85 『個人情報』


個人情報について、思い出したことがあります。個人を大切にするとか、それぞれの意見を大切にするとか、当たり前のことをことさら改めて言わなければならなくなったのはいつからでしょうか。

ずっと前のことです、私は高等部の担任でした。一つ上の学年の男子生徒は恥ずかしがり屋でした。廊下で会うと、少し俯き加減にニヤリとしながら挨拶します。授業ではあまり一緒になることはなかったので、そのままいけば、互いにあまり印象に残らず卒業していった生徒かもしれません。

その頃私は、自分の教室で朝学習を始めていました。スクールバスではなく、保護者の送り迎えや、自力で登校する生徒の朝の時間を使って、それぞれがやりたい学習に取り組むことにしたのです。その男子生徒、勝己くんも毎朝早く登校していたので、私たちの教室を覗いたようです。僕も勉強したいと言うので、早速仲間に入ることになりました。


勝己くんは課題のノートがよく見えない様子でした。視力が悪いだけではなさそうです。書き込んでいくノートの罫線などが歪んだり、ぼやけたりして見えるようなのです。私は勝己くんと相談しながら、大きなマス目のノートを用意しました。書きやすくなったと喜ぶ勝己くんの笑顔は、ふにゃぁととろけるような優しい笑顔でした。照れたようなそんな笑顔を初めて見ました。


それからしばらくして、勝己くんのお母さんから手紙をいただきました。相談したいことがあるから家に来て欲しいという内容でした。担任ではない私に相談というのはどんなことだろう・・・と思いながらも、その手紙のことを他の人に話すのがためらわれ、ちょうど夏休み中だったことを幸いと、出かけてみました。

勝己くんの保護者は、『個人情報にうるさい人』だと聞いていました。どういうことかというと、集合写真などに勝己くんは入らないようにする、写っている写真は掲示しない、もちろん作品に名前をつけて掲示するなどはもってのほか、というような感じでした。

それはともかく、そんな勝己くんのお宅に伺うことは、少しばかり気の重いことでした。自分のクラスの生徒ではありませんが、私は同じ学部の教員ですから、勝己くんのいわゆる個人情報も知っていることが多く、お父さんはドクターで、とても忙しい方だというようなことも書類上知っていました。


もうずいぶん昔のことなので、細かいことなどは覚えていませんが、お母さんの悩みは勝己くんと二人で過ごす時間の長さでした。父親が仕事で不在が多いこと、休んでいても呼び出されることが頻繁なこと、そんな時に勝己くんの発作が起きたり、自分が具合悪くなったりすることがあると、どうしていいかわからないというような話でした。

それまでの会話の中でお隣の家との小さなやりとりの話があったことを思い出し、私は言いました。「お母さん、そういう時は遠慮しないで、お隣に頼ったらいかがでしょう」。

お母さんは「いいのかしら・・・?」と、考え込まれたようでしたが、しばらくしていただいた手紙には、困った時お隣に助けてもらって嬉しかったことが書いてありました。


『個人情報』というものにとらわれるあまり、お隣のドアを叩くことにもためらいを感じてしまったお母さんですが、一回扉を開いてしまえば、そこには互いを尊重し合う、気持ち良い交流が生まれることになったのです。




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