五竜岳と言えば北アルプス後立山連峰の中間辺りに位置する大きなこぶのような形の魅力的な山。広い懐にあるスキー場も有名だ。私たちも冬にはスキーに行ったことがある。霧が濃くなって終われるように降りたらチャンピオンエキスパートコースの上、エイヤッと滑り降りたのを思いだす。
日帰りでも長野から車で行ける、白馬から五竜までの山塊には夏もゴンドラやロープウェイが運営されていて、いくつかのコースが楽しめる。五竜遠見尾根は8人乗りゴンドラ「テレキャビン」で上ることができる。
夏は暑いと相場が決まっている。それにしても、この日は暑かった。ゴンドラを山頂(アルプス平)駅で下りると、植物園が整備されている。そこは帰りに見ようと、リフトに乗る。足の下に花々を眺めながら空の旅。リフトを降りて一息で地蔵の頭1676m。五竜岳までは6時間と書いてある。やっぱり無理だね。でも、小遠見山までは90分だって、行ってこれそうだ。あまりに暑いので、少しでも高いところに行こうという気持ちが強い。
地蔵の頭をあとに遠見尾根を歩き出す。もうすでに高山の稜線歩きの趣だ。あいにく山頂方面には雲がかかり、3000m近い稜線は見えない。ちょうど山頂部分を隠すように雲が湧いているのだ。しかし一線を引いたような雲の下には青々とした峰と、谷を埋める雪渓の純白が目に痛いほど。隣の八方の雄大な尾根が壁のように立っている。
そして足元には沢山の高山植物が目を楽しませてくれる。ミヤマママコナもシモツケソウもピンクが濃い。名前を知っている花も知らない花も、数えきれないほど。花は終わりかけているが、ちょっと小振りのウスユキソウが足元にチョコチョコとのぞいている。ウスユキソウの種類はたくさんあるが、ハッポウウスユキソウと書いてあるのを見つけた。ヨーロッパではエーデルワイス一種しか咲かないというキク科ウスユキソウ属だが、日本では山塊毎に何種類もあり、訪ね歩くのも楽しい。
とにかく暑い暑いと言いながら「一ノ背 髪」に着いた。標高1892m。木のベンチがあるので、小休憩。ここで出会った男性は「今日は異常だ。こんなに標高が高いところでこれほど暑いなんて珍しい。小遠見まで行こうと思っていたけれど、今日はここまでにするよ」と言って、荷物を広げていた。
私たちももちろん暑さに閉口していたが、久しぶりのアルプス歩きなので高揚する気持ちの方が強かった。一息ついて先を目指す。
花々がみごとなのが嬉しい。ウラジロヨウラクの薄紫が点点とぶら下がり、ハクサンシャクナゲも薄いクリーム色に咲いている。アカモノやゴゼンタチバナは地面に広がって咲いている。キソチドリかな、緑色の地味な花も咲いていた。
花を数えて歩いているうちに今度は「二ノ背 髪」に着いた。ヤマブキショウマやヤマハハコが咲いている。見晴らしは良いのだが、横に一本線を引いたように雲が下りていて、その上の世界は見えないまま。時々雲が揺れて、唐松岳辺りの山頂が一瞬見える。その一瞬を見るとその場にいる者が皆「お〜」と、盛り上がる。
振り返って山を見ながら歩くうちに小遠見山についた。標高2007m。五竜岳に登る人は横目で見て通り過ぎて行く山なんだろうね。でも、二ノ背辺りからは誰もいない稜線歩きが楽しめて、なかなか良い山だよね。ポツポツと咲いている花たちはみんな愛しい。強い風にも、暑い日差しにも、積もる雪にも負けずに自分の場所に芽を出すんだよね。すごいなぁ。
山の上には花だけではなく蝶や昆虫が沢山いる。鳥の声も聞こえる。そして時々、蛇や蛙にも出会う。
蛇はそれほど嫌いではないのになかなか会えなくなった。ずっとずっと昔、横須賀に住んでいた頃は毎年6月になると家の前に太いアオダイショウがやってきて、「今年も元気だったね、つぶされないうちに山にお帰り」と話しかけるとノソノソと這って行った。だいたい6月の初めの、当時幼稚園児だった娘の誕生日の頃に現れたので、私たちは「誕生日祝いを言いに来るんだ」と笑いながら話していた。小学生の息子が小さなアオダイショウを抱いてきて「飼いたい」と言ったのも同じ頃だったか。あのアオダイショウも近くの森が切り払われてから見なくなった。
生き物に出会わないのは、生き物の数が減っているのも理由の一つだろうが、こちらの感性も鈍くなっているからのような気がする。彼らの気配を感じられなくなってきているのではないだろうか。少し寂しいが、そんな気がする。いくつになっても磨くことはたくさんある。
話を戻そう。帰り道は気楽に、花の写真を撮りながら歩いた。イワカガミはもう実になっているものが多かったが、まれに花びらを残しているものがあって、嬉しい。ギンリョウソウも見たが、枯れかけていた。
一つ一つ花を写していると、きりがない。それでも今日出会えたことが嬉しくてしゃがみ込んでカメラを向けてしまう。
花を見たり、山々の姿を見たりしながら下って、帰りは地蔵の頭を巻いてゆく「地蔵の沼」という湿原の道を進んだ。少し下ると、雪渓が残っていた。このコースはアルプス平自然遊歩道というらしい。小さな池には水芭蕉がお化けのような大きな葉になって風に揺れている。でも、池に注ぐ水の流れの淵にはまだ純白の花がたくさん顔をのぞかせていた。ニッコウキスゲやワタスゲ、緑の中にはピンクのハクサンフウロの花びらも隠れている。タカネシュロソウも地味な穂を伸ばしている。
どの花も好きだが、初夏の山にはいかにも夏山という花がある。コバイケイソウ。その真っ白い花穂がツンツンと立っているのを見ると、「あぁ山の中にいる」と実感する。コバイケイソウは年によって咲き方が違うと聞く。2、3年に一回当たり年があるとか。今年の五竜はいつもの年と比べて多いのか、少ないのか・・・小さな湿原から稜線に出る辺りに沢山咲いていて、ニッコウキスゲの黄色と楽しい風のハーモニーを奏でていた。
湿原を出ると、手入れされた植物園がテレキャビンの山頂駅まで続いている。まずイブキジャコウソウが群落になって迎えてくれ、それからは高山植物が名札付きで続いている。
そして高山植物の女王と呼ばれるコマクサが一面に満開だった。岩ばかりの、他の植物がほとんど生きられない環境で咲いている姿はいつ見ても感動的だ。
そしてここではヒマラヤに咲くという青いケシが咲いていた。昔、神奈川から大鹿村の奥まで見に行ったことがある。一面の畑に様々な濃淡の青が広がっていて素晴らしかった。最近は色々な植物園で見られるようになったらしい。
植物園の一部に岩山のとんがりがあって、白馬五竜岳1560mの標識が立っていた。もちろん登りましたとも。大笑いしてその頂に立っているところを夫にパチリと撮られてしまったが。
帰る頃にようやく雲の上に五竜岳の丸い頭が見えるようになった。何度も振り返りながら、見え隠れする五竜岳にバイバイと言って、私たちはテレキャビンの客になった。
どんな風が吹いたのか、いや、吹かなかったのか・・・この日は二千メートルを越える遠見尾根も1日中暑い空気に包まれていた。