突然思い出した。小網代は今どうなっているのだろう。
神奈川県三浦半島に、源流から海に注ぐまでの水体系がそっくり見られる森がある。規模はとても小さいけれど、首都圏に近いところに残っている貴重な森だ。
私たち親子が通い始めたのは1980年代の後半、物理学者の藤田祐幸氏(1942−2016)が小網代の自然に感動され、『ポラーノ村』と名付けられた頃だ。祭りと称した観察会に息子が旗持ちをして粋がっていたのが懐かしく思い出される。藤田先生からは原発の恐ろしさを教えていただいた。チェルノブィリの原子力発電所事故(1986年4月)を目の当たりにして、世界中が震撼とした頃だ。
その後、守る会、学ぶ会などと名前を変えながらも地元の有志を中心に、見守ってきた。一時は開発ブームに乗って、森を潰してゴルフコースを作ろうという動きもあった。私はNRC(三浦半島自然保護の会)の柴田敏隆氏(柴さん)と共に歩き回っていたので、小網代の森の活動には幽霊会員だった。できるところだけ応援していた。ドキドキしながら見守ってきた小網代が、ナショナルトラストの対象となる頃からご無沙汰している。もう大丈夫という安心感があった。
それにしても小網代には随分通ったと思う。会の活動に参加したり、友人や、家族とも歩いたし、夫と二人で歩いたり、時には一人きりで散策したり・・・。
夏の満月か新月の頃、夜の浜で息を殺してしゃがみ込み、アカテガニの放仔を見つめた日は数えきれない。白髭神社まで足を伸ばして蛍が舞う光を探したこともある。森のヘリを歩いていて、草むらの中に光るクロマドボタルを探すのも面白い。ホタルといえばゲンジやヘイケのように飛ぶものだと思っていたが、大地を這いながら光る種の方が多いと学んだ。
森の中でコウゾの実を口に放り込み、舌に絡みつくのを笑い合ったり、干潟を走ったり、チチブを捕まえて観察したり、アカガエルの卵を見つけたり・・・限られた広さの、都会に近い自然だけれど、楽しみの芽は無数にあった。
子供たちと一緒に書きためた自然観察の記録『あるいてみたらNo.1〜100』を開くと、小網代を歩いた記録がとても多い。
10月頃になるとカニの幼生が大きく育っているのを見ることができる。息子は一緒に行った人から網を借りて、「網を神社の水で洗って返したら、洗ってくれたのは初めてだよとほめられました」などと微笑ましいことを書いている。その網で掬って見たメガロパの絵も描いている。肉眼で見えるので嬉しかったのだろう。もちろん細かいところまでは肉眼では見えないのだけれど、独特の動き方などは見ることができた。放仔の時は水に放たれたゾエアを食べようとボラが集まり、そのボラを食べようとゴイサギが集まっている。命のつながりの不思議を感じ、その激烈な生存競争の第1段階を生き延びたメガロパに会えたことが素直に嬉しかったようだ。
なんとか小網代の姿を残したいと願っていた人たちは、様々な企画をして小網代の存在をアッピールしていた。私も小網代カルタを作る手伝いをしたり、ポスターを描いたりしたが、大仕事は看板作りだった。友人や息子にも絵を描いてもらって作った看板の下絵が、実際に森の入り口に立っているのを見た時は充実感があった。娘は「お母さんが作った看板が立っていました」と書いている。
当時の関わりは、前述のような作業だけではなく、国際生態学会での発表用ブースの作成や、世界から集まった人たちの案内、エントロピー学会のシンポジウムでの森のアピールなど、英語がほとんど話せない私には気の重いこともやった。小網代を残したい一心だったと思う。学会で小網代を歩いた後、会議が開かれる江ノ島まで船で渡ったことは貴重な体験となった。青空の下、波輝く相模湾を三浦半島の先端から江ノ島まで航海するなどということは、漁師さんならぬ身ではなかなか経験できないことだ。
