74 何円ですか


もうずいぶん昔のことです。どうして急に思い出したのでしょう。友人の家にお邪魔し、友人の視力が衰えていることに驚いたのがきっかけかもしれません。歳を重ねると、様々な困難が起こってくるのは仕方ないことかもしれませんが・・・。


横浜の大きなデパートの中に入っている書店でのできごとです。最近の大きな書店では会計のカウンターが大きく、レジがいくつも並んでいます。会計をする人は一列に並んで空いたレジのところへ進みます。

でも、当時はそれほど立派な会計のカウンターではなく、レジのところへ買いたい本を持って行って、前の人の会計が済んだらそこへ行くというふうでした。もしかしたら、私の思い出の中のレジは、端の方にある小さなところで、中央には今と同じようなシステムの会計カウンターがあったのかもしれません。


私が本を持ってレジに向かうと、ちょうど一人の少年がレジのカウンターの前に立ったところでした。私はその後ろに並んで、前の少年の会計が済むのを待つことにしました。少年はとても背が低く、カウンターの上にようやく頭が出るくらいの身長でした。そして、よく言われる『牛乳瓶の底のような・・・』厚いレンズの丸メガネをかけていました。私はなにげなく後ろから見ていて、『弱視なのかな・・・』と思いました。

その少年は1冊の分厚い本をカウンターに乗せて、「何円ですか」と聞いていました。そのとき、書店のレジは若い女性が一人で担当していました。その女性はとても背の高い人でした。彼女は「え?」と聞きました。少年の声がか細かったので聞き取れなかったのでしょう。

少年はもう一回本の裏の値段が書いてあるあたりを指差しながら「何円ですか」と言いました。けれど、彼の小さな声はやはり、レジの女性には届きません。


レジの女性は、少年が値段のところを指差しているのだから、値段は分かっていると思ったのでしょうか。その少年が、そこに書いてある文字が見えないなどということは考えられなかったのかもしれません。

たまたま私にとっては、見えにくい、聞こえにくいことで困っている人たちが身近だったのです。でもその時、私はちょっと怒りを感じました。その時の私には腹立たしいことに、レジの女性はかがんで少年の方に顔を近づけることさえしなかったのですから・・・。

私は近づき、後ろから声をかけました。

「えーっとね、これは○○円って書いてあるよ」

少年は、パッと振り向いて「ありがとう」と言いました。そして本を抱えて売り場の方へ戻って行きました。


たったそれだけの記憶なのですが、私の心にはとても鮮明にその映像が残っています。私は内心かなり怒っていました。サービス業に従事する人なら、もっと聞き取る努力をするべきだろうと思います。その思いは鮮明な記憶と一緒に蘇ってきます。


その時のレジの女性の立場に立ってみて・・・などという優しいことは私にはできません。ただ、長い年月が経ち、怒りという感情は消えています。自分がいつそのようなことをしてしまうか分からないという気持ちの方が強くなっています。ほんとに、ほんとにごくちょっとしたことで、全く違うところに立ってしまうかもしれないという恐ろしさを噛み締めているのです。




  • サブメニュー3のイメージ画像 次のページ 15-75「クッキーパーティ」へ

  • サブメニュー3のイメージ画像 Gallery3特別支援教育へ戻る

  • サブメニューホームのイメージ画像 ホームへ戻る