6 おしっこ


自閉症という言葉が知られるようになってきました。『高機能自閉症』とか『ADHD』 とか『アスペルガー』とか、似たような、違うような症例名も、耳にする機会が多くなりました。


私が初めて彼に出会った頃は、まだドクターや彼らの教育に携わる者とか、我が子の症状に悩む保護者くらいしかその言葉を使いませんでした。

養護学校の教員になって最初の日、どきどきしながら教室に入ると子ども達が一斉にこちらを見ます。高等部の1年生のクラス。中学や高校と違い、一クラスの人数は7、8人ですから、それほど圧倒感はないものの、彼らのキラキラする瞳はこちらにせまってきます。

事前の打ち合わせでは、チーフの教員が全体の授業を進め、私は障害の程度が重度だと言われる男子の様子に注意を向けているようにということでした。彼は言葉を話すことができません。大きな体をいつも前後に揺らしているので、めだちますが、ふっと気を抜くように静かに座っていることもあります。

ただ、それまで様子を見てきた教員達の話では、突然走り出して校門の外まで出て行ってしまうこともあるとのことでした。それで、注意を向けているようにということだったのです。


一日目の私は緊張しきっていました。教室の後ろに立って、キッとにらむようにその男子生徒を見ていたのだろうと思います。授業が始まって十分以上経った頃、彼が突然ぱっと立ち上がり、あっという間に教室を飛び出しました。

あれほど注意を集中していた筈なのに、私は全く対応できませんでした。あわてて教室を飛び出そうとして敷居に足を引っかけ、廊下にみごとに転がってしまいました。痛みをこらえて頭を上げ、先の方に目を向けると、もう用を済ませた彼がトイレを出るところでした。

立ち上がった私の前をひらひらと飛ぶように教室に戻って行きました。


彼は頻尿とのことで、ほんとに何回もトイレに入って行きます。教室は廊下を挟んでトイレに近いところにあるので、飛び出せばそこがトイレです。ですから、今までの私の生活感覚では、「先生トイレ」と伝えて、ゆっくり行ってくればいいのに・・・と思うのですが、彼は何故か飛び出します。


その後何回も彼の後を追って、転びこそしませんが、慌てる思いを繰り返しました。でも、どうせトイレだと決めつけることをせず、何回も、何回も追い続けるうちに、彼が何かを知らせてくれていると感じるようになりました。


彼に注意を向けていると、そのくるくると動く瞳が廊下の向こうのトイレに向かい、そして私の方を見るのです。

「トイレに行きたいんだね」という気持ちで頷くと、心無しゆっくりと立ち上がり小走りでトイレに向かいます。

後に従うのは変わりませんが、もう慌てふためいたりはしません。彼と私のかすかな気持ちの通じ合いを感じているからです。





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