ほっこり残っている思い出もある。あるテレビ局の撮影の案内を柴さんと二人で行った。最初に森全体を見下ろせる引橋近くの建物の屋上に上がらせてもらって全景を撮影。森の中を記者やカメラマンと歩きながら、柴さんが説明をする姿も撮影。カメラマンが仕事をしている間、私は記者と様々な話をした。早朝から半日撮影をして、テレビ局の車で家の近くまで送ってもらった。
そしてもう一つ、忘れられないことがある。原発事故のあったチェルノブィリの子供たちと小網代で遊んだ。海の水を跳ね散らかしながらキャーキャーと大喜びする子供たち、不幸な事故で故郷を追われてから日が浅い頃だったが、子供たちの生命力の勢いを感じた。言葉が通じないのに、かの子たちも日本の子たちも、大きな自然の前では同じような表情をし、同じように動く姿を見て救われるような気がしたものだ。
石切場の跡に分け入ったこともあったが、この時はNHKのカメラマンが同行していた。すごい藪の中を入って行ったので、大きなカメラを持った彼らは閉口したような顔をしていた。「ここは寄り道ですから、また広いところに出ますよ」と教えてあげたら、「え〜っ、帰りにまたここを通るの」と、叫んでいた。
小網代では、貴重なサラサヤンマを見ることができたが、そのヤゴを発見するのはとても難しいそうだ。山でよく見かけるオニヤンマのヤゴは4年も水の中で暮らすそうだ。オニヤンマがいるということは、水辺の環境が4年は守られているということになる。そんなことを教えてくれた、『トンボ先生』はお元気だろうか。カメラを持った手を空に伸ばしてカシャカシャ撮ったトンボの写真はピントぴったりに撮れていて、まるで手品のようだと目を丸くしたものだ。
太平洋戦争の時に特攻船を隠していたという洞窟にも入ったけれど、暗い歴史に想いを馳せる大人の傍で、探検気分が子供たちを惹きつけた。
私はアカガエルの卵の写真を撮ろうと発泡スチロールを石と見間違え、片足を乗せて池に落ちたこともある。娘が「ドジなお母さん」と書いている。訪ねてきた弟を案内していって、彼の目の前でドジぶりを披露してしまった。
秋の気配が聞こえるといそいそと出かけた。ススキの足元に広がる優しいピンク色のナンバンギセルを見るため。娘と二人で出かけ、呑気な二人でぼんやり見ていたものだ。
フデリンドウもツボスミレも、ジュウニヒトエも、季節に尋ねればきっと待っていてくれた。
いつの間にか年月が過ぎ、私は三浦半島から引っ越して西部の山の麓で暮らすようになり、子供たちも高校生になってそれぞれの生活が忙しくなった。久しく行かなかった小網代へゆっくりアカテガニを見に行こうと言ったのは夫。しかしその頃すでに小網代の『アカテガニの放仔』は、有名になっていた。人のたくさん集まるところは避けようと、横須賀の小栗ヶ谷浜に出かけた。真っ暗な磯を懐中電灯でそっと照らすと、一生懸命ハサミを使って食事をしているイソガニが見える。待っていると浜のあちらこちらから幼生を抱いたアカテガニが歩いてくる。そして水際で一瞬全身を震わせて、幼生を海に解き放つ。何度見ても、感動的なシーンだ。「小網代では、きっとたくさんの人が同じ光景を見ているんだね」。
あの頃みんなで作って保全のために販売したTシャツも、私の持つ最後の1枚がついに擦り切れてきた。
今、小網代にはとても立派な木道が敷かれているようだ。そして私は、その木道を知らないことに密かにホッとするのだった。あの藪も、あの池も、あの泥んこも・・・みんな私の記憶の中に鮮やかだ。
(※ここに書いた小網代の姿は数十年前のことなので、現在とは違うところも多いかと思う)