長野に三年暮らして、いつも我が家から西に見える山に遊歩道があることを知らなかった。葛山と書いて『かつらやま』と読む。
冬の里山は花が無く、紅葉も終わってしまうととても寂しい。とは言うものの、冬には冬の楽しみ。足が埋もれてしまうほど落ち葉が沢山積もっていて楽しい。そして木々の葉が落ちた山道からは、見晴らしが良い。
家を出ると、戸隠へ行く七曲がりを登る。登り切った先に笹峰登山口に行く道があるらしい。葛山の大きな看板を見つけたので、その近くに車を停めて足の準備をする。
すぐ立体交差のトンネルをくぐって、農道を歩く。ちょっと太めのネコが草地の中を歩いている。声をかけると止まってこちらを見る。その姿はなかなか堂々としていて「まぁ行ってらっしゃいよ」とでも言っているようだ。
ネコに見送られて歩き、リンゴ畑を右に見る。その左に葛山登山口があり、林の中を登る。木の枝にはウスタビガの繭がぶら下がっている。足元は一面の落ち葉、杉の木も多く、杉穂が沢山落ちている。昔はこれを拾って焚き付けに使ったっけ。ご飯を炊く竃と、お風呂の釜と、焚き付けはいくらあっても足りなかったような気がする。今はただ積もっていくだけか・・・。
ガスや電気の普及で、暮らしはとても楽になった。私が子どもの頃まだ火を焚いていたなんて、経験した自分でも信じられないような気がする。毎日竃でご飯を炊くのが子どもの私の仕事だった。お風呂も焚き付けた。いくつの頃までだったのだろう。小学生の低学年だろうか。記憶もおぼろだ。
豊かになった代償がこれからの世代への負債とならないか、豊かさに溺れないようにしたいと思っているが・・・楽な方には流れやすい。
話を落ち葉の道に戻そう。少し登ると平らに開けたところがある。葛山は城跡だから、ここも兵士が見張りをしたところだろうか。何段かの平らに開けた見晴らしの良いところを越えると、さらに広い山頂に着く。あっけなく到着だ。途中の登山道からは後立山連峰が大きく見えていた。白馬から唐松、五竜、鹿島槍と続く真っ白い峰々。
葛山城主(落合備中守)は上杉謙信に属していて、葛山城は上杉方の重要な前進基地だった。水が不便な城だったので、崖から米を落として水があるように見せかけ、敵の目をくらましたと言う。2月の雪深い時期、上杉軍が出陣できない時をねらった武田軍が水を断ち、火をかけて攻め、ついに落城した。弘治3年(1557年)のできごと。400年以上昔の話だけれど・・・、今でも本丸跡に残る城主の祠の周りからは焼米が掘り出されるとか。
歴史で習った戦国時代の悲しい出来事はたくさんあるが、教科書には載っていないその時代の人々の生きていた名残に触れた気がした。
山頂にある城跡の説明を読み、周囲を眺める。アルプスの白い峰につい気を奪われてしまうが、目の前には隣の旭山、そして富士ノ塔山と、大きく里山がそびえている。北に目を転じれば、飯縄山も近い。もちろんすぐ隣の大峰山も届きそうなところにある。
あまりに簡単に頂上に着いてしまったので、頼朝山まで往復してみることにした。高い崖の上の城跡らしく、太い綱を頼りに、木の根の間に足を置きながら滑るように下りる。肩につくと、そのあとは緩やかな下りになる。沢山の人が歩いたとみられる山道は深くえぐれているが、落ち葉が厚く積もり豪華な絨毯が敷いてあるようにふかふかして気持ちが良い。
ひたすら下って、ようやく林道のような幅のある道に着いた。右に静松寺、左に往生寺との道標がある。静松寺の方に数メートル行くと、頼朝山の登山口。登りというほどの距離も無く、頼朝山の山頂に着いた。八幡宮があったというだけに広さがある(頼朝山は別名八幡山)。南に展望が開けて、足元には裾花川が青く光って蛇行しているのが見える。山の頂から展望を楽しんでいると時間を忘れる。
ここ頼朝山は、名前の示すように源頼朝にゆかりのある山だそうだ。山頂にあった八幡宮(昭和13年焼失)は静松寺の鎮守社だそうだが、この山そのものが頼朝の寄進したものだという。頼朝は天正15年(1198年)に善光寺へ参拝したそうで、その時、家臣の菩提を弔うために静松寺に土地や山を寄進して『頼朝山法性浄院静松寺』と名づけた。
歴史の授業は嫌いだったけれど、今、ここに生きていた人たちの存在を強く感じるのはなぜだろうか。私や夫は庶民として、歴史には残らない生き方をしている。けれど、確かに毎日色々なことを考え、悩み、楽しみ、息をして今を生きている。過去の無数のそういう人たちがいたことを実感できるのだろうか。
我が家のすぐ近くに、こんなにも歴史の息吹を感じさせられるところがあったことにびっくりして、また来てみようと言いながら、再び葛山を目指して長い落ち葉の道を登り返した。
葛山から車に戻るとちょうど昼食時。お腹がすいたからおいしい蕎麦を食べて帰ろうと、ここはすぐ意見が一致。戸隠まで足を伸ばして、蕎麦を食べてから帰路についた。