群馬県村上山の山頂から雄大な四阿山を見た。「ねぇ、覚えている?」「忘れちゃったなぁ」。「降りてきたら、ソフトクリームの売店が閉まっちゃってた」、そういうことは覚えているものらしい。四阿山に登ったのは、まだ若かった頃。
神奈川の自宅を出発したのは午前5時20分。あの頃、東京都内を通り抜けるために多くの時間を要した。環状8号線は恒久的に渋滞していたので、並行する裏道をたどったり、千葉の方まで湾岸道路を走ってから、大回りして外環道に入ったりしたこともある。圏央道はまだなかった。
四阿山に登った日は環状8号線を走り、練馬で関越自動車道に入った。夏休みなので、渋滞が集中しなかったのか、朝早く出たので、それほど混まなかったのか、それでも上田菅平インターを降りて菅平牧場の駐車場まで行くと11時を回ってしまった。
冬はスキーに何回も来ている奥ダボスから、さらに車でしばらく登ったところに牧場の駐車場はあった。ここからは根子岳と四阿山、二つの山に登る登山口がある。
根子岳に登った時はすぐ登り始めたが、四阿山へはまず右へ緩やかに進んでいく。
尾根を回り込むように進み、小さな沢を越えると上りになってくる。でも、全体に広い雰囲気がある。隣の根子岳もそうだったけれど、斜面が大きい感じがする。
そして草丈が高く、様々な花が咲いていた。沢の近くにはツリフネソウにキツリフネ、赤と黄色の袋のような独特な形。広い道に出ると、オオバギボウシが、本当に大きい。ミヤマホタルブクロも大型のような気がする。マルバダケブキは大きな黄色い菊の形。ヤマブキショウマは白い穂を揺らしているし、ノアザミは赤紫の丸い花をたくさんつけている。
花を見つけると嬉しくなって写真を撮る。私たちの山歩きのコースタイムがどうしてもちょっと多めになってしまうのはそのため。しばらくは花を見つけては大喜び。もちろん一面の花や草や木々のど真ん中にいるのだけれど、目立つ花や、名前の知っている花を贔屓してしまう。
森の木々は幹が明るい色だ。シラカバもあるが、ダケカンバの木が多い。風が強いのか、寒さが厳しいのか、樹高はあまり高くない。空が近い感じがする。
どんどん登っているうちに尾根に上がる。だんだん見晴らしが良くなってくる
どんな山に登っていても感じることだが、見晴らしが良くなると一気に気持ちが高揚する。森の中の散策が楽しくないわけではないのだけれど、目の前がど〜んと開けた時の爽やかさは別格のようだ。
隣の根子岳はすぐそこ。遠くから見ると、四阿山の頂と重なって猫の耳のように見えるから『ネコ岳』と言うそうだが、本当かなぁ。裾野が広い山だけに、雄大な森の緑はどこまでも続いている。汗をかきながら高度を稼ぎ、見晴らしを楽しんではまた一歩進む。
歩き初めが遅かったので、お腹が空いてきた。まずは腹ごしらえをしよう。四阿山は深田久弥(作家、登山家1903−1971)氏の名著『日本百名山』に選ばれているからか、登山者は多いようだ。それでも、長い稜線上には休むところがたくさんある。腰を下ろした気持ちの良い尾根は1917mピークのちょっと手前になるところ。草の間の岩に腰をかけ、自然の中の居間だ。壁の代わりにショウマやシュロソウが私たちを囲んでいる、なんという贅沢。
おにぎりを食べおわると12時、早めのお昼だったね。
稜線上のピークには立派な道標が立っていた。そこに『森林保護』と書いた看板が取り付けられていて、菅平中学校生徒会と書いてあったのに驚いた。中学校の生徒会がこんな高所に意識をつないでいるということが嬉しくもあり、美談に終わらなければ良いという恐れもあり、妙な感覚だった。私は子どもたちの活動というようなことになると、少し敏感に反応してしまうかもしれない。
