いている。
奥深い山の中を1時間ちょっと歩いて千沼ガ原の入り口に着く。輝く池塘が散らばる中をゆっくりと楽しみながら散歩だ。
この旅の大きな目的は千沼ガ原に行ってみたいというものだったから、私たちは大満足。最初に千沼ガ原に行こうと言い出したのは夫だ。『山歩きの自然学–小泉武栄著(山と渓谷社)』を読んで、日本で一、二を争うという高層湿原を見てみたくなったのだ。高層湿原というのを、ずっと昔は標高の高いところにある湿原と誤って思いこんでいたのだが、枯れたミズゴケなどが腐らずに堆積してできた泥炭層が盛り上がってできた湿原のこと。雨水による涵養がほとんどなので、貧栄養の湿地を好む花が咲く。
湿原の花は控えめな感じがする地味なものが多いが、水の煌めきとともに広がっている光景は息を呑むようだ。ミツガシワの葉がたくさんあったが、純白の花が咲き揃う頃はどんなだろう。想像するだけでワクワクする。
ゆっくりゆっくり一回りして、再び乳頭山を目指して登っていく。後方にはどっしりとした笊森山が聳えている。笊森山を越えて秋田駒ケ岳まで縦走する道もとても魅力的だ。この世の楽園の中を行くようだろう。
山中泊は無理なので、乳頭山を越えて来た道を戻る。2度目の乳頭山に到着した時は午後3時になっていた。長い下りは体力を消耗するが、たくさんの花に慰められて、夕方5時無事車に戻り、盛岡まで走った。ホテルに到着した時は7時になっていた。
2日続けて山歩きをして体は少し疲れていたが、気持ちは弾んでいる。2泊したホテルを出発したのは遅めの7時40分。今日は楽ちんコースで秋田駒ケ岳を歩き、コマクサに会おうという計画だ。田沢湖高原に車を置いて、バスで八号目まで登る。
八合目は整備された広場で、ここからいくつかのコースが山頂目指している。9時40分、歩き出す。取り急ぎ山頂を踏んで、それから周遊しようと考えて歩き出した私たちだが、ふと細い道に誘われて荒れた登山道に入り込んだ。
ここは旧日窒硫黄鉱山跡で、荒々しい灰色の山肌の中に踏み跡はついている(現在このコースは非推奨)。硫黄の匂いが漂い、足元には黄色い結晶も筋になってこびりついている。
「ここは登山道かな」「まぁ、踏み跡はあるから登れるでしょう」などと話しながら岩ばかりの斜面を登っていく。しばらく登ると、藪の中に続く登山道になった。花々が自由気ままに伸びている。そして歩き始めて1時間弱、一面にチングルマが広がる草原、浄土平に飛び出した。目の前には秋田駒ケ岳の最高峰女目岳(おなめだけ)が盛り上がっている。女目岳は別名男女岳とも書く。
早速登る。10時50分、山頂到着。隣の男岳がすぐ近くに見える。雲は多いけれど、360度の展望、今までに登ってきた山が雲の上に頂を見せている。まるで白い海に浮かぶ島のようだ。鳥海山、栗駒山、早池峰山、そして昨日登った乳頭山はすぐ隣だ。岩手山の三角も見えている。下には日本一深い湖(水深400メートルを越す)、田沢湖が見える。
展望が開けていると嬉しくなり、ぐるぐると回りながら山座同定に忙しい。女目岳の山頂はそれほど広くないので、あまり歩かないで体だけを回して、あれは何山、これは何山と指差している。
しばらく展望を楽しんで、今度は横岳を目指す。阿弥陀池に降りて、登り返す。横岳南方の大焼砂は火山砂礫原の斜面。ここはコマクサ群落で知られている。私たちも楽しみにしてきた。山頂から緩やかに降る斜面は一面ピンクだ。駒草は小さくて可憐だが、イワブクロの明るい緑も散らばっていて目を楽しませてくれる。もう少し早い季節なら、タカネスミレの黄色に覆われているそうだが、その姿も見たかったなぁと、欲は限りない。
自然の中に我が場所を得て風に揺れているコマクサの大群落に、どうかいつまでもと想いを込めて別れを告げ、再び横岳に戻り、阿弥陀池から片倉岳展望台への周遊路に向かった。
