三月に右膝の靭帯を痛めてから、膝の周囲の筋肉を鍛えるためになるべく歩くようにしている。それも、舗装された町中の道ではなく、足が喜ぶ土の道を多く歩きたいと考えて近くの里山を登ってきた。足のためにも、老化予防のためにも、そしていつか再びアルプスにも登れるようにと。でも一番の理由はやっぱり山に行きたいから。
11月24日に初雪が降ってから、長野にも時々雪が降るようになってきた。なんだかはっきりしない空模様の日が続いて山歩きができない。そんな思いをしていたら、日曜日は高気圧におおわれて全国的に晴れマーク。でもこの高気圧はすぐ移動していき、月曜からまた崩れるという予報。
こんなチャンスに山に行かない法はないとは思うが、この日は午後から予定が入っている。午前中に慣れた裏山を歩いてこようか・・・と、準備を始めた。準備をしながら、「三登山(みとやま)も坂中峠の駐車場からなら午前中で行けるかな」と私が呟くと、「行ってみようか」と夫。
春に髻山の麓から稜線歩きをして、途中で引き返した山(※)。沢山のコースがあるらしいので、また花の季節にチャレンジしようと話していた。おにぎりを持ってゆっくり行くのは春になってから、またあの稜線歩きをしたいと思っていたけれど、午前中に様子を見てくるだけなら坂中峠からのラクチンコースもいいのでは。
決めたらすぐ行動。車で長野信濃線(県道37号)を北上。坂中トンネルを抜けてすぐ左折、旧道に入る。旧道に入ると道は白く、凍っている。急なカーブを登ると、少し開けたところに出る。地図には展望公園とあるが、どうやら我が家の地図は古いらしい。木が育ち、展望があまりない荒れた公園の跡らしいところがあったが、柵がしてある。その辺りの道路は幅が広いので、端に寄せて車を停める。通る車はほとんど無い。
車を停めて、公園跡らしいところに行ってみると、大きな看板が立ててある。『坂中峠』と書いてある。北国街道と平行して走る脇街道だった頃からの由来が書いてある。善光寺平に直結する道路として、塩や海産物を運んだ道。でも江戸時代には、旅人や荷物は宿場を通ることとされていたため、色々な制約があったという。北国街道を通るのが正規のルートという訳。それでも、髻山から三登山を越えて戸隠に至る戸隠街道との交差点でもあって、栄えた頃は坂中峠の頂上にも2、3軒の茶屋があったらしい。今は地蔵石仏が残るだけという。
私たちは、三登山への林道を歩き始めた。確かに車も通れるだろうけれど、狭く荒れている。まして今日はツルツル滑る。「ここは車で走りたくない道だ」と、夫。
早朝散歩の人が歩いたのだろうか、犬の足跡と、人の靴跡がかすかに残っている。所々複数の動物の足跡も見える。雪の道は通った人や動物の痕跡があって面白い。
退屈な車道歩きが続く。時おり木々の間から見える飯縄山が大きい。滑るので足元に注意しながら20分ほど歩くと、目の前に鉄塔があった。下から見る三登山の鉄塔群の一つだ。ここは番所跡との岐路になる。夫が「番所というところには何があるのだろう」と歩いて行ったが、しばらく下らないといけないようで引き返してきた。
そこからわずかで、車道の終点についた。三登山トレッキングの案内にある、坂中登山口というのはここのことだろう。いよいよ山道に入る。左にカーブしていくと、さっきの鉄塔のところから延びてきている林道にぶつかる。林道脇の斜面を平行して山道はトラバースしてゆく。ようやく右下に善光寺平の広がりが見えてきた。快晴。コントラストが強く、眩しい。
道は緩やかで、枯れ葉色に包まれている。所々クマザサが張り出しているが、斜面は落葉低木樹と、草紅葉で明るい。赤や黒の実が沢山見えるが、これらも雪の下になって土に還っていくのだろう。いくつ新しい芽を出すのやら。
ひときわ明るい斜面には沢山のツルリンドウが枯れかけて立っている。宝石のようなツヤのある赤紫色の実も、半分は茶色に枯れてきている。
辺りは一面冬景色だが、木々の先をよく見るとそれぞれに新しい芽を膨らませている。もう春への準備をしているのだ。苔むした大木も、細い枝をたくさん伸ばしている低木樹もみんな同じだ。
木々の様々な実や芽を眺めながら歩いても30分ほどで、山頂に着いた。山頂は木々に覆われていて展望はあまり良くない。コントラストの強い日差しの中で木々の影が縞模様になった写真を撮る。
先へ進めば、髻山に続く稜線だが、今日は午後から用があるので引き返すことにする。12月とは言え暖かい日差しの中、来た道を引き返す。日が当たる山道はほくほくと気持ちがよいが、車道に戻るとやはり凍っていて油断はできない。雪道に残る自分たちの足跡を楽しみながら、ゆっくり車まで戻る。坂中峠の北からは、北信、妙高の山が近い。
いよいよ冬到来だ。