歩いている稜線からは手が届くようなところに山頂が見えている。ずっと見ながら行くから、いつまでも着かないようなもどかしい感じもしてしまう。目をあげれば目指す山頂、足元には山の花々、薄雲が空を覆っていたけれど、私たちはおにぎりを食べて元気を充電。
1時間余り歩くと、中四阿のピーク2106mに到着した。大きな岩が転がる尾根に高山植物がしがみついている。ガンコウランはもう実になっているが、イブキジャコウソウは紫の小さな花をたくさんつけている。ウスユキソウのふわふわした花があちらにもこちらにも大きな株になって揺れているのが、なんだか高山らしくて嬉しい。
この時はいつか本物のエーデルワイスを見たいものだと話しながら登ったが、この後本当にスイスでエーデルワイスを見ることができるとは想像していなかった。
とにかく、目の前の花に一つ一つ「わぁ〜」だの、「あっ見て!」だの、賑やかに声を上げながら歩いていた。声は小さかったと思うけれど・・・。
中四阿からは稜線歩きの楽しさを堪能。風になったような気分で歩くうちに、山頂直下の階段に到着した。中四阿からの下りもガレ場だったが、崩れやすい岩質なのだろうか、広く手が入っていて、階段になっている。地元の山を愛する人たちが力を出し合っているのか、大変な作業だろう。ありがたいと思う。
こういうところを見ると、何もできない自分たちはせめて丁寧に山を歩きたいものだと思う。山が荒れるような歩き方をしないように、もちろん草花を採ったりするのは言語道断、ゴミのポイ捨てなどは許されない行為だ。花を撮る(写真)のは良いけどね。
インディアンの暮らしを守るために厳しい掟を持つ部族がいるそうだが、彼らは自然の中に足跡も残してはいけないという。自然保護の活動を続けておられた先達が話してくださったことを覚えている。私たちは足跡を残して、しかもそのために登山道がえぐれてしまう原因を作っているのだけれど・・・、生きる喜びということで許してもらえるかな。
さて話を戻して、ついに山頂に到着、14時30分。山頂には二つの祠が祀ってある。四阿山は長野県と群馬県の境にあるので、二つの祠はそれぞれの県側に向いているんだって。山頂の標識も2本立っていた。なんだかおかしい。ちっぽけな人間の決めたことなんてこの大きな自然の中ではどうでもいいことのように思えてしまう。
それはともかく、山頂では誰かに頼んでシャッターを押してもらった。それほど広くはない山頂だが、ポツポツと登ってくる人たちがそれぞれに登頂の余韻に浸るには十分な広さがある。多くの人はここから根子岳に、あるいは根子岳からここへ縦走しているようだ。私たちのように、根子岳に登り、別の日に今度は四阿山だけ登る人って少ないんだ。
なんだってそうだけれど、山の楽しみ方だって人それぞれ、山頂を踏まずに山麓をゆっくり歩くことを楽しむ人もいる。私たちは、なるべくたくさん山の中にいたいけれど、山小屋の狭い空間でたくさんの知らない人と共に過ごすことはちょっぴり苦手、日帰りが多くなるのはそのためか。根子岳と四阿山は縦走しても小屋泊りはないけれどね。ゆっくり花を見ながら、風景を楽しみながら歩きたいというところか。
山頂で残っていたおにぎりを食べて、来た道を引き返すことにする。一度歩いた道は様子がわかっているので、近くなったような気がするのがおかしい。次々と雲が湧いてくるが、空気はまだ乾いている。気持ちの良い稜線を歩いて森の中へ降りていく。後ろにはもう親しくなった四阿山の山頂が少しずつ遠くなっていく。
駐車場に到着したのは夕方の5時と、メモにある。下の沢で『サングラスを探す』ともメモしてあるのだが・・・。
「あなたサングラス落とした?」「えっ、覚えていないよ」「無くしてはいないから、見つかったんだね」
花を見たり、写真を撮ったりしていてポケットからこぼれたサングラスを探したのだろう。すっかり忘れているのが、なんだか却って懐かしい。