山頂の西から北へ大きく半円を描くように巻いて行く道は優雅な散歩道のようだ。多雪地に見られる偽高山帯の一角になるだろう。針葉樹林帯が成立しなかった理由は諸説あったようだが、標高が低いにもかかわらず今目の前には確かに高山の趣が広がっている。
八合目から出発する2時過ぎのバスに間に合い、駒ヶ岳をあとにした。今日は北上川に注ぐ雫石川畔の繋温泉に宿が取れたから、ちょっと贅沢に温泉で筋肉をほぐそう。夕方5時前に宿に着いた。
温泉に浸かって、私たちの旅としてはとても贅沢な時間を過ごして、最後の山歩きは今回の目的地では一番北の八幡平を目指す。八幡平はとても広く、ゆっくり楽しめそうな魅力的なコースはいくつもある。しかも山頂近くまで車で上がることも可能らしい。流石に毎日山歩きをしてきたので、疲れも溜まっていたが、やっぱり一つはピークに立って周囲を見回してみたいと思う。茶臼岳から登るコースもいいと話していたが、もう少し近いところに湿原がありそうだ。地図を見ながら車で緩やかなカーブを繰り返して登るうちに黒谷地の駐車場が目に入った。ここから歩いて湿原を抜けると源太森というピークからの展望が良いようだ。迷わず駐車。宿をゆっくり出発してきたので、10時を少し回っている。
湿原の中を歩いていくと、熊の泉があった。やはりこの大きな自然には熊さんもたくさんいるのだろうか。湿原を抜けてしばらく登ると安比岳分岐、そこから一息で源太森のピーク1595mだ。広い八幡平の中でも三つの指に入るという展望の良いところだそうだ。しかし暑い。今日はジリジリと日に炙られているような暑さだ。
展望を楽しむ予定だったがあまり暑いので、一渡り眺めて先へ進むことにした。ここで休んでいた婦人が、気分が悪くなったようで同行したパーティの人たちが世話をしていた。軽い脱水か、高山病か、何かできることがあればと思ったが、慣れている様子のリーダーが大丈夫というので、先へ進んだ。暑い時は要注意だ。
源太森を一気に降ると木道歩き、途中何組かとすれ違う。草原の中をいく道は気持ち良いが、大きな八幡沼が見えてくるとなんだかホッとする。水の持つ力を感じるのはこういう時かもしれない。
八幡沼からガマ沼を通り、山の頂とは思えない平らな八幡平山頂へ到着したのは11時50分。黒谷地を出発して1時間40分、ほぼコースタイムそのままだ。
今回の山旅の中で、初めてたくさんの人に会った気がする。秋田駒ケ岳にも登山者はいたが、幾つものコースに散らばっていて、1箇所に何組もの人を見たのは八合目のバス発着場だけだった。ここ、八幡平の山頂は広く平らで、記念写真用のように大きな山名表示柱が立っている。その脇には大きな展望台もあり、人が集まってくるのだろう。
私たちは早々に引き上げ、再び同じコースを歩いて車に戻った。木道歩きは疲れた体には優しく、広がる湿原に揺れるワタスゲは目に優しい。
傾斜が強くなると、ウサギギクの黄色が目を楽しませてくれる。赤トンボがたくさん飛んでいるのを見ると夏山最盛期だと思う。昔の人は秋と呼んだ風景だろう。源太森で広い八幡平をゆっくり見下ろし、後は一気に黒谷地湿原を進んだ。
車に戻ったのは午後1時、靴を履き替えて10分後には出発、今日の宿は福島県。高速道路をひた走り、8時に郡山のホテルに着いた。
翌日は8時半出発、ただただ走って家に帰るだけ。何時に帰ってもいいのだから、チェックアウト時間まで寝ていようと話していたのに、貧乏性なのか、目が覚めてしまえばホテルの部屋でのんびりしていられない。
福島県まで戻ったから近いと感じるのだが、実はここからも遠い。そういえば、家を出てからずいぶん走って福島県に入る時、『これよりみちのく』という看板が立っているのを見てとても驚いた。「えっ、やっとみちのくに入るのか」という感覚だった。
その遠いみちのくの山旅を終えて、午後2時無事に家に帰り着いた。