突然古い山行を思い出した。
日々の仕事は忙しく、毎日朝早くから帰りも遅くまで、私たちの仕事には終わりがなかった。日々発見があり、発見があればそこに新しいやること(やらなければならないこと)が見えてくる。その連続の中で『自転車操業』だねと自嘲しながらも夢中で日を過ごしていた。
そんなある日、夫が「頂上にオキナグサが群生しているらしいよ。行ってこようか」と言った。たまたま何かの記事で見たのか、探してくれたのか、初めて聞く名前の山に気持ちが膨らんだことを覚えている。私たちはちょっぴり弾んだ気分で出かけることにした。
霧訪山(きりとうやま)は、長野県の中部、塩尻市に位置する。標高が1305mあるが、山国の長野にあっては知る人も少ない里山の位置づけになるようだ。
ずいぶん時が経っているが、山道に入る前に歩いた麦畑の道は今でも鮮やかに思い出すことができる。濃い緑と、若竹色と、黄色が風にかすかに揺れてえも言われぬ緑の海だった。
登山道に近づくとびっくりしたことに、木と木をつなぐ立派な『歓迎名峰霧訪山登山口』と書いた横断幕が掲げられていた。地元の人たちに愛されている山なのだと感心した。
山道を歩き始めると、道沿いの木には名札がつけられ、道は歩きやすく整備されている。後で分かったことだが、霧訪山は地元の小学生が遠足で登る山と言う。稜線の左側は松茸の収穫地になっているようで、立ち入り禁止の看板がありちょっと興をそがれるが、今を盛りの若芽のそよぎが気持ち良く、一気に歩を進める。道の脇にはヤマツツジの濃い赤。頭上にはアオダモやコバノガマズミの白い花、賑やかだ。
足元に目を落とすと、きれいに巻いたオトシブミがたくさん落ちている。オトシブミを見つけるといつも感心してしまう。小さな昆虫がどうやってこんなにきれいに葉を丸めるのだろう。一度やってみるといい、小さくきれいな巻き文の形にするのは意外と難しいのだ。もちろん、私はやってみたことがある。結果はナイショ。
登山道の景色を楽しみながら登っていると、下りてきた大工道具を持った男性たちとすれ違った。地元の人だろうか、なんだか楽しそうに話している。
「何か作ってきたんだね」「山の中で何を作ったのだろうね」と話しながら歩いていたら、真新しい木の香りがするようなベンチがあった。できたての白いベンチだ。「これだ」「さっきのおじさんたちが作っていったんだね」と言いながら、気持ちよいベンチに座ってみた。気がつくと、ベンチの板に『2001年5月26日登山記念』と書き込んであった。「え〜っ、登山記念にベンチ製作なの?」と、またまたびっくり。
びっくりと言えば、大きな木の脇に『御嶽大権現』と書かれた石碑が建っていた。そこにあった説明書きを読むと、御嶽信仰の人たちが建てた1811年建立の石碑なのだそうだ。昔からたくさんの人が登ってきた山だということが分かる。
ゆっくり楽しみながら20分ほど歩くと『かっとり城址』に着く。霧訪山は、戦国時代に武田信玄が『のろし台』に利用した山だそうだが、『かっとり城址』はのろしの中継点に使われた。信州の里山は、足元の盆地を見おろせる好地点にあるため、何処の山にも城跡などの歴史の足跡が残っているようだ。
城址からは1時間ほどで山頂に着く。ポッコリとした丸い山頂は思ったより狭かった。360度の大展望と立派な石の方位盤が置かれていたが、湿った大気の中で、あまり見晴らしは良くなかった。頂上には小さな祠があり、これは麓の小野神社の境外社の一つ『会地(おうち)社』というらしい。
楽しみにしていたオキナグサはいくつかの株になって咲いていたが、群落というには寂しかった。花の時期には少し遅く、たくさんの翁の白髪が風に揺れていた。その下に隠れるように最後の花がうつむいて咲いている。花びら(本当は萼)も柔らかい毛に覆われて、見ているだけでほこほこしてくるようだ。
山頂をあとに一気に下る。麓の矢彦・小野神社を訪ねる。この二つの隣り合った社はもともと一つだったらしい。豊臣秀吉によってまっぷたつにされたと書いてある。
この広い社叢は、『憑(たのめ)の森』と呼ばれ、県の天然記念物に指定されている。18,800平方メートルもの広い森だが、ここは自然林なのだそう。
歩くと中はうっそうとしていてほの暗い。それでも梢から差す日の光の下に春の花も咲いている。紫のラショウモンカズラが美しい。何本もの巨木、桂の大木などはうっそうとしてそこだけで幽玄な感じがする。私たちは神秘な森の霊気の中でしばし佇んでいた。