目の前にもっこりと盛り上がった皆神山が見えてくる。長野市松代の扇状地の真ん中に誰かが上から土の塊を置いたような不思議な山だ。今日の目的はその松代の奥にボコボコした奇妙な形に聳える山、その名も奇妙山。皆神山を右に見て岩沢に向かって少し登ると、小さな駐車場が杏や林檎の畑の中にある。杏は葉が出てきたが、桃の濃いピンクとリンゴの白い花が丘陵地を彩っている。
いつか行ってみたいと話していた奇妙山を目指して、市内の渋滞がおさまる頃に出かけてきた。3台くらい置けそうな広がりに、今は我が家の車だけ。月曜日の9時20分は、勤めのある人にとっては1週間の始まりの忙しい時だ。
遠くに霞むアルプスを見ながら足元を整える。先日夫の靴底が剥がれてしまったので、今日は古い登山靴を持ってきた。私も新しい靴では岩の道は不安なので古い靴。持ち主と同じでだいぶ擦り切れてきているが、雨が降らなければ大丈夫だろう。
動物除けの柵を超えて歩き始める。カキドオシや、ムラサキケマンが光を受けてキラキラしている。しばらく行くと杉の林になり、落ち葉の下からイカリソウが茎を伸ばしている。私がイカリソウの写真を撮っていると、先へ行った夫が「すごい、ヒトリシズカの群落だ」と叫ぶ。見事な群落。
杉林が切れると明るい斜面になり、黄緑色の葉の芽吹きの脇から小さな花を揺らしている木が増えてきた。これは・・・えーと・・・思い出そうとしていると『コクサギ』と書いた小さな札がぶら下がっている。地元のハイキング愛好会の人がつけたらしい。「そうそう、コクサギだ」。まさに満開状態で登山道の脇に続いている。そして、足元には小さな柔らかそうな葉が広がっている。この葉も見たことがあるぞと思っていると、ツンツンとミニミニアドバルーンを挙げたような花穂が見えた。レンプクソウだ。1属1種というが、この花は面白い形をしている。ツンと伸びた茎の先には5個の花がまとまっている。4方に5花弁の花が背中合わせについて、その上に4花弁の花が乗っている。別名ゴリンソウと言うのが頷ける。
花に目を奪われて歩き、ふと見上げると急斜面は岩だらけ。尼厳(あまかざり)山の南面の垂直の壁も見えてくる。木々の新芽がキラキラと若緑色に輝いているのが美しい。
尼厳山との鞍部で道を分け、奇妙山を目指す。スミレが咲き溢れるような斜面をもうひと頑張りで稜線に登り着く。いつも花の写真を撮りながら歩くので、標準タイムをあまり気にしていないのだが、珍しく夫が「よし、コースタイムとぴったりだ」と喜ぶ。ここには出会いの石というのがある。この稜線を左に下っていくと大室古墳登山口までの長い道のりだ。岩沢コースとの出会いの場所というわけか。私たちは右へ、奇妙山を目指す。森の中の狭い尾根が、登るにつれさらに狭まってくる。そしてついに、右斜面は切り立った岩になってきた。
足元には栗のイガがたくさん落ちている。栗の木が多いんだねと言いながら歩いていると、栗は栗でもツチグリがたくさん落ちている。こんなにたくさん1箇所にあるのを始めてみた。「ツチグリの群落だ」と、夫。
急斜面の、登ったり降りたりを繰り返し、山頂へ到着。残念ながら遠くの山には霞がかかっている。中央に飯縄山、右に黒姫山、妙高山、左には高妻山。前日の雨が山では雪だったらしく、うっすり白い化粧をしている。
栗のイガが一面に散り積もっている山頂でのんびりおやつを食べている間に空が明るくなってきた。遠くが鮮明に見えるかと期待したが、湿気のある空気を乾かすまでにはならないようだ。山頂の風は冷たいので、そろそろ降ろう。
それは降り始めて200mほどのところで起きた。かなり急斜面の痩せ尾根で、目の前を歩いていた夫が転んだ。木の根につまずいたらしい。どんと前に倒れ、転がるように見えた。後ろから見ていた私には右斜面にそのまま転がり落ちそうに見えた。慌てて前にまわって転がる夫を止めようと走った。・・・慌てるコジキは貰いが少ない!!
夫のストックに足を引っ掛けてしまった私は棒のように勢いよく、まっすぐ地面とだきあってしまった。急斜面に逆さまにうつ伏せになって転がったまま、夫がよっこらしょと立ち上がるのを見た。「大丈夫?」と夫の声がする。ゆっくり10回くらい深呼吸をする。「わからない」と声が出たが動けない。「待って」と言って、もう10回さらにゆっくり深呼吸を繰り返す。起きあがろうとするが、斜面に逆さま状態で転がっているから難しい。もう一度深呼吸をしてそっと上半身を起こす。座れた。座ったまま両手や顔についた泥を濡テッシュで擦る。
心配そうな夫に「大丈夫。骨折とか捻挫はしていない。打撲だけだ」と呟いて、ゆっくり立ち上がる。どこも痛くない。いや、鈍い痛みはあちこちにあるが歩けないような激しい痛みはない。
まだまだ痩せ尾根、岩場は続く。「ゆっくり気をつけていこう」と声を掛け合い降り始める。しばらく歩いていると左目の上あたりに違和感がある。触れてみると眉の横にタンコブができてきた。「ねぇ、たんこぶができた」と言うと、「明日はお岩さんだ」と夫。そんな冗談が言えるようになった。山では何が起こるかわからない、無事に帰れる喜びを感じながら緑に輝く森を降った。